雨月愁思 三

 小太郎は記憶を辿り、過去、忍里から逃げた際一時期使っていた廃屋へと楓を連れてきた。
 長年使われずにいた小屋は藪に覆われ、板張りの壁は夜露で腐っている箇所がある。獣が入ったらしき跡もあり、小屋の中は荒れていた。それでも雨風を凌ぐことはできる。
 北条氏政の忍であった小太郎は、豊臣秀吉、いやその右腕である竹中半兵衛に容姿を知られているはずだった。楓だけでも、女中頭や母親の元へ送り届けたいが、暫くは行動を控えなければならなかったのだ。当分の間、此処で過ごすしかない。

 楓は数日塞ぎこんでいた。小太郎に担がれながら氏政が絶命の瞬間を目にしたのだから当然だ。人の手による人の死を見慣れた小太郎であればまだしも、楓にとっては祖父のように思い、仕えていた氏政である。小太郎ですら氏政の死は、胸間に綿を詰め込まれたように苦しかった。それに加え、消え逝く灯火を目の当たりにした楓は心臓を握りつぶされる思いだったに違いない。楓が忍装束を握っていた背には、今でも憂き目が刻まれた様に、握られている感覚が残っていた。
 ともあれ、いつまでも憂いてばかりも居られず、小太郎は早々に小屋を住めるよう整えた。
 片付けや掃除をしたり、ぼろ小屋を修繕する小太郎を見てか、楓も徐々に手伝うようになり、塞ぎこむ時が少なくなった。氏政の最後の言葉をよくよく留めているのか、女中仕事をするのと同じく、毎日台所に立ち二人分の食事を作ってくれるまでになった。
 
 だが、ひたすらに小太郎の前“だけ”で気丈を保っていると知ったのは、楓が持ち直したかと思われてから暫く経ってからだ。
 近辺で薪を集め、小太郎が小屋に戻ってみると、楓は小屋の裏で一人泣いていたのである。
 小田原では多くの者に囲まれ、賑やかに過ごしていただけに寂しい思いもあるだろう。氏政の事切れる瞬間が、中々瞼の裏側から消えないのもあるだろう。夜、楓がなかなか寝付けないのを知っていたが、小太郎は彼女の背を見て、単なる哀れみを感じて居たのでは無かった。
 背を向け、肩を震わせる楓に小太郎はゆっくりと近づいた。気配無く、音を立てないのはもはや忍の癖というより、職業病だ。ましてや小太郎は、他人と言葉で意思疎通を図ることをしない。
 楓は全く気づかず、鼻をすするばかりだ。どうしたものかと小太郎は腕を伸ばしかけたが、楓は何を感じ取ったのか前触れもなく振り返った。眼前の小太郎に驚くも、必死に頬を拭い、やはり小太郎の前では笑みを見せた。

「こ、小太郎さん…!おかえりなさい。薪ありがとうございました」

 どれだけ涙を流していたのか、目も、頬も、幾度も擦り真っ赤だ。
 小太郎は不思議と気分が悪かった。これ迄どれだけ人を殺めても感じたことの無い不快感が体中を駆け巡っている。
 今の暮らしに恐らく不自由は無いはずだった。山では山菜も採れる。川魚も釣れるし、猪や鹿も彷徨いていれば仕留めるので、食事の心配は無い。井戸も滑車を直し、風呂も湯を沸かすことができた。
 それでも、楓は城に居た時の様な素顔を見せることはない。何をどう問えば良いのか、どうしたら不安の種を取り除くことが出来るのか、一人の娘と対峙する小太郎にはそれが判らなかった。
 夕暮れ間近の小屋の裏は、一層辺りが暗く映り、影になった場所は一気に空気が冷たくなる。小太郎が見下ろす楓は、震えを抑えるのに胸の前で腕を掻き抱いていた。
 小太郎は更に一歩楓に歩み寄ると、おもむろに彼女の腕を掴んだ。これ以上辛い顔をさせたくない。ただそう己の意のままに抱き寄せていた。
 腕の中で一瞬、楓が強張ったのが分かったが、こうすることでしか安堵させる術を持ち合わせていなかったのだ。氏政に頼むと言われた手前もある。もう少し氏政のように、遠慮をせずにいて欲しいと願い、腕に力を込めた。

「小太郎さん…」

 見上げた楓は、また直ぐ俯くとはっとした表情を見せた。小太郎の腕には、細く晒しが巻かれている。先日、山菜を採っていた際、菜刀が当たり怪我をした箇所だ。大事ではないし、既に傷は塞がっていた。楓は酷く申し訳無さそうな顔をした。

「この間の怪我…。もう、痛みはありませんか…」

 小太郎は頷いた。

「今度は私もお手伝いします」

 楓は恥ずかしそうに笑い「御飯に、しましょうか」そう言ってゆっくり体を離すと、逃げるように土間へ入って行った。

 それからというもの、楓は一人で泣くことは無くなった。小太郎の前で涙を流すことを厭わなくなり、就寝も早くなった。
 小太郎が床に入るのは夜遅くだが、それまでは楓が眠りにつくまで側についている。小太郎の「遠慮をするな」が彼女に届いたかは分からなかったが、ある夜「眠るまで側に居て下さいませんか」と頼まれた時は、正直驚いた。
 今、小太郎の傍らでは、楓が目を閉じ静かに寝息を立てていた。黒く艷やかな髪は流線を描き、ほのかに赤らんだ頬に掛かっている髪をそっと避けてやる。安心しきって眠る彼女を眺めていると心穏やかだった。
 全幅の信頼を寄せられることは、何ら枷ではない。そう教えてくれたのは氏政だった。だが一方で、小太郎は互いに氏政の言葉に重きを置く、双方の立場や垣根が確実に取り払われているのも感じていた。
 自身を頼って欲しいというのは本心だ。それ故に、いつかは来る別れを想像した時、また矮小な不快感が押し寄せていた。
 小屋での暮らしはもうすぐ一月になろうとしている。そろそろ、小田原周辺も豊臣による残兵掃討も終わり、警戒も和らぐ頃合いだ。楓を早く母親の元へ送り届けねばならなかった。それが、氏政から頼まれたことなのだ。
 小太郎は周囲の見回りの合間、密やかに元北条家臣らの奉公先を一件ずつ当たった。地道に探した甲斐あってか、楓の母親の居場所を突き止めることが出来たのである。残暑の厳しい一日だった。

 その夜、小太郎は話があると、楓を呼んだ。
 二人の間には一枚の半紙と硯がある。小太郎は母親の居場所が分かったこと、母親の奉公先も同じく楓を探していこと。そして、氏政の命の下、己が責任を持って必ず無事に送り届けるので安心して欲しいと、つらつらと筆を滑らせた。
 楓は一言「ありがとうございます」と、か細い声で呟いた。これで安心して任を終えることが出来る。更に小太郎は、いつが良いか楓に訪ねようとした。ところが楓は小太郎の手に己が手を重ね、筆を止めた。

「小太郎さんが、氏政様の命で私と居て下さるのは、十分分かっているつもりです」

 小太郎は止めてくれと言いたかった。
 ただ単に、一時接点を持ち、寝食を共にしたからといって、互いに情の膨らみを感じていたとしても小太郎は望んではいけないものだと律していたのだ。
 己も辛かろうに、楓の明るさと、優しい気遣いに小太郎の心が満たされていたのは否定しない。伸ばした手は、小屋の裏でのあの一度きりだったが、一歩垣根を踏み越えてから、伸ばしては止める腕があった。
 情を持った忍は判断が鈍る、情は枷だ。いつか甲斐の忍が、上杉の忍に零していたのを耳にした。癪だが、全くその通りだとその時は思っていた。
 楓は顔を逸らす小太郎を覗きこんでいる。真っ直ぐに向けられるのは全幅の信頼か、それとも ──

「私…、小太郎さんと一緒に居たい…」

 小太郎の肩口に、楓の額がゆっくりと落ちた。きっとそれは両方の意だ。
 全幅の信頼を枷だと思っていた小太郎が、今更情を枷だと認めるのは、伝説の名も泣くというものだ。
 遠慮しがちに体を寄せた楓は、不安げな眼差しを小太郎に向けている。きっと、小太郎が情と別れを恐れるようにまた、彼女もこの言葉を紡ぐのに恐れもあったことだろう。
 小太郎は力いっぱいに抱き寄せると、本能のままに口吻を交わした。