朝 顔 の 檻
第 五 話
「千代っ!!」そう叫んだのは何度目だろうか。声は掠れていた。
座敷で名を聞く寸前、明かりがふっと消えたかと思えば、小窓より伸びた濃い影が瞬く間に千代を連れ出していた。状況が全く掴めず、左近は夜闇の中、屋根を縦横無尽に飛び移っている何者かを必死に追っている。
疾風のごとき速さは、地上から追うには難を極め、路地の迷路へ誘われているようだ。袋小路に突き当っては引き返しを繰り返すも、走りながら何度も屋根を見上げ千代の位置を確認した。息は上がるばかりで少しも距離は縮まら無い。寧ろその素早さにはどんどん差が広がるばかりだ。心臓ははちきれんばかりに苦しく、息を吸う度に締め付けられる様にぎゅっと痛む。それでも行く先を予測しながら走った。
左近は考えていた。千代を攫った奴は一体何者だろうかと。数ある茶屋のたった一室を目標とし、且つ胴元の名を聞くその瞬間を狙い、あの小窓の隙間から難なく抱きかかえ、左近が双刀を投げたにも関わらずいなして去る。こんな芸当が出来るのは余程の手だれだ。身のこなしも、判断も、闇に紛れる様も、忍のそれに違いない。
そう思案しつつ息も絶え絶えに走っていると、いつの間にか城下を抜けていた。目の前には田と耕地が広がり、収穫を待つ稲穂は根元から鈍く揺れている。辺りをうかがっても人の気配は微塵も感じない。必死に後を追っていたが、忍も千代もついに見失ってしまった。
「くそっっ!!一体、どうなってんだ!」
左近は口封じの可能性を一番に恐れた。高利貸しの周辺を嗅ぎまわったはいいが、警戒しておくべきだったと、今更後悔の念が湧き上がっていた。自ら幾度も茶屋へ足を運んだのはまずかったかもしれない。なかなか客の付かない千代を幾度も座敷に呼べば、物好きな奴、いや珍しい奴もいるもんだと、人気の娘を狙う客より目立つ。
― あまり目立たれては困ります。
いつかの千代との会話が焦燥とともに沸上る。ともあれ過ぎたことに頭を悩ませてもしようのないことだ。
千代が連れ去られてから、それほど時は経っていなかったが、青く滲んだ月の光は薄く、姿形からするにもうじき沈む頃合いだった。沈みきれば墨を溶いたような中では探すのは益々難しくなる。
焦りは左近の足音と共に虚しく地面と歯軋りするばかりだった。どうすればいい、どうすればいい。と、雑草の茂るあぜ道を右往左往し、ひときわ夜露の落ちたぬかるみに足を取られた時、ようやくまともな思考が帰ってきた。
一度城へ戻り、三成に事情を話したほうが懸命だ。兵を動かす許可を貰おうか。だがどこぞの姫ならまだしも、市井の民一人に兵を割けるはずもない。しかし左近一人ではどうすることも出来ぬのが現状だ。迷っている場合ではないと反転し、城へ駆けだした。
大手門をくぐり、一目散に三成の部屋を目指した。明かりはまだ付いている。取り乱した左近がいきなりに戸を開けたのを、三成は平然と背で受け止めた。
「…っ三成様!!例の帳簿のことでっ!胴元の名を聞く前に、娘を、千代を…何者かが…」
継ぎ接ぎの様な物言いに、三成は背を向けたままさらさらと筆を動かしつつ、落ち着けと言い放ち、順を追って説明するよう命じた。
畳み掛けるように一部始終を伝い終えた時、筆を置いた三成の背から感じる威圧感にはさすがに冷静さを保つのは土台無理な話であった。三成は完全に怒っている。城の金についての手掛かりをみすみす失ってしまったから当然だ。嫌な汗はますます吹き出た。
「貴様、娘に胴元の名を聞かぬまま、その正体のしれぬ者さえも逃がしたのか」
「…面目、ありません」
「折角の手がかりをみすみす逃すなど!あげく、のこのこ城へ戻ってきたというのか!」
胴元の名が分からねば、帳簿改ざんの調査は振り出しに戻ってしまう。三成も半兵衛とともに城下の金貸しなどを調べていたが、胴元の手掛かりは名前の頭文字一つとして掴めなかった。尻尾すらみせぬとは、左近も歯がゆい気持ちは同じだ。だからこそ、千代から詳細を聞きだすことは重要だったのだ。
己のしくじりと三成へ対する罪悪感、そして彼女の無事がわからぬ不安感という二つの渦巻いたものに、左近は気が狂いそうだった。
任をこなすこと、つまりは手掛かりである千代捜索のためには手数が欲しいのが正直なところだ。だがこの望みを口にして良いものかと、左近は唇を噛み締めたまま、告げられないでいる。
三成はそんな左近を見透かすように、ただ黙っていた。俯き加減だった左近は顔を上げると、視線は決意に満ち、しっかりと三成を捉えた。
「三成様、俺、頼みがあります…」
「黙れ!」
三成は一喝した。
「いいか!今すぐ兵を編成し、城下の隅々までその娘を探せ!秀吉様のお顔に泥を塗ることは私が許さない」
「三、成様…」
「何をもたもたしている!さっさと娘を探しだしてこい!」
望みが命となり、深々と頭を下げた左近は急いで部屋を後にした。駆ける音は煩いが、足の運びは息を吹き返したように廊下を蹴っていた。
背後にはすっと吉継の気配があった。
「やれ、よいのか。あれの云うことは、恐らく主の命じたそれそのものぞ。一介の民に兵を割き、万一の事あらば主が責を負う」
「そんなことは分かっている。任務はまだ継続中だ。それに、あやつにはこれからの豊臣にとって、手足とならねばならぬ。だが、兵を預けたにもかかわらず、連れ帰らなかったその時は私が切り刻んでやる」
「どちらを」
「…黙れ刑部」
「ヒヒ、手ずからか。人はそれを親ばかと云うぞ」
「親ばかなどではない。地べたを這いずりまわって浪人をしていたあやつにとって、どいつもこいつも放って置けぬ性分なのだ。さっさとけりをつけさせ、仕事に専念してもらわねば――見てみろ。あの机の上を」
「…今宵はやけに、寛容、か」
「家長や頭に恵まれぬことほどの不運はないと思っているだけだ」
「ほう、娘のことか。主が言うと、説得力が増す」
「貴様、さっきから言わせておけば…」
「ほれ、主も今から留守にするのだろう。あとのことは任せて早ういけ」
己の責で「兵」と言う名の「人探しの手」を押し付けた三成は、吉継に文句をたれながらも、自身も一隊引き連れ城を出た。
・
松明の明かりがいくつもの塊となって城下へ降りていく。町の四方へ道を縫い目のように散らばった明かりは、路端の隅々までかざし、兵は教えられた通りの容姿の娘と、忍びらしき人物を探していた。じき、千代が居なくなってから一刻になる頃だ。手助けとなっていた薄い月も夜に飲み込まれるようにして水平へ消えていく。
左近は元来た道を戻って再び城下へ入り、花街よりひとつ裏手の道から今一度探すことにした。この通りは、左近御用達の賭場の近くだ。
軒先の竿には、ぼろの手ぬぐいが干しっぱなしになっている。裂けた端がひらひらと嘲笑うかのようになびき、内職の傘が整然といくつも干してある家を通り過ぎた。
路端にはガラの悪い連中がたむろし、賭場で割りを食ったのか不機嫌そうな面を突き合わせている。慌てふためき通りすぎる左近に「旦那ァ何かあったんですかい」と憂さを晴らすように面白可笑しく悪態をついた。この連中は何か知らぬだろうか。左近は問いただそうと振り返った。
が、その視線の先にものの見事に釘付けになった。
身を隠すにはおあつらえ向きな路地がご都合一本、今居る道より左手へ細く伸びていた。賭場の辺りは歩き慣れているつもりでも、これまで全く目につかなかった。長屋と長屋の間に、目立たつ事なく引かれた細い道は、辛うじて人が通れる幅だ。
路地は、挟まれた長屋の奥へとさらに続いている。まだ兵らも調べが済んでいないに違いない。左近は迷わず体を縦にして突き進み、六十歩ほどで開けた場所へ抜けた。
狭い壁の隙間から開放され、しばし呆然とした。眼前には大きな蔵が建ち上がっていた。
真新しい漆喰の壁、何故か屋根は藁葺き屋根だ。いや、正確に言えば、頭かくしてなんとやらに近い。あまりに立派過ぎる瓦を、周囲の瓦解しそうな屋根と同化すべく申し訳程度に藁で隠しているといったところだ。どうみても故意に屋根を覆っている。何でこんなものが…そう思い一歩踏み出すと、突然甲高く重たい音を立て厚い扉が引きずられるように動いた。左近は慌てて蔵の影に隠れた。
背にした壁より、聞き覚えのある男の声がする。よく耳をすますと賭場で丁半両方どうですかと左近を煽る仕切りの男だ。もう一人は…知らない男のものだった。余裕あるゆったりとした口調を耳にしていると、息を潜めていても惑わされるような妙な緊張感が背中から絡みつきそうだった。
─ へい。店はすぐ手配するようにします。
─ まだ払い金は残っているのでね。
─ 承知しておりますよ。
─ それからくれぐれも調子に乗るなと忠告しておこう。頭に伝えてくれたまえ。
─ へい。しっかりと承りました。そいじゃあっしは、宿場近くの店をあたって話つけてきますんで。
これにて失礼します。小走りに草履の音が遠のいていった。まだ、もう一人の気配はある。左近は会話を反芻していた。
この蔵は、賭場の持ち物なのだろうか。あの小さな賭場より立派な蔵があるとは思いもしなかった。
それに賭場の男は一体誰と話をしていたのだろうか。会話の端々に出てきた言葉も妙に気にかかった。店、払い金…、今、千代を探しているせいか気持ちが急いている。何もかもを紐付けて考えるのは早合点というものだ。が、気になる。
とにかく、知らぬ男がここを立ち去るまでは動くに動けず、左近はしばし辛抱した。
空に浮かんだ星はますます威勢良く瞬き始め、闇が深くなった。
正体不明の男にはどうやらお供が一人居た様子で、先ほど一緒に蔵から出て行った。ここまで来たからには中を調べぬわけにはいかない。施錠された蔵を、左近は鍵師の如く華麗な手さばきで再び解錠し、神経を毛穴まで張りつめ、腰の獲物に手を掛けたまま慎重に中へ入った。
奥へ進んでいくと少量の油が入った火受け皿には、こよりが浸り、細い煙をあげ目に染みる臭いを漂わせている。それを手に取り、かろうじて残っていた燻りにふうと息を吹きかけた。床に落ちていた紙きれをくべ、勢いを取り戻した灯りで周囲をかざした。
壁一面には、何段もの棚が天井辺りまで備え付けられ、そこには縦長や横長の大小様々な桐箱が鎮座していた。箱には色とりどりの紐が十文字に掛けられ、達筆な文字が走っている。よく見てみると茶碗や漆器の類の名で、また大層な文句が書かれてあった。内容からするに値の張る骨董品のようだ。
「どうみたって普通の蔵…か…?」
それからも隈なく調べた左近だったが、期待も虚しく特段怪しくもない事を確認すると、元通りに施錠をし、蔵を立ち去った。
やがて、散り散りになって捜索にあたっていた兵士たちと合流した。
兵たちは城門に集まっているが、何故か出た時よりも兵の数が明らかに多かった。その答えは輪の中の三成ではっきりした。別の隊を引き連れ三成も共に捜索に加わっていたのだ。その隊も今しがた戻ったようである。混雑する兵の隙間を縫い左近は報告した。三成も娘や忍の手がかりは無かったらしい。
誰もが怪しい人物を見つけられず、苦い顔をしている。こんな夜更けには、目撃者も殆どいないに等しい。本当にあの忍は千代をどこへ連れて行ったのか…三成も腕を組み唸っていた。
「娘を連れ去ったのは恐らく、高利貸しの胴元の可能性が高いな。恐らく、返済金が城の金であることを知っているのだ。こちらの動きに勘付いたに違いない」
だが、肝心の高利貸しの人相も名前も分からないので探しようがないのが現状だ。三成の眉間は険しかった。
「左近、娘との話で他に何か、胴元の特徴を言っていたとか、思い当たることはないのか」
「思い、あたる…」
千代と話したこと…それはほんの僅かで最低限のやり取りばかりだった。頭をかきむしり左近は記憶をたぐり寄せた。
連れ去られる前の疲れた様相。
出陣前夜、格子を隔てながらも向き合い手を重ねたこと。
ともに蕎麦を食べた時のこと。
そして千代と初めて会った時のこと…。
あの時は明け方の賭場だった。二階で余分な支払いを待っていた左近の前に、似合わない着物を着て千代は品よく頭を下げていた。後にそれが初めて座敷に上がった日だったと言っていたが、左近はその所作が目に焼き付いている。
育ちは良い所なのだろうと一目見て思った。妙に落ち着いた様子だった。いや、原因はそれだけでは無かったのかもしれない。まるであの場所を―― 左近はそこではっと息を飲んだ。
千代の父親は、勘定方に就いていた。母親は料理屋をやっていた。そして、あの賭場も元は――
「料理屋…。そうだ、料理屋…!!」
三成は怪訝そうな表情を浮かべた。
「あのっ、俺がよく行く長屋の賭場!あそこ元々料理屋だったんすよ。で、そこを買いとって今賭場になってるんです!」
何?と三成は眼光を投げた。
あの賭場が出来たのはここ数年のこと、千代の父親が母親の料理屋を売り払ったのもここ数年内の出来事だ。
初めて会ったあの日、千代はわけも分からず座敷に連れられ、しかも初仕事の日だと言っていた。右左わからぬとはいえ、癇癪を起こした左近を何故か臆せず引き留めた。例えばあの場所が彼女にとって馴染みのある所だったとすれば、店を手伝っていたならば…或いは、
加えて賭場が料理屋の居抜きであるという事実も偶然とは言いがたい。
賭場の頭に、賭場を開いた経緯を聞いてみる価値は十分にあった。千代の父親が店を売るに際し、何か理由を聞いているかもしれない。高利貸しのことを何か知らぬだろうか。
「まだ壺振ってるに違いねえ!」
左近は双刀が腰にあるのをしっかりと確認すると、三成の制止も聞かず再び城下へ走りだした。