第一章 秋の章
06 甲斐の旅路

 ── 旅の薬売りは大層良い薬を売りなさる。そのことは甲斐躑躅ヶ崎館に居る信玄の耳にも入っていた。

 今朝からどうも、じめじめとした冷たい空気に満たされていると思えば、空模様は怪しく今にも降り出しそうである。お陰で信玄は、古傷が痺れたように痛み出し、顔を苦痛に歪めていた。縁側に座り、雨だれを眺めていると控えていた佐助が心配そうに言った。

「大将、あんまり無理なさらないで下さいよ。お医者様に薬貰ったんでしょ。飲みましたか」
「最近は、雨になると余計に痛みだしてな。はは、何。揉んでおればすぐに収まる」
「はぁ。また飲んでないんですか。お嫌いのは分かりますけど…」

 信玄は自身で膝を揉むので、佐助は代わってやった。いつも己の体よりも重い軍配の斧を事も無げに軽々と振り回すが、いくら体格がよく鍛えていても、長年の酷使は全て膝や腰に来る。家臣や幸村の前では気丈を保っている信玄だが、自室に居る時は次の戦いに備えこうして痛みをやわらげていた。せめてゆっくりと湯治でもできる暇があればと、佐助はため息をついた。
 それもこれも徳川家康から書状が届いた頃より、周辺が騒がしいのでそんな暇が無いのだ。
 主に原因は北条である。先般、家康と同盟に合意し、領地安堵が約束された途端、何故か頻繁に武田に忍を送ってくるようになった。家康が北条、武田との同盟を急いでいることは知っているが、それは北条もまた同様だったのだ。豊臣秀吉が近々小田原へ挙兵するときな臭い情報がにわかに流れているので、北条は自身の周囲を固めたいのである。
 武田がその輪に加わるかどうかは、信玄の一存で決めても良いが、信玄は家臣らの意見に耳を傾けている最中だった。故に家康にはまだ返事をしていない。そんな訳で業を煮やした北条は、忍を使って早くしろ、早くしろと煽ってくる。非常にはた迷惑な話である。
 指に体重をかけ、佐助は言った。

「お館様は真田領のこと気になさっているんでしょ。俺様はお館様が首を縦に振っても、横に降っても昌幸様は従うと思いますよ」
「そうは言うがな、佐助。皆の意見は聞かねばならん。わしも出来ることなら武田の石垣でこの戦乱の世を渡って行きたいのは同じじゃ…じゃがのう」

 信玄は悩んでいた。世は常に変容し互いの手を取り合わねばという家康の主張もまた理に適っている。しかし、真田、北条の領地境界は目と鼻の先だ。今でもこうして忍を寄越す始末なので、同盟後、内からの混乱を非常に危惧していた。
 そんなある日、信玄の腹心である高坂昌信と内藤昌豊は、信玄にこう言ったのだ。

< 自分たちは、お館様の世、武田信玄の世を見たいのだ >

 大将冥利につきる言葉だった。過日を思い出した信玄は頬を緩め、目を細めた。佐助は目ざとく「どうしたんですか、大将」と言った。

「いやなに、良き家臣に恵まれたものよと思うてな。── そういえば、幸村じゃが、あやつ昌幸の書状を持ち館に来ると言っておらなんだか。佐助、その方しかと伝えたか」
「あー、はい。ちゃんと言いましたよ旦那に。例の、旅の薬売りさんもご同行願うように、ってね」

 しとしとと葉に落ちる露を眺め、信玄は満足気に頷いた。義理堅い信玄は、会って直接礼をと常ながら言っていた。佐助は再び指に力を込めた。
 遠く曇天の隙間には僅かに稲光が潜っていた。

 ・

 すっかり上田城下では「旅の薬屋さん」として、不本意ながらも知名の行き渡る所となってしまった凛の店には、幸村が触れ回った日以降客が増えた。医者に掛かるまではないが、薬は欲しいという町民達ての願いが叶った様子で、軽い怪我や症状に合わせ凛も薬を作った。幸村も、執務が早々と終われば、三日に一度は顔を出した。相変わらず大量の団子を購入しては柳の下で腰掛けに座り、にこにこと平らげ共に店番をしている。初めは目立ってしょうがなかったが、今では日常になりつつあった。
 真田家周辺の情勢といえば、膠着状態が続いており、信玄も今だはっきりと徳川家康へ返答をしていない様子だった。当分はこの調子が続くだろうかと思われた矢先、いつものように凛の店へ訪れた幸村は、思わぬことを言ったのである。

「凛殿っ!!聞いてくだされ!お館様が凛殿にお会いしたいと申しておられますぞっ!」

 二度目の好機が到来した。凛は迷わずその申し出を受けた。
 幸村は、書状を信玄の元へ届けるようにと父真田昌幸に命じられたらしく、凛も同行することになったのだ。
 上田城から信玄の住まう躑躅ヶ崎館までは凡そ三十里。馬で駆ければ宿を取り約二日弱、人の足では三日から四日は掛かる。旅は慣れているので、特別な準備は必要ないが、ただ幸村曰く、薬道具を持参願いたいと信玄直々の頼みだそうだ。大方薬作りを披露せよとの事なのだろう。凛は承諾し、薬箱を背負い馬を引く幸村の半歩後ろを歩いた。
 上田から甲斐へ続く道は流石というべきか、道幅は広く荷車が通るにも平坦であり、馬が横一列に六頭は並んでもまだ余裕のある広々とした道だった。両脇に伸びる枝葉も馬上の人間に邪魔にならないよう、整然と切り揃えられている。この主要道は上田と甲斐いや、真田と武田がいかに密な関係であるかを表していた。
 当初は幸村との対面、ひいては薬売りとしての存在が前に出過ぎたことに頭を抱えていた凛だったが、これぞ怪我の功名である。今度こそは、この目に武田信玄を焼き付け、首を取る算段をつけねばと目論んでいた。
 出立してから暫く進むと掘っ立て小屋が見え始め、里や集落が広がっていた。稲刈りが始まった時期なだけあり、風に揺さぶられる稲穂の間には刈り入れ作業に勤しむ民が見え隠れしている。働き盛りの男手は城下へ出稼ぎに出たり、兵として仕えている者も多く、農作業をするのは女子供老人ばかりだった。刈った稲を担ぎ、納屋へ向かう老人が目に入る。よろけ具合を見るに稲の束を持ち過ぎだ。今にも転倒してしまいそうである。若嫁にでも任せていればよいのに── そう思いながら凛は薬箱の肩紐を持ち直すと、突然幸村が馬の手綱を凛に差し出した。

「凛殿、済まぬがしばし待っていてくだされ」
「え…?」

 幸村は「おおい!!」と声を上げ腕を振り稲穂の中に飛び込んで行った。勿論、民も赤拵えに六文銭を携えた武士を知らぬわけではない。深々と頭を下げるも、幸村は構わずよろけていた老人の稲を預かり、ひょいひょいと担いで納屋の中に入って行ってしまった。それからも三度、四度と、納屋と田とを往復し、気がつけば人の背ほど積まれていた稲はあっという間に無くなり、田は地肌が見え、まっ更になった。
 凛は手綱を握ったまま、道脇の祠付近に腰を下ろしその様子を眺めていた。大層感謝された幸村は、民に別れを告げると凛の元へと駆け戻った。

「申し訳ござらぬ、凛殿。先を急ぎましょうぞ!」

 その後も、幸村は道中のぬかるみにはまった荷車の脱輪に手を貸したり、倒木の撤去作業を手伝ったりと、先々で人々に手を貸しつつ進んだ。だがお陰で暮れ六つに差し掛かったというのに、今晩の宿場にまだ到着しない始末だ。
 幸村はようやくその事に気がついたらしい。凛が徒歩なので、それに合わせ馬を引いていた幸村は、おもむろに馬に跨ると馬上から凛に手を差し出した。

「凛殿、申し訳ござらん。某の寄り道が多く、遅くなり申した…。ご、ご無礼、承知にございますがどうぞ某の前にお乗り下さいませ。さあ」
「いいえ、どうぞ真田様だけでも先に宿へお入り下さいませ。私はこの薬箱もあります故、後を追いかけ、遅れて宿屋へ入ります」
「おなご一人を残し先を行くなどっ!そうだ、薬箱はこやつに括りつけて下さりませ」

 幸村は引かなかった。問答していても時間を食うだけだ。茜に染まる空はすぐに宵闇に溶けてしまう。とうとう折れた凛は、薬箱を馬にしっかりと括りつけた。幸村はあぶみに掛けていた足を離し、凛に足場を作ってやると手を取った。凛が力を入れるよりも、幸村の引き上げる力の方がある。跨った凛の脇から幸村の腕が伸び、手綱をしっかりと握りしめた。

「では、少々飛ばしまする…!」

 はっ、と幸村は馬の腹を蹴り、四半刻のうちに二人は宿へ到着した。
 宿はこじんまりとした民家風の宿だった。大きな母屋があり、その周りに宿舎用の離れが三棟ある。馬を厩舎に預けると、幸村は母屋へ入り主人をたずねた。広い土間の玄関には、大木を輪切りにしたままの机と丸太の腰掛けがあり、上り口の板の間には番台がある。恐らく部屋の札であろう板切れがいくつも下がっていた。
 幸村が「たのもう!」と声をかけると、小柄で頭が薄く禿げた主人が奥から出てきた。出迎えた声色からして、到着が遅いことを心配していた様子だ。早速部屋へ案内してくれるという。それぞれに部屋が用意されているとは何とも破格の待遇だった。
 夕餉は、凛と幸村は共に取った。囲炉裏を囲んで、川魚の焼き物や山菜のおひたし、汁物、麦飯が出てくる。盆に乗せられた徳利が今だ手のつけられていないことに気づき、凛は酌をしようと手に取ったが、断られてしまった。

「某、あまり酒は。苦手でござるのだ。申し訳ござらん」
「いいえ」
「凛殿には某が。どうぞ、猪口を出されよ」
「真田様自らとは…」
「良いのでござる。長旅に付きあわせておりますゆえ」
「重ね重ねかたじけのう存じます」

 波々と注がれた猪口に凛は口を付けた。眼前では幸村が嬉しそうに笑っている。二杯目の汁を自身でよそった幸村は、ずずずっと勢いよくかきこんでいた。
 廊下では客の相手、片付けと、厨房からの声を受け、女給が忙しく行ったり来たりを繰り返している。その喧騒に耳を傾け、湯のみをコトリと囲炉裏の縁に置いた幸村は、思い出したかのように凛にたずねた。

「そういえば…、某は、今だ凛殿のお郷を聞いていなかったでござる。生まれは何処にござろう。あ…、いや、差し支えなければ、だが」

 困ったような笑みを浮かべた幸村は頭の後ろをかいた。

「わたくし、生まれは…大和国にございます」
「おお。大和と。また随分遠くから旅されてきたのでござるな」
「はい」
「いつから、薬を学ばれておるのだろうか」
「それは…、物心ついた時から、でございましょうか。いつの間にか手ほどきを受けて…おりました」
「大したものでござる。同じ頃の某は、鍛錬ばかりに明け暮れる毎日でござりました!あ、今もそうかわりませぬ」

 凛はくすりと口元に笑みを乗せた。茶をすすり、湯のみを傾けていた幸村は、何故かぴたりと動きを止め、凛をまじまじと眺めている。首を傾げると幸村の口元からは茶がひたひたと溢れていた。茶は入れたばかりだった。零れたものは幸村の太ももに伝わりまだ僅かに湯気が上がっている。間違いなく熱いはずだ。
 手元にあったふきんを取り、凛は甲斐甲斐しくにじり寄った。

「真田様、お茶が…。お熱くございましょう」
「あ、ああ!申し訳ござらん!!なんと童のようなことをっ!!おおお館様あああ叱って下されええええ!!!」
「真田様、落ち着かれてください。お召し物が」

 騒ぎを聴きつけ、年配の女給が慌ててやってきた。床を拭く彼女に、幸村は何度も謝っている。母親のようにして女給は言った。

「まあまあ真田様、早くお風呂に行きなさいな。ほら、そちらのお嬢さんも。この宿は温泉が自慢なんですよ」

 女給が後は任せてと言うので、凛は幸村と別れた後、方方に並べられた行燈を頼りに浴場へとやってきた。
 着物を脱ぎ、肌にお湯を流し岩風呂の湯船にとぷんと肩まで浸かった。黒い水面には傾いた月がゆがんでいる。漂うそれをぼんやりと眺めながら、一日を思い返した。
 真田幸村という人物は本当に裏表の無い、真っ直ぐな、いいや真っ直ぐ過ぎる竹を割ったような青年である。凛のような忍にはすぐにころっと騙されてしまうに違いない。いや既にそうであるのかもしれないが故に、猿飛佐助の様な鼻の効く人間が付き従っているのだろう。存外、武田信玄に近づくには幸村の近くに居る方が疑われずに済むのではと考えた。猿飛佐助も幸村の信じる者に、そうそう見境無しに手出しもしない筈である。
 数日のうちにいよいよ甲斐へ到着する。任の下準備には、忍としての血が騒いでいるらしい。職業病だ。あと少し、あと少しと逸る気持ちを落ち着かせ、凛は鼻まで湯に沈んだ。
 壁一枚隔てた浴場では、幸村がまたもや一人驚嘆の声を上げていた。今度はどうしたのだと耳をそばだててみると、浴場に蛙が出たらしい。
 「こら、お主待たれよ!」とか「茹で蛙になるぞ!」と必至に捕まえ、外へ出そうとしている。本当にこの群雄割拠を進む武人なのかすら疑わしい青年だ。
 壁に向けていた顔を正面に戻す時、凛は肩にある、火傷の跡が視界に入った。まるで烙印の如くついた、親指大程の丸い輪の形をした火傷である。
 幸村に、生まれを尋ねられた時、凛は何故、本当の事を口にしてしまったのかと、生まれは大和国であると正直に言った自分に驚いていた。つい、口に出てしまっていたのだ。
 豊臣に仕える以前の、里に送られるよりも前の古い記憶を呼び覚ませば、どうも気が滅入る。湯をすくい、ざぶざぶと顔を洗った凛は、風呂を出た。その夜は早く就寝した。

 翌日宿を出る際、主人は二人に麦飯のおむすびを竹の皮に包んでくれた。二人は、宿の者に礼を言い、再び甲斐への道を辿った。
 幸村は、己のせいで予定が遅れていると言い、昨日同様凛を馬に乗せた。だが馬は駆ける事無くぽくぽくと緩やかに進む。それでも人の歩みに比べれば速い。次第に峠越えの道へと差し掛かろうとしていた。が、どうも風が吹き始め、湿り気を帯びた土の匂いが押し寄せている。雨の降る前触れだ。
 幸村も、凛の後方で空を仰いでいた。一雨来そうでござるな…と、心配そうに呟いている。厚い雲も稲光を閉じ込めてはいるものの、突き破り地へ届いた瞬間から驟雨に変わるだろう。

「雨宿りの場所を見つけませんとな」

 後ろから幸村は凛に言うが、手綱を握る幸村の手は、先程よりも力が入っているように見受けられた。凛は鞍のでっぱりをしっかり掴みながら、周囲にそっと周囲を伺った。どうも雨の予兆に混じり、嫌な気配がある。身を隠し、明らかに幸村と凛をつけている者たちがいる。
 恐らく幸村はその気配に気づいているが、一介の薬売りである凛に、悟られまいと平静を装っている。
 凛が把握出来る気配だけでも、凡そ二十はあった。明らかに真田忍隊ではなかった。殺気を含んでいる。こんなにも大勢の刺客を放つとは、余程の大家だろう。幸村もとうとう危ういと思ったのか、凛の耳元にそっと顔を寄せた。

「凛殿、落ち着いて聞いてくだされ。どうやら、某たちは何者かに付け狙われている様子にございます。某が、馬を飛び降りたら、この馬の腹を思いっきり蹴ってくだされ」

 凛は思わず振り向いた。幸村はたったひとりで相手をしようと言うのだ。

「真田様…」
「大丈夫でござる。某の馬は駿馬にござります故」
「いいえ、置いて一人駆けるなど」
「この道は真っ直ぐに躑躅ヶ崎館に続いておりまする。館に着きましたなら、お館様にこの事をお知らせくだされ」

 途端、何かが馬上の二人を目掛けて飛んできた。幸村はさっと槍を抜き、それらを見事に弾き返した。地面に落ちたのは、くないだ。やはり忍だ。馬を下りた幸村は堂々名乗った。

「何をこそこそしておられるか!某真田源次郎幸村がお相手致す!どこの手の者か、姿を見せられよ!」

 幸村の怒声に、木々の間から黒装束の忍がわらわらと姿を表した。幸村は凛に背を向け槍を構えると群れた忍に向かって突っ込んだ。

「凛殿っ!!走られよ!お館さまに、お伝えくだされえええ!!」

 跳躍した幸村は垂直に槍を地面に突き刺し、勢いをつけて蟻のようにし襲い来る忍を蹴散らした。それでも二撃、三撃と攻撃は繰り返される。凛は何故だかこの場を離れられなかった。槍を振り回す幸村は、凛がまだこの場に居る事に怒りを露わにした。

「何をして居られるのか!!!凛殿!!早く走れっ!!」

 地には斑模様がつき始めた。とうとう降りだした。雨が白い線のように視界を阻む中、多勢の忍らは四方八方より飛び道具で攻撃を仕掛けてくる。加速する切っ先は幸村の間合いに幾度も入っていた。敵の忍の目的は幸村ただ一人のようだった。凛は恐れて身動きすら取れないと思われているらしい。だが、忍の扱う道具類のいろはは、凛には手に取るように分かる。多段多重の攻撃が効かねば、次は毒を使ってくるだろう。
 幸村と対峙する敵の忍が静かに呟いていた。

「持っている書状を寄越せ」
「何の事を言っておられるのか」
「とぼけるな。真田昌幸の息子。預かった書状を渡せと言っている」
「そのような書状知らぬわあ!!某は名乗ったのだ!貴殿らも名乗られよ!!」

 その時、凛の背後に二人の忍の気配がすっと降り立った。気づいた時には遅かった。拘束された凛は幸村の正面に連れてこられると背を抑えつけられ、剥き出しの首に直刃を当てられていた。鈍色に光るそれからは附子独特の毒気の臭いが発せられている。凛はされるがまま大人しくしていた。

「この女、今に殺ってしまうぞ。槍を置け、書状を差し出せ!」

 幸村は悔しそうに真一文字に口を結び、ゆっくりと槍を地面に置いた。すると幸村の真後ろに居た忍が、懐から短刀を取り出し幸村に襲いかからんとしていた。凛は咄嗟に敵忍の拘束からするりと抜け出すと、隠し持っていた煙玉を地面に叩きつけた。充満する煙に隠れ、凛は一人一人と静かに首元を裂く。幸村は突然の真っ白な状況に慌てながらも、眼前の忍の息の根を止め、凛の名を必死に叫んでいた。

「凛殿!急ぎ離れましょう!!」

 凛の手を握ったまま、幸村は愛馬まで走ると凛を抱きかかえた。放るように馬に乗せ、自身も跨り手綱を取った。利口な駿馬は全速力でこの場との距離を離してくれる。
 暫く走り、追手の気配が無い事を確認した幸村は、馬の速度を落とし始めた。

「あの突然の煙は一体何だったのだ。お陰で命拾いをしたでござるが…。正体不明の敵は混乱状態でござった」

 凛は平然とした調子で答えた。

「敵の忍の懐から何かがぽろっと落ちるのを見ておりました。それが地についた途端、白い煙が上がり、敵は慌てふためき、味方にも攻撃していた様子でございました」
「なんと、相打ちとは哀れな…。しかし、凛殿がご無事で何よりでござった。いいや、だがっ!某の頼みは聞き入れてもらわねば!気が気でなかったでござる!」
「…もうしわけ、ございません」
「すまぬ…。大きな声を出してしまいもうした」

 その後まばらに降っていた雨はすっかり上がった。急襲こそ合ったが、以降は順調な旅路となり、ようやく二人は躑躅ヶ崎館の立派な屋根が見える場所まで来た。

「凛殿、あれがお館様の住まわれる ──」

 急に言葉が途切れ、凛は後ろを振り返った。手綱を握っていた幸村の体はぐらりと傾き、落馬した。凛は馬を止め考えるよりも先に幸村に駆け寄った。顔が青く、唇は紫色だ。不規則で苦しそうな呼吸をしている。恐らく、白煙の中の混戦で敵の刃がどこぞにあたってしまったのだ。附子はその臭いを嗅いだだけでも、重症になる人間も居る。凛は慌てていた。

「真田様…っ!真田様!しっかりなさいませ!」
「凛…殿…。武士として情けないでござるが、某、少々疲れてしまったようでござる…しばし、休みたい…」
「今、館へお連れします…、お気をしっかり!」

 凛は、幸村を抱え再び馬に乗せると手綱を引き館まで駆けた。