雨月愁思 一

 生まれ故郷であり、忍としての学び舎であった里が、一夜にして灰と化したのは恐らく十五の頃だ。恐らくとつけたのは、常に孤独だった小太郎にとって、里が消滅した際の己が年齢を重要視していないからである。それ故「いつ」という記憶は曖昧だ。
 とにかく、その歳の頃に里は大火に包まれ、里の者の大半は死に、かつて同じ釜の飯を食った仲間は、名のある家々に雇われていった。生尽きるまで一人の主に忠を尽くす連中が殆どだったが、今になって考えてみると、終始一貫して一人の主に仕える事は自分には合っていなかっただろうと思い直す。
 小太郎は、無口さ故か雇われ先が見つからず、以降、闇に放り出されるも、決してもがき苦しむように日々を過ごしていたのではなかった。寧ろ今のこの職のあり方は、案外自分には合っていた。
 傭兵は気楽でいい。勿論雇われるからにはそれ相応の責を負うが、今の主と契を交わす際、更に良い条件で雇ってくれる客が現れたのなら、別の家に移っても良いと、常々言っている。
 そんな現主、北条氏政は、腰が痛い痛いとご老体を座敷に投げ、小太郎に背を向け昼寝をしてた。初めは全幅の信頼を寄せられるのも、枷をはめられたかのようで好まなかったが、北条家に仕えて早幾年月、小太郎は既に好条件の傭兵依頼を二件断っていた。

 北条家が居城とする小田原城は、過去幾度となく諸国の大名に狙われてきた城だ。湾を一望できる見晴らしの良い眺望は、万一攻めこまれても敵状把握が容易い。立地も去ることながらその堅牢な作りと利便性も狙われる理由だ。
 小田原は、ほぼ日ノ本の中心に位置しているが為に、東西南北へ通じる街道がこの地に走る。陸路は勿論のこと海路が使えるというのも強みだろう。日々、他国の行商人が行き来するので物流の中心ともなっている。
 流通があると情報もよく入る。そういった理由から天下を目指す者は、まず、小田原を抑えんと、一昔前までは張り切って標的となっていた。それ程城下も人も城も頑丈な垣となっていたのだ。堅牢というのはある意味人垣の意味でもあった。
 今は、といえば城下は然程昔と変わりないが、老齢の主は日に日に槍捌きにも切れが無くなってきていた。日に何度と聞く「歳じゃのう」には哀愁すら含むきらいがあったが、氏政は鍛錬を怠った日は一日とてない。
 主が鍛錬で使う道場は、城の兵士が日夜特訓に励む大きい道場ではなく、長い間北条家当主だけが使うことの出来る、こじんまりとした道場だ。部屋を一歩出れば、厨に、茶室に、道場に、浴場に、厠に…と手の届く範囲に何もかも揃っている。
 その身の回りの世話を仰せつかるのは、楓という女中だった。彼女は幼い頃から母親とともに北条家で奉公している。働き者で明るくて、女中というより楓は、孫のように氏政から可愛いがられていたし、一方楓も、主として氏政と接するというよりも、本当に仲の良い孫のような女中だった。
 また楓は、氏政が一番に信頼を置く者だからと小太郎のことを恐れなかった。小太郎はいつも顔を半分隠し、表情も感情も一切見せず、一言も物を言わずに氏政に侍っている。少なからず得体の知れない、からくりの様な人間だと気味悪く思う者もいたのだ。
 敬遠されることには慣れているが、楓のように、食事を二人分運んでくれたり、城内でどこからでも声を掛けてきたりと、親しみを持って接する人間に小太郎は戸惑っていた。だが、それも今は昔の話である。

 八つ時近い昼下がり、障子戸の向こう側にしゃがみ込む影が移った。失礼します氏政様。と済んだ声が届くも中から返事が無いので、楓は中を確認すべくそっと戸を引いた。
 正面にごろ寝をしている主を見てくすりと笑うと、控えていた小太郎に視線を移し、囁くように声を落とした。

「氏政様、お昼寝中ですね。おやつ持ってきたんですけど…。小太郎さんの分もありますよ」

 楓は、もう少しだけ戸を押し開くと、盆を掲げて小太郎に見せる。茶請けにはまんじゅうが三つ乗っていた。

「お饅頭できたてなんです。一緒に食べようかなと思ってたんですけど…。こんなに気持ちよさそうだと、起こすのちょっと忍びないですね…」

 小太郎は、楓と自分とを指さすと、その人差し指を廊下へ流した。指先を追う楓は、その意味を瞬時に理解してくれる。彼女は暫し悩んでいたが、氏政が起きるまで待っていてはいつになるか分からない。小太郎は構わず自ら廊下へ出た。

 春も終わりに近づき、庭木の緑は益々濃くなっている。小田原で生活する内、小太郎はいつしか四季の移ろいを感じられる様になっていた。
 忍里から来たばかりの頃は、戦火や断末魔の混乱に揉まれたことしか無く、小鳥のさえずりだったり、人々の笑い声だったりにも過敏に反応し、いつも周囲に気を張っていた。移ろいも生活の一部となっていることは、以前の小太郎では考えられない。

 縁側で隣に座る彼女は、まんじゅうを一つ差し出した。小太郎は軽く頷いて、受け取る。まだほのかに温かい。手を合わせ、かぶりついた。餡のぎっしり詰まった甘さ控えめの、氏政好みの饅頭だ。
 楓は小太郎の脇に湯のみを置くと、二人の間にあった盆を膝の上に乗せ、ため息をついていた。憂いを帯びた横顔は、近頃城の人間が抱える不安と同じものだ。世情を案じる声は絶えず城下に溢れている。
 織田信長が本能寺の変で死去し、台頭したのは、かつて木下姓を名乗っていた豊臣秀吉だった。群雄割拠を一等に走っていた魔王がこの世を去ったことで、再び渦を巻き起こす中心となっている。
 小太郎も氏政に命じられ、豊臣秀吉の動向は注視していた。天下統一を掲げた彼が派兵した部隊は、近隣諸国の小競り合いをも飲み込む勢いで各地を制圧しているのだ。
 広がる豊臣の領地、その末端にくすぶるのは戦火。火の手が小田原に届くのも時間の問題だった。

「北条は、大丈夫ですよね」

 小太郎は、真っ直ぐ前を向いたまま頷いた。

「うん、小太郎さんが居てくれるもの」

 首を傾げ、楓は不安を押し殺すようににこりと笑った。
 それから楓の話し声に氏政が起きて来ると、三人縁側に並んで饅頭を食した。さんさんと陽光の降り注ぐ眩しい初夏の庭を眺め、氏政の腰を楓が心配し、氏政は腰を揉んでくれと楓に頼む。
 そんな、穏やかな北条家の日常は長くは続かなかった。