十一、暗中彷徨
「酒と膳を用意せよ」
主から、厨房を預かる女中に伝えられたのは、彼女が本日の仕事を全て終え、自室に戻る直前だった。
一旦は炭の勢い落ち着いた竈から白い煙が夜闇に立ち上り、解いた糸のようにたなびいている。ことりと沸騰に耐えかねた木蓋が浮き、半開きになった。格別に煮物の良い匂いが漂ったところで、再び催促する声が掛かった。
銚子を盆に乗せた女中は、張り替えたばかりの真新しい廊下を急ぎ、主の待つ部屋へ向かった。
二本松城から離れた館は、鬱蒼とした木々に囲まれ、いつもしんと静まり返っている。
割れた壺をひっくり返し、底を見上げたような狭い夜空には、山影が更に濃く覆っていた。この館では、いつも村落の半分程度の星空しか拝めない。
そんな厚い木々の重なりを越え、届いたのは、伊達政宗の小浜城入城だった。
落城にあっては多くの犠牲を払い、奪い、残虐の限りを尽くしたに違いない──との、二本松城主畠山義継の予想はあっさりと裏切られた。報せによると、大内家臣をも召抱え、城下も以前と変わりないというから、これには定綱も驚いた。と同時に娘が過った。
定綱が米沢に戻らぬことで、いわんや初穂は伊達から怒りの矛先を一番に向けられ、己が身代わりに処罰を受ける。彼女を残すことで、芦名帰参と伊達討伐への時間稼ぎにと考えていた。
ところが、初穂は早々小浜に帰された。これは事実上の宣戦布告である。進退窮まった定綱は、己が保身を第一に考え、密かに二本松城へ助けを乞い逃げてきたのだった。
気性の荒い政宗のことだ。小浜城は荒れに荒れるに違いないと踏んでいた。しかし、現状、城も兵も伊達のものとなり、結果みすみす戦力増のお膳立てをしたに過ぎなかった。
毒にも薬にもならない娘だと高をくくっていたが、輝宗のようなお人好しに加え、政宗が時折見せる確固たる芯がちらついていた様、蓋を開けてみれば厄介な娘だったのだ。とはいえ今更、早々に始末を付けておけばよかったと悔やんでも仕方がない。
こうなると、政宗に刃を向けようにも「小浜落城は残虐の限りを尽くされた」という当初考えていた大義名分を掲げることができなくなった。定綱にとってはこれが一番に困った。いくら芦名の助力を乞うとはいえ、一方的な挙兵は周辺領の良い鴨である。
幸い、唯一の救いは、若い政宗が定綱の叛心を許す気が全く無いことだろう。
当主としてのけじめ、或いは激情との見極めがつかぬだけか。どちらにせよ、これを利用せぬ手はない。既に定綱に考えはあった。そして先日、畠山義継と話し合い、事を運んだのだった。
膳を抱え女中が部屋へやってきた。戸に近い義継が酒を受け取ると、定綱へ酌をした。猪口を差し出しながら、定綱は随分と不機嫌だった。
「ふん。あの娘、毒されおって。ただ澄まして居さえすれば良いものを」
こうして、義継と酒を酌み交わせば、不平不満が互い違いに盃へ注がれていた。
対政宗初陣の惨敗から始まり、強気な態度で綴られた度重なる書状の一方通行。年長者を崇め奉れとまでは云わぬが、飛ぶ鳥を落とす勢いだけの若造が威張る態度が彼らには鼻についた。
政宗が躍進すればするほど、細流が冷感とした冬の匂いを山峡に運ぶのと同じく、義継も定綱も冷ややかな様子で眺めていた。戦で勝ち取った威光を振るうのは日常茶飯事だが、やはり気に入らない。
積み重なった怨恨による静かな怒りは、地表を侵食する薄霜となり、芦名臣下の家々に波及している様が度々見受けられた。
だがそれも、義継、定綱の両人にあっては、伊達政宗を迎えるための化粧、誂えられた白装束のようにも思えるのだ。早く兵を差し向けるがいいわとほくそ笑んでいた。
「じき、あの小僧は間違いなく発つ。過日お主がわざわざ、昼日中の庭を闊歩したのだからな。しかしこの時期に兵を挙げるとは、余程の自信があると見える。そう思わぬか、定綱殿」
「四方を雪壁に覆われることなど無いと思うておるのでしょう。先々見据えぬとは実に浅はか」
「ふふ、そうよな」
畠山義継はほくそ笑み、焼き魚に箸を突き刺した。ぱっくり覗いた白い身から湯気が上がり、柔らかそうな身はひっきりなしに大きな口へと放りこまれる。魚は瞬く間に骨だけになった。
「この二本松が囲まれる前には」
「無論承知。入れ違いに小浜へ出向く構えです。伊達輝宗に助命を乞うほか道はありません…」
定綱の返答とは裏腹に、義継はわざとらしく口角を上げた。伊達軍が迫り来ると判っていながらも、随分余裕の表情だった。
「貴殿のはったり策は、十分過ぎるほど段取りを聞いたわ」
「輝宗説得後の手はずも万全にございますれば」
「倅が引っ返したら厄介なこと。わかっておろうな」
「勿論。根回しも抜かり無く。ともあれまずは輝宗説得こそが本懐。義継殿のお働き、頼りにしておりまする」
「わしを、買いかぶり過ぎとも思うが」
「戯言をいわっしゃる。これまでの輝宗を躱してきた貴方様であれば。あれのあしらいは得意でしょう」
「ふんっ。二転三転する主のたぬき振りには敵うまい」
銚子を取った定綱は、今度は義継の盃に酌をした。並々注がれた酒を一気に煽ると、赤黒い義継の頬は見る見るうちに火照った。耳障りの良い言葉に、益々気を良くしている様子だ。定綱も握ったままの銚子を口へ運ぶと水を飲むように酒を煽った。
定綱は口端から垂れた雫を甲で拭い外を眺めた。戸の隙間からは、猫の目のように照った月が東へ上り、ずっと睨みを効かせている。会話の端々に秘められた思惑は、二人の内なるものだったが、期待している者も少なからず居ると風の便りで聞いていた。
「さあ、思い知らせてやるぞ」
・
干した着物をたんたんと両手で叩き、皺を伸ばした。
軒に止まっていたすずめがぱさりと羽音をさせ飛び立つも又すぐに庭木の枝先へと舞い戻る。それを幾度も繰り返していると、井戸の側にしゃがんで汚れ物を洗う女中は「姫様、一休みしてくださいな」と初穂を見上げ微笑んだ。廊下の方からもそうしましょうと、他の女中が数人、盆に茶や漬物を乗せ現れた。
政宗が小浜を発ってから、今日のように穏やかな晴天が続いていた。見上げれば気が遠くなるほど空は高い。早朝はしっとりと冷えた空気が心地よく、昼間はからりと乾いた風が洗いあがりの着物を乾かすのに一役も二役も買っていた。夕刻が過ぎても陽の温かさが残り、ここ数日、水仕事は苦ではない。
この分であれば、二本松行軍も順調に進んでいることだろう。
先日政宗と会った際、女中仕事はそろそろやめたらどうだと言った。なかなか凝りのように胸につかえていた不安はほぐれたが、やはり初穂はじっとしていられない性分だった。姫として過ごすよりも、忙しさに身を投じ、巡らせた思考の糸に絡まれたく無いのが本音だ。それは、定綱の妻子が見つかったこともあるだろう。
定綱が二本松にいると判った後、政宗はすぐに定綱の妻子を探させた。どうやら妻女は実家へ逃げ帰り、更には芦名の庇護を受けているらしい。また定綱の子は数ヶ月の赤子だ。過ぎし時を遡っても、跡継ぎや妻親類の調べが粗漏であったことにより、己が寝首をかかれた者も少なくはない。だが裁量を下すのは政宗であり、初穂の範疇外だ。
桶の洗濯物を全て竿に干し終え、一段落した初穂は少しの憂いを携えつつ縁側に座った。大きくたなびく着物をぼんやりと眺めていると女中が口を開いた。
「今夜、輝宗様が宮の森館へ参るようにとのことでした。初穂様と夕餉を取りたいとおっしゃっていましたよ」
宮の森館は小浜城本丸より石段を登った小高いところにある。夕刻ともなれば、城下より立ち上る炊煙の出処まで分かるくらいには、抜群に見晴らしが良い館だ。
輝宗は、そこで政宗に代わり小浜城の留守を預かっている。遠藤基信を始めとした家臣を引き連れ、政務をとり寝食し、また、よくこうして初穂を招いていた。隠居一人が入るには勿体無いほどの館だからと、大内定綱の元重臣らも招き、まめに親交している。
「それでは、頃合いになりましたら支度をいたしましょう」
「私も上の厨へ手伝いに行きます故、お供いたします、初穂様」
暮れかけた頃、初穂は女中数人とともに、宮の森館へやってきた。濃紺を帯びた空には星が瞬き始めている。それを背に草履を脱ぎ、輝宗の待つ部屋まで廊下を歩いた。望む景色は段々畑のように、屋根が連なり、その半分ずつに夕と夜を落としている。黒く茂った針葉林の間からは、沈みかけの夕日が阿武隈川の小波に輝き、その様は魚の鱗のように大らかに揺れている。
歩みを止め、暫し夕と夜の滲みに目が離せずにいると、いつの間にやら部屋の戸が開かれていた。輝宗がこっそりと顔を覗かせている。気付いた女中は慌てて頭を下げ、初穂もあとに続いた。輝宗は、何故か腑に落ちた様子で深く頷いていた。
「待っておった、待っておった。後ろの女中殿、すまぬが酒を持ってきてくれ」
「輝宗様。お部屋の前で失礼いたしました」
「なんの、なんの。良い眺めだからの。立ち止まるのもわかる。ところで、阿武隈川に何か見えたかの」
「いいえ…」
輝宗に向き直った初穂は、俯き加減でゆっくり首を横に振った。向かいの輝宗は腕を組んだ。陽の落ちる側より北の方角が、政宗たちの向う二本松だった。
「流石に夜は休むじゃろうて」
子供のような好奇心がらんらんと輝宗の瞳に写り、いたずらな笑みを初穂に向けていた。
返答に戸惑い慌てふためく初穂だったが、輝宗は素知らぬふりをして部屋へ促した。戸を開けるとそこには遠藤基信も座っていた。
囲炉裏の前に陣取り、小さな網の上でひたすら餅を焼いている。入ってきた初穂に、好きなところへ座りなさいと座布団を差し出し、初穂は、戸に近い場所に腰を下ろした。
「私も大殿に誘われましてな」
基信は、餅に落としていた視線を軽く初穂へ向けると、待ちきれ無さそうにまた戻し、箸でつついていた。炭に当たらぬよう、羽織の袖を抑え、丁寧に餅をひっくり返している。くすぶった火の粉が宙へ舞うもすぐ白くなり判別がつかなくなった。基信は餅が好物であるらしい。
しばらくすると、女中が部屋に膳を持ってやってきた。初穂は二人に酌をし、出された食事に箸をつけ、いつもと少し変わった夕餉はつつがなく始まった。
輝宗と基信は、時折初穂に話を振り、さながら兄弟のように会話に花を咲かせている。命危うしと今では笑い話となる戦の武勇、二人が若い頃山を駆けまわり賊と対峙した話、政宗が生まれた頃の話──。酔いも程よく回り、舌もよく滑る。話題に尽きることはなく、花咲く思い出話に初穂も耳を傾け、ほころんだ。
空になった輝宗の盃に酌をすると、輝宗は懐かしそうな視線を向けた。
「いつだったかの、正月にお父上と米沢に参った時のことを、よく覚えているのだ」
束の間、傾けた銚子から酒が途切れた。初穂は赤らんだ輝宗に顔を向けるもすぐまた、酌に集中した。輝宗は、初めて政宗と初穂とが出会った時のことを言っていた。
「あの頃の政宗とすれば、本当にようここまでになってくれた、なあ基信」
「ええ。大殿のご心配にはまったく及びませんでしたな」
そうじゃな、と輝宗はひょうきんに答えると口を命一杯開け、顔を見合わせた基信とともに笑った。
あの古き日に、初穂へ向けられた言葉は、家臣の娘を気遣う言葉でもあったが、初穂と政宗を互いに互いを励ます言葉でもあった。それだけ大人しかった政宗を嫡男として立派に育てあげることに輝宗は必死だったのだ。多くの家臣を抱え、伊達という大家、大樹を支えるためにすべからく一枝一葉をまとめあげる。皆を大切に思うそれこそが今の輝宗の人の良さと成っているに違いない。実に杞憂に収まったと笑いが落ち着いた輝宗は息をついた。
「ふさぎこまずに良かった。もちろん初穂、お主もぞ」
「輝宗様…」
「いつだったか、縁側で話したのう。わしの頼みを聞いてくれたのだと、今ではそう思っているが」
猪口に口をつけていた基信が眉を上げ、輝宗と初穂を交互に見遣った。自分が聞いても良い話かと目配せをするも、輝宗はただ笑って頷いていた。代わって初穂が、基信に答えた。
「私にできることを考えなさいと、米沢に参った頃、輝宗様にはそう仰っていただいたのです…。恥ずかしながらその時は…思いつかずにいたのですが」
基信はなるほど、と陣へ降伏に来た初穂を思い浮かべ、納得した様子で膳に猪口を置いた。
「初穂殿、私ともひとつ約束して頂けないだろうか」
「これから何があっても決して歩みを止めず、進んで貰いたい。初穂殿が決意し、背負い、繋ぎとめた小浜の者は、実質伊達の臣下だ」
「そうじゃな。もう誰も、そなたを人質などとは思ってはおらぬ。小浜の者は勿論、伊達の皆もな。今後は存分に、ここで忠を尽くして貰おうかの」
普段通りに笑みを浮かべた輝宗と、基信に、初穂は過ぎし日父親に向けられた優しい眼差しを思い出した。顔は見る見るうちに熱を持った。
基信は一度咳払いをして続けた。
「伊達家は少々うるさ…ごっほん、失礼。賑やかですが、私は良い家に仕えたと思っております」
「基信、そう言うがお主も十分、わしには小言が多いぞ」
「なんの。わたくしの苦労、輝宗様は分かっておいででしょう。まったく、政宗様の部下は皆血気盛んな者ばかりで──」
二人の言いあいに、くすりと笑いを含むも、ふいにほろりと頬に何かが伝い初穂は咄嗟に俯いた。膳に置かれた初穂の猪口に、輝宗が「まあ、これからも宜しく頼むぞ」と手ずから酌をしようとしたが、どうやら中身が空になったようだ。
「お銚子が空になっております。わたくし、厨へ行って参ります」
盆に空の銚子を乗せ、初穂は部屋を出ると夜風に頬を冷ました。中からは輝宗と基信の賑やかな会話が止まらない。
焼けた基信の餅を輝宗は欲しがっているが、基信は既に網の上のものは平らげてしまったようで、それにつけて輝宗は子供のように駄々をこねている。
元々基信は、修験者であって、各地を転々としたり、また別の主に仕えていたりもした。ところが、過去起こった輝宗謀殺の危機に際し、いち早く報せたことで伊達家臣となり今に至る。酸いも甘いも長年共に噛み分けた、友人のような二人だと年配の女中から聞いていた。そんな基信だからこそ、この居場所を大事に思うのだろう。
楽しげな会話を背に、初穂は厨へ急いだ。
・
とっぷり陽が沈むと共に、この宮の森館にも、また、廊下から見下ろした城のあちこちにも篝火が灯される。高台にある館の廊下からは、門兵や宿直の兵たちが、松明を掲げて城内を往来しているのが視界に入った。
ところが、酒と餅を盆に乗せ、輝宗たちが待つ部屋へ向かっていた初穂は、城門の明かりがやけに多いことに気が付いた。
門の前に、六つ七つ、いやそれ以上かもしれない。妙な具合に一処に集まっている。松明の数だけ持ち主がいることは承知だが、普段、門の篝火は両脇にひとつずつ、加えて時折見回りの兵が来るので、明かりは多くてせいぜい三つか四つである。
少しの胸騒ぎを感じた初穂は、急ぎ足で部屋に戻った。
「おお、初穂。酒をすまぬな」
「いいえ、輝宗様。ときに城門が、少々騒がしいようでございますが、何事かあったのでしょうか…」
頬が緩んでいた基信は、瞬時に怪訝な顔をしたかと思うと、一番に立ち上がり廊下へ出た。再び冷ややかな空気が廊下を伝い部屋へ入る。囲炉裏の炭がぱちと弾け、輝宗も腰を上げた。小浜城の門がよく見える場所まで行き、静かな夜闇を揺らす明かりをじっと見つめていた。
「まことに火が多いですな。何ごとだろうか…」
すると、途端に砂利を弾く音が聞こえた。かと思えば、誰かが、転がるように庭へと駆け込んできた。
基信は即座に輝宗と初穂の前へ躍り出ると、柄に手をかけた。現れたのは城内の警護にあたっていた伊達兵だ。手にする松明に灯された蒼白な表情は只ならぬ様子だった。息が上がっている。
「遠藤様、一大事にございます」
「どうした」
膝をついた兵士は、ちらと初穂を一瞥すると、言いにくそうに深々と頭を下げた。
「は。二本松の畠山義継殿と…、お、大内定綱殿が、参って御座います。さすれば大殿へお会いし、これまでの非礼を詫びたいと申しておりまして…」
「なに…?」
優しい目つきの基信の表情が、鋭いものに変わっていた。朗らかに赤らんでいた顔は一気に酔いが覚めた様子だ。初穂の側に立つ輝宗も息を飲んだと同時に、体を乗り出し兵へ問いただした。皆一様に不安が広がった。伊達軍は今、その畠山義継の城、二本松城へ向かっているからだ。
「政宗はどうしたのだ。二本松へ向かっておる筈であろうが」
普段からあまり大声を出さぬ輝宗に、兵は背を打たれたように驚き、更に深々と額を地につけた。
「それが畠山殿も、大内殿も、政宗様とはお会いになっていないと。すぐ縄にとも思ったのですが、なにぶん、お二人とも丸腰で…こちらも迂闊に手を出せず。わたくしどもでは判断しかね、面目もございませぬ」
兵の報告によると、畠山義継と大内定綱、その供は皆、帯刀すらしていないらしい。詫びに来たという言葉通り、土産も携え、のこのこ参ったというから、これでは門兵も刀を抜けぬのは頷けた。
腕を組んだ基信は、解せぬと難しい顔をしていたが、己に整理をつけるように呟いた。
「…定綱殿、よくぞ戻れたものだ。それにしても、二本松へ逃げたとはいえ畠山殿も一緒とは何とも妙だ。ともかく、大殿はお会いにならぬと、そう伝えよ。まずは当主である政宗様へ願い出るのが礼だ。追い返しなさい」
「は、」
「それから、一刻も早く政宗様へ伝令を」
「かしこまりました遠藤様。急いで向かわせます」
兵は、砂利の上を転がるように石段を下って行った。再び静寂となったが、やはり今だに門前の火は煌々と焚かれ揺れている。
見通しの悪そうな、輪郭のつかめぬ悶々とした問題が突然降ってきたことに基信は頭を抱えていた。
部屋へ戻っても焼けた餅には目もくれず、一気に熱い湯を飲み干していた。
和やかな夕餉は途端に殺伐としたものとなり、輝宗と基信は、今後の策を話し始めた。その夜、初穂は城へは戻らずに宮の森館に留まった。目的の分からぬ定綱と万が一の鉢合わせを危惧してくれたからである。
翌日、夜が明けても、当然城内は緊張感が漂い、元定綱の家臣らも動揺を隠しきれなかった。
定綱が戻ったことにより、政宗に頭を垂れ、主に背いたとの背徳感から元家臣の自刃未遂の騒ぎまで起こる始末だ。浮ついた状況を一刻も早く落ち着かせたいのが輝宗の求めるところだが、離反した家臣の処遇に口は出せども隠居した今では決定権はない。
以降数日経つも、義継、定綱は懲りずに毎日輝宗へ面会を申し出に来た。もちろん門前払いだがどうしたって食い下がる。基信が出した伝令は今だ政宗を見つけられず、戻らなかった。手立てが無いまま、主の無事を祈り、辛抱強く帰還を待つしか無かった。
初穂といえば、輝宗らと夕餉を共にした日から、小浜城の自室がある庵へは戻っていない。今日も今日とて朝餉を取った後、厨の裏で一人後片付けをしている。桶の中、洗い終えた椀はまだ数えるほどだ。
定綱は何を考えているのか。思案するも、水面に映る己の顔と睨み合ってはため息ばかりが漏れる。
日が経つに連れ、情に厚い輝宗は次第に義継と定綱を哀れに思い始めたのか、家臣を通じ、話だけでも聞いてやろうと基信に伺ったようだが、大いに反対していた。議論が煮詰まる気配は一向になかった。
ぼんやりしていた初穂は、悴み始めてやっと桶に手を突っ込んだままだった事を思い出した。己が写ったその後ろには、浮かぶ雲の流れが早くなっている。たちまち、裏の勝手口にも強い風が吹き抜け、僅かに雨の気配がある。厨の中からは、何度も女中が呼んでいた。
慌てて立ち上がり前掛けで手を拭った。その時、背後の垣根を挟む竹やぶが、がさっと喚いた。猪か、野うさぎか、まれに山を降りてくる獣もある。
「なに、かしら」
前掛けの端を握りしめ、初穂は胸の高さほどある垣根から、着物に引っ掛けぬようそっと上半身を傾けた。
垣根の根元には人一人が通れる溝が掘ってある。両脇の枯れた雑草に覆われ、分かりにくいが、雨水が流れるように下った先は、小浜城本丸へ続く石段脇の溝へと続いている。そちらを見ても、左を見ても獣らしき姿は見当たらなかった。
掴んだ前掛けから力を緩め、初穂は息をついた──。
その筈が、突然息苦しくなり、後ろから羽交い絞めにされていた。全く身動きが取れ無くなった。気が動転していた。口と鼻が覆われ、ぐいと体を引き寄せられたかと思うと、体が仰け反り、両腕を掴まれていた。咄嗟に、覆われた中で口を大きく開け、歯を立てた。途端「Ow!」との呻き声と共に体が自由になり、地べたにぺたりと尻もちをついた。
高々と上った陽光の中、見上げた人物に大層驚いた。
「ま、政む…む、ん…!!」
「騒ぐな!黙ってろ!」
再び、手で口を塞がれもごもごと唸る初穂に、政宗は再度「いいか、大きな声出すなよ?」と念を押した。大きく頷くとようやく開放された。
幾日ぶりかに、面と向かう政宗からは疲労が伺える。
この竹やぶを、一人降ってきたのだろうか。羽織のいたるところには葉のくずがついていた。政宗は今しがた初穂が噛んだ指をさすった後、痛みを取り除くように手を振った。ぱらりと枯葉が舞った。腕を柄にのせ、垣根に体を預けるとしげしげと初穂を見下ろしていた。小十郎を始め、他の兵が見えない。
初穂は地べたに座ったまま、肩をすくめた。
「お、お帰りなさいませ…。ご無事で何よりでございます。しかし大手門より参られては…片倉様は…」
「色々あんだよ。にしても、思いっきり噛みつきやがって…痛え。つーかなんで、あんたが宮の森の館に居る」
「それが…」
政宗はどうやら、伝令隊とは会わなかったようだ。初穂は、これまでの経緯を、義継と定綱が許しを請いにやってきたと政宗に話した。
小浜へ兵を向けたとの、政宗の予想は外れてはいなかった。だが、正面からの帰還に敵兵との鉢合わせを危惧し、わざわざ宮の森館の裏から戻ったというのに、雁首揃えて戦意すら見せぬとは、予想の範囲外だった。
「あいつら兵はどのくらい連れてる」
「義継殿の供の者がいくらかと聞いております。武装もしていないのだと」
「ったく…。面倒臭えことになった。とにかく帰ったと父上と基信に伝えてくれ」
「はい…」
初穂は、言われた通り館へ引き返そうとしたが、歩みを止め「…政宗様」と振り返った。兜を取った政宗は、珍しいものでも見るかのように前髪をかきあげる手をとめた。
「Ah?なんだ」
「厨に、入られてはいかがですか。湯と、手ぬぐいと…お着替えも…」
続く言葉を遮って、再びがさっと斜面を滑る音がした。垣根の高さを物ともせずひょいと飛び越え現れたのは成実だ。相変わらず武働きにうってつけの底抜けな身軽さだが、それは焦燥からくるものだった。隣の初穂を一瞥しただけで、政宗に言葉を放った。
「やばいよ藤次郎。畠山勢から米沢に居るうちの親父に使者を寄越したらしい。許しを請いたいから面会を取り次いで貰えないか、とかなんとか。で、今親父ここに来てるらしいんだ」
「実元にまで、手回しやがって…あの野郎立場分かってんのか。ふざけてんじゃねえ」
「今、親父はそれを受けて大殿と話合ってる」
「俺が父上に頼み込まれるのも時間の問題だな」
「どうする?」
「どうするも何も、許す気はさらさらねえ」
「親父も年食って最近は戦線にもあまり出ないもんだからすっかり日和見だぜ、急ごう」
「もたもたしてたら泣き落とし食らっちまうな」
その予想通り、政宗と成実が実父同士の話し合いの場に参上すると、開口一番に「政宗、今一度考えてくれないだろうか」と案の定、政宗は父と、実元に懇願された。
父には、幾度も反省の色を見せた定綱と、心を入れ替えたらしい畠山義継、仮にも一城主が何度も頭を下げてくることが不憫に写ったのだろう。
今輝宗の部屋には、成実の父実元、基信、そして遅れて到着した小十郎、政景、とまるで軍議の様を呈していた。
皆々、実元の所へ訪れた畠山の使者の話を、腕を組み黙って聞いていた。「我が主は今度こそは忠を尽くすだろう、その証拠に大内定綱を説得し参ったのだ」と、その懇願は信じるに値すると発言したのは実元だ。使者の口ぶりは心からのものであるにしても、政宗は話を聞いても少しも信用出来なかった。上っ面だけの綺麗な言葉は存分に聞き飽きている。
とはいえ、先代や、またその側近の顔も立てねばならないだろう。ここで寛大になり、貸しを作ることがどれ程大きいか、輝宗が暗に示しているのも政宗は良く分かっていた。
更に今、畠山義継を取り込む機会を逃せば、芦名に圧力を掛ける絶好の機会を逃すことにもなる。
半ば諦めるようなため息を付いた政宗は「小十郎」と腹心の名を呼ぶと、地図を持ってこさせた。座敷の中央に広げると、皺になるのも構わずその上にしゃがんだ。
「父上、相手の頼みばかり聞くだけではこちらは損です。領地の切り取りは大きく行わねばなりません」
大内定綱を発端とした、長きに渡る膠着状態にようやく光が差したと、輝宗を始め、実元も基信も、政宗が意外にも早く寛大な働きに安堵の声が漏れた。眼前に積まれる難題が、ひとつ消化された。これは実に大きい一歩だ。
「政宗、ならば」
「ええ、父上と実元たっての頼みですので」
政宗も、冬季を目前にいつまでも戦線に出ずっぱりでは、兵、兵糧ともに春からの遠征に支障をきたすと考えていた。敵が頭を下げるなら、無理をおしてまで刃を交えぬほうがよいとの判断だ。冬季進軍に関しては小十郎の入れ知恵でもある。
おもむろに立ち上がった政宗は、火鉢から火の移っていない黒い炭を掴むと、再び地図の上にしゃがみ、がりがりと線を書き加えた。そこは、畠山義継の領地だ。これまでは阿武隈川の川岸いっぱいまでを義継は治めていたが、伊達に下るなら由比川までと政宗は領地奪取を譲らなかった。
「実元、あの定綱の野郎と畠山義継にはよく言っておけ。問答無用で領地は寄越せ。今回繋がった首、二度目は絶対にねえ、とな」
「恩に着るぞ、政宗」
「お優しい父上と、実元の顔を立てたまでのことです」
再び炭を火鉢に投げ入れた政宗は、畠山義継、大内定綱にその旨を伝えること。明後日辺りにでも顔を出すこと。間断なく小十郎に事後の命を下すと、そそくさと廊下を踏み鳴らし部屋を出て行った。
小十郎に呼び止められたのは一度きり。その後は諫言も無くいつもの様に追って来ない。相変わらず察しの良い出来過ぎた腹心である。
政宗はその足で納屋へ向かった。放ってあった適当な木刀を取り、庭に出ると巻き藁と向き合った。今日ほど精神統一に難儀したことはなかった。ここ幾月、翻弄された政宗が苛立ちをおさめるには、剣を振るうしか思い浮かばなかったのだ。本来なら二人が小浜城へやって来た時点ですぐに首を掻っ切ってやりたいのが、また暫くは様子を見るしかない。
先々のことを思案しながら、手にした木刀を何度も振り上げ振り下ろした。踏み込みも幾度目か分からない。気づけば、陽は山の後ろに半分隠れていた。
義継、定綱が率いた兵のことを考え、身を隠すように裏山から城へ戻ったが、結局はその必要すらも無く、今回の行軍を実質終えた。
戦の消化不良ほど気分の悪いものはない。
「無駄な手間取らせやがって」
叩かれた箇所から、藁の束がぼとりと落ちた。
戦をせぬから実元は日和見だと成実はこぼしていたが、己が父親を振り返ると成実の言葉は割とあたっているように思った。もともと輝宗は戦があまり得意ではない。先代同様、なるべく刃を交えず婚姻によってとりなそうとするくらいだ。故に輝宗には、柔よく剛を制すという言葉がぴたりと当はまる。また、年長ともなれば丸くなり、情に脆くもなるのだろう。
政宗はそれに勝る号剛を穿けばよいのだと、己に言い聞かせ、今一度木刀を振り上げると渾身の力を込め、眼前の巻藁に刻みこんだ。
がむしゃらに叩きつけていたせいか、息は上がり汗をかいていた。力強く木刀を握っていた腕も張っている。戻ってから一時も休んではいない政宗は、世話を頼もうと誰かを呼ぶつもりだったが、その必要は無かった。
濡れ縁に、初穂が静かに座り、政宗の鍛錬が終わるのを待っていた。彼女の側には湯気の上がる桶と、真っ白い手ぬぐいが置かれている。
政宗は巻藁に木刀を立てかけた。
「まだ続くようならどうするつもりだったんだ」
「陽が沈み切りましたら、お声を掛けようと思っておりました。体が冷えてはお風邪を召します」
向き合った政宗からは、巻藁に向かっていた刺々しい殺気は消えていた。初穂の隣に腰掛け、自嘲気味に言った。
「行軍先に敵大将は不在、首を取り損ねた挙句、逆臣を許した。端から見れば間抜けみてえだ」
「そのようなことはありません。父を許して頂いたこの御恩は、感謝の、しようも…ございません」
手を付こうとする初穂に、手を払い政宗はやめさせた。
「二度目を言わせたいのか。どこまで生真面目なんだあんたは。父親の仇を取ってくれくらいは言ってくれてもいいんだぜ」
初穂は首を振った。
「いいえ…。これで本当に、名実ともに、伊達の臣下となりましたから。わたくしも心置きなく女中仕事に励めます。輝宗様は忠を尽くして貰おうか…と言って下さり、また遠藤様とも、そう約束しました」
膝の上で堅く手を握っている初穂は、ちらりと政宗を伺った。「へえ」と不敵な笑みを浮かべ頬杖をついていた。
「じゃあ晴れて後ろめたさが無くなったとこで、世話焼いてもらおうじゃねえか。桶まで持ってきたからにはあんたが、やってくれんだろ」
「あ、あの。っはい…、仰せのままに」
さっと立ち上がった政宗は、傍らにあった桶を持ち抱え、すたすたと廊下を歩いた。初穂はその後をひたすら付いて行く。適当な空き部屋へ入ると、おもむろに着物を脱ぎ始めた。半裸になると背を向け腰を下ろした。
初穂は手際よく襷を結び、よく絞った手ぬぐいをたたんだ。膝立ちになると一声掛けた後ゆっくりと政宗の背をふき始めた。首から肩へ、背骨に沿って腰まで往復する。
着物を着ていれば政宗は一見細身だが、呼吸をするだけで背の筋肉が皮膚の下で浮いたり沈んだりしていた。当たり前だが傷はひとつもない。
両腕までふき終えた時、初穂は一瞬戸惑うも、政宗の横に座り直し腕を伸ばした。三度絞った手ぬぐいを腹の辺りにあてた。途端、あぐらをかいていた政宗は半回転し、初穂の手首を掴んだ。
「いい、手前でやる」
「失礼しました…」
初穂は、体を引こうとするも、政宗は今だ手首を掴んだまま離そうとしない。初穂の瞳をじっと見つめた。逸らそうとするも、許されなかった。目が泳ぐばかりで少しも落ち着かない。
「嫌か、目を見られんのが」
「あの、あまり…面と向かって見られるのは慣れておりませんので…」
「じゃあ仕返したらどうだ」
「え…」
「醜いと思うか」
一呼吸の間に、僅かに政宗の表情が曇った。
「決して、そのようなこと、思っておりませぬ!」
初穂の声は思いの外部屋に反響した。いつもの吃りが混じったような言葉ではなく、真剣な眼差しでぴしゃりと言い放った初穂に政宗は驚いた様子だ。見開かれた左目は瞬時に弧を描き、腹を抱えて笑い始めた。何がそんなにおかしいのか、初穂は戸惑った。ただ分かるのは、握られた手首が熱を帯びていることだけだ。政宗は更にぐいと引き寄せ、初穂を覗きこんだ。
「綺麗な色だと思うがな」
「あ、後は、政宗様ご自身でお拭きくださいませ!失礼致します」
顔を伏せた初穂は、政宗の手を振りほどくと脱兎のごとく部屋を飛び出した。たたたと廊下を掛ける足音と入れ替わりに、部屋へ向かってくるのは紛うことなく腹心たちの足音だ。
眼帯を外し、顔を手ぬぐいで覆い、ぬぐっていると小十郎と成実が部屋に入ってきたのが気配で分かる。報告へやって来たのだろうが、第一声はあまりにも政宗が予想の範囲内だった。
「政宗様、お戯れもほどほどに」
小十郎の小言が放たれるも、成実の目に映る主は、間違いなく機嫌が戻っていた。