第一章 秋の章
05 旅の薬屋さん
お宿菊屋は、城下の東の更に端にあった。上田城からは大人の足で四半刻ほどの所で、人通りの少ない場所だ。その通りに立ち並ぶ店は、廃れた小間物屋と、いつも人の居ない蕎麦屋があるだけで、残りは民家である。周辺に暮らすは老人と浪人ばかりだった。
何故凛がそのような場所に宿を取っているのかといえば、この菊屋、商売上は温泉の出る安宿を銘打っているが、実は豊臣に縁のある者が主人なのだ。しかし、主人は間諜ではない。情報を売ったり買ったりする場所を提供する宿として知っている者は知っているという宿、なのである。
半兵衛は前もって凛が滞在することを主人に告げていた。大阪との仲介役を頼む代わりに、報酬を支払う約束を取り付けているのだ。菊屋の主人も、自身の生活があるので危ない橋は絶対に渡らない。誰かを尾行したりだとか、毒を盛ったりだとか直接的な関与はなく、手紙のやり取りを請け負ったり、荷の受け取り代行をしたりと、要は緩衝役を買ってくれるのがこの菊屋だった。
濃い青紫色に、菊水紋が白抜きされた暖簾をくぐると、人の良さそうな顔をして主人が出迎えた。裏稼業のお陰か、でっぷりとした腹を携え、仕立ての良い上品な紬の着物を身につけていた。
「お待ち申し上げておりました。昨晩は、城へお泊りになられたんだとか…」
「はい…。あまり眠れなかったもので、暫く休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「かしこまりました。お部屋までご案内しましょう」
腰を低くしたまま、主人は凛を二階の角部屋へ案内した。眺めの良い部屋からは、長屋の屋根の連なりを見下ろし、瓦の敷き詰められた先には上田城がよく見えた。
部屋の戸をすべて開け、適当な場所に荷を下ろし、凛は窓枠に寄りかかって暫く外を眺めていた。いつの間にやら主人が茶を入れてくれたらしい。その脇には、一通の文が静かに置かれた。
「それでは、ごゆっくり。ああ、そうそう。城下の中心は夜も明るくございますので一人歩きは大丈夫でしょうが、この辺りはごろつきどもがうろうろしております故、夜道はくれぐれもお気をつけなさいませ」
凛は頬杖をついたまま、上の空で返事をした。階段の軋みを確認すると、視線を室内に戻し手紙に手を伸ばした。やはり半兵衛からだ。
内容は、西南方向への進軍についてだった。毛利を上手く取り込めたこと、そして関東進軍の前哨戦として、九州征伐へいよいよ駒を進めるらしい。大家毛利家の助力を得られた事は非常に大きいので、そちらは心配ないだろう。
凛は筆を取ると、昨晩盗み聞きした真田昌幸、高坂昌信、内藤昌豊の三人の話を簡潔にしたため、早速菊屋の主人へ預けた。伊達政宗にまで家康が接触していることを伝えれば、半兵衛から指示があるに違いない。
暫く凛は大阪に情報を流さねばと考えていた。間違いなく家康の同盟計画の鍵、いや東山道に通じる全ての歯車と噛み合うのは武田信玄だ。取り敢えずは真田昌幸の出方次第なので、同盟が成るまでの猶予はある。首は一刻も早く討ちたいが焦りは禁物だ。
凛は座敷に寝転がり、頭の後ろで手を組み考えた。やはり、町へ出ないことには始まらない。数日の内に薬屋稼業に勤しむことにした。
凛は城下の配置や、地形等々を密かに調べながら、薬を売り始めた。
商売に借りた場所は、賑わう商店の通り、その突き当りの柳の下だ。背には堀を挟み、頑丈な石垣と上田城の櫓がある。堀沿いの道に筵を引き、朝から夕まで座り行き交う人を眺めていた。
一応は「薬」と書かれた板切れを店先に掲げてはいるものの、やはり余所者だからか、町の人間には遠巻きにされている。人通りは多いにも関わらず、広げた商品を覗く者は滅多に居ない。城下の人間が皆健康であるのかもしれないが、閑古鳥が鳴いていた。本分は違うので腹が痛まないが、世間話ついでに情報を集めようとの魂胆は外れてしまっている。
頭を悩ませながら、座り続けること早幾日。まんじりともせぬ状況にどうしたものかと打開策を考えていると、その日凛は、いつもと違う通りの光景に遭遇した。
路地の隙間から見覚えのある後ろ姿を見つけたのだ。
淡い紅の着物に、濃い茶色の袴を着た青年は、辺りをきょろきょろと伺い、とある店に視線が釘付けになっている。本人は行き交う人々に気づかれていないとでも思っているのだろうか、いや、周りは明らかに気づいている様子だが、町の人々は知らぬ振りを通して、温かく見守っている。── そんな風に見受けられた。
挙動不審な青年は、何を隠そう上田城主の息子、真田幸村だ。城を抜けだし何をやっているのだろうかと凛は暫く観察していた。
幸村は、前後左右を今一度確認すると、甘い匂いとせいろの蒸気が漏れ出る店を目掛け、たたたっと小走りに駆けて行った。店の女将と楽しげに会話を弾ませ、竹の包みを受け取ると満面の笑みで礼を言い、その場を離れた。
幸村は凛の方へと向かって来ていた。包みから一本団子を取り出すと、大きな口を開け、齧り付こうとしたその瞬間、ぱちりと真正面の凛と目があった。
団子を買って食べている。ただそれだけの事なのだが、今にも汗を吹き出さんばかりに幸村は血相を変えて、凛の所まで駆けて来た。
「凛殿…っ!!」
「真田様、お久しぶりにございます。ご機嫌いかがでございましょうか」
「ま、ま、ま、まってくだされ、凛殿っ、そ、某はその!」
「はい…?」
筵に膝を付いていた幸村は、凛にずいとにじり寄った。
「わ、笑いは…せぬのか…?」
「何を、笑うのですか」
「い、いや…、男が、武士が、甘味好きであると言うこと、にござる…」
「笑いません。お好きでしたら、召しあがれば良いかと」
今に何を言われるかと、強張っていた幸村は安堵の溜息を付き、凛の正面に座り込んだ。一応は店先なのだが、客は来ないので構わなかった。
「うむ、俺は団子が好物だ!凛殿もいかがでござろう!」
幸村が開いた包みを見て凛は驚いた。二十本はあるだろうその団子の数に思わず胃が持ち上がりそうになる。これを一人で食べるつもりなのだろうか。だとすれば生来の甘味好きだ。幸村はなおもずいと包みを差し出し凛に食えと言った。申し出を断るのも人目がある。凛は一本取った。
「ありがたく、いただきます」
幸村は、ようやく店先だと気がついたらしい。凛の後ろに回ると、籐の腰掛けに腰を下ろした。緩やかに風が吹き、柳は大きくなびいている。一本また一本と団子を消化しつつ、幸村は木陰からじいっと通りを眺めていた。
向かって左手は醤油屋、その奥は乾物屋、向かいが金物屋、呉服屋、小間物屋…延々と大店が続いている。幸村は立派な暖簾幕に出入りする商人や客に目を凝らしていた。次第に凛は背にひしひしと視線を感じ始め、落ち着かなかった。
「真田様」
「何でござろう?」
「このような場所で油を売っていてもよろしいのですか」
「ま、まあ…佐助に見つかればまたどやされてしまうが…。しかし、本日の執務は全て終えたゆえ!しかし、凛殿、客はなかなか来ないでござるな…」
「商いというのは中々難しいものでございますれば。それに、こちらに店を構え、まだ数日でございますので」
「そうか…、難しいものだ。根気のいる。凛殿の薬は大層効くというのに」
「真田様にそのように言って頂けますと嬉しい限りにございます」
「まことだ!某も怪我をしてしまったなら、凛殿の薬を使わせて頂きたい」
振り向いた凛に、にっこりと笑った幸村は、また一本串をつまみ上げ食らいついていた。
幸村は襟足が長い。先ほどの風のせいか、しなる柳の枝にそれらが僅かばかり絡まっていた。凛は目についたが、自身で気付くだろうと思い何も言わなかった。
空が茜に染まり始め、通りは徐々に店じまいの準備に取り掛かっている。今日も薬は売れず、人に話も聞けなかった。結局、幸村は包みの全てを平らげるまで腰掛けに座っていた。半ば店番をさせてしまったような気分にもなり、流石に凛は頭を下げた。
「真田様、夕刻までお付き合いさせてしまったようで申し訳ございませぬ。どうぞ、急ぎお城へ帰られませ」
「いいや、某もたまにはこうして眺めていたかっただけだ。気にしないでくだされ。しかし ──」
言葉が続かない幸村を不思議に思い、凛は顔を上げた。真剣な表情で腕を組み、唸っている。
「某も毎日鍛錬に耐えては居るが、民も日々こうして忍耐し商いをしているのだな…」
幸村の呟きを背に受けつつ、凛はいそいそと薬箱に商品を仕舞い始めた。いつもなら、薬の種別に丁寧に紙に包んで箱に入れるが、今日はそれをしなかった。次から次へと放るように入れ、一刻も早く離れたい気持ちで筵も手早く巻いた。全ての荷を抱えると、凛はすっくと立ち上がった。
急に忙しくなったのを見て、幸村は目を瞬いていた。
「真田様、お先に失礼いたします」
「本日もご苦労でござった!凛殿は、明日も参られるのであろう?」
「左様にございます」
「励んで下され!」
「ありがとう存じます」
礼をし、凛は幸村を残したまま宿への道を辿った。東方向へ進んでいると、薄闇の追いつきが早かった。提灯に火をつけた凛の足取りは何故か重く、菊屋まで少々時を要した。
凛は、主人への挨拶もそぞろに部屋に上がるとたちまち横になった。幸村が始終背後に居たからか、かなりくたびれていた。一日中監視に合っていた気分だ。
幸村は大量の団子を口に詰め、路地を眺めやっては民の心配をする。正直、片腹痛かった。
寝返りをうち、頬を畳につけるとささくれた い草がぴょんと上に跳ねているのが目に入る。凛は手のひらで押し付け、いつの間にか瞼を閉じていた。
再び目が覚めた時には、とうに夜更けが近かった。起き上がると部屋には明かりが燈され、入口付近には握り飯と汁、そして手紙の乗った盆が置いてあった。夕食は主人、手紙は半兵衛だろう。大阪とのやり取りは日に日に密度を増している。
中を開くと上田城下の詳細を日々送るようにとの指示と、引き続き真田昌幸の監視を怠るなという命、また伊達政宗は放っておいて良いという返答だった。曰く、伊達政宗は他人に頭を垂れるような人間では無いらしい。我が道を行くので無用の心配だと半兵衛は寄越した。
凛は早速、ここ数日で調べた城下の詳細を地図に記し、返書を書いて主人に預けた。
翌日も凛は薬を売った。潜伏任務は毎度長期に渡るのは覚悟の上だが、何故か上田での滞在は酷く落ち着かなかった。或いは、真田昌幸と武田家家臣の思案そのものが横木となるだけの、不安定な抑止力に原因があるとも考えたが、いかなる状況にあっても動じないのが忍だ。どっしりと構え、時期を見極めなければ、信玄に近づくことすらままならない。
気を取り直し、凛はいつもの定位置に腰を降ろした。すると手元に影が落ちていた。顔をあげると、中年の女性が腰をかがめて立っていた。
「旅の薬屋さんというのはあんたかい?」
「はい…、左様でございます」
「うちの人が風邪を引いちまってねえ、いい薬があれば貰いたいんだ」
初めての客だった。女性は巾着をひっくり返し、手のひらに金子を広げた。
「これで、足りるかい?」
「はい。大丈夫です」
「よかった、よかった」
凛は症状を聴き、袋に薬包を金額分入れて渡した。受け取る際、女性がもたつくので、気になった凛は手に持つそれは何かとたずねた。右手には何やら紙を握りしめていたのだ。
「ああ、これかい?これ、幸村様が見回りの時に配っていらしてね。村で貰ったんだよ」
何の話かまったく分からず、凛はその紙を見せてもらった。中に書かれた文言は勢いある字で
「旅の薬屋、城下に見参。傷、風邪、病はなんでもござれ」とある。凛は驚いた。
「これを…真田様が…」
「あたしゃそれで訪ねてきたのさ。何でもあんた、兵士を助けてくれたそうじゃないか。幸村様はそうおっしゃっていたよ」
「その、成り行きで…」
「ありがとうね。暫くは上田に居るんだろう?また何かあったら頼むよ」
そう言って、女性は緩く手を振って城下を離れていった。
凛は狼狽えた。こうも大々的に旅の薬屋が知れ渡ってしまえば、潜伏に意味は全くなくなってしまう。隠密行動も取り辛い。凛が望むのは町に溶け込み、濃くもなく薄くもなく人々の記憶に残らない、残っても思い出せない位の存在感なのだ。やはり道中の負傷兵は放っておくべきだったと思うも、今更詮無いことである。
頭を抱える一方で、幸村が何故触れて回っているのかも甚だ疑問だ。昨日、全く客が来なかった凛を余程不憫に思ったのだろうか。余計なことを…と、お節介に歯ぎしりする思いだったが、また客がやってきた。畑仕事中に転倒したらしい。打ち身に効く薬はないかと聞いてくる。凛は笑顔を貼り付けて適当な薬を処方した。
その後も客が絶えず訪れた。真田家ご子息の振れ回りだ。信用できる薬屋だと伝われば、一度は訪れてみようと思うのが人である。凛はすでにお墨付きの旅の薬屋さんなのだ。
まずいことになってしまった。凛は筵だけになった道端の店にぽつねんと佇み、夕焼けの中に居た。今日は帰りの荷は軽いが、先を考えれば気分は重い。薬箱を背負い、菊屋へ向かおうとした。その時、底抜けに明るく凛の名を呼ぶ声がある。幸村だ。
振り向くと、今日の幸村は戦装束で、馬を引き連れていた。跨がらないのは町中だからだろう。大きく腕を振り、深々と頭を下げる凛の正面にやってきた。
「凛殿、今日の客はいかがでござろう?」
「真田様、あの…。誠にありがとうございました。お越しになるお客人は皆一様に、同じ紙を持っておりました…。真田様から頂いたのだ、と」
「左様。某、兵を助けていただいた礼がまだだったのを思い出したのだ。何か金品でもと思ったのだが…、生憎城を建てたばかりで、お出し出来る物が無かったのでござる!」
幸村は腹から笑っていた。
「それで、これなら凛殿も長く上田で商売ができると思ったのだ。無論、その薬の効き目は、某がこの目で見ておりまする!」
「かたじけのう…存じます…」
「某の領民たちに少しでも、良い薬をわけて下され」
「かしこまりまして、ございます…。それでは、これにて」
凛は頭を下げると、幸村に背を向け急くようにその場を後にした。言いたいことは山程あった、筈だった。施しを受ける気はないとか、お手を煩わせるので結構だとか、考えていた言葉はそれなりにあったのだが、真田幸村を前にするとどうも調子が狂っていた。
夜、菊屋へ戻った凛は大阪への報告に筆を走らせた。机には皿燭台を乗せ灯りを取る。その日あったことはどんな些細な事でも、凛の見たままを書くことにしていた。さすれば半兵衛も、上田の雰囲気を知ることが出来、指示や対処をくれるからだ。
── 朝は盆地故、相変わらず城下は濃霧に覆われる。日の出とともに分散した霧の中から人々が活動を始め、城下の関所ではこの時交代がある。町中の食事処は城下で一番に店を開け、人夫が朝食に訪れる。その者らは本日堀の掃除に駆りだされていた。小舟に乗って長い棒きれと網で底を掬う。しばらくすると、城務めの武士らが登城し、政務が始まる。真田幸村は今日一日、領内の見回りで城を空けていた。今日も堀沿いに座り薬を売り、客もあった ──
凛からの報告を読み終わった半兵衛は縁側で庭を眺めていた。夕刻になり、近頃は一層冷え込みが増している。銀杏は黄色い葉を数枚残し、寒そうに枝を揺らしていた。今一度、凛の筆跡を眺めてみる。初日、二日目、三日目…、内容はいつも詳細で軍を出したなら今直ぐにでも包囲網を張れるくらいにはほぼ上田の地理は把握できるまでになった。しかし、今回どうしても解せないのは、真田幸村の一日についてだ。領内の見回りの内容が殆ど記されていなかった。凛ほどの忍なら、町人などから容易く聞き出すことも出来る気もするが、半兵衛の考えすぎだろうか。
これまで細かすぎる程の報告に笑みも浮かんだが、何故かその部分だけの荒削りな様が妙だ。
顎に手を当て、思案していると廊下が軋んだ。現れたのは島左近だ。頬は若干上気し、酒臭い。
「まだ、早いんじゃないのかい」
「いやあ、ちょっと賭けに勝っちまったもんで。早々に…って、あ、凛ですかい?半兵衛様」
「そ。上手くやってくれてるみたいだよ」
「あいつ心配なんすよね」
湯のみを口に運んでいた半兵衛は「なんで?」と左近に問いただした。
「あいつ全然っ、慣れてないんすよ。なんつーか、こう仲間意識っつーか、そういうのが」
「それがどう関係あるって言うんだい」
「だって、あいつあっちで傷兵助けたんでしょう。武田は熱いっすよまじで」
半兵衛は一口茶を含んだ。茶葉を入れすぎたのか、以外に渋みが強かった。
「凛は、忍だよ。いつもそういうのは…相手にしないんだ」
だといいんですけどねえ。と言って左近はそのまま高鼾をかきはじめた。また三成に怒られるに違いない。半兵衛は黙ってやることにして、凛へ返書をと部屋に引っ込み筆を持った。
どう過ごしているかと問えば、凛は困るだろうと思いながら、必要な事柄だけを箇条書きにした ──