第一章 秋の章
08 錯乱、蒼然の中
幸村と凛が躑躅ヶ崎館に到着してから早数日が経った。
真田昌幸の書状は、やはり徳川との同盟には慎重を期して欲しいとの内容であり、信玄は家臣を集め度々軍議を開いた。
高坂昌信や内藤昌豊は、この同盟は徳川に降るのも同義だと主張し、断固として首を縦に振らなかった。幸村も、北条の所領安堵の決定を今、家康の裁量で以って行われている事こそ、行く行くは信玄に物言う立場を取り、自領も土地の切り取りがあるかもしれないと推し量ったらしい。昌幸の書状内容に自分も賛成だと進言した。恐らく高坂正信は真田昌幸との密談で言った「お館様の治める世を見たいのだ」と幸村にも同じことを言ったに違いない。
広い板の間には、大勢の家臣がずらりと並び、いよいよ信玄が決断を下す時だった。腕を組み、じっと黙って上座に構えていた甲斐の虎は口を開いた。
── 武田は武田のやり方で諸国の抑止力の要とならん。皆、よろしゅう頼むぞ。
そうして、徳川家康には同盟への断りを返答した。その返書は「大変残念だが、手を取り合う構えはいつでもあるので気が変わったなら直ぐに使者を寄越してくれ」という内容だったらしい。
揉んでいた事柄がようやく収束し、武田はこの一件を角を立てずに乗り越えた。
今回の同盟打診があったことで、家臣らの忠義は改めて堅固なものとなり、信玄が家臣らの意見を真摯に取り合ったことは更に信頼へと繋がっていた。危機的状況を前にし、団結がより増したのだ。
同盟実現は免れたが、凛にとっては良くもあり悪くもある結果となった。信玄の首はより太くなったように感じられ、益々刃は遠ざかった。
だが、堂々と躑躅ヶ崎館に滞在出来る機会など滅多に無い。凛は短い期間にできるだけ館の中と、信玄の身辺を、主に一日の様子を調べ上げた。朝起きてから眠るまでの信玄の生活を頭に叩き込み、警護の忍や家臣らの把握に徹した。
信玄の毎日は規則正しいものだった。起床、朝餉、朝議、鍛錬(主に幸村との)、昼は見回り、軍議、政務、夕餉、報告、政務、就寝── 大体がこんなものである。
凛は一度、信玄と幸村の手合わせを見学したが、あれは鍛錬とも稽古とも言えない、なんとも騒がしく暑苦しいものだった。
剣の稽古をするかと思いきや、向き合うや否や互いの名を大声で叫び、いきなり殴り合いを始めたのである。信玄に拳で飛ばされた幸村は、庭の塀にめり込みつつも大層嬉しそうに、いや、あれは戯れる犬の如く幾度も信玄に立ち向かい、拳を繰り出しては返り討ちにされていた。
呆気にとられる凛に、猿飛佐助は「びっくりした?あれ、うちの日常だから。気にしないでね」などとのたまう始末である。城下の左官屋と瓦屋は大層ありがたがっているだろうなどとは口が裂けても言えなかった。
ともあれ、今日も幸村は塀の瓦に埋もれたらしい。鍛錬後は、傷だらけの幸村に処置をするのがすっかり滞在中の日課となってしまっている。
障子戸の向こうに気配を感じると「凛殿、居られまするか…」と、痛みに耐える声が聞こえた。出迎えると痛々しい顔が無理矢理に笑みを覗かせていた。頬は赤く腫れ、目の上には青あざ、顎の辺りには擦り傷もある。
「また今日も派手に、お稽古…されたのですね」
幸村は誘われるまま凛の正面に胡座をかいた。血の滲みを濡れた手ぬぐいで拭うと唸っている。薬箱から軟膏を取り出し、頬のあちこちに塗ってやった。
「真田様、終わりました。よろしいですよ」
「かたじけのう、ぞんじまする。しかし、凛殿の薬はよく効きまするな。次の日には治っております」
「それは、嬉しく思いますが…。あまり、お顔を傷つけては。せっかくの美丈夫でいらっしゃいますのに」
軟膏の入った貝殻を薬箱に戻し、蓋をした。何の返答も無いので振り向くと、幸村は膝に拳を握りしめ、睨むように凛を見つめ何度も目を瞬かせていた。鯉のように口をぱくぱくとさせている。言葉を何処かに置き忘れてしまったかのようだった。
「び、び、美丈夫などと。某は…武人にござる」
「館のお女中方が、そう仰っているのを聞きました。美丈夫な武人とは大変誉れなことではありませんか」
「某は、こう…もっとお館様のような武人になりとうござる。不動の如く、逞しく、己が信念を貫く心意気に憧れますれば!」
「真田様は今でも十分、真っ直ぐであらせられると、わたくしはそう思います…」
凛が笑みで返すと、幸村はさっと視線を逸らした。
「…み、診ていただき、ありがとうぞんじまする。それでは、御免!」
こうして凛は、本業を密かに進める間、信玄や幸村たちの前では薬屋稼業も抜かり無くこなしていた。
幸村には日常的に傷の手当をしているが、一方の信玄には膝の痛みに効く薬を作っている。近頃膝を悪くしている信玄は「苦味の少ない薬を処方してくれ」と凛に依頼したのだ。薬道具を持ってこさせたのはこの為だったらしい。
信玄の薬を作る際、致死量の毒を混ぜようかとも考えたが、何故か煎じる時はいつも傍らに幸村が居た。大量のまんじゅうと共に凛の部屋に鎮座しているのだ。
薬草の匂いが充満し、甘い匂いが余計に際立つ中、片時も凛の手元から視線を離さず「それは何という葉にございますか」と度々問う。そうなると毒草を混ぜるのが憚られたのだ。店売りの薬屋しか知らない幸村は、凛の作業が珍しいのだろう。
間近で見られながら薬を作るのはどうも落ち着かなかった。暗殺の瞬間よりも胸が轟く気もしていたが、それももう終わりの日が近づいていた。いよいよ、上田へ帰還する日となった。
結局信玄の首に刃は届かなかったものの、武田が同盟へ加わらなかった分、時を稼ぐことはできた。上田へ帰ったなら数日分の報告をしたため、首を取る日取りを、凛は半兵衛へ仰ぐことにしたのだった。
甲斐から上田への帰路、凛は再び幸村の馬に乗せられていた。断ったのだが、幸村が遠慮はいらぬと言い張るので、仕方なくといった具合だ。幸村は馬上から遠くに見える山々を凛に教え、また里を通ればそこの知名や特産を事細かに教えてくれた。忍とも知らずに土地々々を語るとは…と心の中で呟きつつ凛は黙って相槌を打っていた。
道のりは順調で、上田まであと三里ほどの所まで来た。だが幸村は橋の袂で突然馬を止めた。かと思えば辺りをきょろきょろと見渡し始めた。また忍かと、凛も気配を伺うも殺気立った様子はない。幸村は声を上げた。
「佐助か!」
呼ばれた通り、猿飛佐助はいつの間にか険しい表情を携え、馬の横に立っていた。
「旦那。今、徳川の軍勢が上田に向かってるらしいと、報せがあった」
「徳川…?何ゆえ上田に…。お館様は確かに家康殿へ同盟不参加を申し、家康殿からの返書もしかと受け取ったはず。それで終わりではなかったということか」
「その筈なんだけど、お館様に同盟不参加を献言したのが真田家だと徳川は思い込んでるらしくて…。今度は直接昌幸様に交渉に来たみたいだ。わざわざ大勢引き連れて」
佐助は眉を下げ、食指を動かし頬をかいた。
「なんと、それは困る。家康殿が父上に頼み入れたならば、また父上は頭を悩ますのだぞ」
「それを、狙ってるのかも。昌幸様、お優しいからね…」
「ならぬ!佐助、お館様へ報せよ。館から出てはなりませぬと。それから念のため城下の民を曲輪へ」
「了解」
佐助が去り、幸村は背後から凛を覗き込んだ。俯く凛が、不安に駆られていると思ったようだ。落ち着いた声で言った。
「凛殿、申し訳ござらん。しばし揺れますがしっかりと捕まっていて下され。また少しの間城に篭もりまするが、何も心配はいりませぬ故」
「…はい」
速度を上げた馬に揺られ、凛は考えていた。
何故今更徳川家康が、真田昌幸に接触するのか理解しかねるのだ。北条、徳川の同盟は成り、武田は輪に加わらずとも、信玄が自ら北条と徳川に仕掛けるとでも思ったのだろうか。いいや、家康に限ってそんな浅い考えを持つはずがない。何か企みがあるに違いない。
家康の行動にはどこか焦りがあるようにも感じた。豊臣の西南侵攻と、奥州独眼竜との同盟が関係しているようにも思った。豊臣は現在西南侵攻の真っ最中、そして奥州独眼竜に門前払いされたとあっては真っ向に豊臣と打つかるには心もとないとでも思ったのだろうか。
或いは、家康は血で血を洗う事をあまり良しとしないので、佐助の言った通り、じわじわと内側から家臣らを個別に懐柔する策へと切り替えたのかもしれない。その手始めに、真田が選ばれたということだろう。これでは信玄も騒動に駆りだされ益々首を狙い辛くなる。妙なことになってしまった。
二人が上田城へ着くと、門兵たちは焦りの色を隠しきれず、わらわらと幸村に駆け寄った。
「幸村様…!徳川が攻めてくるとは誠にございますか…!」
「落ち着くのだ。今から城下の者が城に集う。案内してやるのだ」
「へ、へいっ」
「案ずるな。某が矢面に立つ。真田が仕えるのはお館様だけだ」
幸村は門兵の肩にぽんと手を添え、凛に振り返った。
「凛殿、済まぬが、厩舎が門を入って左手にございまする。某の馬をお頼みしてもよろしいだろうか」
「承りましてございます」
「お頼み申す!」
幸村は赤い鉢巻をなびかせ、一足先に城内へと走って行った。その背を見送り、凛は馬を引き厩舎の馬番に預けた。
暫くすると、城下の民がぞろぞろと上田城に入ってきた。皆、最低限の荷を背負い、落ち着かない様子だ。籠城とも違わぬ有様に最ものことだろう。母親に手を引かれる幼い子供も、周囲の不安を感じてか足元にすがったまま離れない。凛も、兵らに誘導され大広間でじっと待っていた。徳川はもうすぐそこまで迫っているらしい、と、話し声に混じって聞こえている。どれほどの軍勢なのか、凛も想像がつかなかった。
次第に、外からは地鳴りのように馬蹄の轟きと咆哮が聞こえ、物見櫓からは来たぞと怒声が響き渡っていた。凛は、肩寄せ合う広間をそっと抜け出し状況を把握すべく庭へ出た。
上田城の大手門は硬く閉ざされ、門前には葵紋を携えた黄色い旗がひしめいている。隊は正面に一隊のみだった。兵数は三百から五百くらいだろうか。籠城戦をするにはいささか少ないが、交渉をしに来たのであれば納得も行く。とはいえ、本多忠勝を伴っていては徳川の三百も一千の軍にはなる。
真田側は一切先手を切らなかった。一言も発しない。痺れを切らしたのか、家康の声が塀を超えて聞こえた。
「徳川家康、真田昌幸殿にお目通り願いたく、参上仕った!門をお開けくだされ!」
櫓の兵らは弓を構え、お帰り願うと叫んでいる。次第に怒声となりつつある様子に、櫓へ登った幸村の声が喧騒を割った。凛の隠れる蔵の影からは、赤い鉢巻が空に泳いでいるのが見える。
「某は、真田源次郎幸村!ご用件、父昌幸に代わり、某がこの場でお聞きいたしまする!」
門前であしらわれることに腹を立てた徳川勢が、幸村に罵声を浴びせていた。それをまた真田勢も買っていた。
「真田…、信玄公の返書はつい先日貰った。だが、どうしても手を取り合う仲間が足りないんだ。真田が力を貸してくれれば、と思い、参じた次第」
「承服できかねまする家康殿!真田家が仕えるのは、お館様ただ一人にございまする!どうぞ、お引き取り下さいませ」
徳川勢は殿に向かって無礼だなんだと、幸村への怒りを露わにしていた。その声の中に「一介の将が」「若造が」との声が混じっている。真田兵もそれらが耳に入るととうとう我慢ならなくなり、口悪く罵り合う事態になった。すると、徳川勢から幸村に向かって突如何かがすっと飛んできた。はっとした凛は、思わず蔵の後ろから飛び出しそうになるのを堪えた。
幸村は避けず、じっと留まり櫓に突っ立ったままだ。よく見ると頬からは血が垂れていた。どさくさに紛れ、石を投げつけた者があるらしい。家康の諫言が即座に飛んでいた。真田側は今にも怒髪天を衝きそうだ。幸村は頬を拭うと、隣の弓兵をなだめ、構えを降ろさせた。
「大事ではない。応戦してはならぬ。耐えるのだ」
「しかし、幸村様…!」
凛は胸をなでおろした。矢を射られたのかと思い、心臓を握りつぶされた心地だった。
しかし、このままでは家康は引かないだろう。彼の根気の良さは豊臣軍に居た頃を目の当たりにしていれば並大抵のものではない。秀吉の方針に多少の不満を抱きつつも長年付き従った忍耐は伊達ではないのだ。
正直、家康の直接介入は予想外だった。同盟交渉が穏便に済めば、信玄の首に集中できたというのに、あちこちに注意を払わねばならない状況は、単独任務には厳しいものがある。それでも凛は、己の任は遂行せねばならない。
徳川が先に先攻すれば、真田も手が出しやすいが…しかし…。と、凛は、睨み合いの早期決着に頭を悩ませていた。
いつの間にか幸村の立つ櫓には、猿飛佐助が舞い戻っていた。佐助は幸村の傍らで、遠くの二三方向を指し、幸村はそちらを見遣って頷いている。何があったのか、騒がしさで上手く聞き取れない。話を聴き終えた幸村は佐助に指示を出したらしく、佐助は直ぐに櫓を離れた。幸村は、眼下の徳川勢に再度声を張った。
「家康殿!国境に北条勢が控えていると、某の忍より知らせがございました。何度も申し上げまする!某らが主とするのは、お館様でござる!ここまで言っても引かぬなら、北条勢到着を待たず、今この場で、迎え撃つほかござらぬ…っ!城下を戦地にするわけにはゆかぬのだ!今一度もうしあげまする!お引き取り下され!!」
悲痛な叫びだった。幸村も交渉を前提として赴いた相手に刃は向けたくないのだ。門の向こうでは、奥歯を噛みしめるような重い家康の号令が聞こえた。鉄砲隊に指示を出している。櫓に登っている真田勢が転がるようにして一斉に降りてきた。
凛は、余計な面倒を引き起こしてくれたと、唇をぎりと噛んだ。同時に硝煙の臭いが風に漂った。二撃目、三撃目と発砲が終わる。血の臭いはまだしていない。真田兵は誰も当たらなかった様子だ。真田の将兵が門の内側に団子のようにして集まっていた。
耳を澄ますと、門を開けず、堀と敷地内で応戦しようと試みるらしい。なんとも無謀過ぎる。狭い場所で、多勢を相手にすれば瞬時に囲まれるのは目に見えていた。だが、一番槍は幸村が買って出るらしい。命知らずも大概である。
「皆、よいか。某が出たら、必ず後方から陣を展開するのだ。先鋒は任せよ」
「幸村様…」
「某は、納得が行かぬだけだ。皆、頼むぞ。家康殿を父上に会わせてはならぬ!」
「はっ!」
真田勢は何処から外へ出るのかと、凛は見張った。どうも塀の一番端に隠し戸があるらしい。隊はそちらへぞろぞろと異動し始める。凛は、すかさず兵の目を盗み逆方向に走った。櫓を梯子代わりに伝って城外へ一人静かに降り立った。
徳川の弓矢隊は早くも矢を放っていた。大きく弧を描き何十何百と塀を超えると城内からはどよめきが湧き上がる。
先陣切った幸村に続き、真田兵も一気に外へ雪崩れ込んだ。徳川の将が采配を勢い良く振り上げ、雄叫びと共に土煙が舞った。凛は軍勢に密やかに混ぎれ、徳川の将の背後に忍び寄りると、一人ずつ沈黙させていった。これもあくまで、凛が速やかに武田信玄の首を取る為だ。敵に声を上げさせる間もなく粛々と仕事をこなす。凛は、うねりを伴う鬨の声と混乱する将兵の中、幸村の姿を探していた。昌幸の息子である彼があまつさえこの場で大将を務めるとなれば、一番に徳川勢に討たせてはならない。混乱が大きくなってしまう。
凛は目を凝らした。葵紋の黄旗の隙間に、一層鮮やかな紅い鉢巻が飛び込んだ。だが辿った先には、本多忠勝が待ち構えていた。戦国最強と謳われる彼は、押し寄せた真田兵と、真田幸村にその矛先を向けている。
凛は背に汗が伝っていた。いくら幸村とはいえ、鋼の鎧で出来たような忠勝に、その刃が届くとは思えない。戦線の表に出れない凛は、助太刀に入ることも出来ず、ただ回りの歩兵を蹴散らすことしかできなかった。
幸村の二槍と、本多忠勝の重厚な槍は何度も打つかり、幸村が踏ん張る足はどんどん地中へ押し込まれていく。本多忠勝の圧倒的強さに幸村は攻撃を封じられていた。戦塵の中、凛は何か手立ては無いかと考え、幾度も襲い来る白刃を弾き返しすが、埒が明かない。すると、途端、凛の眼前の敵がさっと引き始めた。何事かと腰を落とすと、凛は名を呼ばれていた。目の前に現れたのは敵総大将の徳川家康だった。
家康は、手を掲げ回りの将兵を待機させている。懐かしそうに凛を見つめ、今一度名を呼んだ。
「久しいな、凛。こんな所で何をしている」
「徳川様…」
「任務か」
「答える義理はございません」
「そう、邪険にしないでくれ。昔のよしみだ」
「かつてのお話です。徳川様、ここはお引き下さいませ」
家康は、目を丸くして凛を見つめ返していた。二人の間に一陣の風が吹き抜けた。巻き上げられた土埃に混じり、鉄の匂いがやけに鼻についた。
「そうか…。それも、任、だからか…?」
「当然です。任遂行の為、阻む者は何人とて排除します」
「いいや、そうではない。わしは、凛自らが敵将と交渉するなど、珍しいと思ったまでだ。普段の凛なら、もうとっくにわしは喉を掻っ切られてもおかしくはないからな」
家康は、ははと自虐的に笑った後、凛を真正面に見据えた。真っ直ぐに見つめられた視線を凛は直視できず地に逸らした。
「凛、辛くなったら、わしのところに来てもいい
「何を、世迷い言でございますか」
「そうではない。忍とはいえ、お前も人だ。せめぎ合いに苦 ──」
「徳川様、それ以上続けるなら、」
凛が腰を沈めたのと同じく、鉄砲隊は一斉に銃口を向けた。家康は制止し、構えを降ろさせた。眉を下げた家康は何か悟ったようにして凛を見つめている。周囲にひしめく剣撃と喧騒は、耳鳴りのように歪み凛の耳に詰め込まれていた。
「凛、お前もわしのように悩むだろう。それでもわしは、自分に正直に選んだ」
「何のことを仰られているのか、私には理解出来かねます。私が聞きたいのはただ一つです。引くか、引かないか。私は今ここであなたの命を取りたくはありません」
「わしが、凛に命をとられるわけが無いだろう」
家康の言葉にまんまと挑発され、凛は頭に血が登っていた。懐刀を握りしめ、我を忘れて家康に突っ込んでいた。繰り出される拳を避け、家康の腹を目掛け、真一文字に直刃を滑らせるも呆気無くかわされる。後方に飛び退き、距離を取ると家康は部下に撤退を命じていた。
「急ぎ皆に伝えよ。撤退だ。負傷には手を貸してやれ」
「殿っ…!」
「いいんだ、急いでくれ」
「…はっ」
周囲の兵士は伝令に走り、家康の元には最低限の将兵しか残っていなかった。今なら止めを刺せると思い、凛は踏み込もうとしたが家康は口を開いた。
「久々に、凛に会ったのも何かの縁だ。あまり暴れれば、正体がばれてしまうぞ」
「ご決断、痛み入ります…」
その後、家康は本多忠勝に停戦を命じ、軍を退かせた。土埃は風に薄くなり、次第に視界が開けていく。凛は、姿を認められぬよう、即座に塀をよじ登り、城内に入った。広間へ戻った頃を見計らったかのように、凛は傷兵の処置に加勢してくれと頼まれた。
白兵戦を終えた城門の前には、精根尽き果てた真田兵が横たわり、怪我をした者も大勢いた。
用意された板の間には、次々に重傷者が運ばれてくる。上田城お抱えの医者が忙しく奔走し、凛はひたすらに指示を受け薬作りを手伝った。兵全員の手当てを終えた頃、ようやく幸村が姿を表した。幸村の無事に安堵するも、彼も体のあちこちに傷をつけている。
幸村は本多忠勝と一騎打ちをするも、途中で家康が撤退命令を出した事がさぞ口惜しかった様子だ。兵が臥す惨状にも苦痛な表情を浮かべ、広間を見遣っていた。乳鉢と向き合っていた凛とも目が合ったが、幸村は困った様に笑みを浮かべると、身近に居た医者に手当てを頼んでいた。
その後、真田忍隊の働きにより北条軍勢を早くに察知したこともあり、家康の撤退も相まって領内への侵攻は未然に防ぐことが出来た。真田の兵は「幸村に恐れをなし、徳川勢は尻尾を巻いて逃げたのだ」と声を揃えて言っていた。
避難していた民も城下へ帰り、城の騒がしさは一気に収まり日頃の落ち着きを取り戻していた。
凛は、兵の薬を暫く分作り置き、片付けを始めた。ようやく幾日ぶりかに菊屋へ帰れると息をついていると、ふいに視線を感じ振り返った。廊下には、幸村が月を背にして立っていた。すっかり戦装束を解き羽織袴だ。眉を寄せ、一言も発せず、突っ立ったままの真剣な様子に凛は首を傾げた。
「真田様…?」
「あ、いや。今日はご苦労でござった。甲斐からの帰還早々だというのに、また手を貸していただき、なんと礼を申せばよいか」
「お気になさらないでください。これも薬売りの務めと心得ております」
凛は箱に道具を全て仕舞うと、居すまいを正した。幸村は戸に背を預け、夜空を見上げていた。
「凛殿…」
「はい」
「貴殿は、上田へ商いをしに来られたと、そう某に申されましたな」
「左様にございますが…。それが何か…」
凛の答えに幸村はしばし口をつぐんだ。俯いたり、真っ直ぐ庭を見つめたかと思えばぐしゃぐしゃと頭を掻きむしったり、挙動不審だ。凛は幸村の改まった問いに引っかかりを感じていた。城外での忍の仕事が露見したかと思うも、そうであれば、既にお縄についているはずである。であるならば、幸村は疑いを孕んだまま、確信を持てない問いを凛に投げたということになる。月に雲が掛かり始めた。凛は潮時かと、腹を括った。その旨を半兵衛にも知らせ、直ぐにでも甲斐へ発たねばならないだろうか…。碁を打つように次々と手はずを頭の中に並べていた。
とうとう幸村は沈黙に耐えられなくなったらしい。慌てた様子で弁解し始めた。
「いや、すまぬ凛殿!貴殿は、二度も兵士を助けて下さったというのに…。変なことを聞いてしまい申し訳ござらぬ…!やはり某がどうかしていた。おおお館様あああ、叱って下されええ!!」
「あの、真田様…」
「凛殿は、某の敬愛する心優しき薬売り殿にござる。これからも何卒よろしくお頼み申す…!今晩はもう遅い故、城に泊まられよ。明日宿までお送りいたそう」
部屋はいつかの場所にご用意致しました。そう告げた幸村は、足早に部屋を後にした。