八、瀬か淵か

…さま、初穂さま

 軽く肩を揺すられた初穂は広間の隅、壁に寄りかかって身体を休めていた。呼ばれて重い瞼を持ち上げれば、帳はまだ城全体を覆っている。雑魚寝をしている女中やその子どもたちは、いまだ夢の淵にたゆたい寝息が聞こえていた。ところが目の前の彼女は困惑した表情を貼り付け、落ち着かない様子だ。何かあったのかと問うと、小手森から早馬があり、伊達軍の本隊が小浜へ兵を向けたと報せがありました。と声を震わせた。
 苅松田城と小手森城この二つの支城では、加勢の芦名が引き上げた後も城兵らは籠城の備えを強化していた。定綱叛意を大義名分として、真っ向からやって来る竜を捕らえてやると意気込んでいたのである。度重なる定綱の臣属の変わりに振り回されるも、彼らにはまだ己が城を守りぬく矜持は残っていたのだ。それぞれの城では城下の民を匿い、籠城に必要な普請を施した。資材や食料も足りぬので、まな板から釜蓋まで何でも持ってこさせた。また、深く城を囲う堀には水路より水を多く引き入れ、門という門には鼠一匹入り込まぬよう、何重にも横木をとりつけ閂をした。
 その間、両支城には幾度も「降伏しろ。城を明け渡せ」と伊達より使者が寄越されていたのだ。門戸の灯火は揺らめいたが、もちろん安々と要求に応じるわけがない。伊達の使者が来る度に跳ね返していた。しかし遂に痺れを切らした伊達軍は深夜、月明かりも届かぬ深い山林を縫うように抜け、両支城へ兵を進めた。攻め寄せる数に、恐れをなした苅松田城の青木修理は政宗に降伏したが、一方の小手森城はその気配すら見せず、そのまま火蓋を切った。
 幾度と無く伊達からの使者を跳ね返していた高い城壁の反り上がりは、政宗の前には無意味だった。小十郎の巧みな交渉により、これまで鯉口にすら指を掛けられていなかったせいか、伊達の将兵は燻りを思う存分城ぶつけ、門を突破し、城内の至る所で丁々発止とやり合った。勇む声が上がっては雑踏の渦中に消え、銃声は悲鳴へ変わり、硝煙を潜る弾雨は血を地に落とし続けたのである。結果、伊達軍による支城攻めは、苅松田城に於いては交戦無くして落城、小手森城は最後まで戦火を飲み続け、やがて白い煙が上がった後陥落したのだった。
 小手森城から報せにやってきた兵は、戦火の中を必死にくぐり抜け、馬を掛けてきたらしい。女中は話し終えると顔を曇らせ袖を掴んだ。肩は震るえている。初穂は恐る恐る尋ねた。

「支城で籠城していた者たちは…」

 女中は力無く首を横に振った。初穂は胸が詰まった。

「父上は何と仰っておいでですか」
「それが…」

 そう言って目を伏せた女中の声は、かろうじて初穂の耳に届く程度の本当にか細い声だった。
 定綱が自室に篭もり、誰も入るな寄りつくなと命じたのは、籠城を開始して幾日かの後だ。それ以来、朝も昼も夜も一向に姿を見せぬことに疑問を持ち始めた家臣らは、咎められるのを覚悟で部屋を訪ねた。ところが障子戸を開けると部屋はもぬけの殻だったのだ。定綱が居た形跡は跡形もなく、硯に残るかすかな埃だけが幾日かの不在を表していた。その空っぽの部屋を見た時、家臣らは憤怒を通り越して呆れと諦めとがせめぎ合っていた。主を守るのが家臣らの勤めであると、それを信条にし長年定綱についてきたにも関わらず、籠城中見捨てられたとあれば、それまでの気概や忠誠は、波が一気に引くようにそれぞれの中から流され消えていった。薄々、定綱はもう城には居ないのでは…と訝しむものもあったが、懐疑を口にしなかったのは、不安を煽り狭い城で騒ぎを招いてはならないと思っていたからである。
 女中の言葉に、初穂は我が耳を疑った。定綱の薄情過ぎる行いに状況が飲み込めず、開いた口が塞がらない。我が身可愛さに、家臣を捨てゆく主がどこにいようか。

「…誠に父上は、城には居らぬのですか」

 女中は力無く頷いた。
 現在、残った将だけで軍議を開いているそうだが、大将定綱の不在が堪えているようで、これ以上の長期に渡る籠城に反対する者も出始めている。つまりは大人しく伊達へ降伏しようというのだ。しかしそれでは定綱の家臣たちは路頭に迷うことになるし、更には敵に首級をくれてやるくらいなら、己が腹を斬るまでと勇む者は自刃を望んでいるらしかった。
 この定綱遁走の事実を知っているのは一部だそうだが、それにしても籠城中は外に遠藤基信隊が控えていたにも関わらず、よくぞ一人だけ抜けだしたものである。定綱が逃げおおせたとすれば恐らく逃走先は畠山義継の居る所だろうか。
 初穂は己の側で横になっている親子を眺めた。母は子を抱くように腕を回し、子はその胸に顔を埋めて寝息を立てている。彼女の夫はこの小浜城の足軽だと言っていた。初穂へ報せを持ってきた彼女もまた、妹と共にこの小浜城で女中奉公している。
 定綱がこの城に居ないとわかれば、政宗は目標をそちらへ絞るだろうが、決して小浜城の無事が保証される訳ではない。刃向かうものは容赦なく斬る。政宗は確かにそう言っていた。
 すると具足の音が廊下に響いた。現れたのは定綱の家臣だ。甲冑に身を包み、静かに広間へ入ると一直線に初穂の元へやって来た。顔は見知らぬ将だ。突然の訪問にたじろぐも、彼は構わず深々と頭を下げ口上を述べた。

「初穂殿、お初にお目に掛かり申す。某、石垣勘解由と申す者、侍大将を努めておりまする」
「面を挙げて下さい。どうか畏まらずに」
「は、かたじけのう存じます。此度の戦に於いては、初穂殿の兵らへのお気遣い、誠に痛み入りまする。その者よりお聞きになっているかと存じまするが、現主既に不在故、実質決定権は貴方様であるとの結論と成り申した。我らの意向としては伊達に講和を申し出たい。ついては、貴殿にその役を引き受けては貰えぬだろうかと」

 石垣勘解由は後にも先にも引けぬと行った構えで初穂を見据えた。

「重ねて、頼みたき義もございまする。主に見捨てられた今、仕えていた我らはこの先食って行けぬのです。降伏に加え、伊達への臣属を賜れぬかと…。都合の良いこととは重々承知。しかし忠を尽くす旨をどうか伊達殿に申し出たいのでござる。初穂殿は、伊達家重臣遠藤基信殿と懇意にされていたと聞いております。何卒我らと共にお頼み願えんだろうか」

 奥歯を噛みしめるように声を発した勘解由は初穂に頼み込んだ。この決断に至るにあっては、将兵は屈辱に耐えぬに違いなかった。
 だが直、城の外には遠藤基信隊に加え、次期政宗の本隊も合流する。伊達軍戦力は増す。一方の小浜は備蓄も底をつく上、主の不在である。窮地に立たされた小浜勢が、これから伊達軍と正面切ってやり合っても犬死の結果になるのは目に見えていた。定綱が家臣らも見捨てたという事実はいつまでも隠し通すことなど出来ない。明るみに出れば士気は益々下がる。
 考えた末、城内の者を、民を、一番に考えたのだろう。初穂もそれが正しいと思えた。みすみす命を落とすことはないのだ。
 そして現在、この城で伊達軍との窓口になれるのは初穂を於いて他には居ない。初穂は勘解由の申し出を、大内の娘として背負うことを決心した。



「おい、これは一体何の冗談だ」

 ここは小浜城にほど近い、山の麓である。近頃はあたりの木々も徐々に青葉の勢いが収まりつつあり、火の側に寄りたい夜もままある。政宗本隊の到着に、ただ城を外から眺めるばかりの日々がいよいよ終わりを告げるのだと、遠藤基信隊、留守政景隊の将兵らは主の到着を喜んだ。
 先刻、小浜城を囲う遠藤基信隊の陣へ到着した政宗は書状を受け取った。床几に座り読み終えたところだ。内容に不服はない。小浜城は伊達軍が手出しせずとも自ら降伏を申し出ているからだ。ただ、城兵やその他家臣どもを伊達の臣下に加えてくれとの要求は虫の良すぎる話である。苛々しながら煙管を取り出し、火を付け肺一杯に煙を吸い込むと、側へ来た小十郎に書状を返した。
 基信からの報告によれば、相変わらず反応を見せぬ小浜城は、不気味なほど何の行動も無く静かだったが、政宗が到着すると知り得たようで、和議の申し入れがあった。降伏させるなら早い方が良いとの小十郎の考えに従い、すぐさま使者を城へ送り、定綱に自らが出てこいと言伝た。結果、今夜小浜から使者を寄越すという。
 夕暮れ過ぎより、陣幕の内にはそうそうたる伊達軍の将が待機していた。元々陣に構えていた遠藤基信はもちろんのこと、後詰としてやって来た留守政景、加えて本隊である。
 一同、小浜から大内の人間を待ち構えていると、陣幕の外には具足の軋みとともに足音がいくつも聞こえた。幾人だろうか、と耳を澄ませた政宗だったが、幕をめくって現れた大内側の人間を見るなり、今にも笑い出しそうな構えだった。小十郎は何の思惑があるのだと訝しげな表情を携えている。基信も成実も政景もあっけにとられていた。それもその筈だ。
 小浜上から寄越した使者は、初穂と、介添人として石川勘解由、その二人だけがやって来たからだ。講和の場にしては幾らなんでも、娘と侍大将では吊り合わない。停戦の盟約であるからには、それ相応の身分の人間が来るのが筋というものである。
 政宗は煙草を飲んだ。

「あんたら何しに来たんだ。講和を馬鹿にしてんのか。定綱に出てこいと言え、出直して来い」

 初穂は構わず、地面に座した。勘解由もそれに従った。

「政宗様、誠に申し訳ありませんが父上は既にこの小浜城にはおりませぬ。代わりに私が参った次第でございます」
「Ah?定綱がいねえだ?ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ」

 政宗は小十郎を呼ぶと、すぐさま一隊引き連れ城へ向かうよう指示を出した。定綱を探すためである。立ち上がった小十郎が陣から出るのを遮って初穂は訴えた。

「お待ちください。虚言ではございませぬ。父上は籠城が始まってすぐ、家臣の誰にも告げずこの小浜城を離れたのです。それ故、此度は降伏の旨伝え参りました次第。今の時分、子らも寝静まっておりますれば、片倉様、何卒」

 幕を潜ろうとしていた小十郎は足を止めていた。政宗は顎をしゃくって戻るよう命じた。初穂の側には再び砂利の擦る音が近づいた。

「書状は読んだ。だが賊臣の家臣まで養ってくれなんぞよく言えたもんだな」
「ご無礼は重々承知にございます。然らば彼らも謂わば主に裏切られた身にございますれば、何卒ご慈悲賜れぬかと。以前のお約束を、私は忘れてはおりませぬ」

 初穂の言葉は後になるに連れ、少々声が震えていた。初穂は今、小浜に歯向かう意志は無いと伝える代弁者だ。政宗はいつぞやの自室でのやり取りを思い出していた。我ながら余計な裁量を下してしまったと溜息をついた。

「ったく、面倒臭え。小浜城は手に入るからそれでいい。ただ、定綱はどこに逃げた。言え。俺はあいつに腹立ててんだ」
「何処に居るという明確な所在までは…。申し訳ございません」

 政宗は益々項垂れたが、すぐさま別動隊を編成させ、定綱を虱潰しに探すよう命じた。細い渓流を西へ超えた所は二本松であるから、その辺りを重点的に調べるように言った。これまで仲良く手を組んでいたであろう畠山義継周辺を嗅ぎ回れば、凡そ目星はつく筈である。唐突な出立に、伊達軍の兵は幕の外で右往左往し慌てているのがわかった。急げ急げと声を掛け合い、馬がひと鳴きした後、蹄の音は地に響き遠ざかって行った。その間も、政宗の詰問は続いた。

「城に人間はどれくらい居る」
「二百弱でございます」
「俺らの到着はどうやって知った」

 鋭い目つきで初穂は睨まれた。

「小手森城より、手負いの者が早馬を。政宗様、小手森城の者は、その…」
「勇猛果敢な奴が多かったもんでな。それも約束だろう」
「…仰る通りに、ございます」
「話は終いだ。あんたら今夜はこの陣に留まれ。いいな」

 それだけ言うと立ち上がり、政宗は陣幕の奥へと姿を消した。初穂も勘解由も深々と頭を下げる。政宗の側近らも恭しく主を見送っていた。初穂の隣で勘解由が唇を噛み悔しい顔をしていた。これまで信じていた定綱は逃げ果せ、これより心を入れ替え新たなる主へつかねばならぬのだ。小浜勢にとってこの降伏は屈辱である。ただ初穂は、政宗が伊達近臣以下、一兵卒をも目にかけ、家臣に手厚いのも米沢に居た頃に知っている。今はただ、伊達家臣として奉公できることを初穂が後押しし、小浜の人間が何事もなく命あるままに過ごせる手助けをすることができる精一杯だった。

 翌朝、伊達軍は小浜城へ出向き、残った将と改めて講和を結ぶと早速政宗によって全指揮が取られた。刃を交えること無く勝利した伊達軍は、勝鬨を上げ勇んで城へ入り、政宗の命通りに城の隅々までを調べつくした。蔵の備蓄は既にすっからかんで、降伏せざるを得ない状況であったのはすぐに判断できた。また銃弾薬も芦名からの援助により、ようやく対抗できる装備であり、定綱はどこまで本気でやり合うつもりだったのかと呆れるばかりだった。
 伊達軍が見分する間、小浜城の武将以下家臣、使用人、また匿われていた城下の町人らは二の丸大広間に集められていた。もはや小浜城での身分などそこには無く、老若男女が一から新たな主より、今後の沙汰が言い渡されるのを不安を抱えて待っている。初穂も上座に近い場所に座っていた。するとひと通り城内を見終え、政宗が小十郎を従え部屋へ入ってきた。皆、初めて見る奥州独眼竜に呆気にとられている。隻眼に六爪の刀とは耳にしてはいたものの、いざ当人を目の前にしてみれば放たれる威圧に戦慄していた。後ろの方では子供が泣き、母親は慌てていたが、政宗は構わなかった。

「聞け。ここに居る者は主定綱に見捨てられた。今日只今を持って伊達家に使える身分とする。武功を立てたもんにはそれ相応の報いがあると思え!今日から主君はこの奥州独眼竜伊達政宗だ!いいな」

 広間は水を打ったようにしんと静まり返っていた。やはり納得出来ない者も中には居るだろう。具足を付けた者は勘解由の時と同じく、己の無力を悔い、選択の余地が無いことを嘆いていた。
 すると今度は小十郎が一枚の紙を読み上げ始めた。

「只今より、小浜の将兵らは片倉小十郎、伊達成実、遠藤基信が預かる。各々、配置換えがある」

 すると突然広間の真ん中より声が上がった。一人の小浜兵だった。

「ちょっと、待ってくだせえ!いきなりそんなこと言われても!無茶です!」

 政宗は青筋を浮かべながらも必死に耐え、地を這うような声で言った。

「いいか、こちとら戦の真っ只中だ。即席の隊を作ってやるんだ。戰場で武功を上げて忠を見せろ。さもなくば今ここで腹斬るか?てめら本来なら犬死に同然だったんだぞ。それが、数ヶ月この城で過ごしただけの養子の娘に、ここぞという時に命助けられてんだ。ちったあ弁えろ!」

 一喝された兵士は、腰を抜かして手を後ろについていた。他の者も政宗の剣幕を目の当たりにし、これ以上怒らせぬほうが良いと感じたのか、どよめきは収まり、誰一人声を発する者は居なくなった。小十郎は淡々と小浜兵の名を読み上げ、側近の隊に割り当てる。また、兵の処遇ばかりでなく、城下に於いても政宗による指針が示された。産業等はこれまで通り、農地も検地により伊達領の基準に合わせ年貢を納める決まりとなった。しかしながら、伊達領の年貢は定綱の頃と比べれば、納める石高が加増となる。皆厳しいという言葉を飲み込むのが精一杯であった。
 初穂は、掻い摘んでの政の説明を前の方で大人しく聞いていた。皆の無事を喜びたいが、まだまだ難題は山積している。乱など起こらぬよう政宗との仲介役になり小浜の皆を守る事を心していた。
 小十郎の説明が終わり、兵らは早速己が隊へ合流すべくぞろぞろと立ち上がった。その時、広間へ続く廊下が途端に騒がしくなった。どけ!だの、通せ!だのと、更に罵声が激しい足音と共に轟き、大広間へ近づいている。一体何事かと、介する者にも一気に緊張が走り広間は騒然としていた。何故騒ぎが収まらぬのか、それは広間に現れた一人の男で明らかになった。男は大きな鉈を振り回し広間までやって来たらしく、抑えようにも皆振り回す鉈に手も足も出ないのだ。とうとう敷居をまたぎ、足を踏み入れた男を見て、初穂ははっとした。彼は大層な怪我を負っている。小手森城より報せを持ってきた兵であった。彼は気が触れたのか、狂ったように政宗の名を叫んでいた。広間に入った途端、彼の通る場所を皆避けるように壁際へと退いた。小十郎はすかさず政宗の前に立ちはだかった。

「政宗様、この場はこの小十郎めにお任せを」
「いい、退け」
「政宗様!」

 政宗は小十郎の制止を聞かず、前に踊り出た。小手森の兵は上半身にまっさらな布を巻いているが、血が滲み、肩で息をしていた。政宗と、小手森の兵とが向き合った状況は、伊達家臣らにとって予断を許さない状況である。
 初穂はいつの間にやら遠藤基信が手を引き、その男より遠ざけられていた。

「なんだ、報復でもしに来たか」
「煩え!よくも、よくも、よくも、よくもおおお!!俺あ小手森でどんだけ、仕合わせに奉公してたと思う!!お前にこの気持がわかるか!何もかも失った俺の気持ちが!!」
「HA、分かるもんか。なんなら今ここで俺を斬るか」

 男は叫びすぎたせいで、傷口が開き、ぽたりと畳に血を落としていた。おまけに意識がはっきりしていないのか、目もうつろで焦点が合っていない。政宗が見るにあまりそう長く持ちそうでもなかった。

「あんた、それくらいにしておいた方がいいぞ。とにかく今俺は忙しいんでな。大人しく寝てるこった」

 そう言った政宗は、あろうことか男に背を向けた。そのまま広間を退出するかと思いきや、瞬時に抜刀していた。ところが、男が鉈を振り下ろす方が早く、反応が遅れた政宗は、慌てて体を反転させようとするも間に合わなかった。それまで黙って見ていた小十郎も、他の近臣も、血相を変え刀を抜いたが、二人の間に刃を滑りこませることなど到底不可能に近かった。一撃目、鉈の刃先は政宗の左目を狙っている。兜で何とか受け流そうと、必要以上に俯いた時、政宗は一瞬我が目を疑った。目の前に有るのは三途の川の花畑などではない。視界に入るはずのない、鮮やかな着物の柄が目に飛び込んでいたのである。それと同時に男は引きずられた様に態勢を崩し、鉈を放り投げひっくり返っていた。男の足下には初穂が必死にしがみつき、共に座敷になだれ込んでいた。
 間一髪である。小十郎も、他の家臣らも冷や汗をかくも政宗に厳しく不用意だと諌めた。本人はどこ吹く風である。小手森の男は、すぐさま伊達家臣に取置されられるも、気を失っている様子だ。初穂はいまだその足下にしがみついたままである。政宗は初穂を揺さぶった。

「おい、あんた」

 大丈夫かという言葉は果たして初穂に投げられた言葉だったのかは分からない。しばし時が止まったように、彼女を眺めていた。横たわる体の下には血だまりができている。よくみると着物の首から帯にかけ、裁断したように布は裂かれていた。遠藤基信が己の前で初穂の名前を必死に呼ぶのにようやく気が付き、政宗は声を荒らげるばかりだった。