第一章 秋の章
10 揺れる懐疑

 ── お館様が風邪から肺を患った

 佐助の知らせを聞いた途端、幸村は頭が真っ白になっていた。これがただの風邪で終わっていたなら。己が代わってやれたならと何も出来ないもどかしさが怒りのような感情となって体中にのたうち回っている。不動の柱として疑わなかった信玄が床に臥しただけでこんなにも心細いものかと、いかに自身が信玄に頼っていたかもまざまざと見せつけられたようで、情けなくもあった。
 昌幸を始めとした真田家中の家臣も、動揺を隠せなかった。真田家は一番槍をほしいままにし、力を存分に振るえるまでになったが、これも長年、信玄の後ろ盾あってのことだ。
 現在、高坂昌信や内藤昌豊が信玄に代わり政務を取り仕切り、配下の領主へ周辺警護の強化や万一に備えよとの触れが渡っている。
 それを受け、昌幸のもとに集まった家臣は、今こそ真田家が武田家臣として支柱と成るべき時と、今後の方針が話し合われた。家臣らの話題は次第に、患いに滋養のあるもの、お館様の好物をお送りしようと信玄の身を案じ見舞いの話へと移っている。
 軍議が終わったと見た幸村は、昌幸に頭を下げ、一人静かに広間を出た。俯いたまま退室した幸村を、家臣らは敢えて何も言わず黙って見送っていた。
 幸村は長い廊下を重い足取りで進んだ。中庭を見渡す余裕も無かった。草花の移ろいを認めたとしても、今は信玄に話して聞かすことも出来ない。幸村は唇を噛み締め、柱に拳を押し付けた。

「旦那、顔怖いよ」
「佐助…」
「お館様なら大丈夫だよ。きっと良くなる。旦那が信じてやらないでどうすんのさ」
「ああ…そう、だな」

 佐助は、周囲を注意深く見渡すと、「旦那、ちょっと」と言い、幸村の袖を引っ張り手近な空き部屋に入った。薄暗い客間だ。以前、凛が泊まった部屋だった。唐突な強引さに、幸村は怪訝そうな顔で佐助を見遣るも促されるままに座敷に腰を下ろした。

「何だ佐助。話があるなら某の部屋でも」
「気になることあんだよね」

 正面の佐助は、益々声を落とし幸村に顔を近づけた。

「何なのだ」
「さっき、旦那を城下へ呼びに行ったとき、あの薬屋さんから妙な臭いがあった」
「薬であろう」
「あれは薬草の臭いだけじゃない。もっと生々しい臭いだ。鉄を研いたような…。俺様が毎日武具の手入れしてる時と同じ、鋭い刃の臭いがした」

 幸村は、過日の家康の言葉が再度浮かんでいた。佐助の言葉が嘘であった試しはこれまで一度も無い。信玄が病に倒れる今、転がり込む幾多の懸念は重みが増し、積み重なっていた。幸村は目を釣り上げ佐助に反論した。

「佐助!先日も言ったが、」
「旦那、何かあってからじゃ遅いんだ!あと、これ…。柳の腰掛けに残されてあった」

 佐助は少し体をひねった。腰の辺りから取り出したのは見覚えのある羽織だ。幸村が城下を離れた際、凛に掛けてやったものだ。畳まれたそれを広げると、四つ折りの紙が挟まっている。細い筆で書かれていたのは、たった一言“ありがとうございました”の文字だった。幸村には形ばかりのものにも思えなかったが、明日もまた会うのではあれば、腰掛けに置いておく必要はない筈である。佐助は続けた。

「さっき、北条周辺を探らせていた下の連中が戻ってきた。やっぱり周辺は騒がしくなってるらしいってことと、北条は武田の隙を伺ってる。それともう一つ。戻ってくる途中で薬売りらしき人を見かけたって報告があった」

 幸村は、自身の手のひらを見つめていた。

「菊屋の主人に聞かねば、それが凛殿であるかどうかは分からぬであろう」
「旦那、俺様に命じてくれよ。薬屋さんの身辺を調べろって」
「何故、こうも一どきに手の内から零れそうなことが起こるのだっ…!」

 膝の上で拳を握りしめた幸村は、しばらく口をつぐんだままだった。すると、別の忍が佐助の後ろに降り立ち、耳打ちをするとすぐに出て行った。漏れた報告に幸村は思わず顔を上げていた。凛は菊屋に代金を支払い、暮れた頃上田を出たとの知らせだった。
 道端で倒れた兵を助け、毎日民に薬を売り、信玄と殴り合った幸村の傷を癒やしてくれた優しい凛は確かに存在していたのだ。幸村は頬に自然と指が伸びた。傷は痕も残らずまるで夢幻だったと言わんばかりに綺麗に治っている。佐助が再度念を押し、幸村の名を呼んだ。
 苦渋に満ちた幸村は、北条からはくれぐれも目を離さぬこと、そして薬売りの周辺を調べよと佐助に命じた。

「ありがとう旦那、近いうちに、お館様の見舞い行けるよう都合をつけるよ」

 ・

 上田を出てから二日が経った。これまで毎日筵を敷いていた凛だったが、今だ追手が来ないところをみても真っ当の薬売りを上手く演じられていたのだと胸を撫で下ろした。
 忍の姿に戻った凛は、甲斐城下へ無事に入り、今は躑躅ヶ崎館を俯瞰出来る山中に居る。半兵衛の指示した日、刻限にはまだ時があった。夜が訪れた頃、闇に紛れ信玄の臥所を目指すことにしていた。
 凛は、鬱蒼と茂る常緑の高い枝に移り、館の様子を伺っていた。まるで今にも敵に攻め込まれでもするかの如く、家臣の警戒は酷く神経質だ。塀の外は槍を持った兵が常に彷徨いているし、館から少し離れたこの森にも、見回りの家臣が落葉を踏みしめるのを幾度も見た。館内の廊下は医者と女中が信玄の部屋を忙しく行き来し、戸を引く度に見張り番が顔を確認している有様だ。
 過剰なまでの信玄の警護は北条を警戒しているのだ。書状を持つ幸村に忍を放ったり、度々武田へも揺さぶりをかける程だ。ましてや、現在、北条はかなり腕の立つ忍を抱えていると風の噂で聞いたことがある。先を越されはしないかと少し焦りに駆られた。夜までの時が酷く長く感じた。

 ようやく各所で篝火が立ち、提灯が道道に揺れる頃になった。半兵衛の見立ては完璧だった。今夜は新月、仕事はし易い。館内の人間が最低限になる時分を見計らい、凛は音なく地に降り立った。
 凛の現在地から直線距離の真正面に、信玄の部屋がある。線上には塀に背を付け、眠たげな目を擦る兵が寝ずの番をしていた。凛は猫のように物音を立てず近づいた。後ろからさっと腕を伸ばすと兵の口を塞ぎ、首の後ろに打撃を与える。兵はふらりと力が抜け、よろけた。地面に倒れぬよう支えると、凛は武具を全て剥いだ。胴から紐を抜き、彼の両手足を縛った。
 そこから凛は塀をよじ登り、頭を少し出すと中を伺った。信玄の部屋の前には家臣が一人座っている。こちらの家臣は首を垂れ、恐らく抜かぬまま終わってしまうであろう自身の刀を胡座の上に乗せ、僅かに鞘を抜いてはその直刃に見とれていた。生け垣を死角に塀を越えた凛は、だだっ広い中庭の木々や茂みに身を寄せ、見張り番の家臣へ近づいた。
 今度の家臣は、先ほどの兵の様には行かなそうである。あと五六間で廊下に達するという時、鞘を全て抜き構え、闇に目を凝らし気配を伺っていた。凛は足の付け根に手を伸ばすとクナイを庭の池へ投げ入れた。家臣はそちらへ注意を奪われる。隙を付き、凛はもう一本クナイを放った。真っ直ぐに速度を上げ、クナイの柄が家臣の首を捉えている。到達した瞬間凛は家臣の背後を取り、声を上げさせず、更に首の後ろを強打した。家臣はふらりと気を失い静かに崩れた。
 凛は口布を下げ、大きく息を吸った。障子戸の向こう側、ようやく信玄の首を奪う時だ。
 刀を抜き、凛は警戒を怠らずそっと戸を引く。信玄は、厳しく重厚な拵えの鎧を枕にし、いつか凛と遭った時のように白い寝間着一枚に布団を掛け寝ていた。
 皿燭台の油は残り少なく、室内に影を揺らす灯火は心もとない。その方が返って都合が良かった。万一目覚めても、はっきり顔は分からないだろう。
 凛は、静かに信玄の枕元に寄り、膝をついた。死人のように真っ青な顔を携えた信玄は、頬はこけ、やつれた様に思った。どんな豪腕武者でも、病にかかればひとたまりもない。呆気無く、人間の無力を思い知らされる。
 弱りきった武人に刃を向ける後ろめたさはあれど、いかなる状況下でも凛は任を遂行しなければならない。卑怯と罵られようとも、凛は手段を選ばぬ忍だ。瞼に力を入れ、研いだばかりの鋭い切っ先を、喉笛目掛け垂直に構えた。
 風呂上がりに会ったのが昨日のことの様に思い出された。会話に表情豊かだった顔面も、今や見る影も無い。目覚めぬ信玄に凛は呟いた。

「信玄公、私の花とはいつもこうすることでしか、咲かすことはできません。御首、頂戴致します」

 両手で握りしめた刀を振り上げた。その時、直刃に甲高い音が打つかった。弾き返され、板張りに突き刺さったのは手裏剣だ。炎の傾きとゆらぎを見つめ、凛はすぐさま間合いを取った。一気に全身から汗が吹き出した。刀を持つ手が僅かに震え、じっと相手の気配を探った。広い部屋の隅、明かりの届かぬ場所に人影がある。ゆっくりと歩み、出てきた姿に凛は息を飲んだ。
 顔半分を隠す、美しい装飾の施された鉄の面、赤茶けた髪、忍びらしからぬ白のある忍び装束── 噂に聞く北条の傭兵だ。

「風魔、小太郎…。折角来た所申し訳ありませんがこれは私の首です。邪魔立てするなら容赦はしません」

 物言わぬ北条の忍は、口に弧を描いた様に見えた。背を伝っていた筈の汗は一気に引いていた。唾を飲み込む暇も与えず、風魔は凛の眼前に鈍色を反射させていた。凛は瞬時に詰められた間合いに刃を押し返すことで精一杯だった。腕力は相手方が二倍も三倍もある。風魔は執拗に凛が背にする信玄に近づこうとしていた。首が欲しいのは凛も同じだ。だが、みすみすくれてやろうとは寸分も思わない。凛は、信玄の首を守り切ることに必死になっていた。
 風魔は一撃が重く、僅かな油断も命取りだ。先端が掠るだけでも重症を負うだろう。狭い空間で無言の戦いは続けられていたが、横になっていた信玄が僅かに身じろぎをしていた。沈黙に殺気立つ気配に目が覚めた様子だ。朦朧とする意識の中で、信玄は「凛か…」と呟いた。
 気を取られ、判断が遅れた。風魔は信玄目掛け側方から向かっている。間一髪、伸ばした手は差し向けたクナイを握った。力を込めれば刃が皮膚に食い込む。凛は離さなかった。
 なかなか相手も引かない。まんじりともしない状況に、背後からは動けぬ信玄の視線を感じていた。凛は一か八か、このまま引き寄せ胴を貫くかと思案していると、部屋の外から僅かに人の気配がこちらへ近づいていた。風魔も感じ取ったのか、腰を落としたまま後ろへ飛び退き、仕向けてこなくなった。
 覚えのある気配は猿飛佐助と真田幸村だった。凛は焦る気持ちを抑え、自身の刀を鞘に収めた。

「北条の忍殿、早々に立ち去るのが吉と思われますが」

 早く部屋から捌けねば、佐助と幸村に見つかってしまう。廊下では歩みが止まっていた。佐助が幸村を静止する声がかすかに届いている。先程首を刺した家臣は廊下の下に押し込んだままだ。
 風魔は、戸を見やると、構えは解かずじりじりと後退し始めた。彼が姿を消すまであと一呼吸かと思われた時、薄暗い部屋に明かりの帯びがさっと差し込んでいた。

「お館様っっ!!!」

 そちらに気を取られ、凛は風魔小太郎の投げたクナイに反応が遅れた。突如、肌を切り裂く痛みが足首に走ったのだ。凛もすぐさま立ち去るつもりでいたが、用意周到な風魔はご丁寧に毒を塗ってくれていた。傷口は火傷をしたように熱を伴っている。風魔に続くつもりで居たが一歩遅れ、凛は腕を掴まれていた。瞬時に口布を上げ顔を隠すも時既に遅しだ。佐助に動きを封じられ、抵抗し振り向いた時、幸村の顔をまともに見られなかった。任遂行の為にこれまで何度も裏切りを繰り返してきたが、絶望を目の当たりにした視線を向けられ今にも息が詰まりそうだった。

「凛…、殿…」

 凛は無抵抗を見せかけ暫し大人しくしていると、隙を付き佐助からするりと抜け出た。開いたままの戸から脱兎の如く外へ飛び出した。背後では佐助の怒号が闇夜を震わし追手が放たれている。眠っていた家臣らも大慌てで信玄の部屋へ集まった。
 山中に逃げ込んだ凛は、木々の間を飛び移り忍隊の追撃を交わし何とか逃げおおせた。この間、わずか四半刻も経たない間の出来事だった。河原に出た凛は、大きな岩の前に腰を下し背を付け空を仰いだ。無数の星が粉々に砕けたように夜空にひしめいていた。
 凛は、初めて初手でしくじった。深い溜息が漏れていた。傷の痛みに耐え、今後の事を冷静に考える。
 まずは北条の邪魔が入ったと半兵衛に報告をしなければならない。そして体に巡り始めた毒も抜かねばならない。ぼうっとする意識の中、凛は立てた膝に額を押し付けた。いつの間にか頬には涙が伝っていた。任務失敗の悔しさに交じるのは黒い綿の塊のような自責だ。
 戸口に立っていた幸村の表情は逆光の中でも良く分かった。悲痛や絶望を罵声に変え、頭ごなしに浴びせられた方がまだ良かった。幸村は最後の最後まで旅の薬売りを信じていたのだ。
 普段孤独を貫く凛は、僅かばかりでも心を許せば直ぐに気にあてられたようになる。今までは必死に蓋をしていたはずなのに、と自嘲した。

 凄まじく体の具合が悪くなった凛は、夜が明けぬうちに解毒の薬草を探し森を彷徨った。月も出ない真っ暗闇の中、吐き気やめまい息苦しさに耐え目的のものを探すのは酷く難儀した。風魔小太郎が使った毒は致死量には至らなかった様子だ。咄嗟のことで誤ったのだろうか、風魔に限ってありえない。だが、何にせよ助かった。ふらつく凛は、ようやく蔦や葉の絡みあう茂みの中に薬草を見つけ、すぐさますり潰し体に入れた。ようやく落ち着きを取り戻すと、重い体を引きずり、河原に出て頭を流れに突っ込んだ。大量に水を飲むと仰向けに砂利に転がった。
 足首の傷も何とかしたいが、薬箱を隠した場所へ戻るのは躊躇われた。猿飛佐助のことだ。周辺をくまなく調べ尽くしている最中だろう。この場所にも長居は出来ない。常に動いていなければ捕まってしまう。
 凛は痕跡を消す為に、薬草をすり潰すのに使った石を川に投げた。余った薬草も掴み、捨てようとしたが、ふと葉を眺めその効能を思い起こした。この薬草は、呼吸を和らげ肺の煩いにも効くのだと昔に教わったのだ。振り上げた手を戻し、手のひらを開くと草の汁はべっとりと滴っていた。先程見つけた場所にはまだ多く生えていた。
 魔が差したような考えに、凛は己を戒めた。そこへ戻り、何をしようというのか。首を取らねばならない人間の病を回復させたところで凛には不利になるだけだ。毒は中和されたのに、酷く胸の内が悶えるように苦しかった。
 川に薬草を放ると、凛は再び森の中に身を隠した。