陽が差し込んだ縁側は、まどろむには持ってこいの心地よさだ。冷たい風は火照った頬の熱を程よく取ってくれる。しばし柱により掛かり、政宗は陽の光に照らされた薄い化粧の庭を眺めていた。
一命を取り留めたが、人取橋から後の記憶が随分途切れ途切れになっていた。思い出そうにも、断片的に多くの叫び声が耳にこびり付いているだけで、廃村に着く直前まで自分が何をしていたか曖昧にしか思い出せない。
ただ明らかに伊達軍は押され、戦況は劣勢だった。死線を掻い潜り今脚二本でしっかり立つ己があるのは、間違いなく小十郎の機転と綱元、そして駆けつけた成実のお陰だろう。
劣勢の伊達軍が退却すると知った敵将は、伊達兵を根絶やしにするつもりだったのだろう。深追いし、更に猛攻を仕掛けたが、豪腕武者ばかりが揃った成実隊と対峙したのが運の尽きだった。余力の有り余る成実の隊は追手を蹴散らしただけでなく、敵陣へも切り込み、陣を三つも潰したのだという。また、敵勢は家臣による大将殺害という思いがけない急変にも見まわれ、戦意消失し内側から瓦解した。多少の運──も、政宗がここに立っていられる理由だ。ともかく諸々が兼ねあった結果、苦戦を強いられた伊達軍は、多大な犠牲の上に辛うじて勝利を納めたのである。
とはいえ、政宗自らが兵を率い助けに行った筈の綱元がこの世を去った。その事実は変わらない。政宗は拳を握りしめた。食い込む爪が己への戒めとは思わないが、今はこうする他思いつかなかった。
ぎりと奥歯を噛みしめると、鉛の傷が再び痛み出した。部屋へ戻ろうとすると、廊下が軋んだ。姿を現したのは虎哉宗乙だ。
「おい、政宗、あからさまに嫌そうな顔をするな」
寝床に居なかったので探したぞと言うと、政宗に座れと促し宗乙も隣に腰を下ろした。
「気は済んだか」
「気とは、何の」
「はぐらかすな。馬鹿者めが。己が意のままに戦場を突っ走りおって。臣下はな、お前の采配一つで生き死にが決まるのだぞ」
宗乙に返す言葉が無かった。いつか同じような事を、政宗は初穂に言ったのだ。決して失念していた訳ではない。ただ、父を失い気丈に振る舞えていたつもりは、結局つもりでしかなかった。喪失感と激情に加え、他家の協力を得られぬ孤軍の現実も相まって、八方から背を向けられたことが過去という孤独と拒絶に苛まれた幼い頃がちらつき、見失った。その地獄から再び足を引きずられるような気がしていたのだ。
過去を引きずることなど、自分に限ってありえないと思っていたが、小十郎の忠告を聞かず、がむしゃらに兵を繰り出したのは振り払う為の足掻きだったのかもしれない。
「政宗、お主は本当に無茶ばかりする…。輝宗殿は、何か言われて居られたのではないのか」
「…皆を頼む、と」
「その言葉忘れるでない。ついでに言うとだな、そろそろその言葉通り、お主も動かねばならんだろう」
「この雪じゃ到底進軍などできません。今年の戦は終わりにします」
「戦のことではないわ。内儀のことだ」
宗乙ははぁと大きなため息をついた。
「中野宗時、よもやこの名忘れては居らぬだろう。近頃は義殿とお手て繋いで仲良しこよしと聞くぞ」
「あんの老いぼれ…」
「体力が戻ったならば、早々に米沢へ発つがよい。軍評定でも開いて、皆を休息させい。褒美も取らせるのがよかろう」
「それは言われなくとも」
「成実にもぞ」
「…」
宗乙はよっこらせと立ち上がると、ひらひらと手を振り一足先に資福寺へと帰って行った。
一、歯車の鈍音
「まあまあ、遠路遥々皆々様方ご苦労様でございました」
米沢に到着し、ひとまず広間に通された小浜城の一行は、米沢城の者たちから歓迎を受けた。暖かな部屋に腰を下ろせばやっと生きた心地がする。一目散に火鉢の側に寄った女中頭の幼い娘は顔を真っ赤にしていた。母親が凍てついた頬を両手で包み、頭を撫でている。娘は嬉しそうに振る舞われた菓子を頬張っていた。
これから小浜城の女中たちは、この城で寝食し、仕事に励むこととなる。
以前初穂が使っていた部屋は、そのまま残してあるらしい。部屋に入れば、養父大内定綱と共に米沢に来たばかりの頃を思い出した。あの頃は、遠藤基信も鬼庭綱元も健在で、書庫で帳簿整理の手伝いをし、庭ではよく談笑をしていた。春、夏と過ぎ花や新緑の鮮やかな移ろいも、冬季に入った今、すべからく白に塗り変えられている。初穂の吐息も何も無い庭に虚しく溶け、消えていく。米沢への旅路は暇が掛かったせいか、体は芯から冷えていた。
初穂の侍女は道中、しきりに政宗に借りた羽織を着ろと言っていたが、当然憚られた。大切な羽織を預かったというのも理由の一つだが、一介の、しかも謀反歴のある臣下の娘がおいそれと人前で主の羽織など着た日には、あらぬ噂を立てられる。特に奥勤めの女中なんかは、そういった類のうわさ話は大の好物だ。
初穂は、政宗が帰ってきたら、すぐに返さねばと思っていた。政宗の様子も知りたかった。
民家で目を覚ました政宗とはあまり話す間はなく、留守政景の隊はすぐに発ったので、それからの政宗の様態を初穂はよく知らない。虎哉は、峠を越えたので命の心配をすることは無いと言っていたが、自室で荷物の整理をしながら初穂は度々手が止まっていた。胴に巻いたさらしの取り替えは大丈夫だろうか、とか食事は取れているだろうか、など何かにつけて考えている。
「初穂様、いかがなされましたか」
「い、いいえ。何でもありません。それにしても、ゆえ、あなたの荷物はこれだけですか?」
侍女の持ち物は風呂敷が一つ、中身は冬用の着物がたったの二枚だけだった。随分と少ない。
「はい、左様にございます」
「もし不便があったら言って下さい。いつも助けて貰っていますもの。女中の仕事も無理言って続けさせて貰って、本当にありがとうございます」
「いいえ、何をおっしゃいますか。侍女たるもの、姫様を支えるのは当然のことです。お言葉だけありがたく頂戴しておきます」
初穂の侍女は「ゆえ」といい、小浜から共にやって来た。初穂のやることなす事、いつも理解を示してくれる懐の深い侍女だ。そんな彼女と道中、身の上話をしていたのだが、ゆえは随分昔に米沢城で下働きをしていた事があったらしい。経緯は詳しく話さなかったが、輝宗と義姫が夫婦となってから数年間米沢にて奉公していたのだという。ということは、十数年ほど前だ。一見すると、ゆえはまだまだ若い娘の様に見えるが、とうに盛りを過ぎましたと笑うゆえに、初穂は大層驚いた。肌も艷やかで、若々しい。全く年増と思えないのだ。
「ふふ、初穂様はお上手ですこと」
「ゆえ、決してからかいなどではありませんよ」
「分かっておりますとも。初穂様は嘘を付けませんものね。でももう少し、殿方を翻弄するくらいの術は学ばねばなりません」
「ゆえったら…」
「失礼しました。それでは私は、米沢の皆様を手伝って参ります」
「あ、私も行きます」
「だめですよ。今日は、ゆっくり休まれて下さい。先程米沢の女中が話しておりましたが、殿はじきご帰還なされるそうですよ」
初穂が突然慌てふためくので、ゆえは不思議そうに首をかしげている。
政宗が目を覚ました時、初穂は安堵から、あろうことか怪我をし床に伏せる主の胸にすがり、童のように泣きじゃくったのを思い出してしまった。霜焼けのように真っ赤になっていたであろう己の顔と、衝動のままの行いが今になって顔から火を噴く程の恥ずかしさが込み上げる。だが、政宗は動けるまでに回復したということだ。それは大変喜ばしいことである。が、やはり短慮だったと頭を抱えたくなる。
「初穂様、先程からどうなされました」
「いえ、その、心持ちが…」
「とにかく明日か明後日辺りには政宗様へご挨拶せねばなりませんでしょう。ですから、きちんと体を休めて下さい。よろしいですね」
ゆえはささっと、初穂の手回りを片付けると部屋を出て行った。彼女が火鉢に十分炭を入れてくれたので、当分は室内は暖かく保てそうだ。鉄瓶から湯のみに湯を注ぎ、初穂は一口飲んだ。指先にも感覚が戻り、じんわりと胸が温まる。自然と頬は緩んでいた。
ゆえの言った通り、政宗一行は数日の内に米沢城に帰還した。辛勝だったとはいえ、一応は勝ち戦だ。青い幟がぞくぞくと城下へ入り旗めけば、輝宗の仇を討ったのだと城下の者は馬上の政宗に歓声を上げる。沿道の熱気は凄まじく、日が落ち凍てつく寒さの時分になっても食事処では深夜まで明かりが煌々と灯り続け、弔いのむせびやら勝ち戦の嬉しい笑いやらがいつまでも町中に響いていた。
それは城でも変わらずだ。多くの家臣が集まる大広間では、主政宗を讃えんと派手に宴会が繰り広げられている。端から端まで襖十数枚分の広さのある座敷を、女中は引っ切り無しに食事や酒を運び、休む暇もない。上座の政宗には祝辞を述べたり、挨拶をする者が後を絶たず、初穂も進んで女中の仕事を手伝い、配膳や皿洗いをしていた。
そんな忙しい時に限って、困り事は降ってくるというものだ。水屋で洗い物をし、井戸から水を汲み上げようとしていると、宵の口からの寒さで井戸の滑車と縄が凍っていた。なかなか引き上げることが出来ず、いくら力を込めても滑車は動きそうにない。早く洗い物を済ませねばと、一生懸命縄を引っ張っていると不意に手が添えられていた。するとものの見事に縄は滑り、軽々と桶が上がった。
「大丈夫ですか?この時期よく霜で凍るんですよね」
声に振り返ると、背後から腕を伸ばし、縄を引いていた人物は「こんばんわ」とにっこり笑みを見せた。
一見、その声から十代そこそこの少年かとも思ったが、すらりと背が高く肩幅の広いがっしりとした体つきの青年だ。一瞬、下働きの小姓とも思ったが、身につけている着物は仕立ての良い物だ。枯草色の袴に、紺色の羽織、胸元には伊達家の家紋が入っている。明らかに血縁か、又は成実のような血縁の重臣だろうことが分かる。
加えてその風貌に、初穂の視線が囚われていた。どこか自信家の伊達家当主とそっくりだったのだ。隻眼ではないにせよ、きりりとした目元や筋の通った鼻、そして他人をじっと見つめる時の、目を細めた表情はどことなく政宗に似ている。
不躾にまじまじと眺めてしまった初穂は、慌てて前掛けで手を拭い、頭を下げた。
「申し訳ございません。初対面の殿方を不躾に…、滑車も無事動きまして、まことにありがとうございます」
「女性の力じゃちょっときついですもんね、この滑車。てか、いつも思ってたんですけど、何で大内家のお姫様が水仕事なんかしてるんですか?まさか、虐められてるの?」
「え…」
初めて会う男性にもかかわらず、相手は初穂の素性を知っている。以前、米沢に居た頃に知り合ったかと記憶を辿るもなかなか思い出せない。あたふたしていると、青年はああ、ごめんなさい。と頭の後ろをかいた。
「自己紹介まだでした。僕は小次郎といいます。伊達小次郎、伊達家の次男です。どうぞよろしく、初穂さん」
伊達家の次男伊達小次郎、政宗の実の弟にして実母義姫最愛の子だ。以前より、弟が居ることを初穂は知っていたが、米沢に居た頃は初穂の行動範囲が限られていたこともあって、終ぞ顔を合わせることは無かった。
この容姿端麗な青年は、奥では大層な人気らしい。政宗は幼少期から疱瘡のこともあり、塞ぎがちで愛想がなかった。他人を寄せ付けない子だったが為に、義姫は小次郎を溺愛し、年齢を重ねるに連れ美青年となった愛想の良い小次郎には、侍女や奥女中も魅了されていったのだ。
ともあれ、名乗った小次郎は聞くに違わず気さくで人当たりのよい青年だった。「急にごめんね」と初穂にはにかんでみせる。初対面の人間にすら人懐っこい様に、本当に兄弟かと一瞬そんな考えが過った。
「あ、今、兄上の弟か疑わしいって思った?」
「も、申し訳ございません、小次郎様。申し遅れました、改めまして初穂と申します。度々失礼を」
「いいよいいよ。皆そう言いますから、別に気にしてないし」
小次郎は、井戸の縄を柱に括りつけると桶を持ちあげ、初穂が厨から持ってきたたらいにざぶざぶと水を注いだ。桶にはかなりの銚子を入れていたので、一気に酒の匂いが冷たい空気に交じる。元々酒に弱い初穂はむっと広がった酒気に堪えていると、足元がぐらついた。前触れもなく初穂は小次郎に手首を掴まれた。
「初穂さんったら、危なっかしいなあもう」
「ご、ごめんなさい」
そのまま初穂はぐいと掴まれた腕を引かれていた。小次郎の顔が至近距離にある。小次郎は初穂の瞳を食い入る様に見つめていた。寒々しい冬空の下だというに、やけに顔が火照っている。視線を逸らしたくとも、いつの間にやら添えられた小次郎の手がそうはさせない。
「聞いてた通り、本当に初穂さんの瞳って青いんだね…きれいな目だ」
これまで気味悪がられていた瞳を、綺麗だと言われ初穂は困惑した。しかも初対面の男性にだ。段々と、小次郎の顔は初穂に寄せられる。相手の呼吸が、吐息が、はっきりと分かるまでに近づいている。初穂は垣根のない好意に若干の恐怖を覚えた。だが逃げようにも逃げ場が無い。一歩後退ると、踵がたらいにコツンと当たった。その時、広間の喧騒とともに成実の声が外まで響いた。
── 初穂ちゃーん!おーさーけーまだああ???
一瞬の隙を付き、初穂は失礼しますと断ると、たらいもそのままに水屋から駆け出した。慌てて厨房に戻り、無心で銚子の用意を始めた初穂を仲間の女中たちは不思議そうに見つめるも、振り切るようにすぐ厨を出る。
再び、広間へ戻ると成実は部屋の隅で部下と談笑していた。赤ら顔をだらしなく見せ、へへと初穂に笑っている。酔っ払う成実だったが、相変わらず彼の洞察力は凄まじく、目ざとかった。
「ちょっと、初穂ちゃん。額に汗凄いけど、そんなに暑い?動きまわってるから?」
びくりと肩を弾かせ、初穂は恐る恐る額に手を当てた。汗をかいている事すら気づかぬ程、小次郎の一件に動揺していたようだ。額を手ぬぐいでぬぐって、帯に挟むとなるべく平静を保った。
「ええ…、左様でございます。皆さま、大変な酒豪でいらっしゃいますから」
ぎこちない笑みは、成実にとっては引っかかりがあっただろうが、それ以上は何も追及されず初穂はやり過ごすことが出来た。なるべく顔を見られぬよう、周りに転がっていた皿や杯を盆に乗せる。再び厨へ戻ろうとした時、不意に視線を感じ初穂は上座の方を見遣った。
政宗と一瞬ばかり視線が通った。ところが初穂を一瞥したかと思えば、直ぐ様重臣らと小難しい話に戻っている。
同じ部屋に居るというのに、こんなにも政宗が遠くに感じることを、初穂は当主であるのだから当たり前だと言い聞かせるも、その心は酷く揺れていた。
・
宴会も早々に、臨時の軍評定が開かれると家臣らに伝えられたのはそれから幾日か経ってからだった。何故かその場に初穂も呼ばれた。何でも、民家での看病に褒美を取らすと政宗直々の沙汰であるらしい。一切の武働きでは無いので、一度は遠慮し辞退した初穂だったが、成実に「侍女に良い着物でも買ってあげればいいじゃないかと」良いように言い含められてしまった。
その成実だが、なんと彼は人には参加を勧めるものの、自身は軍評定には出ないのだという。女中たちが何かにつけて、人取橋での成実の武勇を話していたので、初穂は殊更首を傾げた。怪我を負った政宗を運び、退路を切り開き、伊達軍の窮地を救った成実こそ評定に出るべきである。小十郎を始め、重臣らには感状を取らすとも聞いていた。
だが、成実が評定に出ないと意固地になるのには、初穂は十分思い当たるふしもある。
近頃、政宗と成実が共に居る所を全く見なくなったからだ。以前なら、廊下ですれ違っては戯れ合い、縁側でまんじゅうを二人仲良く食べているのも見掛けたこともあったが、先日の宴会では戦勝の喜びを共に交わす事も無く、成実はただただ広間の一番端の席で酒を煽っていたのである。賑やかに騒ぐのが好きな成実だけに、一体何があったのかと問いたい気持ちもあったが、近臣らもその件には一切触れぬので初穂もただ見守る他ない。とはいえ小十郎にも、政宗様から顰蹙を買うなと言われたにも関わらず、成実は頑なに拒んだらしい。
そんな成実不在のまま、軍評定は実に厳かな中始まった。
裃をつけ正装した家臣たちは、口上を述べ政宗からいくらか言葉を貰う。そうこうしている内にすぐに初穂の番となった。この場に女が居るだけでも、よく思わない者も居るだろう。ひしひしと突き刺さる視線を背に受け、重い打ち掛けを引きずり硬い表情の初穂は政宗の前にひれ伏した。
「改めまして、ご戦勝おめでとう存じます。政宗様の武勇、さぞ他家の将も身が震えたことかと。また大内の娘として、米沢の地を踏ませて頂きましたこと、恐悦至極にございます ──」
緊張の面持ちで、覚えたての口上を述べていた初穂だったが、最中に政宗が正面へしゃがんだのがわかった。部屋に居る重臣たちも、突然政宗が立ち上がったので、ざわめいている。初穂は何か粗相をしてしまったかと焦り、考えを巡らした。そのあまり、先の言葉がすっぽりと頭から抜け落ちてしまった。瞬時に頭の中が真っ白になり、初穂は身動きすら取れなかったが、間を埋めたのは政宗だった。
「寝ずに看病をしてくれたと聞いた。褒美を取らす。顔上げろ」
命じられるがまま、面をあげた初穂は視線が泳いだ。両脇に重臣らがずらずらと座り、厳しい顔を向けられているのもあるだろうが、大変心臓が煩いのは、なにもそればかりではないだろう。
すると政宗は初穂だけに分かるよう、顔を少し近づけると家臣の目を盗み、そっと初穂の手に紙切れを握らせた。
緊張が張り詰めた評定を終えると、初穂は自室に戻り、政宗から渡された紙を早速広げた。そこにはたったひとこと、筆を走らせてあるだけだったが、初穂は気持ちが高ぶるのがわかった。
「 後で部屋に来い 」
夕刻を過ぎれば、家臣たちは皆仕事を切り上げ各々の屋敷へ帰ったり、自室に戻ったりする。初穂も、竈の火の後始末を済ませ、女中の仕事を終えると、政宗の羽織を抱え、彼の部屋を尋ねた。
相変わらずぶっきらぼうな返答が障子を叩き、失礼しますと戸を引く。まあ入れと適当な場所に政宗は座布団を放った。政宗の部屋には囲炉裏がある。その側には盆に乗った酒と、いくらか肴があった。杯は二つ、政宗が用意したのだろう。
初穂が羽織を差し出すと政宗はお互い、無事で何よりだったなと笑った。盆をずいと手繰り寄せ、初穂は政宗の傍らで迷わず酌をする。一杯くらいならいいだろうと、政宗は初穂にも杯を持たせた。
「道中、ご苦労だったな」
「とんでもございません。政宗様も、無理はなさっていませんか。お怪我の方は…」
「そんなやわじゃねえよ」
政宗はよく酒が進んでいた。初穂は一杯だけで既にぼんやりとし始めていた。ただ、政宗がわざわざ初穂を部屋に呼んだのには、何も晩酌に付き合うばかりが目的では無いだろう。それなりに理由があるに違いないのだ。いつだって、二人で話すときはたまたま縁側で会ったり、厨で会ったり、そんな機会でしかない。
箸を置き、政宗は杯を空にした。
「米沢でのあんたの扱いだが…、実は少し考え直さなきゃならねえ」
初穂も薄々感じていたのだ。定綱の養女とはいえ、一応は大内家の娘の扱いだ。小浜の使用人らは伊達の臣下としてまるまる抱えても良いだろうが、初穂の立場ではそれも簡単に許されるものではない。養父定綱は二度も謀反を起こし、挙句義継と共に輝宗の拉致に加担した重罪人である。重臣らに言わせれば、そんな娘まで城に抱え込む必要は無いとのことだ。端的に言えば、本来なら初穂の居場所は米沢城には無いのである。初穂は大きく呼吸を整えた。
「いたし方ありません。そればかりは、紛れも無い事実でございますから…」
「こう早々と水面下で動いてる奴が居るとは、不覚だった」
政宗は手ずから酌をし、杯に口をつける。目を細めたその表情に初穂はああ、やはり兄弟なのだなと先日遭遇した小次郎が脳裏をよぎっていた。
小浜の政宗より、使用人たちを寄越すと報せが入った米沢城では、その中に初穂が居ることを知りすぐに話し合いが持たれたのだそうだ。定綱はいまだに牢の中に居るも関わらず、娘は揚々と米沢に舞い戻る。二度も三度も同じことがあっては堪らない。それが老臣らの意見だった。その時誰かがぽろっと零したのだ。あの気味の悪い目をした娘は、何ぞか災いを呼ぶ種なのではないかと。
定綱のはじめの謀反に続き、輝宗の死── 次々と伊達に降りかかる厄災を耐え忍ぶには、少しの火種も懐に抱え込んではならない。それが、米沢での総意だった。
それを聞いた初穂は、米沢に戻ってからずっともやもやとしていた心中がようやく理解できた。米沢でも伊達の女中として働く傍ら、燻る情と共に大きくなる隔たりが一体何なのかようやく理解できた。政宗の臣下であるという事実は、同時に絶対に埋まらない堀のようなものだ。
当主と家臣、ましてやその家臣の家名には、前科付きな上、娘自身も気味悪がられている。
初穂はなるべく冷静を保ち、居すまいを正した。
「わたくしは…重臣の皆様の意見はごもっともだと存じます。今置いて下さるだけでも大変ありがたく思っております。小浜の皆をどうか、よろしくお頼み申します、政宗様」
「模範解答を聞いてんじゃねえ。あんたはどうだって聞いてんだ」
「家臣の皆様と同意見にございます…」
「馬鹿言え、本心かよ」
「偽りなく…」
「HA、そんな返答聞きてえが為に、あんたに紙切れ渡したんじゃねえ…俺をからかってんのか、それとも怒らせてえのか?」
政宗の声色は、初めて米沢で謁見した時とまるで同じだった。地を震わすような低い声で、とても冷たい。初穂は、意を決し口を開いた。
「そうではありません。ただ、わたしは…、先日宴の席で、いいえ、そうで無くとも分かっていたはずなのです。政宗様は、皆の上に居らねばなりませんし、居られる方です。でも私は、手ずから与えて下さった羽織一枚、袖を通すことすら容易にできません。臣下となりそのお気持ちに嬉しく思うこともございましたが、日を重ねれば苦しいのです…」
初穂が最後まで言い終わるのを待たずして、政宗はひれ伏す初穂の肩を命一杯掴み、座敷に押し倒した。肩は座敷に貼り付けのようになり、見下ろす政宗の表情は、暗がりで良くは見えない。初穂は抵抗しなかった。代わりに、ぽろぽろと涙があふれた。拒絶に拒絶を返してくれればそれだけで諦めも着くというのに、自分勝手な振る舞いをすることしか思いつかなかった。
後ろ向きだった初穂は、輝宗や田村清顕の励ましで少しずつ歩んでみようと一歩を踏み出した。たまたま似たような境遇の政宗と再会し、嫌いな武家から逃げ出したいと思うも、侍女の心配りや優しさに触れ、初穂にもできることがあるのだと、そう信じて小浜の皆の矢面に立った。
最初は唯、政宗の真似事だったのかもしれない。背を見て憧れとなり、ほんの少し政宗に頼られたその喜びは情に変わっていた。
埋められぬ身分の差がある。そのことは分かっている筈なのに、本当は…
「本当は、なんだ」
初穂は頭を振った。
「てめえは馬鹿なのか。いちいち思わせぶりな態度取ってんじゃねえ」
政宗は、初穂の耳元に顔を近づけた。
「今あんたを手篭めにしたっていいんだ。羽織も着て堂々と城を歩きゃいい。別に俺は構わねえんだ。ただあんたの口から、一言城に居てえと聞いて…。まあ、その腹づもりで呼んだんだがな、とんだ勘違いだったみてえだ」
初穂の杯が転がり、零れた酒が畳に染みを残している。それがじわじわと濃くなる様に、益々涙が止まらなかった。
「話は終いだ。追って沙汰を出す」