第一章 秋の章
01 その影闇に現る
虫の音も止んだ深い夜。とある武家屋敷の前に旅装姿の一人の女があった。淡い生成り色の着物を身につけ、頭巾を被り、腕には大事そうに真四角の包みを抱えている。ここまで急いで駆けて来たのだろう。下げた提灯に燈された透くような頬は、赤みを帯びているように見受けられた。彼女は左右後ろを見遣り周囲を伺うと、細い声で御免下さいませと告げる。すると戸を挟んだ向こうに側ではすぐに草履の音が近づき、蝶番を軋ませ扉が開かれた。
「凛殿、お待ち申し上げておりました」
出迎えたのはこの屋敷の下男だ。庭や薪割り、建具の修理など良く気が利く使用人だと屋敷の主は言っている。男は腰を低くしながらも、どこか彼女を恐れるようにして、主の部屋へと通した。
廊下から声を掛けると、屋敷の主人、竹中半兵衛は返事をし、誰かとも訊ねず目を細め振り向いた。机に向かい本を読んでいたようだ。色白の肌に白髪の髪、彼は豊臣秀吉の軍師だ。
彼は武働きも然ることながら軍策に抜きん出ていた。その知謀は毛利元就にも引けをとらないと言われ、目端の利く戦運びは度々敵軍を窮地に陥れ将を唸らせる凄腕の持ち主だ。豊臣秀吉が昨今急速に力を付け、諸大名を従えているのも彼の労あってのことである。
半分体を凛へ向けたまま栞を挟んで本を閉じると、半兵衛は下男に退出するよう命じた。
冷たい外気が背に届かなくなったのを確認し、凛は大事に抱えていた風呂敷を解いた。
「半兵衛様、命じられた者の首にございます」
箱の中のそれは、真っ白い顔が入っていた。まるで人形の様だ。目を閉じ、口を閉じ、顔に傷跡はなく、血痕一滴の跡も無い。結ったまげも綺麗そのままだ。これも凛の抜刀、剣術のなせる技。切断面が綺麗な所からみても、御仁の最後は痛みを伴わず、瞬きする間も無く幕を閉じただろう。
首を検分した半兵衛は満足そうに頷くと、箱に蓋をし、脇へ押しやった。囲炉裏に掛けていた鉄瓶を持ち上げると、湯のみへ湯を注ぎ凛へ差し出した。
「いよいよあの家は混乱するだろう。あとは、機を待って此方側から使者を送ることにするよ。長い間ご苦労だったね、凛」
「己が任を果たしたまでです」
「本当に君は働き者の、僕の可愛い忍だよ」
膝の上に手を揃えていた凛は、半兵衛の言葉にかしこまって頭を下げた。
側にある湯のみからは、ゆらゆらと白い湯気が揺らいでいる。主が直々に入れてくれた白湯だ。冷めないうちにと、凛は湯のみに手を伸ばした。指先にはほんのりと暖かさが伝わる。口をつけようとすると、半兵衛は今一度凛の名前を呼んだ。
「おいで」
広げた半兵衛の腕に、凛は何の迷いも無く体を預けた。主に従順であることが、忍としての忠だと凛は心得ている。半兵衛は頭巾を取り、子をあやすように凛の頭を撫でると耳元に顔を寄せた。
「今回も色仕掛け、だったのかな…」
暗殺の時はいつでも、当主だったり、嫡男だったりと相手は男だ。女中に扮し近づき隙を見せることが一番だった。稀に、厳格な芯の通る武人に限っては、色香が効かないこともあるが、とはいえ毒や仕込みなど代替案は幾らでもある。人の心を信じない忍にとって裏切り行為は容易い。
凛は半兵衛の問いに、はいと答えた。主の命は絶対であり結果が全てだ。忍にとって過程は然程重要ではなく、どんな手を使っても任を完遂すること以外に興味はない。
暫く半兵衛にされるがまま腕に閉じ込められていた。じっと動かず黙る凛を、半兵衛は尚もきつく抱きしめる。燭台の火が爆ぜる音はやけに響いていた。火が揺らぐ度、壁に映し出した影は折り重なるように見える。やがて半兵衛は体を離すと、凛の肩へ自身が着ていた羽織を掛けてやった。
「体が冷えているよ。この部屋は温まっているから、今晩はここに泊まるといい」
「承りました。ありがとう存じます、半兵衛様」
任務から帰還後、半兵衛はいつもこうして凛を自室に泊めた。他人が言葉端だけを聞けば、彼女は半兵衛の情婦だと思うだろうが、それは違う。二人はただ同衾し眠るだけなのだ。
徹頭徹尾、従順な凛は、泊まれと言う主には勿論毎度従った。それ故、余計に意味がわからなかった。本当に隣に横たわるだけで良いのかといつも疑問に思うのだ。任務先では直ぐ手が伸びる武人ばかりだ。命じてくれれば主の為なら何だってやると忍である凛は心に決めているのに、半兵衛は一切手を出さないし、無理強いしたりもしない。
どんな状況下でも冷静さを失わない半兵衛は、殆ど感情を表に出さないだけに、凛に何を求めているのか理解し難かった。そうして毎回主の言動に悩みつつ、今夜も凛は半兵衛の隣で眠りに落ちるのだ。
凛が豊臣の、いや半兵衛の忍となったのは数年前の事だ。
忍の隠れ里では、日々鍛錬に明け暮れる生活を送っていたが、隣国が豊臣秀吉によって制圧されたのを切っ掛けに、里も戦の余波を受けその存在が晒されてしまった。勿論、秀吉が知らぬふりをするわけがない。忍を抱えることは豊臣にとってまたとない機会だった。秀吉は里ごと忍を手中に収めようと、戦のついでとばかりに行軍したのである。
忍の戦は手堅く静かで迅速、何者にもその気配を悟られないことが強みだったが、圧倒的な数の豊臣兵の前では里に張り巡らせた罠も夜襲も、見事に蹂躙され瞬く間にねじ伏せられてしまった。結局生き残ったのは里の三分の一にも満たず、ある者は嘆き自刃し、ある者はどこぞの臣下となるべく里を出、ある者は腹をくくって豊臣秀吉に頭を垂れた。
だが、忍としての訓練を長きに渡り積んできた凛には、無感情が木の根のように心の奥深くまで根付き、里の壊滅には涙の一滴たりとも出なかった。ああ、戦は終わったのだなと、臭気にまみれ焼け落ちた里の真ん中に立ち、雇ってくれる新たな依頼主でも探さねばとぼんやり突っ立っていた所「僕の影になってくれる?」と半兵衛に声を掛けられたのだ。別段、豊臣に仕えるのも、豊臣の軍師に仕えるのもさして変わらぬと思い、断る理由も無かったので今に至る。
忍の存在は表舞台で活躍する武人らの影となり、忠を尽くし働くことだ。仮に豊臣が途絶えたとしてもまた別の家々へと流浪する身である。時勢に逆らわず野草のように風に身をなびかせる。凛は里でそう教えられた。これからもきっとそうだろう。
昔の事を思い出し、夢に見たからか、ふいに意識が覚めた。明かり障子の縁は白くくり抜かれ、既に日の出を迎えている。寝返りをうつと隣で眠っていたはずの半兵衛は、既に身支度を整え部屋を出る所だった。主より長く布団に寝そべっているのは良くない。凛も共に起きようとしたが、半兵衛は「まだ寝てていいよ」と言い、一人さっさと執務へ行ってしまった。
見送った後、凛は廊下へ出た。今日も空は青く良い天気だった。今後の任はまだ言い渡されていないが、半兵衛は近々大仕事があると言っていた。
基本的に忍の凛が得意とするのは変装や成り済ましだ。暗殺や偵察は数えきれないほどの経験がある。次はどの国へ命じられるのだろうと、空を眺めぼんやりしていると、廊下の板張りを軋ませ、男が一人現れた。島左近だ。
彼は元々浪人だったそうだが、近頃石田三成の家臣となり、豊臣に奉公している。誰とでも会話が弾む気さくな性格で、凛とは真逆の人間だった。だがそれだけに、少々元気の良すぎる左近は凛が最も苦手とする人間だった。放っておいてくれていいのに、いつ何処で会っても必要以上の言葉を投げてくる。左近は手を掲げながら凛へと近づいてきた。
「よう、凛。聞いたぜ。またお手柄だったんだって?」
「おはようございます島様。私は忙しいので失礼致します」
背を向け、部屋を離れようとした凛を左近は必死に呼び止めた。
「そりゃないっしょ。折角仲間が無事の帰還果たしたってのに、武勇伝くらい聞かせてくれたっていいだろ」
「私は草です。任務内容にはいつでも注意を払わねばなりません。島様もいつでも疑うべき対象であること、どうぞお忘れなきよう」
「あー…そうかい。(黙ってりゃちいっとはいい女なのになあ…)」
「なにか?」
心の中を覗かれたかと左近はぎくりと肩を震わせると眼前で両手を振り、取り繕って笑ってみせた。
左近は、凛が任より戻ったところによく遭遇するが、人を殺めた直後、更にはその首を携えている時でも、毎回涼やかな表情で会話をするのを少々恐ろしくも思っていた。
淡々と命じられた任だけを遂行する凛は、半兵衛にとっての情報源でもある。いわば豊臣の要でもある。凛に滅多なことをすれば、巡り巡って左近の身も危ない。
ちょっかいを出すのはやめておこうと、左近は立ち去ろうとしたが、凛が留守中に起こった出来事を思い出した。城での諍いだ。
ぴしゃりと閉まりきらない障子戸の奥では、布擦れの音がしている。左近は部屋に背を向け、中庭を眺めたまま呟いた。
「なあ、凛」
「要件は手短にお願いします」
「三成様と家康さんの話、あんた半兵衛様から聞いたか?」
しゅっと細い帯を締めた凛は「何のことですか」と言い、部屋から出てきた。左近の少し後ろに立つ彼女は、体の線がよく分かる忍び装束を身に着けていた。藍色の生地は闇夜に紛れる為のものだ。そして、背にはうっすらと竹中の家紋、九枚笹が入っている。いつだって左近が凛と会う時は、行商人や旅人の格好をしていたので、忍らしい忍の彼女の姿には目新しさがあった。
左近がじろじろ見遣るので、凛は早く続きを話せと睨み返した。
「ああ悪い。あの二人、この間ちょっと、言い合いしちまってさ。で、俺らが止めに入る羽目になっちまって…そんで…」
左近は続きを話すつもりだったが、とある人物のお出ましによって遮られた。噂をすれば何とやら、左近の主石田三成が現れたのだ。半兵衛の部屋までやってくるのも随分と珍しい。凛は膝を付き頭を下げた。三成は黙ったまま、凄みをきかせて左近を睨みつけている。
随分見ない間に、三成は以前にも増して眼光を血走らせていた。左近が言っていた徳川家康との言い合いとやらも多少影響しているのだろうが、凛はその内容まではまだ知らない。
元々、三成と家康は反りが合わないと聞いていた。近頃は、家康が秀吉の政策に度々苦言を呈していたので、古くから秀吉に仕えている三成にとっては、家康の態度が無礼に映ったのだろう。その延長線上に、諍いが起こったとしても何ら不思議ではないが、左近らが間に入るほどだ。よっぽどの緊迫と緊張がその場に走ったに違いない。
今まさに、その時を再現するかの如く、三成は不機嫌を撒き散らしていた。
「左近、貴様…軍議に遅れるなと何度言えばわかる」
「三成様、いや、まだもうちょっと開始までじか…ん」
「黙れ!秀吉様はもうご到着なされておいでだ!急いでこい」
「は、はいっ!」
「貴様もだ、凛」
凛は思わず顔を上げた。凛が三成に命じられることなど滅多に無いし、ましてや名だたる将が介する場に、草が同席とは…。半兵衛の言伝であるにしろ少々妙だ。三成は煙たそうに凛を見下ろすと「さっさとついてこい」と言って先を急いだ。
連れられた訪れた場所は、家臣らが肩を寄せあい座っていた。人数の割には狭い部屋だった。三成と左近は一礼して秀吉付近に座り、凛は隅に身を潜めるようにして腰を下ろした。三成、左近の他には大谷吉継、黒田官兵衛、後藤又兵衛も控えている。だが、この大々的な会合の場に徳川家康の姿はどこにも無かった。左近が言っていた “諍い” は凛の想像よりも遥かに大きな問題のように見受けられる。
そうして無表情で観察する凛の姿を見るなり、周りの家臣は目を見張っていた。幾人かは凛のことを知っていたのだろう。囁きの中に「半兵衛様の草じゃ」とか「おなごではないか…」などと薄気味悪そうな感想が漏れていた。
上座に座る半兵衛と目が合った。半兵衛は凛の姿をみつけるとにこりと微笑み、腰を上げ第一声を発した。
「皆、よく集まってくれた。今後のことについて僕から少し話をさせてもらいたい」
ざわめいていた空気は一瞬にして分散した。上座に鎮座する秀吉の眼光は一層鋭いものとなり、緊張が走る。
まず半兵衛は「家康くんは、豊臣と道を違えた」と、この場に徳川家康が居ないことについて触れた。家臣らは互いを見合わせている。誰もが我が耳を疑っていた。これまで三成と共に粉骨砕身し、豊臣に尽力していた人物だっただけに、信じられないのも当然だ。
だが、一方の重臣たちは流石というべきか…吉継も官兵衛も又兵衛もその表情は変わらない。成るべくして成った結果だと、事実を冷静に受け止め半兵衛に耳を傾けていた。現在、家康はとうに屋敷を離れ帰国の途に付いているのだという。
座敷のどこかで、裏切り者には制裁をとの声が上がった。同調するかのように、直ぐに追手を、我が隊にお任せを、と身を乗り出す者が居る。だが膨らむ武功の欲を沈黙させたのは三成だった。
「家康を殺るのは私だ…。貴様ら、秀吉様の御前だぞ、その口封じて欲しいか」
叫ばず意見を述べる時の三成は、相当頭に血が登っている時だ。射殺されそうな視線に肩をびくつかせた家臣らは黙った。
家康が豊臣と違えたのには、秀吉の北条討伐が絡んでいた。
秀吉は今後の政策として、小田原を始めとした北条領、ひいては関東一帯を早々手中に収めたかったが、対する家康は長く時を掛け友好に同盟を結び、領地分割を適切に行った上で家格のある北条家やその他家々は残すべきだと意見したのである。従順にいつも建設的な意見を述べていた家康が、初めて感情的に秀吉へ意見した瞬間だった。何故そこまでして温情を掛けなければならないのか、これには秀吉も良い顔をしなかった。
信長がなくなってからというもの、北条、武田、上杉と関東甲信の地域は非常に領地分割が複雑で、また千切ったような土地を治める家々が下手に大家なものだから、僅かな火種を残すだけでも後々手をこまねく事になると踏んでいたのだ。故に、わざわざ燻りを残す家康の考えが、その日軍議の場に居た三成には秀吉に楯突くように見え、諍いになったのである。
その結果、家康は目的とするものが食い違うと嘆き、秀吉の元を去った。直ちに首を取らなかったのは、秀吉様自らが手を煩わすことはないと、家康の首は自分に取らせてくれと三成が許可を請い願ったからだ。
半兵衛は、次、家康と見える時には敵となるだろうが、今後も団結し、日ノ本統一へ一層力を尽くそうと、この場の者たちを励ました。家臣らは意気込み目をぎらつかせた。
北条討伐への反対者が家臣の中から居なくなったことにより、秀吉は、出陣の準備を命じた。目指すは北条氏政が居城、小田原城だ。過去、幾度の侵攻に耐えた三つ鱗の旗は、城壁外から天守を見上げる将兵をあざ笑うかの様にして今も悠然と翻っている。しかし、今度ばかりは、その行く末は秀吉に軍配があがると、この場の者は信じて疑わない。
各々、配置や作戦、行路等の指示を半兵衛から仰ぐと、軍議は散会となった。
凛も一連の話を聞き、大凡行軍の流れは掴んだ。恐らく忍としての働きは、北条家の撹乱か、或いは内通者との媒介役か、予想はそんなものだろう。
家臣らは、凛が気になる様子でちらちらと伺いながら退室して行く。主である半兵衛から命じられるまでは、凛は微動だにしない。
秀吉も部屋を出て、残るは、半兵衛、三成、吉継、官兵衛、又兵衛、左近、そして凛となった。どの面々も戦の要となる将だ。これからまた、作戦を詰める為に話し合うのだろう。凛は、席を外す旨を、半兵衛に目配せをしてみたが、逆に隅に座る凛を半兵衛は呼び寄せた。
「凛、こっちにおいで。君にしか出来ない、重要な任務だ」