第一章 秋の章
11 薄紅色

 夜半を過ぎても、躑躅ヶ崎館は刺々しい空気が満ちたまま落ち着かなかった。塀の外と、信玄の部屋の前で倒れていた兵と家臣を受け、今一度警護態勢の見直しを迫られたのだ。女中らも襷を締め、厨にまで薙刀を持ち出している。
 佐助は配下の追手を放った後、自らも信玄を狙った忍らの捜索へ回っていた。幸村も勇んで出て行きたかったが、どうしても臥せった信玄を目の当たりにすれば側を離れ難く、枕元に黙って座っている。だが、ただ座っているのも心が騒いでいた。信玄の倒れる時を狙ったことに不届き千万と不敬な輩に腹を立てる気持ちと、見間違いであって欲しいと願う気持ちがせめぎあっていたのだ。
 不安な表情をころころ変える幸村を見かね、女中が水を張った桶を持ってきた。幸村は信玄の額のてぬぐいを取り替えるように頼まれた。気が紛れるようにと、女中の計らいだ。幸村はぬるくなったそれを再び濡らし、額に乗せる。信玄は胸を大きく上下させると、うっと喉を唸らせた。

「お館様…」

 小さな声で語りけ、信玄の手を握った。少し冷たかった。強張った太い指は、つい先日まで斧を振るっていたとは思えない。ぎゅっと力を込めると信玄はゆっくりと瞼を開け、幸村の名を呼んだ。幸村は信玄の顔を覗き込んだ。

「お、お、お館様…っっ!!幸村がここにおりますれば…!!」

 信玄は頭を動かし、幸村を見遣った。可笑しい物でも見るように口元は笑んでいる。握っていた手を離した信玄は、大きな手のひらを幸村の頭を押し付け、掴むように撫でた。

「何という顔をしておるのだ…幸村、しっかりせい」
「お、お館様…!お加減は…、そ、某、病に伏せるお館様を襲撃せんとした輩が、再び現れてはならぬと、思い…」
「馬鹿者が…、そう日に何度も襲われぬわ」
「ですが…!」
「幸村、お主は見たか…、忍らの顔を…」

 幸村は問いに押し黙っていた。だが、はっきりと見た。
 廊下から差し込んだ灯りが、薄暗い部屋に浮かび上がらせたのは、間違いなく旅の薬売りの凛だった。佐助に捕らえられたにも関わらず、するりと間を縫い、瞬く間に闇夜に飛び出した。家康の言っていたことは真実だったのだと愕然としていた。すぐにでも信玄に知らせていれば、こうして臥所まで敵を入り込ませることも無かったのだと、幸村はひれ伏した。

「お館様、某、家康殿が上田へ参られた際、お館様のお側を離れぬなとのご忠告を頂いたにも関わらず…、ご報告まで至りませぬこと、不覚にございまする。まさか凛殿がそのような人物であるとは思えず…。しかし、このような事態となり…!いかようにでも、取りなして下さりませっ…!」

 館内は続々と人が目を覚まし、見張り番の家臣らへ炊き出しが始まっている。威勢のよい女中の声が、夜明け前の静まる空気に良い緊張と安堵を含ませる。たくましい館の様子に信玄はほっと胸を撫で下ろした。

「あれが、まことに冷徹な娘ならば、風魔に構わず、まず、わしを殺っておったはず」
「しかしお館様の命を狙ったのもまた、事実に…、ござりまする…」
「北条の忍に去り際食らわされておったぞ。今頃、傷に苦しんではおらなんだか」
「お館様…」
「わしを背にした時、凛の背にうっすらと紋を見た。あれは、九枚笹じゃ」
「九枚笹…、とは…、豊臣の…竹中殿の紋にはございませぬか」

 信玄は僅かに頷いた。

「ふん、幸村。これまでお主が見たものを信じよ。さすれば、わからぬこともわかる。兎にも角にも忍の傷じゃ。見つけ次第館へ連れて参れ」
「…はっ、必ずや。凛殿より話を…、うかがいまする」
「そのいきやよし。わしは大丈夫じゃ」

 幸村は一礼し、信玄の部屋を出た。確かに信玄の言う通りだった。幸村が見る凛は、いつも他人に尽くす優しい薬売りだった。例え芝居であっても、幸村を手当てし、ささいな冗談に笑いあった日もあったのは事実だと思いたい。ただ、言い換えれば幸村は薬売りの凛の姿しか知らず、本来の人となりは分からなかった。知っているのは大和国の生まれというだけで、食べ物の好みすら分からない。何もかも憶測の域を出なければ真実の輪郭を捉えることは出来ないのだ。凛から直接話を聞くことが、幸村のが被った気持ちを晴らす唯一の方法だった。
 次第に、夜が明けていく。東から差し込む陽の光は温かい空気を甲斐の山間に注ぐも、それは一筋差し込んだだけで空模様は怪しかった。幸村は館を出て、ひとまず上田と甲斐を結ぶ道沿いに凛を探すことにした。愛馬に飛び乗り厩舎から勢い良く駆け出した。
 ひたすらに声を上げ、凛の名を呼び街道をひた走った。道脇の藪や、木々の暗がりに目を凝らし手綱を引く。早朝はひと一人行き交わない。田の広がる場所に出ると速度を緩め、馬の首を優しく叩き落ち着かせた。暫し留まり空を見上げた。朝日は遮られ、いつのまにか厚い雲が空を覆っている。今にも低く落ちそうな曇天は、ぽつりぽつりと地に斑点をつけていた。

「降りだしたか…」

 手綱を引き、幸村は雨を凌ぐ為に枝葉が覆う道へと逸れた。雨音を弾く音は次第に強くなり雨滴は地面を叩きつけている。跳ね上げる泥水をぼんやりと眺めていた。
 凛を探し出し、話を聞くまでは良いが、信玄の首を狙ったことには変わりなかった。追求した返答によってはその場で打ち合いもあることだろうか。場合によっては処断しなければならないかもしれない。信玄に刃を向ける者はこれまで何ぴとたりとも幸村が跳ね返してきたからだ。今さらになって踏み出すことに戸惑う気持ちがあることに正直戸惑っているのも事実だ。
 臨む視界は益々白くなる。ふいに背後に馴染みの気配が降り立った。幸村は直ぐ名を呼べずにいた。

「旦那、北条の忍はもうここらには居ないと思う。くのいちの方は…真新しい血痕があちこちに落ちてるみたいだ。今範囲を絞って探させてる」
「そうか…」
「切り替えてくれよ、旦那。豊臣の手先となれば、悠長なことしてらんないよ。俺様はもう少し森の中行ってみるから。旦那は馬だし、里道を頼むよ」
「分かった」

 佐助が遠ざかるのを確認し、雨が落ち着くと幸村は再び足元の悪い道を辿った。館を出た時は軽快に走らせ握っていた手綱だったが、今は人の歩みと同じ程だ。刈り入れの終わった濡れた田には水たまりが出来、曇天を映し出している。道を挟んだ里山は枝葉の先から雨露が静かに表面を流れていた。少しずつ覆っていた雲は薄くなり、辺りが明るくなってくる。水たまりに落ちた雫が波紋を広げ、歪む影を認めた幸村は顔を上げ、馬を止めた。
 眼前には、濡れた藍色の忍び装束に身を包んだ凛が、低木の合間から姿を現したのだ。一歩ずつ道の真ん中に歩みを進め、凛は幸村を正面に見据えた。口布を下げると顔色は悪かった。

「凛殿…」

 伏せた目をゆっくり上げ、凛は真っ直ぐ幸村を捉えた。向けられる視線は酷く冷たく感じる。幸村は馬を降りると、自身の得物をいつでも抜く心構えをしていた。

「真田様、この度は武田信玄殿の病…、お気の毒でございます。ですが、幸いにもこの付近には肺の煩いに効くとされる薬草がございました。預けておきます。決して毒ではございません。猿飛殿にお見せ下さい」

 凛は手にしていた一束の薬草を放った。水たまりを飛び越え、幸村の方へと地面を転がった。幸村の挙動一つするにも、凛は威嚇する猫のように腰を落とし、態勢を整えていた。以前のように笑い合う会話には程遠い。爪を立てられる雰囲気に幸村は胸を掻きむしられた気分だった。

「…貴殿は、北条の忍から傷を負わされたのでは」
「大した傷ではございません」

 そう呟いた凛はもう用は無いと言うように反転する。幸村は引き止めた。

「お待ちくだされっ!!貴殿を…躑躅ヶ崎館まで連れ帰りお話を伺うことが、某が託された命にございまする。どうか、ご同行願いたい」
「出来るわけがありません」
「某は、ただ話が聞きたいだけでござる。どうして、このような…。これまでどれほどの人を助けてこられた貴殿が何故…」
「命だったから…、それに尽きます。私は武田様の首を狙った忍です」
「何処から参られたのか…、どこの手のものか…、などの問いに答えてくださるとは思っておりませぬが…ですが…」
「もう、お会いすることもありません、真田様」
「これから、凛殿はどうされるのか」
「勿論、相応の処罰が下ります。真田様も忍を遣っておいでならお分かりになられるはず」

 体を半分返し、凛は鋭く幸村に言い放った。幸村は冷たい視線を振り払い、叫ぶように反論した。

「某は…っ!佐助や配下の者を“使う”などと思ったことは一度もございませぬ!!凛殿、貴殿も忍である前に、人にござる。生きたいとは思わぬのか!」
「命に従い、命に生き、命に死ぬ。草とはそういうものです。真田様も武人であるならお分かりになられるはず」
「凛殿…」
「どうぞ最後まで主をお守りくださいませ。真田様、では」

 凛は膝を曲げ、跳躍の態勢を取ったが、多少残った毒と傷の痛みに出足が遅れた。僅かに体が傾き、ふらりとよろけるとおもむろに手首をねじ上げられ、濡れた地面に伏せられていた。凛を拘束するのは、幸村の忍猿飛佐助だった。首根っこを抑えつけられ咳き込む。その拍子に泥水が口に入った。凛にまたがる佐助は僅かに口角を上げた。

「ふー、やーっと捕まえた。ちょっと旦那ー、ぼうっと突っ立ってないで手伝ってよ」
「さ、佐助…!やり過ぎだ」
「何がやり過ぎなのさ。お館様の命狙う奴だよ?このくらいやらないでどうすんの」

 駆け寄った幸村は、しゃがむと凛の顔を覗き込んだ。精気のない顔色、その額には汗が止まらない。立っているのも限界だったのだろう。
 佐助は凛の両腕を縛り上げると、無理やり引き上げ立ち上がらせた。

「さっさと立てよ。これから色々聞かなきゃならないんだからさ」

 幸村は唇を噛み締め、佐助への言葉を飲み込んでいた。手荒な真似がしたくなかったのが見て取れる。凛は苦い顔をする幸村に微笑んだ。

「真田様は…もう少し人を疑うことをなさいませ」
「余計なこと言わないでさっさと歩く。旦那も、馬乗って先に館に走って」
「あ、ああ…。佐助…くれぐれも頼むぞ…」

 信玄の寝込みを襲った忍が一人捕まったとあって、久方ぶりに館の牢が開放された。
 牢は、館内のとある蔵の地下にある。石の床の上に、鉄製の格子が籠のように四面を覆っていた。床には血痕だろう黒ずんだ染みがこびりつき、壁面には拷問具が並んでいた。
 捕らえられた凛は傷や解毒の処置を手厚く受けたが、以降は忍隊による尋問が始まった。尋問というよりは拷問だ。幸村は凛を館へ連れ帰った後、面と向かって話を聞きたいと佐助へ懇願したが、あっけなく却下された。己を偽り上田で商いをした挙句、躑躅ヶ崎館へ侵入し、御大将の命を狙った不届き者だ。忍隊の佐助は己自身への怒りも然ることながら、凛への尋問は武田があずかり知らぬ所で進められる策動を躱す術になると考えていた。
 だが牢に囚われ早幾日と経つも、凛はまったく喋る気配がない。拷問の訓練は一通り受けているのか、梁から吊るされた拘束具に手首を縛られひたすら水を浴びせられても、うんともすんとも応えなかった。
 佐助は一つに結われた凛の髪を掴むと、垂れた顔を強引に持ち上げた。

「あんたが、豊臣の忍だってことはもう調べついてるよ。いい加減話してくれなきゃ一生このままだぜ」

 抑揚なく言う佐助に、凛は的はずれな答えを返した。

「真田様に渡した薬草は、試されましたか、猿飛殿」
「今そんな話ししてないでしょ。てか道端のあれ?置いてきちゃったよ」
「信玄殿は…、息をするのもお辛いのでは…。煎じてやってください」
「あんた本当、気い逸らすの上手いね」

 ため息をついた佐助は、控えていた部下に命じ、過日幸村にやったという薬草を探させた。道端にはその束がまだ置き忘れたままだったらしい。暫くして戻った部下は、萎れた薬草の束を佐助に持ってきた。佐助は直ぐに煎じるよう命じ、部下は乳鉢を携え再び牢へ入った。
 佐助は、凛の正面にしゃがみこむと、それを鼻先へと近づける。青い臭いが鼻孔いっぱいに広がり凛は思わず咳込んだ。

「あんたで試していい?」
「…好きにすればいい。嘘は言っていない」

 佐助は乳鉢からすり潰されたものを指ですくうと、凛の口に突っ込んだ。喉の奥まで届き思わず咳き込む。いつもなら指を噛み千切る気概もあるが、流石に幾日も拷問にあっていては抵抗の精気もとんと沸かなかった。
 当たり前だが、常人にこの薬草を含ませても何も起こらない。暫く凛を眺めていた佐助も自ら指を舐めた。

「あれま、本当だったの」
「耳は飾りか」
「これ、ああ…。わかった」

 佐助は、部下に乳鉢を返すと直ぐに同じ薬草を探しに向かわせた。部下は疑う素振りを見せている。敵に勧められた薬を佐助は使う気でいるからだ。だがそんな佐助は早く行けと顎をしゃくっている。一連のやり取りに凛の予想は確信に変わっていた。信玄の様態はあまり芳しくないのだろう。ふと幸村の顔が過ぎったが、凛に息をつかせる間も無く尋問は再開された。長丁場になるも凛は今日も口を割らなかった。
 夜になると、牢の冷え込みは厳しい。おまけにずぶ濡れの体は寒さを一層感じる。が、近頃は痛覚すらも鈍いので寒さもあまり感じない。捕らわれたまま死ぬ覚悟はあっても、凛は任を遂行できなかった自分を自嘲していた。
 あの新月の晩、風魔小太郎の去り際に持っていた短刀は即座に信玄に突き刺すことは出来たはずなのに、駆け込んだ幸村の声に躊躇した己を、拷問を受ける間何度も恥じた。これまで無心に任を完遂してきたはずなのに、人の悲しむ顔を見たくないと思わせ、少しでも揺さぶられた己の弱さと幸村には腹が立つ。
 俯き頬に掛かる髪から、雫が落ちた。乾き切らない床にそれはじわりと広がっていく。朦朧とする意識の中、名前を呼ばれた気がした凛は、ゆっくりと顔を上げた。格子の間から除いたのは、幸村だった。
 眉間に皺を寄せ、酷い顔をしていた。我が主を襲った輩だ。憤ってもいいのに、凛を見つめる表情は苦痛に満ちている。幸村は、見張りに錠を開けさせると、自ら中へ入ってきた。

「凛殿…、酷い仕打ちをお許し下され…」

 幸村は、凛の側に寄ると覆い被さるように腕を伸ばし、あろうことか縛っていた縄を解いた。凛はずるりと地べたに倒れこむも、今逃げ出す力は残っていなかった。幸村は、凛を支え起こすし、力を込めて抱き抱えた。

「凛殿…、お館様の患いが落ち着きました。見立てによれば、あの薬が効いたとのことにございまする…」
「そうですか…」
「某は、もう、このような凛殿の姿は見たくありませぬ…」

 幸村は、凛を支えたまま頭に手を添えた。今度は何をするのかとされるがままでいると、幸村は凛の束ねた髪をぐいと持ち上げ、懐から短刀を取り出した。

「凛殿、貴殿の処罰は某が委ねられました」

 長い髪を垂直に引っ張られ、凛の首は晒されている。凛は覚悟を決めていた。幸村の握った短刀は真っ直ぐに近づけられる。鈍い反射に目をつむり、最後の呼吸を肺一杯に吸い込んだ。切り裂く音が静かに響き、視界は地面と平行になった。首が落ちても意識は残るのかといまだ働く思考に驚いていたが、痛みが無い。凛の首はまだ繋がっている。ただ横に倒れただけだった。
 視線を動かし、倒れたまま幸村を見上げると、その手には凛の髪が握られていた。

「忍にとって、主を裏切った上で新たな主に就くことこそ屈辱だと佐助は申しておりました…。某は貴殿の心を信じたい。これで包み隠さずお話くだされ」
「私の髪を送り返しても、真偽を確かめにまた誰ぞか送ってきます、一人の忍に手を煩わすこともありませんでしょうに」
「その時は、真っ向某がお相手申す。それを未然に防ぐには貴殿の力が必要と考えたまででござる。凛殿、お話しくださいますな…」

 凛はばかばかしさに、笑いが込み上げた。忍の一番嫌がることを処罰として要求しながらも、凛がまたいつ何時牙を向けるとも限らないのにまだ信じている。
 どうして、この真田幸村という男はとことん真っ直ぐなのだろう。人を信じることに、まだほんの少しだけ望みを預けて良いのだろうか。凛は手を伸ばしてみたくなった。

「主には、逆らえません…」
「凛殿…」

 人に素直な感情を伝えることが遅すぎたと気がついたのと同時に、罪悪感と今も過去に囚われている自身があることを認めざるを得なかった。
 凛は幸村に応えその背に腕を伸ばした。