五、銀界燈影

 初穂は最近考えていることがある。政宗と母義姫のことだ。
 先日着物を賜り、嬉しい気持ちばかりが先行していたが、冷静になって考えてみると嬉しさに加えて少しの心苦しさも同居していた。香に過剰反応する程、政宗の義姫嫌いは相当なものである。
 幼少期の辛い過去、当主争いでは対立側の中心に立っていた母親だ。長年の確執は累積し、今にわっと雪崩れてしまいそうなきらいがあった。
 強い心とは言い方を換えれば、執念とも捉えることができる。だからこそ茶会での狂気じみた彼女の態度は恐ろしく感じたのだろう。
 最近まで内儀の下克上が華々しく彩っていた世事であり、それは家中から日ノ本という大きな枠へ大名らの志が移ってはいるものの、中央から離れた雪壁や海に隔てられた土地では、その波濤が到達するには時が掛かる。
 毛利や島津、上杉といった大大名を始め、現在織田信長に台頭した豊臣秀吉、徳川家康も家々の統率を図り、国の外へと働き始めている。地盤を固めた上で天下取りに名乗りを上げているのだ。
 輝宗亡き今、なおも彼女は、再び伊達家当主の座を己のほしいままにしようとの企みがあるのかもしれない。天下を見据えた政宗の足元を掬おうとしているのかもしれない ──
 不安を感じ出せば切りがないが、しかし主の生母に偏見を持つなど家臣にあるまじきことである。
 無礼な考えを振り払う為、初穂は左右に頭を振った。はあ、と白い息が漏れる。籠から藁を一掴みすると、また畑へ敷き詰めるのに専念した。
 地面と雪とが直接触れ合わないように、隙間なく防寒用の藁を置くことが午前の仕事だ。昨晩、風が強かったので大分飛ばされている。本来なら小十郎も居るが、畑を管理する右目は毎日多忙だった。城に居れば居たで主の目付け役に加え、部下への指示に、自身の政務にと体がいくつあっても足りない日々を送っている。
 ようやく畑の半分を整えた頃、草履の音が乾いた空気を割った。

「ったく、ぼうっとしやがって。凍えておっちんでんじゃねえだろうな」

 声の方へ振り返ると、そこに立っていたのは政宗だ。畑の周囲はぐるりと低い竹の柵が囲い、出入りをする為に一人分の隙間があるが、政宗はそちらへ場所を移動すること無く柵を跨いだ。
 厚手の綿入れを胸の前で掻き抱くように腕を組み、初穂の側まで歩み寄る。慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「さっさと終わらせろ。これ置けばいいのか」

 地面に置かれた籠を政宗は一瞥した。だが主自ら土いじりとは小十郎が黙って居ないだろう。初穂はやんわり断った。

「お手が汚れてしまいますから、お気持ちだけありがたく」
「終わるまで待ってろっていうのか」
「あの、わたくし急いで…」
「二人でやりゃ早えだろうが。素直にありがとうございますっつっとけばいいんだよ、何遍も言わせんな」
「ありがとう御座います…」

 政宗は籠の藁を両手でごっそり掴むと、初穂の居る反対側の場所に陣取り、敷き詰め始めた。主がせっせと畑仕事をしているのを呆けて眺めている場合ではない。初穂も作業を進めた。
 寒空の下、主と主付きの女中は地面と睨めっこをしている。何とも絵面は奇妙だ。だが、政宗は案外畑仕事に慣れているのかも知れなかった。要領の良い彼のことだ。小十郎の仕事を見る内に覚えてしまったのだろう。随分手際が良い。
 手を休めず続けると、畑の両端から中心へ、徐々に二人の間は狭まってくる。声を張らずとも言葉を交わせる距離になった時、持っていた藁が絶えたのか、手を止めた政宗は根菜の葉をしげしげと眺め始めた。小十郎が愛おしそうに葉を愛でるのとは違い、物珍しげに葉の裏をひっくり返したり、茎を摘んだりしている。

「そういや煙草の葉は悪かったな。助かった」

 何時ぞやの早朝、煙草の葉が切れたとのことで、初穂は予備を入れるよう頼まれた。(正確には初穂が頼んだ)が、補充した後政宗を訪れると、丁度主は不在だったのだ。その後幾度も顔を合わせたが、本人は礼を言う事を忘れていたと、思い出したらしい。
 初穂は別段気にも止めていなかった。それが仕事である。何でもお申し付け下さいと笑みとともに返し、再び地面に顔を向けた。何となく自分の頬にそっと触れてみる。一瞬熱が溜まった気がしたが、寒風がすぐに攫っていた。
 暫く、政宗はその場に留まったまま、一方の初穂は残りの地面に藁をひたすら置いていく。政宗正面の地面を隠し終え、ようやく午前の仕事を終えた。
 ところが、礼を言おうとした初穂には、肌に突き刺さる視線が降り注いでいた。恐る恐る顔を上げてみると、政宗は不敵な笑みを浮かべ、何やらしたり顔だった。この寒空の下にあるのは、生育中の根菜と、藁、籠、そして初穂である。
 政宗は初穂が口を開くのを今か今かと待っている様子だ。初穂には思い当たるふしがあった。わざわざ、一人の時に訪れたのも、畑仕事を手伝うことも、煙草の話題を出したのも、全てこの為だったのだと気づいた時にはこの有様だ。

「ま、政宗様…、いかがなされましたか…」
「あんた本当分かりやすいな。だがまあ俺の考えを少しだけ読んだのは褒めてやる。単刀直入に言う。あの朝何を見た」

 初穂は見たのではない、聞いたのだ。だが、見た・聞いたの問題ではなかった。事実をどう説明すべきかか考えあぐねる。第一、初穂に説明は難題過ぎた。
 あたふたする初穂を楽しげに政宗は眺めている。今日は先日の様に引き下がってはくれないだろう。心臓は今にも握りつぶされそうなほどに痛く、初穂は答えようにも、口を開きかけてはまた留まっていた。徐々に政宗が機嫌を損ねているのがわかる。

「声を…、聞いたのでございます…」
「声?」
「は、はい」
「誰の」
「女…性にございます…」
「Ah?それだけじゃ分からねえだろ。もっとはっきり言え」

 顔を逸らしたい思いだったが、ぎゅっと拳を握りしめた。
 畑からの帰り東の建物付近を通った際、たまたま情事の声調を聞いてしまったこと、そして、出処が政宗の進行方向だったので思わず遮ってしまったこと。小屋の壁に押し付けるという無礼を働いたことも弁解すると、それを聞いた政宗はあっけらかんとしていた。実につまらなそうにも見えた。

「…そんなことか」
「そんな…で、ございましょうか…」
「少し考えりゃ分かんだろ。冬だぞ。そりゃ四方八方雪まみれ、春になりゃ戦場、今子供こさえねえでどうすんだ。いずれはガキも礎になんだろうが。第一てめえは主がどう見えてんだ。ったく心外だ」
「申し訳ございません…考えが足りず、殿の仰るとおりにございます」

 根掘り葉掘り尋ねられる心配は稀有に終わり、初穂は胸を撫で下ろした。政宗は初穂と歳はそう変わらずも、立派に国を束ねる長なのだ。告げる前とはまた違う羞恥心が湧き上がり、初穂は顔が熱くなる。夫婦も想い合う人も久方ぶりに会えば当然の成り行きだ。
 呆れ顔だった政宗は、土の間から僅かに生えていた雑草を見つけると引っこ抜いていた。主が隣に居て何気ない話をし、畑仕事をするのも、雪解けとともに出陣を見送れば、初穂はきっと思い出すに違いない。
 主の横顔を眺め、自然と笑みが零れた。視線を感じた政宗は初穂に顔を向けると眉を片方上げている。

「おい」

 政宗はおもむろに初穂の手首を掴み、顔を近づけていた。驚いた初穂は尻もちをついたが、政宗は構わず頬に手を伸ばしている。じわじわと覆い被さるような体勢になりながら、視界はどんどん政宗だけに限られてくる。何故か逃げるという選択肢が浮かばず、翻弄されるがまま熱が顔から全身に伝わるのを感じていた。

「あの、政、宗様…」
「頬に泥付いてんぞ」
「え…?」

 言われて、右頬に手を添えてみた。恐らく先程触った時についてしまったのだろう。惚ける初穂を知ってか知らずか、政宗は己が手の甲で拭ってやった。

「ったく、世話の焼ける…」
「ありがとう、ございます」

 政宗は背伸びをし、立ち上がった。着物についた土埃を払っていると、「筆頭!」と政宗を探しに兵らが現れた。慌てぶりから見て小十郎が随分と御冠であるらしい。苦い表情を浮かべた政宗はじゃあなと畑から去って行った。

 ・

 政宗と別れ、片付けを済ませた初穂は本日収穫した分を厨へ持っていくことにした。籠を背負い、足早に進む。すると、東の建物の渡り廊下に一人、女性がすすり泣いているのが目に入った。よくよく見てみると覚えのある後ろ姿である。初穂の侍女ゆえだった。いつも朗らかな彼女なだけに、心配になり駆け寄った。草履が近づく音に一度は立ち去ろうとしたゆえだったが、呼び止めた声が初穂だと分かるとぴたり歩みを止めた。
 振り返った彼女はやはり頬を濡らしていた。

「ゆえ、こんなに目を腫らして…。仕事で辛いことでもあったのですか」
「初穂様…、いいえ、仕事では無いのです…」

 寄り添う侍女と女中の傍らを家臣が一人通り過ぎた。訝しげに二人を見遣るも、無関心を装って遠ざかっていく。この場で話すのは体も冷えるので、初穂は先に部屋へ行くよう命じた。自身は根菜の入った籠を厨まで持って行き、急いで引き返した。
 なかなか、話し出さないゆえだったが、温かい茶を飲み落ち着いたらしい。目頭に当てていた手ぬぐいを膝の上に置き、ようやく口を開いた。

 彼女が以前、伊達家に奉公していたことは既知の所だが、奉公するということはつまり城に住み込みで働くので、親元を離れることになる。勿論ゆえにも郷里があり、両親が居るのだ。ところが、彼女の母親は近頃病を患ったらしく、予断を許さぬ状況であるらしい。
 ゆえは暫く両親の元へ帰郷させては貰えないかと、頭を下げた。すぐにでも首を縦に振りたかったが、ゆえがいかにして母親の様態を知ったのか、その経緯は不明である。
 小浜から米沢に来て日も浅いが、多忙を極める彼女は国に手紙を書いたのだろうか。それでも郷里から返事がくるにも早過ぎるように思う。
 加えて、国元へ帰すとなると、政宗の許しも必要だ。
 ただ、ゆえが東を手伝っていることを政宗は良く思わないだろう。勿論、初穂は一度伺いを立てるべきだったが、ゆえが東を手伝いたいと言ってきた時期が、政宗からの沙汰を待ち続けていた頃であり、当時は、政宗の義姫嫌いも然程気にして居らず、また、政宗に近づき難かったが為に初穂は独断してしまったのだ。
 恐らくこの事を政宗に話せば、再び怒りを買うに違いない。だが、初穂にとってゆえは、小浜の頃からよく世話をしてくれた大切な侍女である。こうして話をしている今も、母親が心配で居た堪れない気持ちだろう。一刻も早く城を出て母の元へ駆けつけたいに違いない。
 初穂は、俯くゆえの手をそっと握り励ました。

「ゆえ、政宗様に頼みましょう。ですから報せを受けた経緯をもう少し詳しく話してはくれませんか」

 一部始終聴き終え、初穂は意を決し政宗の部屋を訪れた。障子越しに声を掛けると、意表をつかれたかのような主の返答があり、初穂は戸を引いた。
 上座には政宗、向かって上手には小十郎が控えている。右目は何ら構わず執務を続けた。
 政宗宛の書簡は、ほぼ小十郎が返書を書く。積まれたものに順次目を落としていた政宗は、顔を上げた。神妙な様子を感じ取ったらしく、手紙を畳むと用件を問いただした。
 経緯を話すと、案の定政宗は終始渋い顔をしていた。煙管に口をつける回数が増し、吐いた紫煙は天井にぐるぐると渦巻いていた。相槌も、返答も、苛立ちを含ませた声色である。灰を返した煙管で政宗は初穂を差した。

「あのな、何もあんたのことを縛ろうって訳じゃねえが、流石に侍女を東の手伝いにやってるその判断は、初穂。てめえがするもんじゃねえだろうが」
「申し訳ございません…。お怒りは重々承知の上にございます。然るべき処罰も受け入れる覚悟にございます。ですがどうか、ゆえを国へ帰郷させては頂けませんでしょうか…」
「その、侍女の生まれは何処だ」

 ひれ伏したまましっかりと答えた。

「出羽国と申しておりました」
「へぇ…、で、一体誰に母親が病で危ないと聞いたんだ?」

 そう、これが初穂の一番の懸念だった。誰に仔細を聞いたのかとゆえに尋ね、告げられた名に胸が騒いだのは言うまでもない。政宗も聞いた瞬間、話を終わりにしてしまうかもしれない。それでも、正直に答えた。

「中野宗時殿にお教えいただいた、と、ゆえは申しておりました」
「却下だ」
「政宗様…」
「娘の国は最上義光の治める出羽、病の報せを聞いたのは中野宗時…なあ、小十郎」

 話を振られ、小十郎は一旦筆を置いた。額に皺を寄せている。正直これほど政宗にとって気掛かりな材料が揃えば、義姫の影がちらつかない訳がない。最悪、ゆえ自身に最上家間諜の疑いを掛けねばならないのだ。だが、母親の病が真実だった場合を考えると、ゆえが不憫である。

「政宗様、どうか…この通り、お頼み申します」

 政宗は立ち上がり、深々と頭を下げる初穂の正面にしゃがみ込んだ。

「顔を上げろ。あんたの目から見て、その侍女はどう映る」
「いつも傍らで支えてくれ、私にはもったいないくらいの器量を持つ、とても心優しい女性にございます」

 真摯に答えた初穂は、しっかりと政宗の隻眼を見つめていた。後頭部を掻きむしり、ため息をついた政宗は小十郎を呼んだ。

「は、」
「道中、草を付けてやれ」
「…命とあらば、手配いたしましょう」

 草は恐らく監視の目的もあるだろうが、ゆえ一人での旅路は不安だったこともあり、初穂は胸を撫で下ろした。何より、許しを貰えたのである。

「政宗様、ご厚恩ありがたく存じます」
「あーもー、わかったからさっさと侍女に知らせに行け、ついでに茶あ持って来い」
「はい」

 今一度頭を下げ、初穂は足早に部屋を出て行った。障子の人影が消えたのを確認し、政宗は初穂を見送ったまま口を開いた。

「小十郎、こりゃ尻尾か。確実に何か、動いてんな…」
「はい、ご推察通りかと」
「叩けば出てくると思うか」
「暫し暇もかかるでしょうが。外堀を固めている最中なのか、それとも ──」

 小十郎の言葉が続かぬので、妙に思った政宗は体を捻った。右目は諌める時と同じ調子で政宗を視界に入れている。

「なんだ…」
「政宗様、無礼を承知で申し上げますが、今の政宗様には隙があります」
「まどろっこしいのは嫌えだ。単刀直入に言え」
「ご正室様を早々に迎えられるのが良いかと」

 煙管を咥えようとしていた政宗は既の所で手を止めた。隙があることと、妻を娶ることに一体何の関連があるのかさっぱりだ。突拍子も無いことを言い出し、訳がわからない。
 が、小十郎の言い分はこうだ。伊達家当主となったにも関わらずいつまでも身を固めぬので、こぞって息女を滑りこませようとする家臣も、家中の小次郎派も、元気に策動に勤しんでいる。というのだ。
 再び筆を握った小十郎は、返書の続きを書きつつ話を続けた。

「政宗様ご自身がしっかりと伊達家の礎を気づいていかねばなりませぬ。世継ぎでもできれば、政宗様が次代の決定権を持つと、その確固たるものを知らしめることもできましょう」
「簡単に言ってくれるな」
「左様で」

 固く頷いた小十郎は胸元に手をいれ、またいつかのように一枚の紙を政宗へ差し出した。今度は何だと、広げてみるとずらっと名だけが連なっている。それも女の名ばかりで、家格は将軍直臣の旗本や、譜代大名、中には国持大名の娘の名まであった。全てに言えるのは、伊達と今は仲良くしておきたい連中だということだ。
 多忙な割に、小十郎はせこせこと嫁候補の選別までしていたらしい。伊達家家臣から選ばないところがまた、主の野心を汲んだ小十郎なりの気遣いなのだろう。しかし、出来過ぎた腹心をお節介だと感じたのは、今日が初めてかもしれなかった。
 それほど、新進気鋭と言われていた伊達藤次郎政宗の名も、奥羽の山脈を越え以南へ轟くまでになり、首も一級になった証でもある。だからこそ小十郎も心掛かりなのだ。最大限に領土を広げた玉座を一気に叩けばそれは丸々手に入る。命知らずな輩は多い。

「いつもいつもてめえは…」
「お気に召しませんか。どの姫も国随一の才色兼備な女性だと聞き及んでおります」
「そこじゃねえ…。預かってはおくが、取り敢えずこの件については保留だ」
「先方方々は喜んで使者を遣わすと言っておりますので、気が向いたらいつでも仰って下さい。手ぐすね引く良からぬ輩は家中ばかりではございません」

 話し終えた所で、障子に影が映った。「お茶をお持ちいたしました」と初穂の声だ。一度咳払いをした政宗は「入れ」と返答すると、初穂は所作よく戸を締め湯のみを政宗と小十郎へ差し出した。
 侍女には郷里へ帰れる旨を伝えてきたらしい。ゆえもまさかこんなに早く許しが出ると思っていなかったようだ。後ほど礼に訪れたいとのことだが、政宗は気にするなと断った。それよりも旅支度を済ませ、早く駆けてやれと言伝た。
 二人がやり取りする間、小十郎は返書を全て書き追え本日の執務を終えたようだ。これにて失礼と立ち上がると、そそくさと部屋を出て行ってしまった。政宗の傍らにはまだ目を通していない書簡が積まれている。早く片付けなければならなかった。

 北国の冬は夜の訪れが早い。空は濃い灰色の合間に薄紫色が差し、室内も大分暗く、冷え込み始めた。四隅に置かれた行燈と、政宗の机の燭台に初穂は火を灯している。書面と向き合う主へ遠慮がちに声が掛けられた。

「政宗様、お夕食はどちらで取られますか」
「Ah…?もうそんなか…。どこでもいい。あー…いや、俺の部屋に持って来い」
「かしこまりました。準備が出来ましたらお呼び致します」

 初穂は火鉢に炭を足し障子戸に手を掛けたが、政宗に呼び止められた。

「おい、あんたも晩飯に付き合え」

 膝を付いたまま反転した初穂は、目を瞬いていた。ふんわり灯った明かりが初穂の頬を染めている。返事がないので政宗は続けた。

「侍女を勝手に東の手伝いにやってた、罰だ。酌でもしろ」
「…斯様な、ご寛大ありがとうございます」
「酒忘れんなよ」
「はい。御前失礼致します」

 暫くして夕餉の用意が整ったらしく、初穂が呼びに来た。提灯を下げて先導する彼女の後ろを付いて行く。自室へ戻るだけだというに、普段通る廊下も、庭先の景色もやけに映えて見えた。いや、今日は早々と石灯籠にも明かりが灯っているせいで、殺風景な白い庭に色が有るように見えるだけなのかもしれない。
 おもむろにひゅうと冬の風が廊下を吹き抜け、背がぞくりと震えた。あまりの寒さに懐に手を突っ込むと指先に何かが当たる感触がある。小十郎とのやり取りを思い出し、ため息が漏れた。
 部屋につき、戸を引いた瞬間今にも腹が鳴りそうな良い匂いが漂っていた。膳には小鉢がいくつも乗っている。冬季は根菜ばかりで品も限られるものだが、珍しく干物も焼いてあった。
 政宗は定位置に座ると初穂はすぐさま政宗の側へ寄り、銚子を傾ける。猪口に波々注がれた酒はよく澗も付いていた。冷えた体は温まるだろう。政宗は初穂から銚子を取り上げると、今度は自身が酌をしてやった。初穂は淑やかに猪口を差し出した。
 政宗が先に口を付けてから、初穂も口を寄せる。冬の水仕事は大層辛いだろう。彼女の指は赤くかさついていた。

「いける口か」
「そう得意では…」
「まあゆっくり飲んで食え」

 膳と器の触れ合う音と、とくとくと酒の注がれる音だけが部屋を満たしていた。夕食を共にするのは、米沢に帰還して以来だ。無理矢理に座敷へ初穂を組み敷いたことが思い出される。初穂も気が張っているのか若干表情が硬いようにも見受けられた。
 白飯を頬張り、政宗は話題を探していた。ふと衝立が目に入った。怒りに任せ初穂をその奥に連れ込んだのはいつの頃だったか…。父大内定綱は気の迷いだと、許しを請いに来た時だ。思い返せばこの部屋ではあまりろくな事が無い。夕食は執務室にすべきだったかと今更ながら悔やむも後の祭りである。
 疑い深い政宗と比べてどうも初穂は情に脆く、誰彼構わず信用し身を挺する性分だ。良く言えば親身になって他人に尽くすことのできる人間だが、いちいち情に左右されていては今に騙されかねないか心配である。そう思い、政宗付きの女中とした。
 だが、彼女の侍女は政宗の気掛かりだった。草を同行させ真偽の程もはっきりするだろうが中々に臭い。

「おい」

 初穂はびくっと肩を弾かせ返事をした。

「あんたの侍女も暫くは城を離れる。小次郎とも近頃仲がいいようだが…、東の人間とはこれ以上関わるな。母上や、中野宗時のことは以前にも話したろ」
「…はい。申し訳ございません。私が短慮なばかりに政宗様にご迷惑を…」

 箸を置いた政宗は、足を崩し膝を立てると、手酌し酒をぐいと煽った。二度、三度と繰り返すのを見て初穂は慌てて止めに掛かった。

「政宗様、そう急いで飲まれずとも」
「違え、そうじゃねえ」

 猪口を押し付けるように、少々乱暴に膳の上へと乗せた政宗は、気遣う初穂を覗き込んだ。彼女は眉を下げ大層心配そうな面持ちで政宗の肩へ手を添えている。政宗はその手を取り引っ張った。

「なあ、本当は何だった…あの夜何て言うつもりだった」

 突然の問に政宗が何のことを言っているのか動揺していた初穂だったが、「あの夜」と聞き今晩と同じ様に食事をしたことを思い出した。政宗は初穂の頬に手を伸ばす。初穂は逸らさずに政宗を見つめ返した。政宗の握る手に力を込めると、少しずつ体を傾けてくる。
 その時、ふと政宗の胸元から、畳まれた紙がはらりと座敷に滑った。室内に擦れ合う音はやけに響き、二人の意識はそちらへ流れた。
 几帳面な小十郎は、連なる名の先頭に、ご丁寧に表題をつけていた。墨は紙によく映る。明かりの下では反転した文字列はよく読みとることが出来た。
 政宗の懐から滑ったものだ。初穂も使命感に駆られ腕を伸ばし、拾って政宗に手渡す。なんとなく歯切れの悪い返事をし、受け取った政宗は何事も無かったかのように懐へ仕舞った。幸い初穂は気づいていないのか、酒が少し入った赤みの差した表情は全く変わらない。
 しかし、互いしか視界に入っていなかった空気はいつの間にか分散していた。ぱんと火鉢の炭が弾けている。極度に距離の近い体勢に気まずさが漂った。

「政宗様、お冷をお持ちします。お顔が火照っていらっしゃいますよ」

 ゆっくり起き上がった初穂は裾を整え、部屋を出て行った。一人残された政宗はあまりの間の悪さに頭を抱えた。彼女への問いは政宗自身への問いでもあったのだ。小十郎が、幾度と無く葉っぱを掛けているのも知っていた。初穂が戻ってきたなら、今度こそきちんと伝えるべきだと思い直した。
 ところが、待てど暮らせど初穂が戻ってこないのだ。
 心配になり、政宗は部屋を出た。宵の口より更に冷え込んだ廊下は、ちょっと厠へ行き来するだけでも体の芯が冷えてしまう。
 初穂の姿を探し、厨へ向かっているとすぐに見つかった。だが、少々様子がおかしい。盆に水差しは乗っていないのだろうか、胸に抱きかかえたまま政宗に背を向け、厨の入口に立ち、全く動く様子が見受けられない。そっと声を掛けようとしたが、それよりも先に板張りがみしりと軋んだ。音に驚き初穂は振り向いた。
 石灯籠の灯りが初穂の表情を捉えた瞬間、政宗は、大股でずんずん廊下を進み初穂へと近づいた。不透明な戦場でも強行突破を辞さない奥州筆頭は、一人の少女の泣き顔にこうも感情を揺さぶられる自身が少々可笑しかった。これまで互いに余計なことを考え過ぎていたのだ。
 逃げようとする初穂の腕を政宗はぐいと掴み胸に抱き寄せた。腕に力を込めると、初穂の抱えていた盆はからんと地面に落ちた。

「あんたに決めてる」

 はっと顔を上げた初穂は、面食らった様子だ。驚きの余り涙は止まっていた。頬に残ったそれを政宗は親指で拭ってやる。間違いなく初穂は、物言いたげだ。きっと、透いて見えた名と家格、そして己の過去を持ち出し、また自ら垣根を拵えるに違いない。
 初穂は気構え、息を吸う。「私は…」と、口を開く。こうも一言一行予想通りだと、いかに政宗は初穂を見ていたのかと忍び笑いした。これ以上聞く必要は無かった。政宗は初穂の唇を問答無用で塞いだ。

「黙って隣にいりゃいい」

 泣き笑いする初穂を見た途端、満ち足りた気持ちが押し寄せた。高ぶりに任せ再び初穂に口づけをすれば、応えるように初穂は背伸びをする。
 いつの間にか、外は淡い雪が優しく降り積もっていた。