第一章 秋の章
07 冬空模様

 倒れた幸村を連れ、躑躅ヶ崎館まで急いだ凛は、出迎えた猿飛佐助に事情を説明した。急ぎ医者も呼ばれたが、なかなか処置が進まなかった。医者は毒の見当に手間取っていたのだ。益々顔が青くなり呼吸の乱れが激しくなる幸村に、凛は矢も楯も堪らず、いよいよ毒は附子だと告げた。処置を施しても症状の改善が見られぬ事に合点のいった医者は、凛が薬屋だと知るとあれこれと指示を出し、解毒剤の調合を手伝わせた。見事浅い傷から入った毒は中和され、命に別状無く幸村はぐっすりと眠っていた。
 処置の間、傍らで固唾をのみ見守っていた信玄は、我が子を慈しむように、眠る幸村の額に大きな手を這わしていた。前髪を上げ額で熱を測った。

「まだ少々熱はあるようじゃな。暫くすれば目も覚ますじゃろうて」

 甲斐の虎、武田信玄。凛の標的が今目の前に座っている。
 枕元にどっしりと構え、盤石のようにしてただひたすらに眼前の状況を受け入れ、幸村の回復を信じていた。信玄の印象は、一言で言えば山のような人物だった。体格も然ることながら、背負うもの、懐の大きさ、また視野の広さ、凛が肌に感じたものを全て上げれば切りが無い。
 噂によると、信玄はよく、人は石垣だとのたまっていると聞く。館内を歩くと、下男であっても女中であっても誰にでも自らが垣根なく声を掛けていた。部下や家臣らをよく大切に扱っているのが見て取れるのだ。見知らぬ薬売りにも大変礼儀正しく、疑いの目無く接しているのが何よりの証拠である。
 到底色仕掛けなどは通用しないこの男の太い首を、どうやって刈ってやろうかと想像してみるも、珍しく凛は頭の中で画が浮かばなかった。
 信玄は凛に向き直ると、胡座をかいたまま軽く頭を下げた。その後ろには、猿飛佐助も控えていた。

「此度は、幸村が世話になった。いや、わしの兵もじゃな。礼を言うぞ、薬売り殿。いや、凛殿と申されたな」

 凛はひれ伏したまま答えた。

「もったいないお言葉にございます。真田様がお命じになられた通り、馬に乗り先に駆けていれば…と今更ながら思うことでございます。お助け頂きありがとうございました…」
「よいよい、そう畏まるでない。一人駆けられぬ気持ちはようわかるでの。幸村も大事にならずに済んだ。ちなみに、遭遇した忍の隊についてじゃが、何か紋などは見らなんだか」
「いいえ。皆一様に黒い忍装束であったとしか…」
「ほう、黒い…。佐助どうじゃ」

 話を振られ、佐助が信玄に耳打ちをしている。信玄は頷いていた。

「やはり、北条…。すまぬが凛殿、今、少々立て込んでおっての、貴殿まで巻き込んでしまったようじゃ。兎も角、幸村が目を覚ますまではお主も上田には帰れぬ。出回るのも危ない故、しばらくはこの館で過ごすが良い」
「お心遣いありがとう存じます」

 そう言って信玄は立ち上がると、部屋を出て行った。
 どうも、幸村を狙っていたのは北条の様子だ。恐らく、昌幸から預かった書状は北条にとって都合の悪いものなのだろう。凛の予想が正しければ、ひとまず豊臣にとっての障壁は厚くならずに済む。
 胸を撫で下ろし、凛は床に臥す幸村を見遣った。今だ呼吸に難儀するらしく、苦しげだ。凛は濡らした手ぬぐいを額に乗せ、少しでも呼吸が楽になればと、寝間着の帯びを緩める為布団に手を掛けた。すると、さっと佐助が凛の手首を掴んだ。力が込められているわけでもないが、僅かにでも動けば一瞬にして骨が砕けそうな感覚が熱のように走った。

「猿飛様…、あの、」
「ああ、いい、いい。俺様がやるから」
「申し訳ありません」

 それからも枕元に侍っている凛と共に、佐助も長いこと部屋に居た。凛たちが館に到着したのは、夕刻頃だったが、今はすっかり陽も暮れている。
 凛は、幸村の額の布を取り替えたり、汗を拭いたりと看病に勤しんだ。佐助はそんな凛を見定めるかのように、一挙手一投足を眺めている。頬杖をつき、向けられる視線には殺気すら混じっているように感じた。凛が薬箱を整理していると、佐助は口を開いた。

「あんたさ、何で旦那に回ってた毒が附子だって分かった」

 七寸や短刀などの懐刀に附子を塗るのは、忍の常套手段だった。戦場で矢の鏃に糞尿など塗って射るのと同じく、隠密には完璧な致命傷が求められるので、解毒剤が未確立である附子はよく使われるのだ。が、一般的にその仕込みはあまり知られていない。だから医者も手間取ったのだ。
 いつかは問われるだろうと予想していた問いに、凛は真っ直ぐに佐助を見据え、正直に答えた。

「以前に、といっても大分前ですが…お師匠様にお教え頂きましたので、臭いに覚えがありました」
「附子なんてあんな高級毒草、上級のお武家様やどっかの大名でも仕えない限りなかなか手に入らないよ」
「左様で…。ですが薬屋を目指す者、多岐に渡る薬草に通じていなければなりません」

 切れ長の目は凛を射るように捉えている。鋭い視線から凛は目を逸らさなかった。真摯に答えたことが功を奏したらしい。無言が満ちた後、佐助は殺気を緩めた。

「ごめん、何か悪かった。旦那助けてもらったのにさ。じゃあ俺様ちょっと用事あるから、後は、宜しく見てやってよ」
「承りました。猿飛様…」

 佐助は手をひらひらと振り、笑みを貼り付け出て行った。凛はやっと息を吐いた。やはり佐助は凛を疑っている。さて、どうしたものかと考えた。最良は、幸村の信用の置ける存在になることだ。そうして信玄の隙を窺う。だが、厄介ではっきりしていることは、武田軍には色仕掛けの効く連中が居ないことである。また、いつも佐助が目を光らせていてはこのままでは信玄に触れることすらままならない。
 しかし、北条の忍に襲われた時、あのまま幸村を放っておいても良かったのだと今更ながら後悔していた。そうすれば、真田と北条の睨み合いはより一層の憎々しいものとなっていたに違いない。混乱を招き、家康の目論みを完璧に阻めていたやもしれない。
 凛は膝に揃える手を握りしめていた。何故、あの時咄嗟に薬箱から煙玉を引っ掴んだのだろう、使ってしまったのだろう…。
 悶々と考えていると、部屋に女中たちが火を点しに回って来た。部屋の四隅にある行燈一つずつに火をつけると、凛が気になる様子で出て行く。暗がりの部屋は、ほのかな橙色に満たされた。凛はいつの間にか揺らめく部屋の灯りに意識を放っていた。
 再び目が覚めた時、凛は座ったままうつ伏せになっていた。幸村の側に居る内にいつの間にか、ひれ伏すような体勢で眠って居たらしい。ゆっくりと上体を起こすと、背には布団が掛けられている。さらに心地よい温かさがあると思えば、側には火鉢が寄り添うように置かれてあった。はっとして、感じた視線に振り向くと、幸村は布団に入ったまま起き上がっていた。顔色も大分元に戻っている。羽織はいつも城下へ出てくる時のもの、肩には結われていない襟足が僅かに掛かっている。柔らかく行燈に照らされた幸村は凛に微笑んだ。

「凛殿、おはようございまする。お目覚めいかがにござりましょう」
「真田様…。これは、失礼致しました。かような…その…、大変お見苦しい所を」
「良いのでござる。館まで連れて来て下さったとのこと、世話になり申した」
「とんでもございません。今、お医者様をお呼び致します」

 布団を肩から滑らせ、急ぎ立ち上がろうとする凛の手を幸村は咄嗟に掴んだ。

「大丈夫でござる。先程、お越しになられた故、診ていただき申した。お布団も火鉢も、その際お医者様が置いていかれて。娘が風邪を引いてはならぬ!と」

 某は気が利かぬとまで仰せで叱られてしまいました。そう言った幸村は、はははと笑っていた。その頬は今だに赤い。まだ熱があるのではと、凛は身を乗り出し幸村の額に手を伸ばした。

「熱は…、」
「少々、その、笑い過ぎただけにござる!そ、そうだ!腹が減っておりますでしょう。夕餉を用意させましたゆえ、召し上がってくだされ」

 幸村は女中に命じ、夕食の支度をさせた。幸村もまだ食事を取っていなかったらしく、病人食の膳と、凛の膳とが部屋に並べられた。
 凛は、附子の解毒剤の作り方は多少の心得はあったが、それでも軽い症状である場合にのみ効く、応急処置程度のものだ。
 或いは医者の助言があり生姜を多めに入れたからか、甘草を生から煎じたからかは分からないが、幸村の回復力は常人離れしていた。これも日々の鍛錬とやらが効いているのだろうか…。
 幸村の膳は、粥や柔らかいものばかりが用意されたものの、早々と胃袋に収まってしまった。結局もう一膳、凛と同じものが出され、幸村はそれもぺろりと平らげてしまった。すっかり食欲も戻り、具合は良くなった様子だ。あまりの食べっぷりに凛も驚いた。
 食後の茶を飲み、幸村は腹を擦っていた。

「流石に、団子までは…入らぬ…っ」
「あまり急に食べられますと、体が驚いてしまいますよ」
「凛殿の申す通りでござるな。しかし、お医者様と凛殿のお陰でこうも満腹になれ申した。かたじけない」

 凛は首を横に振った。笑みを忍ばせながら箸を置き、手を合わせた。過日、宿で感じたような視線に気づきそっと顔を上げた。忍である凛は、どんな視線や気配にも慣れてはいる。殺気とか、悪性な企みを孕む視線などだが、幸村のそれは今までの感覚には経験の無い不思議なものだ。腹を擦っていた幸村は手を止めていた。

「真田様…、なにか」
「い、いや。その、凛殿は立派な御仁だと、思うておりました」
「立派とは…」
「ご謙遜なさいますな」

 湯のみを膳に置いた幸村は、手を後ろに付き天井に顔を向けた。

「某は、武芸に励み、戦場では人の命を奪っておりまする。それは、紛れも無い事実にござる。だが凛殿は、人々を助けて過ごされている。某、凛殿のお働きや商いに、日々感激しておる次第」

 尊敬の眼差しで見つめる幸村に、凛は顔を反らし俯いた。
 二人とも既に膳は綺麗になっていた。凛は湯のみだけを盆に置き、幸村の膳を手に取ると腰を上げた。

「…真田様、わたくし膳を下げて参ります」
「いや、お客人は座っていてくだされ。まだゆるりとしていればよかろう。今、女中を呼びまする」
「どうぞ、構わず。馳走になったからには、片づけだけでもさせて下さいませ」

 凛は幸村の申し出を強引に断った。二人分の膳を重ねて部屋を出ると、重い足取りでどこかも分からぬ厨へ向かった。廊下には冷ややかな空気が伝っている。歩むたびにその中を潜りぬける感覚が薄ら寒く感じていた。
 幸村が今、凛に対して感激している事柄は全て、人の命を奪う為の芝居にだ。凛も日々戦場を駆ける武将たちと変わらない。主の為に忠を尽くし、仇なす輩は根こそぎ刈る。武田信玄を始めとした他国武将を屠り、豊臣天下への道の障害物を取り除くそれこそが、半兵衛の忍として凛の使命だ。それなのに、幸村は凛に見たものを、見たままに信じている。
 長く凛を忍たらしめ、信じられてきたものは人の命を奪う技のみだ。勿論、殺す薬は作れるし生かす薬も作れる。だが、それだけに幸村の言葉が余計に落ち着かなかった。これではまるで忍では無く、旅の薬屋さんではないか。それは凛の仮の姿だ。本来の目的を忘れてはならないのだ。凛は無感情に努めろ、冷徹になれと必死に自分自身に言い聞かせていた。否定したいものが、幸村の言葉にかそれとも自分自身へか、分からなくなってくる。
 気を落ち着かせようと、薬箱の中を思い返してみたが、殆ど頼りになりそうな薬は残っていなかった。筵に並べ陽の下に晒されればたちまち人々の手に渡る。近頃は在庫が残らない事もしばしばだ。
 ぼんやり廊下を歩いていると、凛は正面から来た人物に気が付かなかった。体勢を崩し、よろけた凛を支えたのはあろうことか、武田信玄である。湯殿からの帰りらしい。ほかほかと禿げた頭から湯気をあげ、首には手ぬぐいを巻いていた。一枚の寝間着に包まれるこの体は、今は完全なる無防備だ。膳を持つ手に嫌に力が入る。凛は呼吸を整えた。

「大丈夫か、お主。女中に頼めばよかろうて。厨の場所も分からぬであろう」
「武田様…、申し訳ございません。せっかく風呂に入られましたのに」
「なに、そなたが汚れておるとでも申すのか」

 信玄は可笑しそうに声を上げ笑った。丁度その時、別の部屋から女中が出てきた。信玄は、凛の持つ膳を持って行ってくれるよう命じた。手持ち無沙汰になった凛は、幸村の部屋へ戻り辛かったが信玄に頭を下げた。

「凛殿、少し歩かぬか。わしの自慢の庭ゆえ、案内しよう」

 凛は隠し持つ得物を瞬時に思い浮かべた。懐に抱くは小刀が一本だ。潜在的に練り上げられた殺意だったが、庭の案内をする信玄の後に続いているうち、鋭く向けていた刃先は悄然としていた。
 廊下に面する庭には四季折々の花木が植えられているそうだ。石灯籠に灯されたそれらは、季節を交互に咲き乱れ、故に躑躅ヶ崎館の庭は一年のうち庭が彩られない時季は無いのだと信玄は言う。
 だが、今年は晩秋までが長く、いまだ山茶花が咲かぬままであるらしい。移り変わりが例年よりも早過ぎたり、遅すぎたりすれば、例えば落葉すぐの降雪には寒椿を待たずして真っ白な景色となるし、残雪あるまま暖かな春を迎えれば、花もすぐには咲かぬので野鳥も訪れない。とはいえ毎年咲かぬことは断じて無いので、己が節目だと思った頃に花はやっぱりちゃんと開くのだと、信玄は独り言ようにして呟き前を歩いていた。
 時折、幸村との思い出を交えつつ話をする信玄は、笑い声を上げる背中は隙だらけである。
 凛は、何のために逃げるようにして部屋を抜け出し、自身で膳を下げたのかと何度も自問した。全ては今日のこの時の為だ。小刀の柄に手を掛け、今一歩踏み出そうかとした時、信玄は前触れもなく凛へ振り返った。

「凛殿、旅の薬屋稼業にも悩みはつきものか。お主を一目見た時から、随分と物憂げな様子じゃと思うておったが…。何でもこの信玄に申してみよ」
「え、あ、いいえ…。悩みなど…武田様にお心遣い頂くまでには及びませぬ」
「困っている事があればなんでも申せ。いろいろ世話になったからのう」
「ありがとうぞんじます」
「うむ。しかし本格的に冷えてきたな。呼び止めて済まなんだ。部屋へ戻るが良い」
「はい…」

 元来た廊下を辿り、再び幸村の部屋へ戻った時、丁度内側から戸が勢い良く引かれ凛は思わず後退った。目の前には幸村が羽織の襟を掴み、そっと抜け出す寸前だったのだ。突然視界に入った凛にに、目を白黒させるもほっと息をついていた。癒え切らない体で何をしようとしていたのか。聞かずとも答えは分かっていた。

「また迷われて居るのではと!」
「遅くなり、申し訳ありません。武田様とお会いして、立派なお庭を案内頂いておりました。それにしても真田様。起き上がっては…なりませぬ」
「廊下に立っていれば、凛殿が気づくと思ったのだ」
「左様で…」
「丁度鉄瓶も、湯気を吹いておりまする。茶でも飲みましょうぞ」

 戸をもう一人分通れるように引き、幸村は部屋へ入るよう促した。
 そろそろ刻は、日々の報告をしたためる頃になっている。躑躅ヶ崎館に滞在中は、忍の目が及んでいるのを危惧し、凛は暫くの間半兵衛への文を「しばし絶つ」と、その一言だけを大阪へ送った。

 ・

 四国及び九州征伐への準備が着々と進めてられている豊臣では、今しがた軍議を終えたところだ。隊を束ねる武将らは指示を受け、渋い顔を携え退室していく。今回の案に関しては、やはり難行苦行を強いることになりそうだと思いつつも、豊臣の世を作るためには致し方無いことだった。多少の犠牲は払わねばならない。心を鬼にし会の場を仕切って居た半兵衛は、眉間をつまみため息をついた。
 いつもこの時を見計らい、半兵衛の家臣が定時の報告に文を届ける頃合いだ。それを思えば少しは偏頭痛も収まるというものである。すると一人の男がすっと半兵衛の前に現れた。待ちかねていた家臣である。だが、今日は文を手にしていなかった。不思議に思い半兵衛は開いていた帳面を閉じた。

「ん?今日は凛から文は届いていないのかい」
「は、文は届いてはおりませぬが…、ご伝言を承ってございます」
「いいよ、顔を上げて」

 家臣は、一言一句漏らさず、凛からの伝言を正確に伝えた。聴き終えると半兵衛は家臣を下がらせた。受けた礼の言葉もそぞろに、上の空で返事をしていた。
 一体、当分の間、文が途絶えるとはどういう事なのだろうか。ただ、現在凛が甲斐の躑躅ヶ崎館に居るという事実には、いよいよ信玄へ手を下すのだろうかとの考えも過る。が、それにしても若干急ぎ過ぎのようにも思っていた。近頃の筆の運びといい、今日の様な言動といい妙だ。だがその原因が何であるのか、半兵衛には皆目検討もつかない。
 悩ましげな半兵衛を察してか、大谷吉継らと談義していた三成が輪を抜け半兵衛の元へやって来た。

「半兵衛様、ご気分でも」
「いいや、凛のこと。今躑躅ヶ崎館に居るみたいだ」
「ではあやつ、いよいよ」
「うん、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない…」

 開け放たれた戸から望んだ庭はやけに物悲しく木枯らしが吹いていた。巻き上げられた枯葉が突風にさらわれ散り散りになっていく。目を細め、暫く眺めていた半兵衛は「後は頼むよ」そう、三成に言い残し、部屋を出た。