六、垣根と穴隙と
いつだったか、幼いころ、随分昔にもこうして頭を撫でられ眠りについたことがあった。どんなに恐ろしい夢を見ていても、まとわり付いていた恐怖は自然と解け、次第にまどろみの中へと沈んでいく。
厨の前で半ば強引に腕の中に収まった初穂の、内に渦巻くものが晴れるのは容易かった。憚っていた恐ろしさは、血も涙もない様な男だとか、片目が無いからだとか、決して政宗自身のことでは無く寧ろ初穂のいま一歩の心構えだった。蓋を開けてみればなんということは無かったのだ。淡い気持ちをさらけ出せば拒絶されるかもしれない── 奥深く無意識に勝手に作り上げた恐怖も消え去っていた。
外はじきに日が昇ろうとしている。白んだ障子に目を細め初穂は起き上がった。が、腕を取られまたすとんと横に倒れた。正面から勢い良く布団に突っ込んだ様を見て、主はくつくつと笑っている。顔は火を吹くように熱くなり背を向けると政宗は初穂に腕を回した。
「あんたもう少し警戒心ってもんを身に着けた方がいいな」
初穂にとっては今しがた心を許した相手にまでそれを実行するのは不可能に近い。唯一の抵抗として不服を顔に貼りつけたが、それもまた政宗の手の内と悟った時には時既に遅し、だ。すべての言葉を奪われ、政宗は唇を離すと手の甲で頬を撫でた。
「何もしてねえんだから、これくらいは許せ」
そうして何度目か分からない口づけをした政宗は「もう少し寝てろ」と呟き初穂はまた眠りに落ちた。
寝顔を眺めながら政宗は初穂の髪をすいた。
すうと傍らで安心し、寝息を立てているのが信じられないほどこれまでが長すぎたがそれも今日で終わりだ。自身が初穂を手放す事はないし、初穂も同じ気持ちであると信じている。故に昨晩も無理強いはしなかった。性急にことを運びたくはない。
代わりに、互いの結び目を解くようにあれこれと話をした。幼い頃から目を気にする余り、初穂も周囲の感情には人一倍機敏だということ。また、郷里へ遣っている侍女についても堰を切ったように心配事を口にした。政宗や家臣の前では気丈に振る舞っていても内心心配で堪らないのだろう。入用を問う便りを送るつもりでいるとも話していた。自分の事より他人を優先する心優しい女だというのが改めてわかった。対する政宗といえば自信家も相まって物事を進めるに脇目も振らず多少強引な所もある。冗談交じりに「あんたとは丁度いいな」と答えれば初穂は嬉しそうに「はい」と笑っていた。尚のこと側に置きたいと思った。
しかし政宗にとって、据え膳に手を出さぬとはいよいよ入れ込んでいると我ながら可笑しかった。今の己は隣に女が寝ているだけで始終顔が緩んでいる。ため息は呆れとも安堵とも区別が付かない。もうじき先般の混乱に於ける雑事も片付く。落ち着いた頃に室に迎えたいと考えた。
暫く夢心地に初穂を眺めていると、早くも朝日は高々と昇っていた。また一日が始まる。身支度を済ませねばと思い起き上がると、部屋の外に腹心の気配を感じた。瞬時に頭の中に文句が溢れるが、いつものように漬物石が伸し掛かるような気持ちにならないのは── と考えた所で、「失礼致します」と障子が僅かに開いた。
頭だけをそちらへ向け、用件を話せと言うと小十郎は布団に包まる初穂を一瞥し、深刻そうな表情になった。なかなか言葉が続かぬ小十郎に「どうした」と問えば、彼は珍しく「部屋を変えましょう」と言ってすぐ自室へ来るよう頼み政宗の部屋を後にした。
政宗は羽織を肩にかけそっと部屋を出た。朝の冷え込みは室内のそれとは段違いである。廊下を行きながらやっと目が覚めた。
しかし小十郎が部屋へ呼び付けるなど、政宗の部屋で話すには都合が悪いという事だ。ともすれば初穂に関することに違いなかった。大凡予想をつけた所で小十郎の部屋に入ると、見計らったかのように黒脛巾の気配を感じた。朝から中々濃い話のようだ。政宗は火鉢の側に腰を下ろした。
「何かあったか」
「初穂殿の侍女について、少々…」
小十郎は後方の壁に視線を這わすと、その辺りから「ご報告致します」と低い声で黒脛巾組の忍が答えた。
初穂の侍女を郷里に帰した際、女の一人旅を案じ草を付けさせたがその者だった。護衛と監視の意味もあったが、出立してまだ一日も経っていないにも関わらずの報告とは嫌な予感しかしない。良くも悪くも政宗の判断は間違いでは無かった様子だ。
曰く、侍女のゆえは道中何度か所属不明の忍と不穏な接触があると言う。相手が忍である以上、無闇に近づけば危うく詳しい内容は把握できないものの、ひとまずは何らかのやり取りがある。その事を先に知らせに戻ったと黒脛巾は言った。
「その、何かっつーのは一体なんだ」
「一般的な推測で申しますと…、米沢を探り、どちらかへ情報を流している…などでしょうか」
「この間城にやってきたばかりの侍女が米沢の一体何を探るってんだ」
「調べました所、ゆえ殿は十年ほど前にも米沢城で奉公していたようです。その頃は主に、義姫様の身の回りのお世話を任されていたようで…」
「…All right わかった。これ以上何も言うな。監視を続けろ。あと東にも潜り込ませておけ」
政宗は苛立ちを露わにし、懐から煙管を取り出した。すかさず小十郎が「ここは禁煙です」と手を掲げる。渋々袖にしまった政宗は手慰みに火箸を掴み、炭をつついた。赤く燻ぶる炭を転がすとぱっくりと二つに割れ片方は白い灰になった。
初穂の侍女をよく思い返してみた。一見侍女は初穂と変わらない歳に思うが、十年前に米沢で奉公していたとするならば、いくら若くても当時十四、五だろう。それ以下の歳頃の娘はまだ親元に居るはずだ。だとすれば、端的に見積もって現在彼女の歳は二十四、五── という事になる。政宗は自ら歳の勘定をするも侍女に妙な違和感を感じ首をひねった。だが女はいくらでも若作りをするのだと結論づけ納得した。
他にも不可解なことがあった。
小浜城へ奉公するきっかけだ。いつ頃から奉公先を大内家に鞍替えしたのかその理由がよく分からない。当主でもない限り一つの家に仕える者が大半だが、一度米沢城を出たという事は余程の理由があったとみえる。一体侍女のゆえは義姫奉公時代に何をしたのか、或いは義姫にいびられでもしたのか…それが気になった。
行き着く先のない疑問に顔をしかめていると、いつの間にか目の前には帳面の束が差し出されていた。目尻を下げる小十郎だが、次いで出る言葉は流石は三傑、竜の右目である。日常に顔を出した不穏に彼が動じることはない。
「侍女の件に関しましては、一旦こちらでお預かりします。調べがつきましたら追ってご報告を。政宗様はどうぞご自身の執務に注力なさって下さい」
受け取った帳面は殊更重く感じた。
表紙をめくると内容は軍の編成に於ける武器弾薬の詳細だ。政宗の元にこれが届いたという事は、先の戦で消耗しつくした軍備は整いつつあるのだろう。しかしこれがまた読むだけでも大変な量である。思わず出そうな唸り声を押し殺し、小十郎をちらとうかがった。政宗は顔がひきつった。菩薩のような笑みには言いたいことが山ほどあると書いてある。政宗様、と己の名から始まる小言が始まった。
「この小十郎ご無礼ながら幾度もお節介を焼きましたが、流石に同衾せよとまでは進言しておりません。ましてや妙齢の女子を安々と連れ込むとは…。確かに世継ぎでも出来ればと申しましたが、それとこれとは話が別です。他の家臣に見られでもしましたら大騒ぎです。その辺り──」
「わあった!弁えてる、弁えてる!指いっぽん触れちゃいねえ…」
政宗は後頭部をかいた。昨晩の一切の経緯をまるで見てきたかのような口ぶりだ。きっと小十郎は城のあちこちに目があるに違いない。自室に帰ったならば部屋の中を隈なく調べたいとさえ思う。だが、煮え切らなかった政宗を焚き付けたのは他でもない腹心だ。小十郎はまた咳払いをした。
「しかし…、ようございました。これで私も他家の推薦状を門前払いできるというもの。まとめる事も然ることながら見るだけでも大変な量でした」
「そっちかよ。だがまぁ…Thanks 小十郎」
「家臣冥利でございます。…朝餉も取らぬ早朝から失礼致しました」
「気にすんな。この帳面は預かっていくぜ」
・
政宗が部屋に戻ると、既に初穂は居なかった。布団も片付けられている。朝餉の用意に行ったのだろうと思い、政宗は小十郎から預かった帳面を読み始めた。具足、鉄砲、馬…等々、一頁また一頁とめくり自軍の兵力を把握した。雪解けと共にこれらも溶けぬよう差配するのが政宗の役目だ。次に戦がある場合には早期決着が勝ち戦への近道だと改めて思う。長引けば長引くほど民にも負担を掛けてしまうだろう。
読み進めると、薬や兵糧の項目に移っていた。こちらも必要不可欠だ。予備軍にも必要な量が回っているかと確認していると、少々気になる品目に目が止まった。予備軍の薬の欄に「附子・百匁」とある。政宗は今一度頁を遡り、主力軍の同じ品目を探した。やはり主力軍の薬の欄は「附子・十匁」となっている。
附子は、鳥兜の毒だが鎮静剤として、また時に生の附子は重傷者や垂死の兵に已む無く使っている。だが大変高価でまた扱いにも細心の注意を払わねば成らず、いつも最低限の量しか調達しない。ところが、帳面には主力軍よりも十倍の附子が予備軍に必要との記載だ。これは何かの間違いだろうと、政宗は書き損じの紙の端を千切って朱書きしその頁に挟んだ。
己が役目に没頭していると、障子戸に影が映った。失礼しますと耳触りの良い声が届きそれに返事をする。政宗の前で必死に平静を保とうとする初穂を見るのは実に優越感があった。政宗は帳面を閉じると定位置に腰を下ろした。膳を政宗の前に運んだ初穂を見つめると、とうとう初穂は我慢ならなかったのか指をついた。
「政宗様、昨晩はお見苦しい所をお見せし、また大変な無礼まで働き、誠に申し訳ございません…」
開口一番謝罪とは実に初穂らしい。この距離が縮まるのはまた長いこと掛かりそうである。だが今、それを楽しみと思えるのは心の通じた余裕から来るものに違いなかった。分かりやすい彼女の喜怒哀楽は以前にも増して手に取るように分かる…気がするという考えは一種の自惚れだというのは兎も角として、政宗はひれ伏す初穂の頭をぽんと叩いた。
「ったく、これからいちいち謝ってたらきりねえだろうが。まあ、あんたに昨夜の無礼があるとすりゃ…」
初穂は恐る恐る顔を上げ、疑問符を浮かべていた。無礼というよりは九割九分政宗の欲の塊である。陽も昇りきった今、それを面と向かって彼女に言えば折角の朝餉は驚きのあまりとっ散らかるに違いない。喉元まで出かかって政宗は飲み込んだ。
「…いや何でもねえ。あんたも飯まだだろ。一緒に食え」
襷を解いて、初穂も手を合わせた。食事中は終始無言だ。汁を啜り、椀を膳に乗せる音が交互にひびく。政宗の飯碗が空になり初穂が甲斐甲斐しく飯櫃を持ってきた。盛られた椀を受け取ると自ずと手が触れる。飯をひっくり返さなかっただけでも前進だろう。蓋をした初穂は元の位置に戻り、顔を赤らめぎこちなく箸を動かしていた。
今日は何の仕事を初穂に頼もうかと政宗は思案したところで長持ちに入れっぱなしの着物に綻びがあったのを思い出した。年配女中も針仕事に手が足らないと言っていたのでそちらを手伝って貰うのもいいだろう。初穂に話すと快く返事をした。
「ところで、あんたの侍女のことだが…」
政宗はそこまで告げ言葉に詰まった。今朝の話は黙っていた方が良いに違いない。また余計な気苦労が増えるだけだ。今朝の布団の中での会話を思い出し、話題を逸らした。
「…何か必要なもんがあるなら言え、あっちは寒いだろう。綿入れなんぞ送ってやるのはどうだ」
初穂は目を見開き青い瞳を一身に政宗に向けていた。余程嬉しかったのか椀を置いて頭を下げた。
「わたくしもそう考えておりまして…、どちらかお店をご紹介頂きたいと思っておりました」
「へえ、そりゃ丁度いい。一緒に行くか。案内してやる」
初穂は目をぱちぱちと瞬いている。無理もない。主自ら買い物に付き合ってやるという事が思いがけない様子だった。
普通に城下へ出向くこともあるから遠慮はするな。政宗がそう言うと初穂は顔がほころんだ。店の主人を城に呼ぶのは簡単だがたまには外へ出るのもいいだろう。初穂も米沢城に来てからというもの、今だ城下に出向いたこともないだろうし、丁度良い機会だった。
政宗も執務があるので、各々自身の仕事を片付けたなら二人で店へ出かける事になった。
八つを過ぎた頃、政宗は自身の仕事を終え針仕事に勤しむ女中らを訪ねた。
空き部屋で火鉢を囲み、談笑しながら手を動かしているのが常だ。年配女中は餅など焼き、恐らくは手よりも口の方がよく動いているのだろう。手が足らないというより、彼女らにとっては話し相手が足らないと言った様子にも見受けられるが、身の回りの一切を世話してくれるので流石の政宗も何も言えない。
廊下を行き彼女たちが精を出しているであろう部屋の前に来ると、丁度自身の名が年配女中の口から出たところだった。何やら政宗の話をしている様子だ。思い切って戸を開けるか開けまいかと悩むも、やはり話の続きは気になる。その場に留まりしばし耳をそばだてると、何故か初穂が「ええと、その…」と言って困った声を出していた。話し好きのご年配に何を問われているのか益々気になる。
「今朝厨で初穂さんに会ったら、何だかいつもと違うわねえ、と思ったのよ」
「そうそう。何かいいことでもあったの」
「あの…」
どうも今朝の厨での様子について話しているらしい。すると女中の一人が驚いた様子で「まあゆでダコみたいよ」と言って初穂を笑ったかと思うと、「やっぱりねえ」と言ってもう一人の女中は一人勝手に納得していた。政宗には年配女中二人が自己完結している様子がさっぱりわからない。
「私はね、初穂さんが政宗様つきになったって聞いた時から怪しいわと思ってたのよ」
「あら、私だって政宗様が女物の着物を誂えたいなんて言い出した時から怪しいと思ってわ」
「「うちの殿も可愛いところがあるのねえ」」
などと、言いたい放題言っている。そこでようやく自分と初穂との仲について初穂はあれこれ女中に突かれているのだと理解した。それがまた全て否定出来ないものだから困った。今部屋に入り初穂に助け舟を出すべきだが、今の政宗は火に注ぐ油同然である。ご年配は益々盛り上がるに違いない。すると、初穂が少々上ずった声を上げた。
「こ、こちらは終わりましたので、政宗様のお部屋に行って参ります…!」
そう言ったと同時に障子戸がすたんと開いた。廊下に出た初穂と、政宗は目が合った。
「ま、政宗様…」
「よう、迎えに来てやったぜ」
戸の影から女中二人が顔を覗かせ、政宗を見上げてはにやにやと笑みを浮かべている。老婆心が働いたのか女中は初穂に言った。
「初穂さん、そのお着物は私たちがちゃんとしまっておきますから」
「ええ、ええ。日が暮れるのは早いですから、ささ政宗様もお早くお連れなさいな」
女中は初穂の腕から着物を受け取ると手を振って二人を見送った。
こんなもてなしは初めてのことだ。政宗は初穂を急かし、廊下の角を曲がる間際女中らを一瞥した。しかし見送る彼女らは追い打ちを掛けるように「土産は甘味屋のまんじゅうがいいです」などと聞こえよがしに言っている。ため息をついた政宗は承知した旨を手を掲げ、合図をしその場を離れた。
正直なところ、世話好きの彼女らが初穂の側に居てくれるのは助かっていた。政宗が気づけ無いことを女中たちは気配りができる。また初穂の侍女も今は信用に置けるかと言えば是とはいい難く、再び戦が始まる事を考えると義姫や小次郎のことも相まってなかなか初穂を一人にはしておけない。
政宗つきの女中にすると言った時、彼女たちによろしく頼むと言ったのだ。が、これではまったく小姑のようなものだ。
ため息をつくも、若干の安堵は混ざる。隣で歩く初穂をちらとうかがった。初穂は口元を袖で隠し密かに笑っていた。
「…ったくあの大年増め、ずけずけ入り込みやがって。おい、あんたもいつまで笑ってんだ」
「も、申し訳ありません。政宗様が、あんな風にたじろぐこともあるのかと、少しおかしくて」
「全くお節介な上、気のいい連中なこった…。帰りに甘味処寄るの、覚えておいてくれ」
「はい」
門を潜り、橋を渡って二人は城下を訪れた。
幾つもの通りに大店が所狭しと暖簾を棚引かせ、雇い人は客を呼び込むのに一所懸命だ。
目玉商品、特売品と様々に甘美な文句を並べ、おだて上手な商人たちは通行人を幾人も捕まえている。この時間帯は早い冷え込みに備え、早々と夕餉の買い物客がひしめいていた。
通りに現れた政宗に気づくと、人は尚のこと集まった。皆が店に寄っていってくれと政宗に声を掛ける。二重にも三重にもなった人垣に埋もれそうになる初穂の腕を取り、政宗は呉服屋を目指した。
えんじ色にごふくと白く書かれた暖簾を潜ると、すぐに店主が顔を出した。突然の城主の来訪に驚くのも無理はない。ましてや女を連れているとあってはいよいよ白無垢ですかなどと聞くものだから、政宗は店を訪ねたわけを話した。初穂は、店主に男物の綿入れを一着と、女物の綿入れを二着誂えて欲しいと頼んだ。
手の甲を擦って店主はにこにこと愛想を振りまく。政宗が客としてくればそれは店にも箔がつくというものだ。店主は政宗と初穂を座敷に上がらせ、茶を出してくれた。
「わざわざおいでにならずともご連絡頂けましたら、お城に上がりましたのに」
「たまにはいいだろう」
初穂は女性の使用人と綿入れの生地を選んでいた。男物は渋い色味のもの、女物は揃いの柄で色違いを選んだ。その後は反物を次から次に勧められていた。色とりどりの布地が彼女の傍らに積み上がっていく。見せられるがままいささか困った様子で目移りする初穂を眺めていると、店主が政宗に顔を寄せた。
「政宗様」
「Ah?」
「これ、ですか」
気分良く買い物に興じる様子を見、満足していただけに、小指を立てる店主がやけに憎たらしく見えた。女を連れていれば誰も彼もいい人かと問う。勿論そうだが、わかっているなら正直放って置いて欲しいのが本音だ。ともあれ、今まで女っ気が無かったのもいくらか影響しているのだろう。
「だったらなんだ…」
「うちは、妊産婦用のお着物も多数ご用意がありますので、いつでもお申し付け下さい」
湯呑みを口につけていた政宗は危なかった。今に吹き出した勢いで店主の持ってきた反物を買わざるを得ないところだ。皆々気が早すぎる。どたばたと騒ぐ店主と政宗に、初穂たちが何事かと驚いていた。
政宗はくれぐれも有る事無い事、言いふらすことの無いようにと店主に釘を差し、仕立てた綿入れは城へ届けてくれと頼んで店を後にした。
それからは、甘味屋に寄り女中らへ土産を買い、その足で少しばかり城郭の堀を散策した。所々石垣の影になった水面には薄く氷が張っている。暮れ時が近づき、そこへは夕焼けがきらきらと反射していた。見とれる初穂の頬も同じ色に染まっている。しばし堀を覗き、何か泳いではいないかと目を凝らしたり、城の造りについて説明したり、春になったら、夏になったら…等々、先々の話しをし、ゆっくりと進んだ。
雪かきの成されていない場所をさくさくと進み、二人は城下へ来た時とは反対側の門から城へ戻った。
政宗は甘味屋の紙袋を片手に抱え、もう片方では初穂の手を引いている。無意識だろうが政宗は歩くのが少々早い。城への橋を渡り、生垣の連なる庭へ差し掛かった。初穂は雪の塊に足を取られつつも必死に着いて行くがやはり限度がある。あ、と気づいた時には既に体は傾いていた。雪に埋もれていた敷石に足が躓き正面を行く政宗になだれ込んだ。突然伸し掛かった重みに素っ頓狂な声を上げるも、政宗はしっかりと初穂を抱きかかえた。
見知らぬ人ばかりの城下で、政宗と散策できたのは少しばかり浮世を離れられた気分だった。久々に心の底から楽しいと思えた。青い瞳を気にせずに居られたのも政宗が傍らに居たからだろう。次に城下へ行くことがあったなら、その時は独りででも店を回れるようになって居なければと強く初穂は思った。知らぬ世界を恐ろしく思う事などまったく無意味なことだった。政宗と気持ちが通じ初めてそれがわかった。
初穂は倒れ込んだ胸からゆっくり顔を上げた。目の前の主は「どんくせえな」と言って笑っている。初穂も笑い返すと何故だかこの状況は二人にとって突然に面白可笑しく写り、互いに声にならない笑いがこみ上げていた。どのくらいくつくつと笑い合っていたか、政宗の腕に収まった初穂は頬に火照りを感じるほどだった。
笑いが収まると無言になる。聞こえるのは草木の揺れる音だけだ。傾いた陽は薄闇に溶け互いの表情は先程よりも鮮明には映らない。それに気づいたのがきっかけだったのか、政宗の手が初穂の頬に添えられた。少しずつどちらが何を言うわけでもなく惹かれる──
さくりと雪を踏みしめる足音が聞こえた。互いの唇が触れようとする間際だっただけに、唐突に現実と羞恥が襲い初穂は俯いた。だが音の聞こえた方を見ても人の姿は見えない。初穂の肩を抱く政宗の腕に力が入る。しばし佇んでいると、どうやら垣根の向こうの出来事であったらしい。微かに声が聞こえていた。
政宗は、初穂の耳元に顔を近づけると「逢引きかもな」と呟いた。政宗の見当は大体その通りだと思った。夕闇の垣根の奥、至近距離でしか顔もよく判別できない逢瀬には持って来いの時分であるのは自らが証明している…。
政宗も初穂もこの場を動くのを躊躇った。しばしやり過ごそうとしていると、柔らかい女の声が響いた。
「小次郎様…」
「ゆえさん、発ったと聞いていたから暫くは会えないと思ってました」
政宗も初穂も我が耳を疑った。
互いの名を呼び合うのは紛れもなく政宗の実弟小次郎であり、初穂の侍女ゆえだ。しかし彼女は今、郷里への道中なのではないか。そう考え始めたが最後初穂は混乱に陥った。政宗も状況を整理するのに難儀した。今最善の選択肢は、落ち着いてやり過ごす。それだけだ。
腕の中で動揺する初穂を、政宗はただただ取り乱さないようにしっかりと抱きしめた。