三、二つの罠

 小十郎が政宗の元を訪れたのは宵の口、空を覆う灰色の雲は本日も一日中下界を白く染めていた。
 政宗の部屋にも火鉢はあるが、近頃底冷えが一段と厳しいので我慢ならなかったのだろう。部屋に来る度、隙間風にぶるりと体を震わせていた小十郎は、持参した火鉢を元からある火鉢の隣に並べた。政宗は、既に燻っている炭を火箸で摘むと、そちらへ幾らか移してやる。すると小十郎は、「かたじけない」と言いながら何処からとも無く網を取り出し、厨から貰ってきたらしい椎茸を何食わぬ顔で乗せた。ご丁寧に酒まで用意してある。
 腹心の細やかな気遣いには喜びたいものだが、かれこれ十年以上も小十郎と寝食をともにしている政宗だ。怪訝そうな表情をする政宗に、小十郎は眉を片方上げ「お気に召しませんか?」と白々しく呟いた。しわしわになるしいたけを見つめたまま冷えた手を温めている。
 小十郎が政宗の部屋を尋ねたのは、春からの二本松攻略に向けての策を練るためだった。実のところ本日で三日目だ。
 冬季に入り、周りの家とは自然と停戦協定が結ばれたも同然の状況だが、畠山義継の忘れ形見である国王丸は、新国弾正というかなりの切れ者後見人を従えているため油断ならない。
 とはいえ、幼い国王丸に情けを掛け伊達に対向した家々、混乱に乗じ虎視眈々とその領地をせしめんと策を巡らせていた輩は、伊達の圧倒的劣勢だった人取橋での戦いで、陣を三つ潰し混乱へと誘い、連合軍をまるで烏合の衆へと変えてしまった脅威をひしひしと骨身に感じている様子だ。
 近隣諸国に伊達の実力を見せつけたことで、政宗は今後、多くの血を流さず懐柔することを視野に入れている。
 そんな訳で春からの施策を話すため、小十郎は連日出向いているのだ。ところが今晩は酒肴付きだ。毎夜厳しい進言をする右目にしては珍しく緩い。政宗は肘掛けに体を預けると、腹心の思惑を見極めるように目を細めた。

「気い効くじゃねえか。明日は吹雪か」
「たまには、どうかと思ったまでで」
「小十郎のたまには、は、もれなく面倒臭え懸案のおまけ付きだろうが」
「それは、まあ、否定は致しませんが…」
「しろよ」

 まんざらでも無さそうに政宗は尺を受けると「本題は何だ、言ってみろ」と勿体ぶらずに小十郎へたずねた。小十郎は、まだ一杯も飲みきらぬ間に目的に触れられ、政宗の鋭さに苦笑いを浮かべる。一度咳払いをすると、率直に政宗へ問をぶつけた。

「成実のことです。以前なら、あいつもこの場に居て、政宗様はご意見を求めておられたはず。何故、そう頑なになられるのかと…」

 政宗は苦虫を噛み潰したような顔すると、大きく息を吐いた。

「またその話か。放っておけと何度も言ってんだろ」
「…それが、政宗様の本意にございますか」
「くどいぞ小十郎、てめえも、盾付きてえなら話は別だが」
「滅相もございません。死する時は政宗様が御身を守る為と神に誓っております。ですが…」
「ともかく、あいつは好きにさせておけ。それともこの俺が信用ならねえか」

 杯を傾けた政宗は、その縁から覗き込むように小十郎へ視線を流したが、右目が背にする障子戸に警戒するように睨みを効かせると、再び小十郎に視線を戻し目配せをした。今のが察せぬ小十郎ではない。
 女中でも草でもない何となく馴染みのある気配がわずかに感じられた。廊下で身を潜めているのはもしや── 小十郎は居た堪れず立ち上がろうとすると、政宗は静かに制した。

「泳がせておけ」
「政宗様…」

 小十郎から見る成実は、執務は真面目だ。完全に政宗に背を向けている様子でも無く、政宗の言葉通り、毎日を思い思いに過ごしていた。輝宗の死による政宗との確執に、負い目を感じているのも十分知っている。だが、互いに歩み寄る気配もなくこのままでは溝が深まるばかりなのだ。
 信頼している筈の主従関係に綻びが出始めた時、解れた糸は折り重なり、まさしく謀略の温床と成り兼ねない。成実に限って、竜王を称する政宗を玉座より引きずり下ろすことは無いと頭では理解しているものの、政宗同様小十郎より幾らも若い腹心は、非常に多感で情に厚い。故に成実自身にその気は無くとも、あの直情型が誤って糸に絡まりはしないか、踏み外してしまわないか、それが余計に心配なのだ。

 今日日、政宗が当主であるにも関わらず、輝宗亡き後の家中が再びざわついているのもいよいよ以って小十郎の懸念に拍車を掛けている。
 渦の中心は言わずもがな政宗の生母義姫だ。自らが腹を痛めて産んだ子が病に掛かり、結果右目を失ったことは彼女に取って余程人生の汚点であるらしい。我が身の不運をしきりに嘆き、輝宗が政宗を当主にすると掛け合った際には、義姫の兄、霞ヶ城主最上義光へ「次男小次郎こそが伊達家当主に相応しい」とあの手この手を尽くし、小次郎を担ぎ上げる為の後ろ盾を得ようと画策していた。よくある家督争いだが、それを起点に伊達家内の派閥が、小次郎派、政宗派と真っ二つに両断されたのは言うまでもない。伊達の繁栄に尽力している者にとっては、内にも外にも敵があれば頭を痛めること極まりなかった。
 加えて成実の政宗に対する不信は、土台の揺らぎかねない事態だ。家臣団の結束、兵の士気、戦への懸念も勿論だが、小十郎が一番に危惧しているのは義姫側になびいてしまわないかという万一の事態である。それ故に、政宗が何の対処もしないことは、あまりにも無防備過ぎると思うのだ。
 僅かな気配が消えると政宗は再び杯を傾けていた。ひとまず、放って置けと言うのであれば、政宗自身にも何か考えが有るのだろう。小十郎は主を信じ、上げかけていた腰を渋々戻した。
 政宗は煙管に煙草を詰めている。指に挟んだそれを燭台に近づけると、口を寄せ大きく息を吸った。何事も無かったかのようにまた酒を煽っていた。

「で、そればっかりじゃねえんだろ。若い娘との畑仕事はさぞ捗ったこったろうなぁ、小十郎」

 椎茸をひっくり返すと、雫が炭に落ち爆ぜた。ぱんという思いの外大きな音に、小十郎は肩をびくりと震わせる。正面で政宗がにたにた笑みを浮かべるのがわかった。椎茸の表面は調度良い焼き目がついている。小十郎は焦げないように、そっと網の隅によけた。

「お気に召しませんか」
「ばか言え」
「お熱いうちにどうぞ。早く食べてしまわねば焦げてしまいます」
「人の話を聞けってんだ」
「ご自分でも分かって居られるのでは。私は政宗様のご意志に従うのみでございます。山へ捨てろと言うならそうしますし、存分に働けと仰るのであれば、その旨伝えましょう」
「てんめえ…」
「失礼を承知で申し上げます。言葉をはっきり聞かねば分からぬと言うのも理解できますが、女が皆、東の方様ではありませぬし、私はこうして政宗様と杯を交わしていることが何よりだと」

 そう言った小十郎は箸を置き、おもむろに懐から一通の書状を取り出した。一体何だと胡散臭そうにしながらも政宗はそれを受け取る。広げると、冒頭には嘆願と書かれ、政宗と同じ年頃の娘を持つ家臣らの名が連なっていた。内容に目を通すと、無意識のうちに口元に手を当て大きな溜息と共に唸った。丁寧な文章だが、要は「大内の娘、初穂を早々に城から追い出せ」といった内容だ。
 ひとつ彼らが危惧しているのは、贔屓される彼女が政宗のお気に入りで、ゆくゆくは室や妾にでも収まってしまうのではないかという、己が進退の心配だ。当主となってから娘を嫁にと持ち掛ける家臣が後を絶たないのは以前から変わりなく、政宗は面倒臭がって柳に風と受け流していたが、そろそろ限界のようだ。
 政宗は読み終えると、網の乗っていない方の火鉢に投げ入れ煙管を咥えた。たっぷりと紫煙を吸い込んだ後、煙草の灰を返し、幾度か宙で振り熱を冷ますと巾着に仕舞った。杯の残りを一気に飲み干すと立ち上がった。
 網から顔を上げた小十郎は首を傾げた。

「いかがなさいました」

 政宗は返答せず、代わりに小十郎を少々煩わしそうに見下ろしている。

「失礼致しました。冗談です」
「それ全部食っていいぞ」

 そう言った政宗は、部屋を出て行った。残された小十郎は、気掛かりのひとつが上手い具合に収まりそうだと、ほっとした面持ちで焼けた椎茸を齧りにかかった。

 ・

 外へ出ると、一面厚い雲に覆われていた夕闇の空は、端切れのような雲がぽつぽつと浮かぶだけになっていた。隙間から覗く濃紺の冬空には、小さな星が煌き、ほんの僅かな粉雪がちらちらと揺蕩うだけだ。地まで届かぬうちに舞い溶け消えるのを侘びしく思いながら、目的の場所まで足早に廊下を進む。息を吸い込む度に身が震えた。綿入れを引っ掛けて来れば良かったと思うも、今更引き返すわけにも行かなかった。
 部屋へ着いた初穂は、廊下に膝を着くと、仕事を終えてからも今だ前掛けを付けていたことに気づき、外した後「初穂にございます」と声を掛けた。中から直ぐ返答があると障子戸が開き、小次郎が顔を覗かせた。

「いらっしゃい。すみません、急に呼び出してしまって」
「いいえ」

 初穂の元へ東の屋敷から奥女中が訪ねてきたのは昼を過ぎた頃だった。仕事を終えたら、小次郎の部屋まで行くようにと言伝てを受け、初穂は小次郎の部屋を訪れたのだ。小次郎は、初穂を温かい部屋へ入れると囲炉裏の側へと誘った。
 木枠の隅には空になった湯のみがひとつと、茶請けの木皿が乗っていた。先ほどまで誰か居たらしい。一瞬思案に駆られていると、小次郎は初穂にも茶を注いでくれていた。

「温まりますよ」
「ありがとうございます」

 一口飲み、初穂は話を切り出した。

「小次郎様、ところでご用件とは…」
「ああ、そうそう。この間母上が言っていた、茶会の件です。母上は近頃お忙しくしていらっしゃって、突然で申し訳ないんですけど、明日…とか、ご都合どうかなと」
「勿論、お誘い頂いたからには」
「よかった。初穂さんもお仕事あるのにごめんね」

 初穂は首を振ると、湯のみを包み手を温めた。小次郎の用件とは、茶会の旨を伝えるそれだけの事であったらしい。また、今しがたまで人の相手をしていたので、初穂の元まで出向くことが出来なかったのだと、申し訳無さそうに言った。

「ご用命ありましたら、いつでも伺います」
「そりゃ、女中の鏡だね」

 小次郎はにっこりと笑みを浮かべた。
 初穂は、小次郎の部屋へ訪れたのは初めてだった。この部屋も東の屋敷なのだが、かなり端の方で、本殿と直ぐ行き来できる場所にある。つまり本殿から一番近い部屋だ。小次郎の部屋が屋敷の入口側、義姫の部屋はその真反対の場所に位置していた。義姫の部屋は奥という名そのものの配置である。
 ゆるりと室内を見渡すと、棚には書物が入りきれず、座敷に平積みになっていた。見慣れない装丁の本も多くあった。小次郎は大変な読書家であるらしい。

「僕の部屋そんなに珍しいですか」
「あ、いえ…。読書がお好きなのですね」
「ええ、剣の稽古よりは読書に費やす時間の方が多いかなーって程度なんですけど。それはそうと、初穂さん、こんな時間まですみません。厨から直接来てくださったのでしょう。侍女の方が心配しますよね。僕、隣の棟まで送ります」

 茶会の詳細などを今一度確認した後、初穂は小次郎と共に部屋を出た。外は、初穂が来た時よりも一段と冷え込んでいた。肌をさすような痛いほどの空気に、小次郎も身を震わせている。一旦廊下へ出たものの、小次郎はまた部屋に引っ込むと綿入れを被り戻ってきた。手にはもう一枚、綿入れを握っている。少し小さめの綿入れは、鮮やかな鯉が裾に泳いだ可愛らしい綿入れだった。小次郎は少々照れくさそうに初穂に差し出した。

「僕が幼い時に着てたものなんですけど、初穂さんになら丁度いい大きさかも。部屋までどうぞ。風邪引いたら大変だし」
「ありがとうございます」

 初穂も寒さに耐えかねていたので、遠慮無く借り、二人は廊下を進んだ。
 庇のある渡り廊下を進むと、仕事を終えた家臣たちが部屋で思い思いに過ごしているのがわかる。遠くの障子戸に映った影は、笑い声が上がる度に揺れていた。その様子に、小次郎と初穂は顔を見合わせくすりと笑みを含んだ。
 賑やかな家臣の部屋を通り過ぎ、城で一番大きな厨を目指した。初穂の部屋は厨にほど近い部屋だ。普通の一軒家が三つ連なった様な大きな厨は、城での食事を一手に引き受けるので、煮炊きをする所、食材の下準備をする所、配膳の用意、盛り付け等をする所とそれぞれに分かれている。すっかり竈の煙も収まり、明かりも消え、女中たちも誰一人として残って居ない。皆宿舎へ帰ったようで、しんと静まり返っていた。
 三棟の屋根が見えた所で、小次郎は歩みを止めた。

「ここまででいい、かな」
「ありがとう存じます」
「明日は、あまり緊張せずにね。僕も同席するし」
「はい」

 初穂は、小次郎へ返そうと、羽織っていた綿入れを肩から滑らせた時だった。何となく遠くより廊下が軋んだような気がして、顔を上げてみれば小次郎を背にした廊下の奥より、政宗が姿を現したのである。
 綿入れを脱ごうとする初穂を手伝っていた小次郎も、初穂の様子を不思議に思ったのか、その襟に手を掛けたまま振り返った。
 政宗は、薄い羽織一枚を引っ掛け腕を組み、隻眼は二人を見極めるように細められている。少しむっとしたようなしかめっ面を携え、ゆっくりと二人に近づいていた。小次郎は瞬時に初穂から綿入れを預かり政宗に頭を下げた。初穂も慌ててそれに続いた。
 身震いする程の寒さだったにも関わらず、一瞬にして冷たい空気を感じなくなっていた。頬は煮えたように熱く、別段悪いことをしているわけでも無いのに、胸が早鐘を打つかのようだった。叱られる子供でもあるまいに、初穂は今にも逃げ出したい衝動に駆られていた。何を口にしてよいか、必死に頭のなかで言葉を探っていたが、ぎこちない冷えきった空気を割ったのは小次郎だった。

「兄上、お久しゅうございます」
「よう、久しいな。こんな寒々しい晩に逢引か」
「まさか、逢引などと。わたくしが初穂殿に一方的な頼み事をしておりまして今しがたまで掛かってしまった次第。遅くなりましたので、お部屋までお送りした所でございます」
「へぇ…、頼み事…。おい、あんた、こいつの言うことは間違いねえか」
「は、はい。何も相違ございませぬ…」

 政宗は、小次郎の持っている綿入れが気になっていた。幼い頃見覚えのある柄の綿入れを、初穂が羽織っていた。頼み事とやらが、何なのか検討も付かない。当主である己のあずかり知らないところで、歯車が上手く噛合い回っている。それが無性に気に入らなかったのだ。
 柱に寄り掛かり、政宗はなおも、問いただそうかと思案したが直ぐに柱から肩を離した。

「小次郎、てめえもあんまりこっちでうろうろしてっと、母上に叱られんぞ。早く戻れ」
「お言葉ありがとう存じまする。兄上も、お風邪など召されては大事にございます。お早くお戻り下さいませ。御前失礼致します」

 政宗が戻れと命じたなら、小次郎はこの場を離れない訳にはいかなかった。初穂へ一度目配せをしたあと、今一度政宗へ腰を折り東の方へ廊下を引き返す。今だに頭を下げたままの初穂は顔を上げられなかった。
 小次郎の足音が徐々に遠ざかっていくのが分かる。それが聞こえなくなったが最後、初穂は「おい」と投げられた低い声に身が竦んでいた。いきなりに手首を掴まれたかと思えば、背には壁、正面には射抜くように政宗が初穂を見下ろしていた。いつだったか、過去にも同じような事があった。書庫で名簿を取ろうと難儀していた時だ。あの時と同じように、政宗は初穂を疑い抱くように睨んでいる。思わず視線を逸らすと顎を掴まれ強引に瞳を覗きこまれた。

「いつから小次郎とよろしくやってんだてめえは」
「な、何もやましい事などございません…」
「頼み事とやらは何だ。包み隠さず全部話せ」
「茶会を…」
「Ah?」
「義姫様より、輝宗様、政宗様の礼をさせて欲しいと…茶会にお招き頂いたのでございます」

 政宗が初穂を押さえ付ける力が一層強くなった。手首の痛みに耐えかね声を漏らすも政宗は構わず、質問を続けた。

「茶会はいつだ」
「明日にございます」
「俺の許可無く何勝手な事してやがんだ、Ah?」
「申し訳、ございません…」
「東には寄るなと言わなかったか」

 初穂は失念していたわけではなかったのだ。あの日、考えこむが余り雪のない道を辿ってしまい今に至る。気づいた時には、小次郎とも義姫とも顔を合わせていた。政宗が幼い頃、その病の為に母義姫からあまり愛情を注がれなかったと耳にしていたが、初穂が一見した限りでは、こうも毛嫌いしている理由が正直な所よく分かっていないのだ。
 だが政宗の怒りをまたもや買ってしまった。初穂はもう一度、申し訳ございませんと、か細い声で呟くと、政宗は掴んでいた手を離した。途端に力が入らなくなり、初穂はずるずると膝から崩れ落ち廊下にしゃがみ込んだ。再び「おい」と呼ばれ、顔を上げれば月を背にし政宗は初穂を見下ろしている。

「明日の茶会は行け。行かねえとまた何言われるか分かったもんじゃねえ。それから…」

 そう言った政宗は、己もしゃがみ込むと初穂に視線を合わせた。

「あんたには金輪際、こっちの女中仕事を辞めて貰う」

 告げられた言葉に初穂は頭が真っ白になっていた。いずれ沙汰が下されると分かってはいたものの、まさか今それを告げられるとは夢にも思わなかった。心の準備が出来て居らず、思いの胸が心苦しい。政宗の言葉が重く伸し掛かっていることに、初穂は改めてあの晩、政宗の部屋で素直に想いを口にしていたらと悔やんだ。だがそれも後の祭りだ。
 初穂はきちんと居すまいを正し、手をついた。人間不思議なもので、既に城を出た後のことを考え始めていた。一番心配なのは、連れてきた侍女ゆえのことだ。彼女だけは、此処での奉公を許して貰いたかった。

「仰せのままに…政宗様、つきましては──」
「ついては、以後、奥州筆頭付きの女中とする」

 頭を下げていた初穂は、二転三転する命に頭が付いて行かず、恐る恐る顔を上げた。政宗はしたり顔で意地悪く笑っている。
 暗がりで遠くからは分からなかったが、よく見ると政宗が今来ている羽織は、何時ぞや初穂が繕った物だった。

「わかったんなら返事しろ、返事」
「は、はい…」
「てめえ、危なっかしいったらありゃしねえ。ふらふら一人で勝手に決めてんじゃねえよ。主は誰だ、言ってみろ」
「…伊達政宗様に、ございます」

 政宗は初穂の頭をがっしりと掴むと、撫でるというより縦横無尽に揺さぶった。ぐしゃぐしゃになった髪を見て笑っている。政宗は初穂を引き上げると、部屋まで送って行った。

 ・

 その翌日、初穂は侍女ゆえにきちんと着飾って貰うと、小次郎から教えて貰った東の館の茶室を目指していた。
 昨日の政宗との出来事は、胸が傷んだり和らいだりと大変忙しい起伏に気疲れもあったが、つかえが取れたかのように心持ちが軽くなっていた。義姫との茶会に呼ばれ緊張の面持ちだったが、部屋へ向かう足取りは随分と落ち着いている。
 昨晩、部屋まで送ってもらった際、初穂はひとつだけ政宗から忠告を受けていた。

 ── 質問されたことだけに、口を開け。わかったな

 つまり、余計なことを喋るなということだ。政宗がいかに義姫を警戒しているかが分かるも、初穂はその人間像がいまいち掴めていない。一度顔を合わせただけの印象で言えば、凛々しく逞しい女性に映った。夫を亡くしても、小次郎にも気丈に振る舞い、侍女や女中の手を一切煩わせない女性に見えたのだ。戦で命を落とす者は大勢いるが、普通であれば、急に夫に先立たれれば暫くは塞ぎがちになる奥方が大半だろう。初穂ですら、怪我に倒れた政宗にすがるくらいだ…。それはまあ、別としても、ともかくだ。初穂は、政宗の言葉を念頭に置き、また義姫に粗相のないようにと何度も己に言い聞かせた。
 茶室は、義姫の部屋の二つ隣にあった。部屋からは、大層立派な広い庭が見渡せ、四季折々の花木がいつも明り障子に映し出される。少々豪勢な作りであるらしい。義姫の好みなのだそうだ。
 その明り障子のある茶室は直ぐに見つかった。初穂は、一度深呼吸をし、廊下に膝をつこうとしたその時だ。障子戸がさっと引かれたかと思えば、中から成実が出てきたのだ。一瞬初穂と顔を合わせ、目を見開くも、再び中へ顔を戻し「じゃあ、また来ます」と言い戸を閉めた。成実は、初穂に「やあ」と手を掲げて歩み寄った。

「なになに、初穂ちゃんも叔母様に呼ばれてたの?」

 も、ということは、成実も義姫に茶会の招かれているのだろうか。それにしても今退室してきたばかりだ。

「はい…。お茶をどうかと、お招き頂きまして…、成実様もご一緒ではないのですか?」
「いいや、僕は別件で呼ばれてただけだよ。んじゃ、お茶会楽しんでね」

 去ろうとする成実を初穂は呼び止めた。先日、畑で小十郎に言われていた事を思い出したのだ。成実は振り返ると、首を傾げた。

「成実様、片倉様が、お顔を見せるようにと、仰っておられました」
「あ、あぁ…。小十郎、そっか。うん、わかったよ。ありがとう」

 そう言って成実は手を振り、茶室から遠ざかって行く。何となく、普段よりそっけない成実に、初穂は少しだけ胸騒ぎを覚えた。