第一章 秋の章
09 滲む境界

 夜、臥所に横たわっていた幸村は、なかなか寝付けずにいた。
 天井を暫く見つめ、今一度瞼を閉じるも眠気は襲ってこない。寝返りをうっても、まるで呪詛のように家康の言葉が耳から離れなかったのだ。
 徳川勢が上田城に攻めてきた日、幸村は本多忠勝と一騎打ちをするまでに至った。戦国最強との手合わせに闘志は漲り、幸村も血が滾った。ところがそんな最中、家康は突然撤退を命じ、幸村と相対する忠勝の間に姿を現した。家康は意味深な事を言い、本多忠勝と共に去っていったのである。

── 旅の薬売りには気をつけろ。信玄公の側を離れるな。

 草履の擦れる音、刃に伏した叫喚、それらが輪を描き鯨波のように広がる中、家康の言い放ったたったその一言で、幸村は一気に周りの喧騒が引いたかの様に感じたのだ。
 幸村は、家康がどういった武人であるかを信玄から聞いていた。人との繋がりに重きを置き、別け隔てなく手を貸し何人も自身の大船に乗せる度量を持つ武人だと。そんな家康が、わざわざ名も知らぬ旅の薬売りに言及し、小手先の科白を吐いたりするだろうか。真田家を組み入れたいが為の揺動にも思えず、かと言って交渉に軍勢を引き連れ、伝えたい事がコレだったかと考えるも腑に落ちない。
 信玄公の側を離れるなの言葉には、信玄に何かしらの危険が及び、それに薬売りが関係していることを示唆していた。ただ、世に商いをする旅の薬売りは大勢いる。決してそれが凛である確証はない。そう言い聞かせるも、家康の言葉に耳を傾ければ傾ける程、幸村の頭の中は疑念で覆い尽くされていた。

「家康殿は、何をご存知なのだろうか…」

 頭から被った布団の中で幸村は蹲り、じっと考え込んでいたが、ぽつりと「わからぬ」と呟いたかと思うと、右に左にと転がり終いには足をばたつかせ、がばりと起き上がった。団子になった掛け布団を押しやると、床の間に立てかけていた愛槍を手にし、寝間着のまま中庭に飛び出した。
 虫の音も届かぬ闇間を、槍を振るう音が満たしている。幸村は無心になって、敵兵に見立てた巻藁と向き合った。
 東の境界が朝焼けを帯び始めた時、庭の松の木に馴染んだ気配を感じた。幸村が手を休めずにいると、佐助は枝から降り、幸村の視界に入る縁側へと腰を下ろした。

「おはよう旦那。早すぎない?」
「眠れなかったのだ」
「ええっ、寝てないの」
「佐助もであろう」
「いいや、俺様は慣れてるし、仕事だし」

 徳川軍との騒動後、父昌幸は領境の警護を一層強める為、現在沼田城に常駐している幸村の兄信之との連絡を密に取っていた。勿論それに駆り出されるのは忍隊である。佐助はもう幾日も何往復と上田と沼田を行き来していた。
 いつもなら、朝の報告を二三した後、佐助は信之の言伝を終え直ぐに発つが、今朝はなかなかどうして幸村の素振りをじっと見学している。近頃幸村の様子がおかしいことは既に佐助にはお見通しだった。
 一日分の鍛錬を、朝だけで終えてしまった幸村は息を弾ませている。槍を握ったまま、東雲を仰いだ。

「佐助…」
「なに?」
「いや…、その」
「そこまで言ったんなら言ってよ」
「すまぬ。佐助から見た凛殿はどう、映るだろうか」
「え、薬屋さん…?まあ、いろいろと相応し過ぎるよね。寸分の隙がないっていうか」
「左様か…」
「何か気掛かりでもあんの?」
「先日の籠城、去り際に家康殿が言ったのだ。旅の薬売りには気をつけよと、お館様の側を離れるなと…。だが某は、あの煙の中に紛れ真田の将兵を庇い、応戦する凛殿を見た気もするのだ」
「ちょっとまって旦那、そういうのどうして早く行ってくれないの!それに言ってること支離滅裂だよ。薬屋さんがあの場に居たの見たんならもう黒でしょ。それにね、兵を庇っても、俺らを脅かすような隠密かもしれないなら今直ぐ追放するべきだって」
「だが、いまいち視界もはっきりとしていなかった。家康殿の話を聞いてから、そうであったかもしれぬと思うだけで…、某は疑いたくはないのだ」
「また、そんな甘いこと言っちゃって。疑わしきは大きな火種になる前に罰せよ、だよ。今から殺ってこよっか」
「佐助!」
「ごめん、冗談。調べてみる?」

 佐助の申し出に幸村はすぐには首を縦に振らなかった。父昌幸や信玄の身に何かが起こってからでは手遅れなのは十分承知している。だが、恩人に疑念を抱くことにもまた、幸村の良心が咎めるのだ。
 一層、握る手に力を込めた幸村は槍をずぶりと地に突き刺した。

「いや、調べはよい。佐助、湯の用意を頼んでくれ。朝餉を取ったら城下へ出る」

 騒動時、幸いにも被害が出なかった城下は、今日も至って通常営業だ。
 暖簾は翻り、威勢良く奉公人の呼び声が通りを駆け抜ける。だが、店主と客、長屋界隈、すれ違う人々──、彼ら町人の話題に登るのは、もっぱら徳川軍本多忠勝と幸村の手に汗握る壮絶な一騎打ちだった。挨拶の二言目にはその話で持ち切りである。武勇は多くの人々を渡り歩く間に装飾され晴れやかになるも、流石に本人のご登場には敵わなかった。
 幸村が町に現れるや否や、街頭からは賛美と憧憬の言葉が飛び交った。元来、民に慕われる真田家もとい幸村だが、益々拍車がかかった様子だ。
 凛は、そんな沿道に詰め寄る光景を、柳の下から遠くに眺めていた。幸村は凛の元へと訪れたのだろうが、一歩進む度に声を掛けられ、なかなか辿り着かない。いま暫く時が掛かりそうだ。かじかむ手を擦り、凛ははぁと息を吐いた。気づけば、手の指には墨が付いていた。早朝筆を取った時についたのだろう。
 凛はここ数日間の出来事をしたため、半兵衛に文を送っている。
 一番に気にかかることは、城の夜、処置室での幸村の意味深な言葉だったが、迅速に任を遂行し、信玄の首を取りさえすればよいことだと冷静に考えていた。今は、半兵衛の指示を待ち、城下でつつがなく敬愛する薬売りを演じることに徹しなければならない。
 既に躑躅ヶ崎館の細部に至るまで調べも済んでいる。「武田信玄の首を取る」という任の完遂まであと少しなのだ。幸村から僅かな疑いを向けられたからといって、焦りに足を取られてはこれまでの滞在は全て水の泡である。凛は鳴りを潜めているのだ。

 近頃秋が深まる城下では、風邪を引いたと言って凛の店を訪れる客が多くなっていた。
 軽い症状なら、凛の薬を飲み二三日安静にしておけばすぐに回復する。医者に掛かるよりも出費は抑えられるので、山を超えた里や村からも旅の薬売りを訪ねて来る者も多かった。
 つい今しがたの客も、「こちらさんですか」と、幸村がいつぞや配っていたという宣伝紙を見せてきた。やっと辿り着いた城下で、ようやく凛を見つけ、安堵に顔をほころばせていた。凛は両手を取られ、何度も礼を言われた。
 上田城下の旅の薬屋は安くて良く効くと評判は広まっていたが、実際は皮肉なものだと凛は自嘲していた。本来なら忍として毒薬を作り、また解毒の知識を必要として、培われたものだからだ。
 筵に広げられた薬も残り数少ない。今日の分も完売に近かった。日も傾きつつあるので、凛はそろそろ店じまいをと思い片付けを始めた。夕焼けに人や物の影がよく伸びる。片付けに勤しむ凛の手元にも、それは届き重なった。

「凛殿」

 顔を上げると、幸村が神妙な面持ちで立っていた。ようやく長くて短い通りを辿り着いたようだが、腕に抱えているのは沢山の甘味、菓子類だ。通りで貰ったらしい。抱え切れず、うちひとつの包みがぽとりと落ちた。両手が塞がった幸村は屈むに屈めず、凛が代わりに手を伸ばした。取ったのは、まんじゅうだった。

「真田様、ざるを、お貸ししましょうか。今日の売り物を入れていたものですが」
「かたじけのうござる」

 籐の椅子に座った幸村は、ざるにこんもり盛り上がった菓子類をしげしげと見遣り、凛の片付けが終わるまでその場にいた。箱に残った薬を詰め終えると凛は振り返った。

「真田様、わたくしはそろそろ宿へ戻りますが…ご用がございましたでしょうか」
「こ、これは、すまない!すっかり、日が暮れるのも早くなり申した」
「ええ」

 凛は薬箱を背負い、丸めた筵を抱きかかえ立ち上がった。視線を感じながらも、気づかぬふりを装っていた。幸村は何か言葉を言いかけては何度も飲み込んでいたからだ。言葉に出すのを躊躇するようなことだ。凛にとって然程良い話ではなさそうである。しかし、決心がついたのか、幸村は膝にしていたざるを腰掛けの脇に置くと、立ち上がって凛へ一歩近づいた。

「凛殿、話が、ございまする」

 凛は、薬箱の持ち手を握りしめた。動悸は段々と波打ち早くなるばかりだ。幸村は意を決した様子で、凛を見据えている。間に遮る柳は二人に影を落とした。「改まって…いかがなさいましたか」と問うと、幸村は一度目を伏せた後、力強い気迫を凛に向けた。
 人の唇が震える瞬間、こうも耳を塞ぎたくなったのは凛にとって初めてのことだった。

「旅の薬売りを、終わりに致しませぬか」

 凛は、懐刀に手を掛けたかった。はやる気持ちを必死に抑えつけ、続くであろう幸村の言葉を待った。

「これから先も城下に留まり、この上田で薬を売ってはくださらぬだろうか…。無理な頼みであるとは分かってはいるつもりだ。だが、凛殿を頼りにしている民が大勢いるのもまた事実でござる。この通り、お頼み申す」

 正直、凛の見当が外れたことに肩の力は抜けていたが、その真の意味を考えたくは無かった。城下で薬売りになること、それ即ち、仮の姿に終止符を打つことだ。凛にとっては忍としての姿を露わにするか、或いは、忍を辞めるかのどちらかの選択肢となる。
 勿論、幸村は凛に対して何らかの疑念が湧いている状況でしかなく、凛の正体が忍であることを知らない。それだけに、薬売りが危険因子であったとしても、そうでなかったとしても、懐疑の気持ちを抱く幸村は、上田の民として共に過ごす選択肢をひねり出してきたのだ。
 だが当然、幸村の頼みに応えられる訳も無かった。凛は「僕の可愛い忍だ」と褒めてくれる半兵衛の忍だ。それは主の命尽きる時まで側で仕えるのである。闇に紛れ、幾多の人の命を奪うことしか凛は生きる道を知らないのだ。それはこれからも変わらないだろう。
 凛は、注がれる視線を避けるように深々と腰を折った。

「真田様、ご厚恩まことにありがたく思いますが…、私には、これが生業でございます。あちこちと旅をして薬を売ることが勤めです。お気持ちだけ頂戴いたします」

 幸村は鋭さを緩め、いつもの調子に戻っていた。凛が丁寧に断る様に、失礼なことを言ってしまったと慌てている。それでも一度の返事では諦められぬと食い下がった。

「い、いや…!今すぐに返事を聞こうとは某も思ってはござらぬ故、いや、急に変なことを…申し訳ござらぬ。ただ、是非に考えて頂けたなら、嬉しいと。ご一考下さらぬだろうか」
「私にはもったいないお言葉にございます。嬉しく…思いますが…。日も落ちましたので今日はこれで…」

 頭を下げ、逃げるように菊屋への帰路を辿った。幸村が遠ざかる凛を見送っているのは分かったが、後ろは振り返らず進んだ。なおも幸村の声が背に打つかった。

「凛殿っ…!明日、もう一度お伺い申しあげまする」

 町から遠ざかるにつれ、酷い疲労が押し寄せていた。背負う薬箱は軽いが、肩には重石が伸し掛かるようだ。いよいよ目標の首を取るという大詰めに差し掛かっているからだと言い聞かせた。
 暗がりの廃れた通りを足早に抜けると、通りで唯一灯りの揺れ出る宿を目指した。菊屋の主人は愛想笑いを貼り付けて凛を出迎えた。すれ違いざま、事も無げに差出人のない文を受け取る。顔を寄せた主人は世間話をするように囁いた。

「どうも、武田様が床に伏せられたとのお噂が」
「ご主人、それはいつの話ですか」

 詰め寄る凛に、菊屋の主人はお部屋へ早くと言い、今しがた渡した手紙を一瞥した。
 自室に戻り、凛は急いで半兵衛の文を解いた。中に記されていたのは、凛が待っていた武田信玄の首を取る算段を記したものと日付、そして主人が言ったように、信玄の病についても書かれてあった。
 信玄は凛たちが甲斐を離れ、しばらくしてから風邪をひいたらしく、症状が重くなったらしい。医者の見立てでは肺を患ったとのことで現在はむやみに面会もできない状況だという。いまだ上田まで知れ渡っていない事を鑑みるに、甲斐内で厳秘に付している様子だ。肺が悪くなるような気配など、滞在中にはちっとも見られず、凛はにわかに信じられなかった。驚きの方が勝っていた。
 半兵衛は、いかにして知り得たのかと読み進めれば、大阪の商人から小耳に挟んだ様子だ。ただ、この事実を知り得る大名が他にも居ると匂わせる文である。喉から手が出るほど、信玄の首を欲しているのは何も豊臣ばかりではないのだ。
 先日、真田領への行軍から何もせずに引っ返した北条は、地団駄を踏んでいるだろう。血気盛んで手強い息子のいる真田家より、或いは病に弱った大将へ軍配の向きを変えることも考えられる。
 指定された日は、これを好機と殺るなら今だとでも言わんばかりの差し迫った日取りだった。一日か二日の内に上田を発たねば、命令通りに甲斐へ到着するのは無理な日程である。凛は、急ぎ支度を始めた。
 首に使う刀を念入りに研ぎ、くないや毒を用意した。持って帰ったばかりの薬箱の中身を取り出しそれらと入れ替える。取り出した薬と共に、幸村お手製の宣伝紙が出てきた。四つ折りに畳まれた紙には幸村の考えた謳い文句が透けて見えた。開きかけたが踏みとどまった。
 幸村は、信玄の病を知っているのだろうか。それを踏まえ、上田に留まってくれと凛に頼んだのかとも一瞬過ぎる。だが、知り得ていたなら真っ先に彼は甲斐へ駆けつけているはずだ。このことを知ったらさぞ、悲しむだろう。凛は支度を整えながら柄にもなく他人の事を思っていた。
 「旅の薬売り」という名は便利なものだったと乾いた笑みが零れた。全ては、この日の為に準備をしてきたことに過ぎないのだ。凛は紙をくしゃりと丸めるとくずかごに放った。
 明日はいつも通りに路上で店を終え、上田を発つと心に決めた。

 翌日も筵を引き凛は何食わぬ顔で薬を売っていた。
 町中の様子を見る限り、今だ信玄の病については知れ渡っていなかった。通りを満たすのは旦那の愚痴や色の話、子供の笑い話だったりと平穏無事故に溢れる会話ばかりだ。それらを攫う活気に満ちた店の声が今日も端から端まで駆け抜け、ひしめく暖簾幕を翻している。
 凛は店に出ている時、極力顔を見せぬよう俯き加減に座っていた。行き交う人々の草履が正面で止まれば、その都度顔を上げるようにしている。近頃はつま先の向きで通行人か、客かを判別できる様になった。すると一人、こちらに向かってくる草履があった。凛は立ち止まる前に、顔を上げたが、今にも店じまいをしたい気分に襲われた。
 目の前に現れたのはいつもより早く訪れた幸村だった。
 寒いのは苦手なのだろうか、やけに羽織の肩幅がごわついている。厚手の羽織であるらしい。凛の名を呼んだ幸村は、正面にしゃがみ込んだ。凛はたじろきながらも作り笑いを貼り付け、頭を下げた。

「いらっしゃいませ、真田様。どうぞ、後ろの腰掛けをお使い下さい」
「凛殿、返事を伺いに参った次第にござる」
「真田様、昨日も申し上げましたが、私にはひと所に留まるのはどうも性に合いません。旅の薬売りであることしか、私たらしめるものが無いのです」

 凛が俯き再び礼をすれば、幸村はようやく諦めがついた様子だった。「顔を上げて下され」と言った幸村は眉を下げ、少々困ったような笑みを浮かべていた。

「やはり、凛殿は某が敬愛する薬売り殿でござる。困った者があれば、どこぞへと参られるのであろう。つまらぬことを申した」
「いいえ、…。一介の薬売りめに、お心遣い痛み入ります」

 そう言って、幸村はいつものように凛の後ろへ回った。柳の下の腰掛けに座った時、凛の苦手な気配が降り立った。猿飛佐助だ。
 幸村の側に寄ると、顔を寄せている。凛には察しがついた。恐らく信玄の病のことだろう。
 話を終えたらしく幸村から離れた佐助は、凛をしきりに観察していた。今日の凛は、全ての忍道具を薬箱に入れている。佐助は鼻がよく効く。何か臭うだろうかとも考えたが、これだけの薬を売っていれば劇薬物がどれかすら判別は難しいだろう。
 凛は不思議を装って後ろに振り向いた。幸村は、膝の上で拳を作り平静を保っていたが、今にもかけ出したいのを堪えている様子だ。恐らくは、先日徳川が押し寄せた件も相まって、佐助は迂闊に城を離れるなとでも忠告したのだろう。
 凛は、わざとらしく首を傾げた。視線に気づいたのか幸村ははっとした表情で、必死に気丈を保っている。爪が食い込みそうな程拳を握る様を見てそれが強がりであるのは誰であろうと分かることだった。幸村は立ち上がると、おもむろに着ていた羽織を脱ぎ、凛の肩にかけた。

「申し訳ござらぬ、凛殿。某、急用ができ申した。城へ帰らねばなりませぬ。最近は冷え込みます故、どうぞこれを」
「こればかりは」
「良いのでござる!凛殿に風邪を引かれては、某の怪我も治らぬでござる。それでは、また明日。御免」

 幸村は、佐助を伴い大手門へと向かい走っていった。
 それから程なく城下では、信玄が病に倒れたとの噂が瞬く間に広がった。商人らが知り、あちこちから漏れたのだろう。徳川を追い返した誇らしさに喜々としていた城下は、憂いと不安に塗り替えられていた。夕暮れも迫り最後の片付けを終えた凛は、肩に掛けられた羽織を畳むと、一言、礼の言葉を書いた紙を添え、腰掛けの上にそっと置いた。
 堀を挟んだ上田城を見上げた。空に薄い雲が掛かり、当たるはずの夕陽は届かない。城の輪郭はすっぽりと影に縁取られていた。
 城内では今頃、気を揉み医者をも頭を悩ませる程の病状に、家臣らが顔を突き合わせているに違いない。幸村も何も出来ぬ歯がゆさに居ても立っても居られないだろう。だがそれも、凛にはもう、関係のないことである。
 凛は、人々が噂に夢中になる中に紛れ、闇に紛れるようにして城下を出た。
 以前、幸村と共に通った道を再び辿った。山村の長閑な風景も二度目だ。共に甲斐へ行ってからまだ十日と足らずだったが、移り変わりは早かった。狩られて禿げた田には、おこぼれを目当てに丸々とした冬毛の雀が群がっている。そこへ、一人村の子供が駆け込んでいた。雀は驚き一斉に飛び立つ。子供は見事田んぼに顔から転んでいた。悲鳴とも取れる鳴き声が、辺りに轟くも親は一向に出てこない。日常茶飯事なのだろう。凛は、その脇に通る畦を通り過ぎたが、半ばその声に後ろ髪を引かれるかのようにして引き返した。畦から田へ声をかけると、見慣れぬ人間に驚いたのか、相手をして貰いたかったのか、男の子はぴたりと泣き止んだ。

「大丈夫?」
「い、いだい…。手が…!」

 手のひらを凛に押し付ける様にして見せると、擦り傷がたくさんの線になってついていた。刈り入れの後は、鋭い稲の茎が無数に落ちている。凛は手招くと、薬箱から貝殻に入った軟膏を男の子に差し出した。

「これ、あげる。手を綺麗に洗ってからお母さんに塗ってもらって」
「ぜんぶ、いいの?」
「…うん。もう、私には必要ないから」

 貝に入った軟膏は珍しかったのだろう。男の子は痛い顔をしながらも大事そうに軟膏を握り、家へ帰って行った。お母さーん!お母さーん!と賑やかな声を背に受け、凛は甲斐への道のりを急いだ。
 流石に、薬売りの姿でこのまま甲斐に入るのは目立つ。特に、躑躅ヶ崎館には滞在していたので、凛は武田家家臣らに顔を覚えられているに違いなかった。国境を越える前に、必要な忍び道具だけを携え、薬箱と荷は森の中に隠した。
 凛は頭巾を深く被り、忍の姿となった。