第一章 秋の章
02 従順と情
前日の豪雨が嘘のように、青く澄み渡った空には高々と鳶が環を描き飛んでいる。田圃が延々と続く平野は、一面に金色の稲穂が敷き詰められ、重たそうに風になびいていた。その間に通るあぜ道を、凛は旅装し、背には薬箱を抱え歩いていた。扮するは旅の薬売りだ。誰も凛が忍とは思わないだろう。
半兵衛の元を離れてから、既に五十里ほど歩いていた。凛の目的地は信濃国だ。
信濃は、北は越後上杉、常陸佐竹、東には相模北条、南には三河徳川、そして西には畿内一帯を治める豊臣── といった強国の大名に囲まれ、長きに渡り四方八方から圧力が掛かる土地柄だ。
数ある領地、その領主は大家の庇護下であったり、支配圏に入っている。代々、各所に上手く伺いを立てて世を渡り、盆地に身を寄せ合って己が民を守っていた。
特に、武田、北条は、この信濃、上野辺りに多くの家臣を持っていた。領地を持つ家臣が多ければ多いほど、行軍に協力を得られより戦を有利に進めることができる。信玄が甲斐から川中島まで幾度も縦断できるのも、勢力を拡大し、地盤を固めているが故だ。
ひとつの大名によって統治されているのではなく、周辺強国の拮抗により均衡が保たれている土地、逆に言えば、一本でも支柱を倒せば、たちまちあちこちで火の粉が舞う。それが信濃の国である。
そして半兵衛は先を読み、この地に目を付けたのだった。
家康が秀吉の元を去り、秀吉が小田原へ挙兵せんと支度をするのと同じく、家康もまた北条家とすぐさま同盟を結ぶだろうと睨んでいた。そうなればいよいよ豊臣は北への進路が取りにくくなる。なぜなら家康が、北条との同盟だけに留まらないのは明白なのだ。
信濃のほぼ南、北条領武蔵のほぼ西の位置には甲斐があり、そこから南に駿河、遠江、三河とある。桶狭間の後、駿河や遠江は武田、徳川が領地を一部治めていた。家康は、過去幾度も武田信玄と刃を交えたことがあり、以来彼は信玄を「我が師」と呼び慕っている。ともすれば、家康が仲介役となり、北条、武田、徳川の連合軍を拵える可能性もあるのだ。
そんな状況下で豊臣が北条へ進軍しようものなら、これらと真正面から対峙しなければならなくなる。豊臣の内情を知る家康は秀吉の障害物に他ならず、半兵衛は予測出来うる最悪の筋書きを回避したかったのだ。それが今回、凛の命じられた任だ。要は同盟を結ばせないこと、障害物を取り除くこと、である。
二人は、軍議のあと話し合った。やはり、内から崩す以外に無いとの結論に至った。
綻びを見つけ、それを上手く利用するに限るが、さすが半兵衛だ。地図と睨み合うとすぐにその糸を見つけ出した。
武田信玄の勢力圏にある、国衆、真田家に目をつけたのである。
真田家は元は小豪族であり、過去、海野平合戦にて敗北し領を追われ上野国へと逃れた小さな家だったが、甲斐武田信玄に臣属したことにより、多くの戦で武勲を認められ、家を立て直した。
現在は武田庇護下において信濃国の上田城を拠点とし、ひいては上野国に岩櫃城、沼田城など多くの支城を構えている。信濃国では小県一帯、上野国では利根郡、吾妻郡など沼田領を納める領主だ。
現真田家当主は真田昌幸といった。彼は、非常に世渡り上手な人間で、言い換えれば八方美人という部類でもある。だが人柄はよく、誰にでも優しく温厚、武将としても大変強かだった。どんな大大名だろうと堂々と意見を述べ、常に舐められぬよう地に足をつけ、方方に威厳を保っていた。
境界付近で起こる他領との小競り合いは、領民自らが鎮圧していることからも、昌幸は大層民に慕われているのが伺える。
だが、どうも誰にでも良い顔をする彼は、以前に北条家を怒らせたことがあるらしい。
実をいうと、昌幸が治める沼田領というのは、元は北条領だった。武田との戦で苦杯を嘗め、召し上げられた土地だ。
以前より、田沼の地には真田家先祖の墓があると昌幸が言っていたので、信玄は武功を上げた昌幸へとくれてやったのだ。しかしここの立地は大変悪い。元北条領なだけあり、上野国の北条勢力圏との境だった。
そのため、昌幸は統治を優先し、一時期北条家にも臣属していた時期があったのだ。だが、北条にとっては、信玄に切り取られた土地を貰い受けながらも、こちらにまで頭を垂れてくる真田が、ご機嫌伺いのように思え鼻についたのだろう。
それが原因かは分からないが、或いは調度良い大義名分と思ったのかもしれない。
頭にきた北条は、戦に負けた武田ではなく、昌幸の治める利根郡と吾妻郡に兵を向けたのだ。国持大名との境に危機感を覚えた昌幸は、その教訓から、越後に近い上田にも現在上田城を建てるに至っている。
四方を大国に囲まれると、いつ何時も心休まらない。どの国にもある話である。
そんな些細な因縁は意外にも黒い記憶の塊として心底深くに残ってしまうというものだ。わだかまりというのはそう簡単に解消されるものではない。
半兵衛は顎に手をあて、ゆっくりと頷いていた。
「仮に家康くんが武田、北条へ同盟を持ち掛けるとなると…。甲斐の虎は恐らく笑って受け入れるだろう。けど、臣下の真田昌幸殿は、あまり気乗りしないんじゃないかな…というのが僕の予想だ。北条は真田へかなりちょっかいを出していたみたいだしね」
「坊主憎けりゃ袈裟までといいますが、北条の場合はとかく袈裟、いいえ、真田が憎かったのでしょうか」
「憎かったというよりは、目障りだったんだろう。武田の前に壁があれば邪魔さ。ただその時は、ちょっかいを出して運良く土地が戻ればこれ幸いといった所だったんだろうね」
半兵衛は、真田家と北条家を焚き付け、武田に兵を挙げさせたいのだ。北条対武田の構図を作り、仲違いさせ、家康の計画から遠ざけたいのである。
「でも、やっぱり…最善にして最良は…」
── 甲斐の虎がいなくなること
言葉にせずとも、凛は分かっていた。
甲斐の虎、武田信玄は秀吉が日ノ本を統べるにあたり、非常に厄介な相手だ。上杉謙信とも幾度も互角に渡り歩く采配、そして清濁併せ呑む度量の大きさ、加えて第六天魔王信長も手を焼き圧倒されていた武人だ。これに北条の堅牢さと家康の直向きな底力が加わるとなると、その連鎖は強固なものになるだろう。家康にはあの本多忠勝も伴っている。剛と柔が噛み合った時の臨機応変さは、現豊臣でも発揮する連中が大いに居るのでどれほどの脅威かは身に染みている。だからこそ、断ち切らなければならない。
恐らく、人のよい信玄のことだ。自分を慕い、頼ってくる家康をさぞ手厚くもてなすだろうし、例え家臣の真田と北条の溝があろうとも、氏政には謙信が如く互いの労をねぎらい、昔話に花を咲かせるに違いないのだ。
同盟を組みたいと申し出る人間に、協力を惜しまない。甲斐の虎武田信玄とはそういう懐の深い男だ。
そうして半兵衛と状況を確認しているうち、すっかり外は闇夜に包まれていた。凛は火をつけようと燭台ににじり寄る。すると、半兵衛が静かに凛の背後に近づいている。かと思えば、凛が火鉢より明かりを灯そうと伸ばした手を取り、おもむろに腕を回して抱き寄せた。後方から肩口に半兵衛の呼吸が分かるくらいに顔が近い。
「凛、今回ばかりは一筋縄ではいかないかもしれない」
「任を完遂することは忍の使命にございます。ご安心下さい。この命尽きようとも、信玄の首とってみせます ──」
途端、凛の景色は反転していた。半兵衛の顔が頭上にある。いつになく、険しい表情で半兵衛は凛を見下ろしていた。掴まれた手首は力が入るも、動けばすぐに抜け出せる程度だ。だが、凛は抵抗もしなければ、声も上げなかった。
「ねえ、凛。君は…」
「…忍、にございます」
「すまない、変なことを聞いてしまった」
半兵衛は凛の上から体を離すと、凛の腕をとり起き上がらせ、自身で燭台に火を灯した。明かりのお陰で、ようやく半兵衛の顔がはっきりと見える。いつもと変わらぬ笑みで彼は、地図と軍資金とを凛に差し出した。
受け取った凛は指を揃えて礼をする。半兵衛が凛に手を掛けることは珍しかった。退室間際、凛は半兵衛に言った。
「半兵衛様、出立まで時間もございます。何なりとお申し付けくださいませ」
「…うん、ありがとう。凛」
数日の後、凛は一人出立し、今に至るのだ。
信濃道中は、各所で燻りがあるとは思えぬほど長閑な風景が続いていた。田の間に建つ掘っ立て小屋、各所の辻には祠、人は殆ど通らない。
先ほどまで上空を悠々と飛んでいた鳶は山を目指し遠ざかっている。頭上の太陽は段々と傾き始める頃だった。山間の土地はすぐに熱が奪われる。凛は、主道から脇道に逸れた。そこには川からひいた水路が流れ、良いあんばいに木陰もある。
しゃがみ込み水面をのぞけば、揺らぐ凛の顔が写っている。周りからはよく、無表情でおもしろみのない女だと言われる顔だ。とはいえ、忍であるのだから仕方が無い。表に出す表情や感情は忍にとって諸刃の剣だ。相手を惑わすためだけに、面のように貼り付けるに限る。水路に手を突っ込んだ凛は、水をすくうとざぶりと顔を洗い、今後の行程を今一度紐解いた。
まず、今、凛が目標とするのは信濃国だ。なぜ初めから直接に甲斐の虎を狙わないのかといえば、周辺の情報収集の為である。信濃に到着したならば段階を踏んで半兵衛に詳細を流しつつ、信玄に接近しようと考えていた。
(一) 真田昌幸と北条家の確執はどれほどのものであるのかを良く吟味すること
(二) 真田側、北条側を撹乱させ同盟させぬこと
(三) 武田臣下の真田を伝い、信玄に接触、彼を一人にすること
そして、目標の首を討ち豊臣へ持ち帰る。
予定をなぞるのは簡単だが、その一つ一つは根気のいる仕事だ。ましてや素性を隠し各城下に長期潜伏するには極力影を薄く保たねばならない。変装を繰り返すか、大勢の女中に紛れ込むか、或いは城下の店に奉公するか…。
思案し、顔を拭った凛は、再び道を辿り始めた。
そう経たないうちに夜になる。宿を見つけねばならなかった。野宿でも構わないか…と思っていると、夕の風にのって硝煙とものの焼ける臭いが鼻をかすめた。凛もよく嗅ぎ慣れている臭いだ。こんな辺鄙な場所でも戦をやっているのかと気にはなったが、先を急ぐ凛は構わず山道に入った。だが、木々に囲まれた狭隘な道を行くも、どうも凛はその臭いの元へと近づいている様子だ。
戦場に出てはまずいと、迂回すべく反転した。その時だった。がさがさと藪が揺れ、葉葉の擦れる音がしたかと思えば、何かが斜面を転がり道に投げ出されたのである。獣かと思ったが、人だった。どこぞの兵士だ。
赤い武具を付け、今にも息絶えそうである。腕を深く傷つけられ、体も血まみれだ。転がり落ちてきたのはついに出血の多さに耐えられず、体を支えられなかったに違いない。
近づいて見ると、仰向けになる兵の額には赤い鉢巻が巻かれてある。ところが、鉢巻の刺繍を見た凛ははっとした。六文銭だ。この兵は真田の兵である。
しばし、兵を眺めていたが、僅かながら彼の胸はまだ上下していた。
普段の凛なら間違いなく放っておくが、今日はたまたま薬売りに変装をしているだけあって、素通りを目撃されるのもまずい。凛は血と泥にまみれた兵に声を掛けた。
「もし、わかりますか」
「あんた…、薬…売りか…、お、俺は、まだ死にたくねえよ…」
「手当はして差し上げます」
凛は背負っていた薬箱を降ろすと、中から晒しと酒を取り出した。洗った深い傷口に、気休め程度にしかならない薬も塗ってやる。勿論忍の凛は縫合も難なくこなせるが、一介の薬売りが医者のような芸当を披露した日には目立つ。あくまで原則は変装に相応しい立ち居振る舞いだ。
処置を終えると、兵は多少落ち着いたのか強ばっていた体の力を抜き、静かに目を閉じた。運が良ければ仲間が見つけに来てくれるだろうし、このまま目が覚めないかもしれない。だがこれ以上は何も出来ない。
凛は、兵を道の脇に寄せ、水と僅かながら乾飯を置き立ち去った。
しかし、真田が兵を繰り出しているのは少々気になる。早々に上田城下へ行き、今何が起こっているのかを探るべきだろう。
空には星がまたたき始めていた。宵闇が迫っている。足元を照らすため、凛は提灯に火を付けた。が、その灯りに急ぎ掛けてくる足音が聞こえる。凛は瞬時に身構え腰を落とした。
地面を擦る音は一人分だ。賊であれば軽くあしらえる自信はある。ところが、足音の主は親しみを含ませた声を上げていた。
「薬売り殿ーっ!薬売り殿ーっ!!」
凛を呼び止めた若い男の声は、尚も息を切らし続けた。
「お待ちくだされ!一言、礼を、言わせてくださいませぬかっ!!」
青年は、凛に追いつくと膝に手をつき息を整えた。ほっとした様子で顔を上げた彼の表情がゆっくりと明かりに映しだされる。満面の笑みでもって「我が兵を助けていただきありがとうございまする!!!」と告げた。
闇間に響いた底抜けに明るい声が、凛の提灯を僅かに揺らした。
追いかけてきた彼は、一度は息を整えるも、また肩で息をするといったことを幾度か繰り返していた。無視をして先を急いでも良いが、こうも何かを告げたそうな顔を向けられては立ち去るに立ち去れず、凛は暫く待った。いや、正確に言えば観察をしていた。
男は先ほどの負傷兵と同じく、真っ赤な鎧と長い鉢巻を身につけ、背には二槍を携えている。槍は柄が長い分間合いも取れるが、逆に言えば相手に届く間も考えねばならないので、扱うには攻撃に繰り出す瞬発力が求められる。彼の腕や、胸、脇腹の至る箇所は、誰が見ても鍛錬を積んでいると分かる体つきだ。提灯の明かりに陰影が浮かぶのが何よりの証拠である。どうも彼を一兵卒の括りとするには少々首を傾げた。まだ若いことからも、或いは侍大将とか鉄砲隊長とか、そういう位であるのかもしれない。
しかし、凛が手当てしたと分かり追いかけて来たという事は、先ほどの負傷兵は目を覚ましたということになる。
負傷兵の元を離れてから、陽も山の後ろにとぷんと落ちていた。ここまでは半理も無いだろうが、それでも礼を言うが為に長い距離を追いかけて来るのも随分律儀な人間である。
ようやく落ち着いたのか、顔を上げた彼は名乗った。
「某、真田源次郎幸村と申す者。我が隊の兵に、ご温情頂いたこと誠に感謝申し上げまする!貴殿の義に厚き心大変痛み入り申した!」
凛は、緊張感と共に目眩を起こしそうになったが、しっかりと提灯を握り直した。
上田城下か又は女中にでも紛れこみ、任を遂行しようと考えていたが、一瞬にして全ての案が使えなくなった。堂々と対面し、顔を覚えられては迂闊なことは出来ない。が、凛は瞬時に頭を切り替えた。
真田源次郎幸村の名は勿論知っていた。真田家当主真田昌幸の次男であり、現在は武田信玄の元で奉公していると聞く。信玄も我が子の様に幸村を可愛がり、一番弟子の様に思い日々寝食を共に過ごしているのだ。この幸村は今一番信玄に近しい人間と言える。
紹介と礼を言い終えた幸村は、赤らんだ頬をほころばせた。凛は、薬箱を下ろし、提灯を置くとすぐさま地面に膝をついた。
「これは、大変ご無礼を致しました。真田様のご子息とは露知らず、お言葉至極恐悦にございます」
「い、いや!ただ、某は礼を言いたかっただけにござる。そう、かしこまらず、どうかお顔を上げてくだされ!」
言われるがまま、凛は顔を上げた。立っていた幸村は、凛の視線に合わすべく自身もしゃがみ込んだ。
「貴殿の名、聞いても?」
「失礼致しました。凛と申します。薬売りを商いにしております」
「そうか、凛殿と申されるのか。兵に水と乾飯まで恵んでくださったと、その者は無事に、陣へと連れ帰る事ができ申した」
「それは…、ようございました。女一人では近い村にも運ぶことが出来ず、心苦しくもあの場を離れてしまい、誠に申し訳ございません」
聞けば、この山間には複数本の道があるらしい。幸村の隊は凛の進んでいた道よりも、少し高い位置にある斜面に沿った道を、進んでいたそうだ。疲弊した隊は列を組み、互いに支えあって歩んでいたが、重症の兵は誤って足を滑らせてしまったらしい。薄暗い中、落ちた場所をすぐに特定できず探していた所、手当ての施された兵をこの道なりに見つけたと幸村は言った。
「よいのだ。無事に見つかり、命があっただけでも…」
言葉尻が僅かに細くなり、幸村はぎゅっと唇を噛んでいた。今まではきはきと答えていたが表情が曇った。思いつめた様子で拳を地に押し付けた幸村は「凛殿っ!!」と叫ぶように凛の名を呼び、俯き加減だった顔をがばりと持ち上げた。
「これも何かの縁かと…、どうか…、某に力をお貸ししては下さらぬだろうか!この通りにござる…!なにとぞ!」
懇願する幸村は額を地面に付くくらいに凛へ頭を下げた。