朝 顔 の 檻
第 二 話
半兵衛直々の命を受けた左近は、それから一月の間毎日勘定方へ出入りし、執務に関わる者に怪しい素振りがないか、目を光らせ仕事をこなした。ところが、左近のこれまでの仕事といえば、鍛錬場での指南役、馬の世話、城下の見回りと、尽く体を動かすものばかりだったので、狭い部屋にじっと座り、帳簿に字書きをするのは性に合わない。今も、立派な幅広の机には、米の収量が記された帳簿がどっかり積み上げられ、検地との差異が無いかひとつひとつ調べている最中である。これを行うことで、今年の石高を出し、家臣の禄を割り振るので大変重要な役回りだ。地名と土地の広さと収量とを照らし合わせる頭脳労働は、大変な苦痛であった。
八つ時になりしばしの休憩に入った左近は、凝った肩を回して庭へ出た。今日も大変天気が良い。夏にはまだ遠いものの、さんさんと降り注ぐ陽の光には、緑の勢いが増している。木陰は至る所に現れるもじっとりとした初夏特有の湿気の籠もる様には、益々疲労が重く伸し掛かってくる気さえあった。しかし、開放感しかない庭を歩けば、外仕事に思いを馳せてしまうのも常々。そうしてふらふらと歩いていると、丁度昼寝に良さそうな庭木を見つけ、根本に腰を下ろした。背をもたれ後頭部に手を組み目を閉じた途端、人の気配があった。左近の正面、おおよそ十間ばかり先にある薪を保管する掘っ立て小屋からだ。からんころんと小屋の外に薪木を積み上げる音が聞こえたかと思えば、下男が二人視界に入り込んだ。
一人は城内でよく見る古株の中年の下男、もう一人は若いくすんだ赤い髪の下男だ。後者は見たことのない男である。新入りなのだろうかと興味に駆られた左近は腰を上げた。
やって来た左近に中年の下男は気づくと、顔にくしゃりと笑みを浮かべ「良い日和にございますなあ」と頭巾を取り、頭を下げた。
「よう!精が出るな。っと、そっちの赤い髪のは新入りかい?」
おい、と左近は若い下男に声を掛けるも、何の反応も無い。頭巾は、目が隠れるほど深い位置で被り、おまけに前髪が長いものだからその表情すら分からない。若い下男は軽く会釈をするだけで随分無愛想だった。仮にも石田三成の左腕である。左近は少々むっとした。
「ああ、島様、とんだご無礼、申し訳ございません。こいつあ、相当に無口なんでさあ。気を悪くしねえでくだせえ。まこと悪気がある訳じゃねえんで」
「…何か、訳ありか?」
「いいえ、全くそういうわけじゃねえんです…。ちょいと寡黙が行き過ぎてるだけなんですよ。いや、でもね、小太郎に薪割りさせたらそりゃもう、上手いのなんのって」
「へえ」
小太郎と、呼ばれた男は無言で太い丸太の切株に薪木を立てると、すとんと斧を下ろした。割れた薪はものの見事に真っ二つで、大きさも等しい。それを手際よく軽々とやってのける。今はまだ薪の消費は少ないが、冬が近づくにつれると余計に必要となる。斧を上げ下げする薪割りは重労働だ。以前よりそろそろ若いのが欲しいと言っていた下男の気持ちはよく分かった。
息子を見るように、下男は無心に薪割りをする小太郎を眺めている。
「わたしも随分助かっているんですよ」
「そうかい。それにしても、小太郎っつったか?あいついつ頃から城に勤めている」
「ここ四五年といったところですかな。何にせよ、助かっております」
「勤めて結構になるんだな。俺は今日初めて見たと思うんだが…」
「最初のうちは、風呂の番させてたんで。顔合わせないのも無理はねえです」
「そうか…。邪魔して悪かったな。励んでくれ」
そう告げると、左近は背に規則正しい薪割りの音を受けつつ、再び昼寝を再開した。
休憩を終え、執務室へ戻ると、部屋には新たな検地の調書がたんまりと積み上げられている。声にならぬ呻きを飲み込みつつも、忙しく項を捲る同僚の隣に座った。左近も冊子を何冊か手繰り寄せ、表紙に手をかける。それにしても…と左近は先ほど会った下男、無愛想な小太郎がやはり頭の隅に引っかかっていた。彼の存在はこれまで知るところでは無かったが、果たして以前より城に務めていただろうかと疑問だったのである。城の使用人とはだいたい顔見知りであるにも関わらず、記憶を遡ってもどうも思い出せない。左近はいつの間にかぼんやりと、手が止まっていたらしく、眼前には、更に同僚より冊子が上乗せさせられていた。
その日の執務兼監視を終えたのは暮六つになる頃だった。
相変わらず、金の使い込みに関わっていそうな収穫は何一つ得られなかった。勘定方を観察していても怪しそうな人間は居ない。三成の左腕という地位である左近には、それなりに部下後輩も多く、互いの命をむき出しにしながら戦場を共にする者もいるから、身内を疑うのも段々と心苦しくなりつつあった。だが事実、帳簿は改ざんされ蔵の金は減っているのだ。どうしたもんかと、執務室を後にした。
左近は半兵衛や三成、吉継が待っている部屋へと急いだ。今夜は報告日である。目的の部屋は人の行き来が少ない棟にある。静かな帳の中には夏虫の会話が忍びやかに交わされ、左近はその密話の中に入り込むように廊下を渡った。
銚子と猪口の甲高い音が聞こえる部屋へ到着すると、失礼しますと障子戸を引いた。入口に一番近い場所には吉継が座っていた。
「やれ、今夜はちと遅かったな。主も早く座れ」
「すみません。なかなか、筆を握りっぱなしってえのも慣れねえもんで」
頭の後ろを書きながら左近は三成の隣に腰を下ろした。今夜も、良い報告は出来そうにない。成果を得られず、申し訳ない心持ちでいると半兵衛は左近を労い、酌をした。
「首尾はどうだい?」
「それが、まったく何もありません。怪しいというより、皆仕事に真面目過ぎるほど真面目です」
「うーん。なかなか難しいか。僕としたことが、もっと厳しく監視しておくべきだった」
すると三成が口を開いた。
「なにも半兵衛様の責ではございません!改ざんした者を一番に処罰せねば」
盆に銚子を置いた半兵衛は、顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。
「大谷くん、例えば帳簿を改ざんした者が城に居たとすれば、だ。その人間はいつまでも城には居ない…と、僕は思い始めているんだけど」
「うむ、確かに。改ざんした後、すぐに姿を眩ませたとすれば、それは逆に目立つであろうからな。故に、しばし時が経った後、城より役目を降りた可能性が無きにしもあらずだ」
「やっぱり、そうだろうね。三成くん」
三成は箸を置き、居すまいを正した。
「ここ数年の間に、城を辞めた使用人や家臣を少し調べてくれるかな」
「は、お任せを。怪しい者は問答無用でこの三成めが処罰したします」
「あまり早まらないでね。調べたらまず僕に報せてくれ。そして、左近くん。君はもう通常の任に戻って貰おうかな。これ以上は何も出てこ無さそうだ」
監視の任を解かれるとあって、左近は帳簿の四壁から開放された心地になった。なんとも軽い気分である。半兵衛は苦笑いをしていたが、三成が見逃すわけがなかった。
「いいか、左近、勘定方の任が解けたとて、城下の見回りは怠るな!貴様の働きぶり、いくら監視が主とはいえ、多少は耳に入っていたのだからな!」
「だ、大丈夫ですよ!俺だってやるときゃ、やりますって!」
帳簿改ざんの件は、結局三成の調査待ちということとなり、左近は久々に休暇を貰えることとなった。明日一日暇となったのである。そうと決まればと、左近は早速、賭場へ繰り出すことにした。
夕刻までの疲れは何処へやら、報告兼食事を終えた左近はすぐに城を出た。寝静まった城下の長屋、その一番奥の古い賭場目掛けて意気揚々と足を急がせた。
城の虫は忍びやかに鳴いていたが、こちらのものは路地の雑草からかしましく声を響かせている。人の気配に驚くわけでもなく、まるで賭場のように賑やかな音が延々と鳴っていた。
人通りの無い侘しい細い道を進み、大八車に座る猫をからかいながら歩みを進め、目的の賭場まであと二棟分の所まで来た時だった。
突然、目線を延ばすと、真っ黒な影がすっと路地に吸い込まれていったのである。一瞬猫が飛び跳ねたかとも思ったが、大きさからして間違いなく人のそれだった。賭場の辺りには、ろくでもない連中がうろうろしているのは日常茶飯事だ。左近は気にせず、通りすぎようとした。が、影の消えた場所から女のすすり泣きが聞こえている。左近は驚き戦いた。得体のしれない何かではなかろうなと、耳を凝らしていると明らかに人の息遣いは聞こえた。夜の更けた頃に、ましてや割合治安が悪い場所に女一人とは、まったく身の程知らずも良い所だ。
面倒な関わり合いは御免だと思い、通りすぎようとしたのだが、耳に届く嗚咽が放っておけず、左近は恐る恐る路地を覗きこんだ。月が登っているとはいえ、建家と建家の間は真っ暗である。多少目の慣れてきたところで、背を向けて人がしゃがんでいるのがわかった。
「お、おい。あんた」
それだけの言葉を発すると、女はビクリと肩を震わせ、急に土下座をし左近へ謝り始めた。額は地に付きそうである。
「だ、旦那様、申し訳ございません。私があまりにも、無礼を、どうかお許しくださいませ…!」
「いきなり何に謝ってんだ?俺は旦那様じゃねえよ。てか、こんな所に女一人じゃ危ねえだろ」
意表を突かれ、え、と漏らしたか細い声と共に、女の顔が上げられた。目元を真っ赤に腫らしているのか、涙が止まらないのか、手のひらで顔を覆っている。ところが女が片方手を離した途端、左近は気まずくなった。目の前の彼女はいつか、賭場の二階で会った恐らく茶屋の娘である。よくよく姿を見れば今夜も派手な着物を着ているが似合って居らず、またそれも襦袢のように薄い物で、帯を着けていなかった。むき出しの腰紐に左近の内には嫌悪感がのさばり始めていた。今彼女は仕事中だったのだろうか。想像したところでため息を付いた。一方の娘も左近に気がついたらしく、言葉に詰まり目が泳いでいる。
「…もう一度聞くが、こんなとこで何してんだ」
「あの、その…。逃げてきてしまって」
「逃げて…?俺ん時は引き止めてたじゃねえか」
「あの時は、初めてのお座敷で…何も分からかったものですから…」
左近は眉を上げた。何もわからずにと言うからには、この女は良いように言いくるめられ、あの夜は賭場の二階に連れて来られたのだろうか。であるならば、どこからか売られて茶屋に入ったのだろう。三成が以前、賭場の胴元は人身売買にも手を染めていると言っていたのを思い出した。女は賭け事の担保とされたか、或いは借金の肩代わりか…いずれにせよ哀れではあるが、想像により左近が深入りする義理はどこにもない。敢えて出来ることと言えば、この女に手を出さないことが唯一の情けである。
女は泣き止んでいたが、夜風が寒いのか両腕を抱えて震えていた。このまま立ち去ってもよかったが、左近には豊臣の将という矜持が働いていた。彼女の正面にしゃがむと、片足を突っ込んだと諦めて問いただした。
「どうすんだ。座敷に戻るんなら送ってくが、店へ帰りてえなら…そう言え。まあどっちにしろ、店の奴にはどやされるだろうがよ」
驚いた両眼は目一杯に涙を溜め、真っ直ぐに左近を見つめていた。答えを聞かずとも言いたいことは分かるが左近は待った。
「今夜はもう帰りたいです…」
小さな声でつぶやくと、また泣き出しそうだ。嗚咽されぬうちに左近は急かした。
「わーった、わーった。ほら、立ちな。歩けるだろ」
少々乱暴ながらも彼女の腕を掴み、立ちあがるのを支えた。乱れた着物も直してやり、帰る場所を聞いた。彼女の寝泊まりする処は、茶屋の裏にある長屋の一角であるらしく、店の人間は皆そこで寝泊まりしているらしい。左近は花街の裏手に長屋が密集しているのを思い出し歩き出した。
空には下弦の月が傾きつつある。左近は力無く歩く彼女の横に並んだ。時折、足下がおぼつかなくなる時がある。見ていて危なっかしいことこの上ない。今夜何があったのかは知らないが、心身ともに疲れている様子だった。更に彼女は仕事をばっくれたのであるから、帰路の足取りが重いのも無理はない。しばし二人は無言のまま進んでいると、今度は石に躓き左近の方へ倒れこんだ。ところが肩を支えた時、腹の虫がぎゅるりと鳴るのが聞こえた。羞恥に下を向いたまま左近の腕に支えられる彼女はしばし顔を上げられないでいる。「腹減ってんのか」と問えば、蹲るようにこくりと頭を縦に振った。
左近はそれまで嫌悪していた気持ちがすっかり呆れと笑いに変わっていた。
賭場周辺の通り沿いには、夜遅くまで屋台の蕎麦屋が練り歩いており、左近もよく利用していた。運良く赤い提灯を見つけると「ちょいと蕎麦屋!」と屋台の進みを止め、左近は彼女の手を引いた。
店主はすぐさま二人分の蕎麦を作り始めた。屋台の停車した所は材木屋の前だった。丁度よい按配に、角材がいくつも積み重なっている。左近は腰を下ろすと、彼女も遠慮がちに隣に座った。出汁の匂いが立ち込める間、彼女は一言も喋らない。名くらいは聞いても深入りにはならないだろうと、左近は「名は何だ」と聞いた。それが意外だったのか、驚いて顔を上げるもすぐ頬を染めて俯き、彼女は小さく呟いた。
「千代と言います…。お侍様のお名前も、お聞きしてもよろしいですか」
「あ?俺か、俺は島左近だ」
名乗ったところで、店主が丼を両手に抱えてやって来た。
「旦那ー、どんぶりはいつもんとこに置いといて下せえ。明日にでも回収に回るんで」
「おう、呼び止めて悪かったな」
いえいえと答える蕎麦屋に、左近は代金を支払った。
「へい、ありがとうごぜえます。またご贔屓に」
蕎麦屋はまた車をごろごろ引いて、道の奥へと消えていった。
「ほら遠慮すんな、食えよ。伸びるぞ」
左近は夕食をとったにも関わらず、随分な勢いでずずっと大きな音を立て蕎麦を啜った。千代も、手を合わせてとんぶりに口を付けた。
「うめえだろ。店を構えろって言ったんだが、あの親父頑固だからな。店はやらねえんだと。屋台の方が気楽でいいらしい」
あっという間に平らげ、最後まで汁を飲み干した左近は「ごっそさん」と手を合わせ、丼を置いた。しかし、千代は今だに箸が進んでいない。それどころか、膝の上に乗せた丼に涙を落としている。またか、と左近は溜息が漏れた。
「あんたよー。そんな泣きなさんな」
「す、すみません。こんなに美味しいお蕎麦久しぶりに食べたので、温かくて…」
「そりゃできたてだから、あったけえに決まってんだろ。いいからさっさと食え」
はい、と鼻をすすりながら、千代は蕎麦を啜った。食べ終えるまでに随分時間を要したが、左近は黙ってその様子を見ていた。
千代の年の頃は、左近が初めて会った晩の見分に間違いないだろう。が、幼さが残るも妙な色気がある。茶屋で働いているからだと言えばそれまでだが、その娘に限って派手な着物が似合わないのはさすがに致命的である。まず、誰より目立ち客を取らねば生き残れないにも関わらず、千代は控え目で大人しい。
左近は頬杖をつき、さらに千代を観察していた。白い頬をふうと膨らませ蕎麦を冷ます時、箸や丼の持ち方、何となく落ち着いた所作は上品に思える。こんな娘には、もっと上等なもんでも着せてやれと、思案したところで左近ははっとした。千代の所作には武家のそれが染み付いていたのを思い出した。左近の中にひとつ問いただしたいことが出来、踏み込んでみてもよかったのだが、千代は蕎麦を食べ終えていた。ご馳走様でしたと手を合わせ「美味しかったです。ありがとうございました」と、向けられた笑みに、左近は顔を反らし立ち上がった。
「ほら、食い終わったんならさっさと行くぞ」
千代も慌てて立ち上がった。少々落ち着いたのか、ふらついていた足下は蕎麦を食べる前よりは大分ましになっている。
左近は千代の半歩後ろを歩き、後ろ姿をまじまじと眺めた。やはり両の手を前で重ね、行儀よく歩いている。城内の侍女もよくこんな風に歩いている。武家の娘なのだろうな…今一度思案したところで、左近がどうすることもない。千代は、花街の茶屋で働く娘で、左近はたまたま通りかかっただけである。三成の忠告を真摯に受け止めなければと気を保った。
蕎麦を食べた場所から、近道をしたので花街はすぐだった。その大通りはこの時分でも昼のように煌々としていて、提灯は四方八方に明かりを散らしている。この通りのもう一本奥の小さな辻からが、茶屋の長屋だった。会った時よりも気を取り直した千代はくるりと振り返った。
「島様、今晩はなんとお礼を申し上げてよいか…。ありがとうございました」
「気にすんな。たまたま通りかかったのが俺でよかったな。ともかく、店んもんには謝っとけよ。あんたも後が困るだろ」
「…はい」
「じゃあな」
そう言って左近は、踵を返した。しばしそのまま道なりに歩いていたが、気になって振り返ってみると、千代はまだ頭を下げている。左近の疑問は確信となり、何故あんな娘がと、益々疑念が膨らんだ。
その後、賭場へ足を向けようと思ったが左近は大人しく城へ帰ることにした。いつもなら丁半叫んでいる頃合いだが、何故かあのむさい座敷と男の中に身を置く気になれなかったのである。
夜風を浴びながら上機嫌で城への道を辿っていると、また路地から影がさっと現れた。花街の方の路地からだ。今度はなんだと、目を凝らしてみると見知った顔だ。しかし左近との距離は遠いので、相手は気づいて居ない様子である。
赤い髪に、長い前髪、それに頭巾…。
「小太郎…か?」
そう思ったのも束の間、一度瞬きをしただけだというのに、姿はものの見事に消えていた。目をいくら擦ってみても、己の見間違いなどでは無いと思いたいが、小太郎の姿は闇に解けたかのようにその場に姿が無くなっていた。
変な女の相手をしたので疲れているのかも知れない。そう思い左近はさっさと城へ戻り、寝床へ入ることにした。