雨月愁思 二
燻っていた火の手は城内のあちこちで炎柱となり、たちまち屋敷を飲み込んでいった。豊臣秀吉の軍師、竹中半兵衛は、早くから北条家に間者を紛れ込ませていたらしく、兵数、兵糧、城郭構造はもちろんのこと、城下の道々、周囲の地形と、余すこと無く小田原は調べ上げられ、戦の火蓋が切られた時には既にその知謀によって退路を塞がれていた。策を弄すも後手に回るばかりで、坂を転がるように北条は劣勢を強いられた。
墨を被ったような新月の闇間に、突如として数えきれない数の焔が浮かび上がったのは、丑三つ時。物見櫓から甲高い警鐘が鳴り響き、人々の浮上した意識は、不安と恐怖に飲み込まれていた。
難攻不落の小田原城はどんな嵐がきても不動だと誰もが信じて疑わなかった。驕りがあったのだ。その隙を間者は策動し、次々と北条家の側近を豊臣に寝返らせ、内から戦力を削いだのである。
氏政も老体に鞭打ち、つい昨日までの家臣たちに向け、槍を振り回すも、一人また一人と地へ伏せる度に意気消沈していた。これまで信じていたものに裏切られたのだから当然だ。だが、氏政は家臣への怒りより、己を責め悔やんでいた。
日の出の頃合いだが、今だ闇と入り混じり陽光が闇を押し上げるにはまだまだ時間が掛かりそうだった。明るくなれば少しは戦況も出来るというに──。そう呟いた氏政には疲労の色が伺える。側近が敵の手に落ちた以上、家臣らに無闇に近づくことを氏政は避けていた。故に状況を知るには小太郎が唯一の手段であるが、幾ら伝説の忍との異名をとっても、流石に一人で味方の総数を調べあげ、隊の再編成をするには無理がある。
戦況は二転三転と悪状況に陥り、段々とその必要もなくなりつつあった。
縁側に腰を下ろした氏政は、火の粉の舞い上がる混沌とした色の空を眺めた。
「のう風魔。先日食った饅頭は美味かったな。楓は無事に逃げたかのう…」
戦闘が始まってから、片時も氏政の側を離れなかった小太郎は、楓の行方は知らなかった。ただ、間諜が居ると知れ渡ると、直ぐに女中頭が女中たちを集め経緯を話し避難させたので、楓は城から離れたはずである。女中頭は並みの兵より肝が座っているので心配はいらないだろう。
小太郎はじっと氏政の傍らに佇み、楓は心配いらないとの意を込め首を縦に振った。氏政はほっとした様子で笑っていた。すると、側にあった槍を手に取り、おもむろに逆さまにすると、地面にどすと突き刺した。その後、氏政は「重いのう」と呟くと、あろうことか具足を外し始めた。
「もう良い風魔。今までご苦労じゃった」
八方逃げ場のない北条氏政がそう紡ぐことは何ら不思議ではなかった。ここを死に場所として覚悟を決めているのだ。小太郎にとっては、雇い主との契約を終える。ただそれだけのことだった。
城内のあちこちに放たれた火の勢いはとどまるところを知らない。じき氏政の部屋にも燃え移るだろう。小太郎は己自身を薄情だと思うも、主氏政の武士としての覚悟も無碍にしたくはなかった。ただ今生の別れを告げることに、初めて胸の奥に痛みを感じていた。窮地に陥る状況はこれまでにも経験はある。にも関わらず、主に背を向け、直ぐにこの場を離れることが出来ないでいた。
己は忍である。忍に情など不必要で、命を、任を、淡々と遂行するのが努めなのだ。それがたった今、とある主の元で幕引きしただけのことである。そう言い聞かせた小太郎は、軽くつま先に力を入れ、屋根へ飛び移ろうとした。── その時だった。
氏政の部屋目掛け、幾つもの足音が駆けてくるのが聞こえた。くるりと反転した小太郎は、瞬時に氏政の前に踊り出ていた。咄嗟に懐から小刀を取り出し、刃先を外へ向け腰を落とし構えた。近づく足音は、廊下の角を曲がれば姿を表すだろう。その一瞬で喉元を切り裂けば良い。
相手の出方を見計らい、小太郎は息をひそめた。背にする氏政が「風魔…」と、小太郎の名を小さく零すのが聞こえる。
あと二歩、あと一歩と数え、小太郎は近づく敵に飛び出そうとした。ところが、廊下の角から現れたのは楓だった。何故か水の入った桶をたったひとつ抱え、焦りをまき散らすかのように氏政の名を叫んでいた。
「氏政様!!こちらにいらっしゃったのですか!!早く逃げましょう!さあ!立って下さい!」
楓は、城を離れるも集められた人々の中に氏政と小太郎の姿が見え無かったので、女中頭や将の制止も聞かず、果敢にも燃え盛る炎に突入してきたらしかった。
まくし立てた楓は、即座に氏政の体を抱えるように支えた。しかし、幾人も絶命させた氏政の体はもはや限界だった。槍を杖のように扱うのがやっとだ。額には脂汗が垂れていたが、それでも氏政は楓の前で笑みを絶やさなかった。
「はっはっは、腰が痛くてかなわんわい。わしは後からすぐ追いつく。楓は直ぐに立ち去りなさい、風魔や」
「嫌です!小太郎さん!氏政様を抱えて下さい。女中頭は抜け道を使ったのです。そこから逃げましょう」
「ほう、抜け道があったとな。ご先祖様が作ってくださったのかもしれんな」
「そんな悠長なことを言ってる場合じゃ ──」
問答しているうちに、小太郎が聞いていた残りの足音がその正体を現していた。敵兵がぞろぞろと隊を率い現れたのだ。氏政の首を取れば、軍功の褒賞は確実である。ぎらぎらと目を血走らせ、餓狼のごとく黄色い歯をむき出しにし、あっという間に三人は囲まれた。多勢に無勢だ。
小太郎は、構えを降ろさず氏政を背にし殺気を放った。
二重三重となった敵兵の輪が、じりじりとその半径を狭めてくる。楓は桶をやたらめったらに振り回し、氏政様に近寄るなと怒声を浴びせた。兵らはにたにたと面白可笑しくからかうばかりだ。襷のかかった袖から、白い二の腕がさらされ、急いで部屋まで駆けたせいで、楓の着物の袂は開けていた。必死に主を守らんとする戦乙女のような健気さと儚さは、より艶かしく映るのだろう。
舌なめずりをする下衆な思考に蹂躙された者たちは、執拗に言葉でちょっかいを出した。
大きくため息をついた氏政は、小太郎の背に呟いた。
「風魔や、今しがたお主の雇いを終えたがの、ひとつだけ、年寄りの頼みと思って聞いてはくれんか」
察した楓が嫌悪と絶望を携え振り向いた。
「いやっ、氏政様っ!」
「楓を頼んだ、風魔。楓、よいか。風魔の面倒をな、見てやってくれ。こやつはよい男じゃ」
氏政は、地面に突き刺していた槍をやっとの思いで引きあげると、高々と天に突き刺した。すると、凡そ人の顔を形取り、青い炎をまとった火の玉が、氏政の周囲をぐるぐると回り始めたのだ。
青い人面の炎は、充満する火焔の煙を切り裂くように、奇声とも叫喚とも区別の付かない金切り声を轟かせた。敵兵をなぎ倒し、囲まれていた輪には亀裂はできた。
走れと氏政が叫んだ。小太郎は楓の体を担ぎ上げると、出来た隙に飛び込んだ。しかし逃げる小太郎たちに追手は無い。敵兵が欲しいのは、氏政の首、ただそれだけだった。
楓は何度も氏政の名を呼び、小太郎の背を叩いては戻って下さいと叫んだ。だが、暴れる楓が大人しくなるにはそう時間はか掛からなかった。白羽のぶつかりが止んだかと思えば、何かが膝を屈し砂に擦れていた。後方では敵兵の鬨が、これまでをまるで春の夜の夢だったのだと、嘲笑うかの様に轟いていた。
忍装束をぎゅっと握りしめた楓は嗚咽していた。小太郎は駆けながら、抱き方に上手く気を配れば良かったとそんな事を思っていた。
決して振り返らず、喧騒が無になるまで、立ち上る煙が視界に入らなくなるまで、小太郎はひたすらに走り続けた。
その後、豊臣秀吉が小田原城入城を果たしたと世間に知れ渡ったのは、小太郎と楓が山間の廃屋に着いて間もなくの事だった。