03.幻影に怯える無垢

「お堀にコイ、本当に居たなあ、寒いのに春が近くなるのは判るんだね。うん、エラい!魚だけに!なんちゃって、」

 などと、のんきに城内を闊歩しているのは、東の棟の一番北の部屋に住まう伊達政宗の側室の一人、名前姫である。
 先刻、侍女に黙って部屋を抜け出し、意気揚々と冬の晴天の下城内散策に勤しんでいる。
 東の棟からぐるっと外堀を通って、堀の中を覗き込みながらゆっくりと歩くことおおよそ半刻、城には寺があると聞いていた。その寺を探し、今度は南を目指した。
 途中行き交う庭師は、名前の出で立ちを見るや否や畏まって深々と頭を下げる。羽織は伊達の紋付きで輿入れした時に政宗から貰った物だった。長持ちに入っていたので適当に羽織ってきたのである。相当に上等な生地だろうが、今の名前の姿を見た侍女は卒倒するだろう。

 しばらく寺を目指していると、その石垣が並ぶ通り沿いに、細い脇道があった。
 突き当りには大きな御神木の桂の木が鎮座し、ごつごつとした太い幹の窪みに、ぴったりと収まるようにして、小さな古い社が建てられている。こんな日の当たらなそうな場所に、社があるのかと少し足を止めしばらく眺めていたが、丁度その時ごーんと鐘をついたので寺に気を取られ、名前は門を潜り寺へ入った。
 寺の和尚と談笑をして、気分良く着た道を帰っていたところ、先程の社が気になり名前は石垣から脇道をぐいと覗き込んだ。ところが、大きい桂の木はそのまま有るのだが、抱かれるようにしてあった古い社は見当たらないのである。側に行き、辺りを確かめてみるも、木の幹もゴツゴツとしていて苔も蒸しているし、あの時は影の塩梅で社に見えてしまっただけなのかと、そう思うことにして、名前は部屋へ戻ることにした。
 和尚から土産にまんじゅうを貰っていた名前は、こっそり抜け出した名前を見逃してくれた下男に分けようと思い、東の建物を回って裏から部屋へ戻ることにした。ここを通れば、侍女にも見つかることなく、何食わぬ顔で部屋に戻れる。帰りながら半紙の包みを開くと手のひら大の饅頭が三つ入っていた。名前は一つ手にとって、ぱくりとかぶりつこうとしたが、眼前からこちらへ向かってくる人物があまりにも唐突で場違いすぎて、まんじゅうにかぶりついたまま、しばし呆然としていた。
 それは向こうから歩いてきた政宗も同じ事だった。正面から歩いてきた探し人は、恥じらいも捨てて歩きながら堂々と幸せそうにまんじゅうにありついて居るではないか。これが、自分自身で使者を寄越すまでして手に入れたかった側室だったのか、と思えばつくづく出したい涙も出てこない。
 若干うなだれ気味な主人に、名前はすぐさままんじゅうを包みへ戻すと、慌てて地べたに膝をついた。

「ま、政宗様。この様な場所に居られるとは露知らず、大変ご無礼を働きまして申し訳ございません。わたくし、東に居ります──」

 名乗ろうとした所で、急に頭が陰ったかと思えば、政宗が仁王立ちして見下ろしていた。常より、豪胆であり気障も荒いと聞いている。以前は開城する為になで斬りなどがあったと、今更そんなことを思い出し、名前は肩が竦んでいた。日頃ぐうたらしている罰があたったと思い、今一度許しを請おうとした時、政宗は口を開いた。

「アンタが、名前姫だろ。悪かったな、祝言の日は…」
「いいえ、政宗様からその様なお言葉を頂戴するなど、滅相もございません。わたくしには構わず」

 砂利がきしみ、政宗はしゃがみ込みと、名前に顔を上げろと命じた。
 名前は初めて間近で政宗を見た。
 独眼竜の名そのままに、右目は無いが左目ひとつで射抜かれそうである。端正な顔立ちで、全身から自信に満ち溢れる気迫があった。口角を上げて少し笑いながら、名前を見定めるようにして頬に手を添えられる。大きく鍛錬を積み続ける手に思わずどきりと胸が鳴った。普段聞こえる武勇と酷薄な武人像とは打って変わって、他の側室たちが彼の僅かな微笑みと、わざわざ初夜の侘びなど告げる様な心持ちの御仁に落ちるのも無理はない。
 頬は熱を持ち、思わず目をそらした名前を見て、政宗は喉の奥でくつくつと笑っていた。

「そんな反応されるとは思っても見なかったな。随分と初心なもんだ」
「お戯れを…」
「悪く思うな。アンタ、それ、和尚からまんじゅう貰ったのか?」
「はい。雑談をしていましたら、思いの外話が弾んでしまいまして、、和尚様の手作りなんだそうです」
「へえ、一口くれよ」

 名前はぎこちなく、包を開け、内一つを政宗に差し出した。だが政宗は受け取らずまんじりともしない。名前の頭は先入観が蔓延って、何かしらぬ間に粗相をしたかと頭は混乱し、手打ち、なで斬り?!と思考は一杯になっていた。

「アンタが食わしてくれんじゃないのか」

 一応は定義上、政宗の妻ではある。が、そんな事まで頭も気も回らず、二転三転する名前の表情を見て政宗は面白がっていた。
 名前はまんじゅうを一口大にちぎって恐る恐る政宗の口元へどうぞとまんじゅうを差し出した。口を開けてかぶりついた政宗は、名前の指までわざと深く食んだ。舌がねろりと指に絡まり、名前は堪らずきゃ、と瞬時に手を引っ込めると政宗はまたけらけらと笑っていた。

「美味かった。アンタ甘いもん好きか?」
「は、はい…」
「これやるよ。ありがたく食え。この奥州筆頭伊達政宗が直々に作ったずんだ餅だ」

 そう行って政宗は立ち上がり、名前に背を向け手を振り立ち去った。
 まるで突風のように現れ嵐のように名前の感情をかき回し、去って行ってしまった。名前はただただ、疲れた。という感想しか沸かなかった。

 名前の主はその日の夕刻「今晩部屋に居ろ」と文を寄越してきた。
 大喜びの侍女を尻目に、名前は顔が真っ青になり、急に全身に恐怖が押し寄せていた。閨事の手ほどきは受けたが、いざ本当に殿方を前にすれば、この様子では固まってしまうだろう。今度こそ政宗に粗相を働いてしまいそうで、湯浴みを手伝う女中たちからは、情けないかなあまりの顔色の悪さを酷く心配される有様である。
 真白い布団が二つ、枕も二つ。この光景はいつもと変わらない筈だった。いつもなら、広い布団で広々と大の字に寝転がるのが楽しみで、思い切って布団に飛び込むが、今日に限っては閨に二組、横たわっている様に現実をまざまざと突きつけられ、尚も震えが止まらない。
 侍女は「只今香をお持ちしますね」と言って、機嫌よく出ていったきり不在だ。名前は自分に何度も言い聞かせた。初夜が今日に伸びただけで、何でも無いただの夫婦の営みなのだ。名前の選択肢は部屋に留まり、三指をついて、清楚に従順に政宗を招き入れるという他以外の選択は絶対に考えられない。

 しかし名前は耐えられず、あろうことか寝間着のまま草履を突っかけ部屋から逃げ出した。

03.幻影に怯える無垢

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