第一章 秋の章
04 屋根下の灯
早朝に出立した一行は、山を二つほど越え峠を下り、ようやく上田城下が望める場所へ到着した。ここは盆地の間にある丘陵地だ。
三方ヶ峰を始めとした峻嶮な山々が起伏激しく稜線を形取り、それを背景に、上田城は千曲川とその支流を外堀として上手く利用し、窪みの平たい土地に建てられていた。城の落成がつい最近なだけあり、二の丸や、櫓の壁の漆喰は真新しく、その乳白色は夕焼けをまともに吸っている。
城下の道道には、大八車を引く人やてんびん、籠を背負った人、また地下足袋に法被姿の人夫らが城下の方から放射状に散っていくのが見えた。今日の仕事を終え、帰宅の途についているのだ。羽織袴の城勤めらしき武士も足早に歩いている。各所では煮炊きの煙が空へ立ち上り、温かな匂いが風に乗っている。丘から眺める城下は整然としていながらも、孕む熱があった。活気に満ちた町だった。
幸村の部下たちは、やっとの思いで着いた故郷を眺め感慨に浸っている様子だ。鼻をすする音も聞こえ、幸村は「城まであと少しでござる!」と声を弾ませ、丘を下った。
赤拵えご一行の帰還とあっては、城下へ入った途端、沿道に出迎えの民らが集った。歓声が投げられ、兵らは人だかりの中に妻子が居ないか、必死に目を凝らしていた。
凛はなるべく頭巾を深く被り、俯き加減で兵らの間に身を寄せつつ歩いた。大手門の門番は、今にも涙ぐむような声で「お帰りなさいませ」と言い膝をついた。幸村は堂々と声を張った。
「真田源次郎幸村!ただいま帰還致し申した!川中島にて流れた者も皆、無事にございまするっ!!」
声に驚き、城内からも女中、下男、家臣らがこぞって出てくると幸村の帰りを喜んだ。
そこへすっと忍が音なく降り立った。凛は、事前に調べていた。彼は真田忍隊の、猿飛佐助という。真田幸村の従者、いや目付役といったところだ。信玄と幸村との連絡を密に取っているのも佐助であり、忍の間では少々名のしれた人物だった。
膝を付き頭を垂れるも、その神経の張り様に凛は思わず身構えてしまった。
「お帰り、旦那」
「帰ったぞ佐助。すまなかったな。して、お館様は」
「うん。実は、少し疲れてる様子だったから、少し前に躑躅ヶ崎館へ戻って貰った。悪いね旦那、俺が勧めちゃった」
「なんと…っ、お館様は臥されるということではなかろうな!」
「大丈夫だよ。本当、ただの疲れだから」
城へ入れただけでも良しとすべきだが、武田信玄に相まみえると思っていたばかりに、入れ違いになったのは非常に口惜しい。凛は無駄足を踏んだと気落ちした。
幸村も大層肩を落としている。戦後大将に会えないその気持ちも分からなくは無いが、項垂れる様子を見るに、幸村にとっての信玄は父のように慕う人物なのだろう。
「そうか…。お会い出来なかったのは残念だが…。しかしお館様の御身第一!よくやってくれた、佐助」
「いいえ、どーいたしまして。ところで、さっきから気になってたんだけど、そちらさんは?」
凛は、確実に話題が移ると確信していたが、この忍は隙をわざと作っていた。へらっと人好きの良さそうな笑みを携え、気を抜いているようで試す。素性の知れない人間への隙は寸分も無かった。
それでも凛は、躊躇うこと無く頭巾を取り、深々と頭を下げた。一行を取り囲む出迎えの使用人も、あの女は誰だと互いに囁き合っている。
「お初にお目に掛かります。私は薬売りの、凛と申します。今回真田様とご縁がございまして、このように上田までお伴させていただいた次第にございます」
すると、幸村は嬉しそうに付け加えた。皆に聞こえる声を出した。
「皆、聞いてくれ。凛殿は、この者たちの怪我を診てくれた恩人だ。暫くは上田で商いをすると言うので、無理を言って供を頼んだのだ。客人故、皆よろしくお頼み申す」
幸村の答えに、不安に駆られていた城の人間は胸を撫で下ろした様子だ。幸村は他人を真っ向から疑わないので不安は無いのかもしれないが、城の人間にとっては、日常に異質な物が入り込めばそれはもう気の休まるどころでは無くなる。
幸村は、出迎えた者に仕事の手を止めた詫びを言い、持ち場に戻らせた。女中の幼い娘などは幸村に小さな手を振り、真っ赤な襷を揺らし去っていく。幸村はそれに大きく振って返していた。
「さっ、旦那。帰って早々悪いんだけど、昌幸様のところに行こう。他は、医務室行ってね。頼んであるから」
佐助の言葉に将兵らは一礼し、凛にも「世話になり申した」と告げると、揃って同じ方角へ進んで行った。凛は彼らの背にお辞儀をし見送った。
顔を上げると、幸村は凛に満面の笑みで言った。
「お父上にご挨拶申し上げまする!」
連れて来られたのは、真田家現当主、真田昌幸の自室だ。
城のなりは大層立派なものだが、昌幸自身の部屋は実に質素な部屋だ。茶室同然である。床の間には掛け軸と、花器には紅葉した楓の枝が一本、水面に葉を落としていた。物らしい物が一つもない。或いはこの部屋は客人のための自室であるのかもしれない。佐助の目に止まらぬように、凛はなるべく自然を装い、視線の届く範囲で部屋を観察した。
暫く、待っていると、昌幸は供を二人連れ現れた。
真田昌幸は頭を綺麗に剃り、口ひげを生やした小柄な壮年の男だった。枯草色の袷に絹の帯、そして濃い緑色の紋付羽織を身に着けている。戦の武具具足とは打って変わって実に渋い趣味だ。
また、幸村は若干童顔であるが、似ているところが一つも無い。真田昌幸の正室、幸村の母親は亡くなっていると聞いているが、幸村は恐らく母親似なのだろう。ともあれこの御仁こそが、復興を遂げた現真田家の基盤を固め、北条家を苛立たせるほどの世渡り上手な当主なのだ。一見すると一将兵と言われても疑わぬほどの風体で、どの辺が優れているのか皆目検討もつかない。とは言え人間外見だけで判断してはならないとは、凛自身にも言えることである。物静かで何を考えているか分からない人間こそ、意外に切れ者というのが世の常だ。
昌幸が入室と同時に、三人は頭を下げた。上座に座った昌幸は、薬売りのことを耳には挟んでいた様子だが、女とは思っては居なかったらしい。顔を上げさせた途端幸村と凛とを交互に見遣り、目を丸くしていた。
「なんだ、源次郎、嫁でも拾ってきたのかと思うたわ」
「ち、ち、父上っ!!!なんと失礼なことを申されまするか!!!此方の凛殿は、川に流れた者の傷の手当てを ──」
「分かっておる、聞いておる。冗談を言ってみたまでじゃ!はははは!」
兎に角、真田昌幸とは調子の良い人間だということだけは理解できた凛は、改めて名乗った。昌幸は、城下で良い商いができるといいなとさらりと触れただけで終わった。出自等聞かれると思い、適当な文句を考えていただけに拍子抜けである。
昌幸はそれよりも息子の無事の帰還が大層嬉しいらしく、話題は早速、今晩の宴会へと移ってしまった。鉄砲水に遭ったにも関わらず、流された物の全員の帰還は実に喜ばしいとのことだ。
「しかし父上、お館様がおりませぬ…」
「なに、信玄公に言われての事だ。帰ってきたら労をねぎらい、飲んで食ってよく寝ろと仰せつかっての」
「左様で、それならば安心致しました。近頃、お館様はお疲れのご様子にございますれば」
「そうよの…、色々あるからな…、まあそうお主が気にせぬことだ。また、信玄公に、己を磨けと鉄拳を食らわされるぞ」
昌幸はニヤリと意地悪く笑っていた。幸村は、顔を赤くして俯いている。何のことを言っているのか全く理解しなくても良い話なのかも知れないが、昌幸の「色々あるからな…」が凛はどうも引っかかった。やはり、徳川家康は既に行動に移しているのだろうか。此方が先に王手を掛けなければと少しばかり焦燥に駆られた。
思案している内、凛は幸村に声を掛けられていることに気づかなかった。油断していた凛に、幸村は、今夜の宴会は是非お越しくだされと言う。また、宿が決まっていないのであれば城に用意も出来るなどとのたまう始末だ。凛はたらいを頭に落とされたかのように目眩いがした。
「い、いいえ。下賤の者がお武家様とお食事など…、それから宿はすでに取っているのでございます。旅の途中、知人を伝って頼みましてございます」
昌幸が興味深げにどの宿かと問いただした。
「菊屋というお宿にございます」
「おうおう、菊屋さんか。端の方だの、良い宿じゃ。上田城下は住むも遊ぶも良い所ゆえ、ゆるりとして行かれよ」
「昌幸様より直々にお言葉賜り、恐悦至極にございます。ありがとう存じます」
「うむ、そんな訳でな、宴会まではまだ支度が掛かるゆえ、ほれ幸村、凛殿に城でも案内してやれ」
「はっ、かしこまりましてございます」
有無を言わせず、凛の膳は宴会に用意されてしまうこととなった。
幸村から城内の見どころを案内される内に、宴会の刻限は直ぐに訪れた。宴会場は二の丸大広間であるらしい。幸村に連れられ、出向くと、既に広間には大勢の家臣らで埋め尽くされていた。凛の席は勿論部屋の端である。だがその方が都合が良かった。
幸村と昌幸は上座に座り、その後方には先程の猿飛佐助が控えていた。入口に近いと何かと出入りがし易いが、真田家は佐助の他にも忍を使っていると聞いている。余り動き回れないのは少々痛いが、こうして城に入り、真田家の家臣らを見物できるのは儲けものだ。酒の席ほど人の善し悪しはより輪郭がはっきりする。現当主に不満がありそうな家臣に唾を付けておくのは有益だった。謀略に於ける人間観察は基本中である。
女中が次々と酒や料理を運び、酌を始めた。昌幸が音頭を取った瞬間から室内は乱痴気騒ぎとなった。着物を脱いで腹踊り、手ぬぐいとひょっとこお面に、ざるを取り出せばどじょうすくいの始まりである。あまりにも羽目をはずし過ぎる賑やかな様に、凛は料理の味もろくに分からなかった。豊臣の宴会でさえ、盆正月でも一緒に来なければこのような派手な騒ぎにはならない。一体何をどうしたら、腹から笑い大声を上げ歌うまでに至るのだろうか、それが甚だ疑問だった。
しかし凛は忍だ。笑顔を貼り付け、寄ってきたひょっとこ男の家臣に合わせて合いの手を入れる。家臣も気前よく凛の前で腰を振り踊った。暫く三味線に合わせ、手を叩いていると、不意に猿飛佐助が昌幸の側まで寄り、耳打ちしているのが目に入った。
昌幸は一度頷くと、今度は幸村に二言三言言った後に、一人席を立ち部屋を出て行ってしまった。
何だろうか…。気になった凛は、厠へ行く振りをして自身も座敷をそっと抜け出した。
さすが上田城と言った所だろうか、暗がりの廊下には誰がいつ通っても良いよう、等間隔に灯籠が置かれてあり足元を照らしていた。その廊下を、昌幸は一人ひたひたと足早に歩いていく。凛は気取られぬよう後を付けた。
昌幸は、夕刻に凛たちが呼ばれた部屋へと入った。中には人影が二人分障子に映っている。どうやら昌幸に客人であるらしいが、宴会の場に呼ぶでも無く、抜け出す程だ。込み入った話なのだろう。
廊下で聞いていては目立つので、凛は昼間、幸村に城内を案内された際「ここは、女中らの色々が置いてあるのだ!」とご丁寧にも紹介された納戸で拝借した上田城女中の着物にさっと着替え、隣の部屋に身を隠した。
壁にそっと耳を寄せると会話はまあまあ聞こえた。意外に薄い壁である。
「これは、夜分にすまぬな、昌幸殿…、宴会の途中に申し訳ござらん」
「お気になさらず。高坂殿と内藤殿が直々に甲斐よりお越しになるとは、何ぞかありましたか」
凛は手に汗握り、全身に震えが走った。
高坂とは高坂昌信、内藤とは内藤昌豊であり、武田信玄の家臣、いいや腹心だ。二人共武芸も達者ながら、戦の采配に於いては鋭い才覚を持つ者たちだ。高坂昌信はまだ年も若く、冷静沈着、容姿端麗であり、その色香を匂わすような風貌には男女問わず言い寄られていると聞く。内藤昌豊に至っては、信玄よりも幾らか歳を取った武将で、武田の副将とまで言われる敏腕軍略家だ。おまけに内藤の矢は五十間先の鷹まで落ちるとまで言わしめる程、弓の名手でもある。
そんな重臣らが夜に駆けてくるとはただ事では無い。凛は息を呑んだ。
「徳川家康殿のこと、昌幸殿のお耳には入っていますか?」
「そのことでございますか…。届いております。まさか、あの家康殿が豊臣と袂を分とうとは…。内藤殿はこのことをどうお考えで?」
「拙者にしてみれば、なるべくしてなったとしか言いようが御座らぬ。ただ、家康殿は先を読まれる。それ故、迂闊に接触は出来ぬ」
「とは、一体…」
内藤昌豊の口ぶりからすると、家康は、既に信玄へ書簡を送っているに違いなかった。だがこの腹心らは訝しんでいる様子だ。当然だろう。家康が豊臣を離れたからと言って、第三者から見ればその心が誠であるかどうかが重要である。仮に同盟がなったとしても、形ばかりのものでは済まされない。
家臣らの懐疑とそれへの思案を考えれば、まだ猶予はありそうだ。
昌幸の疑問には、高坂昌信が答えた。
「家康殿が今は豊臣を離れているとしても、つまりは将来的に彼自身が日ノ本を統べたいとそう思っているには違いないと我らは考えています。であるならば、同盟の発起人である家康殿に早い時期から従うのは、武田としては相応しくないと思うのです。現に、家康殿は伊達政宗殿にも、同盟の申し出を行っているのだとか…」
高坂昌信の言葉に凛は身の毛がよだった。確実に家康は豊臣を潰しに掛かっている。南北への侵攻計画の端々を知っている家康を、何故当時その場で仕留めなかったのかと、今更歯痒い思いだった。
尚も、昌信は凛々しい口調で続けた。
「僕は、お館様にこの日ノ本の長となって貰いたいのです── ですから武田家臣らは今だ唸っている。 そうだ、こちらをご覧ください」
僅かに紙の擦れる音がすると、昌幸が受け取ったらしい。ううん、と唸っていた。
「これは、家康殿が北条家に送った書状とその返書の写しです。とある筋より手に入れました…。やり取りは、所領安堵の約束を双方で交わしています。北条と徳川との同盟は近々成りますでしょう」
「ふむ…氏政殿も、歳を取られましたな…。領地は現状維持で妥協とは、何とも嘆かわしい」
「何を申されるか昌幸殿。そこは、喜ぶべきにござろう。貴殿の沼田領は真田家のものと、この書状で認めたも同然でござる」
「無論、それは喜ばしい事にございますが…。しかし、この書状から察するに家康殿は、大層熱を込めて他国他家に伺いを立てて居るのでしょうな。筆を見れば分かりますぞ。信玄公は何と仰せで?」
間があった。高坂昌信も、内藤昌豊も黙ったままだ。二人は、同盟にはあまり乗り気では無いのは既に分かっている。この様子だと、信玄は恐らく徳川家康との同盟には前向きなのだろう。
隣の部屋で布擦れの音がしたかと思えば、昌幸は急に慌てた様子になった。
「お二人とも、なりませぬぞ。顔を上げてくだされ」
「いいや、上げぬ。拙者らは、貴殿が長きに渡り北条との摩擦があるのは重々承知でござる。悪いとは思うておるが、それ合っての頼みだ。貴殿のお力添え無くしては、お館様に進言できぬのだ」
「昌幸殿。どうか、お館様に考えを改めてくださるよう、貴方様からも是非、お館様にお願いいただきたいのです」
「とは言うてものう…問題は幸村にございまするぞ。あやつは、わしがお館様のご意向に背くことを進言したと知れば、それはもう烈火の如く暴れ狂うに違いありませぬ」
「とは言え、幸村くんも、お館様の天下を望んでいるはず」
「それは違いないが…」
「元々、田沼の地は武田が貴殿に与えた土地でござる。お館様は、それにより、真田家が北条との確執に至ってしまったこと、やはりどこかで気にはされておるのだ。貴殿が、北条、徳川、武田の、この連合に異を唱えて下されば、きっと、お館様は踏みとどまって下さるに違いない」
凛は壁に身を寄せたまま、天井を見上げた。かなり状況は切迫している。兎に角、武田信玄の徳川同盟への参加は、どうやら真田昌幸に掛かっているようだ。しかし、予想だにしていなかった徳川と伊達の同盟は厄介である。成ってしまえば豊臣の勢力拡大は益々難儀なものとなる。こちらは早々に半兵衛へ知らせねばならない。急いで宿に行き、文を書くことが先決だ。
武田の重心、高坂昌信と内藤昌豊に平に頼まれれば、真田昌幸とて応じないわけには行かないだろう。凛は、少しは時が稼げそうだとほっと息を吐き、音なく部屋を離れた。
ところが、一歩出た瞬間、自身と似た気配を感じ取った。触れれば怪我では済まない様な、刺々しい気配…、猿飛佐助だ。
慌てた凛は、廊下の灯籠の前にさっとしゃがみ込み、灯りを一つ吹き消した。佐助の気配が次第に近くなる。そちら側へ背を向けていると、案の定声を掛けられた。
「あら、女中さん、どしたのそんなとこで。腹いた?」
「いいえ、灯籠の火が消えているのに気が付きまして、再度灯そうかと」
「あーそう、ところで、女の人見かけなかった?」
「女の…?さあ…、お見かけしませんが」
「っかしいなあ…まったく。ごめんごめん、あんがとー」
佐助は手を振ってその場を去った。辛うじて正体は見破られて居ないだろうが、猿飛佐助は嫌になるくらい鼻がよく利く男だ。気配が無くなり、息をついた凛は、高鳴りが落ち着かないまま着物を脱ぎ、再び大広間に戻った。
部屋の中はまだまだ熱が冷めやらない様子だ。
中座を断ろうかと考え、障子戸を開けた途端、幸村と鉢合わせをした。彼の胸辺りに額をぶつけ、よろけた凛は頭を下げた。
「おお、凛殿。そう、謝らないで下され。貴殿の姿が見えぬと思い、今、探しに行こうかと思っていたのでござる」
幸村を見上げつつ、凛は呑気な男だと内心吐いていた。
「申し訳ございません。厠に出て行ったは良いものの、お城は大変広うございますので、迷ってしまいました…」
「左様か、無事に広間に戻れて何より。遠慮せず、女中にものを尋ねて下され」
「ありがとう存じます。…ところで幸村様、重ねてご無礼を承知ではございますが、わたくし、そろそろお暇致しとうございます。宿に何も伝えておりませぬ故、菊屋のご主人は到着を待ち、暖簾を下げられぬのではないかと思いまして」
広間の賑わいは最高潮だった。家臣の一人が刀の切っ先に皿を乗せ、水平に保ちつつ片足で立っている。曲芸披露が始まっていた。喧騒に耳を傾けながら、俯いていた凛の顔を幸村は覗きこんでいた。眉を下げている。
「凛殿、どうも顔色が優れませぬぞ、具合が悪いのではござらぬか」
「いいえ」
「菊屋の主人には遣いを出す故、今晩は城で休まれよ」
「あ、いいえ…」
凛の答えを聞く間も無く、幸村は誰か居らぬかと暗闇に声を投げた。すると凛の背後に、さっと舞い降りる影がある。同業者だ。やはり、猿飛佐助の他にも幾多の忍を抱えている。こんな所で一夜を過ごせば休息どころか余計に疲労がたまる。
尚も断ろうとする凛に、幸村は遠慮をしているものと思い込んでいるらしい。結局忍が一人、宿の菊屋へ発ってしまった。眼前の幸村は大層満足気な笑みを向けた。
「困ったときは、お互い様、でござる!」
凛はその晩、一睡もできずに夜を明かした。