七、二人の齟齬
二頭の馬が登坂を駆けていた。膨らみかけた若芽を過ぎし冬より叩き起こすが如く、蹄は幾度も地を弾いている。
立派な毛艶の馬に跨るのは伊達政宗とその腹心であり従兄弟でもある伊達成実だ。二人は鞭打ち競いながら、城よりほど近い丘までやって来た。手綱を操り、見晴らしのよい所へ馬を落ち着かせると政宗は太い首を撫で労った。
この場所から眼下に広がる景色は米沢城の城下町、関所を跨げば陰に雪を携えたままの侘しい田畑が横たわる。今は荒れた農地に映るが、暫くすると農民たちが耕し、種を撒き、作物は実を結ぶ。水稲も芝のように土地一杯に広がるだろう。
そしてその奥、厳冬の名残を含む青い山が天に稜線を描く先には、明日より向かう大内定綱の領地がある。政宗は隻眼でぐっとその頂を睨みつけていた。
定綱の居城小浜城には、案の定、芦名佐竹による籠城のお膳立てが着々と講じられているとのことだ。援軍はもちろんのこと軍備を始め三月は持つであろう兵糧、更には定綱遁走用の馬までもが城門を潜ったというから、その手際のよさに益々眉をひそめていた。
芦名にとって、定綱は一度主君を裏切り政宗へ擦り寄った元家臣だ。本来なら処罰ものであるにも関わらず、出戻った家臣へよろしく世話を焼いている。芦名の目掛けは度が過ぎているのだ。言い換えれば、さも存分に戦えと言わんばかりの手厚い計らいである。
一方の政宗は、制裁を与えねばならぬとの大義名分の下、小浜へ兵を挙げる。定綱に処罰を下すのは主君たる者当然のことだ。正直を言えば、南下の足がかりとして小浜はいずれ攻略してやろうと常より目論んでいた。故に今回の叛意は、更に芦名へ爪を立てる口実をも得た、謂わば棚から牡丹餅のような願ったり叶ったりのきっかけである。
ところがそれは芦名も同じ腹であったらしい。
一見芦名は、懇意で援助している体裁だが、実のところ定綱を擁し、伊達の戦力を削ぐ魂胆のようだった。十分な物資や援軍は伊達軍を疲弊させるためのもの、つまり、定綱を対伊達の緩衝材にしているのだ。
籠城が互いに苛烈を極め相打ちなれば尚良しといった所だろうか。あわよくば漁夫の利を得る考えなのだろう。定綱はそうとは知らず、甘美な備えに高を括っているに違いない。
包囲が長引けば長引く程、攻める方も攻められる方も日に日に神経がすり減って行くものだが、もちろん門戸を閉ざた大内軍より、外と通じている伊達軍が断然有利である。兵糧が足らねば外から調達すればよいし、兵に至っても代わりの隊を補充可能だ。
しかし定綱相手に時間を浪費している場合ではない。何より、一等に不快なのは、芦名の策動に乗っかっていることが大変癪なのであった。芦名の手のひらの上にある感覚は実に腹立たしかった。
肩越しの芦名の魂胆を知り得たのは幸いだったが、とにかく情報を得るのが遅かっのだ。定綱を蓑に姑息な謀計とは随分と舐められたものだと歯噛みした。
以上の事は一刻前の軍議で明らかとなったものだ。報告を受けた政宗は、広間を刺を指すような殺気を放っていたので、成実が気晴らしにと二人は丘までやって来たのだった。
馬上より城下を眺めていた政宗は、思い出したように成実を見遣った。いつの間にか馬を降り、持って来た襤褸で愛馬の体をせっせと拭っている。呑気な奴だと思いつつ吐いた溜息は伝搬したらしい。肩をすくめた成実は襤褸を翻し、馬の鞍に寄りかかった。
「俺も芦名が高みの見物してるって思うとすげー嫌だけど、もう明日だ。行くっきゃない」
成実の言う通りだった。侵攻を躊躇していては、芦名に臆したのだと噂され兼ねない。伊達の名に傷を付けるわけには行かない。
政宗も馬を降り近場の岩に腰を下ろした。微温い風が吹き、春先の残雪と芽吹いた生花の交じり合った匂いがむせ返るように鼻を掠めた。頬杖をつきながら行軍を頭で思い浮かべた。
今回の行軍では揺動隊、政宗の本隊、対芦名隊と三つに分けている。
揺動隊は、街道沿いの家々を伊達に引き込む為、降伏を促すのが目的だ。伊達領より南には芦名に臣属する家が多く、いずれ会津、関東と勢力を伸ばすには周辺の家を味方につけ、街道周辺の道という道を掌握しておかねばならない。今回はその地固めである。向かう先では、会津芦名討伐をちらつかせ、今のうちに伊達に降れと懐柔させる予定だが、成らねば即交戦もあり得る。恐らく今回の編成では一番に気力を消耗する役だ。この隊は遠藤基信に任せた。彼は戦の采配さることながら外交にも大変長けているからだ。その間、政宗率いる本隊は、本来の目的である定綱討伐を掲げ小浜へ侵攻する。芦名の援軍が相当数予想される小浜には、政宗本隊が出立した後いくらか時間を置き、留守政景率いる対芦名隊が追撃し政宗の背後を守る。籠城戦の最中、後を取られぬよう不測の事態に備えた後詰だ。
芦名の魂胆が明るみに出た際、軍議ではこんな意見が出ていた。街道への進軍は急がずに揺動隊も本隊に加え、籠城が長引かぬよう兵力を集約した上で共に小浜へ進軍してはどうかと。政宗は首を縦に振らなかった。それでは年内に南下の足がかりを掴めなくなるからだ。
一貫して妥協したくない政宗は、手玉に取るように定綱を煽てる芦名は気に入らなかった。意表をついた策を仕込まねば気が収まらない。裏をかくにはどうすればいいか…。
眼前の草原には、早くも小さな蝶が行ったり来たりしている。政宗はたと閃いた。
「俺ら本隊が小浜城じゃなく会津方面へ兵を進めるのはどうだ」
成実はぱちぱちと二三度瞬き、目を見開いた。
「え、それって揺動隊の仕事を本隊がやるってこと?」
「Yes。定綱の奴はどうせ篭ってる。相当な兵糧があるんだろ。わざわざ正面から出向いやる義理はねえ。放っておけばいいと考えたまでだ」
「放っておくって…てか揺動隊の意味わかってる?敵地に行って揺さぶりかけるから一番の標的になるんだ。出立は明日だぞ。いきなりそんなこと言ってみろ。小十郎の雷落ちるに決まってる」
「予定変更だ。小浜城へは、俺ら本隊の代わりに揺動隊を当てろ。時間稼ぎに城の外で鉄砲ぶっ放して怯えさせるだけでいい」
「無茶言うなよ」
成実は呆れたと、益々力なく馬に寄りかかった。本隊自ら南の中心へ突っ込むなど、大将の台詞ではないからだ。向こう見ずにも程がある。
日夜伊達を背後から睨みつける蛇の巣に自軍を飛び込ませ、その土地々々の家を試すことですら、いや待たれと軍議では散々物議を醸したにも関わらず、政宗自らその隊を率いると言えば小十郎が黙ってはいない。しかも出立を明日に控えてだ。
鞍に背を預ける成実はちらと政宗を伺った。
確かに、揺動するにあって、餌が大物であればあるほど釣れる魚は大きくなるかもしれない。それは、武の成実と謳われる彼にとって覚えがあることだった。戰場で相対した者が重臣、大将首、強腕であれば有る程成実は己を鼓舞する。出てくるか出て来ぬか分からぬ蓑虫を、小浜城に留まり延々と突いて居るよりも、ひょいとひと薙ぎした瞬間、即座に反撃の来る蜂の巣を相手にしていた方が、成実は血沸き肉踊るのだ。
政宗自ら街道を行くことで、それまで鳴りを潜めていた家も動きを見せるかもしれない。この機に伊達の武を知らしめ、脅威を感じさせれば案外ころりとこちらへ転がるのではないだろうか。これもひとつの手か。成実は腕を組んで唸っていた。
腹心として政宗を律する立場を取るか、将として己の腕を振る場所を得たいか。その成実の葛藤を政宗は素知らぬ顔をして黙って眺めていた。ここで成実を味方につければ、小十郎や基信にも上手く口添えしてもらえる。後ひと押しだと口を開いた。
「小浜城と他二つの支城、苅松田と小手森、合わせて芦名の援軍はどのくらいっつってたか」
成実は従順に返答した。
「確か…百弱ずつって話だ。内訳は徒歩と騎馬と半々。でも定綱殿と通じている畠山殿の岩角あたりにも敵は潜んでいるかもよ。あの御仁は俺らの邪魔立てには余念がないから」
「All right、じゃあ尚の事本隊が揺動する意味がある。伊達軍本隊が定綱を狙わず、先に芦名へ進軍したと聞きゃ、加勢に散らばっていた芦名の連中も、てめえの城が危ねえと引き返さずには居られねえ筈だ。そいつらが完全に定綱の領地から引き上げた後、本隊は反転して定綱を目指す。抜けた穴から一気に畳み掛けて小浜を落とせ」
「それ、本隊が揺動の引き際間違えたら大混戦だ」
「その為に手早く道を抑えて小手森の道を踏み破れ。山越えせずに済むだろ」
「もう何言っても無駄って感じだな」
「そういう手前は随分うずうずした顔してんじゃねえか。頼んだぜ」
芦名の手のひらに乗ったと見せかけ、更に掴み返し握りつぶさんとする剛気な戦運びに、成実は腹心の立場を隅に追いやった。やはり大立ち回りする方が、従兄弟は楽しいのである。
今にも鼻歌を歌い出しそうな成実は、愛馬の頬を数回叩くと轡を外した。馬は地に生えた虚しい雑草を毟り始めた。額を撫でていると、政宗の馬も轡を外せと黒い瞳が訴えている。立ち上がった政宗は金具へ手を伸ばした。
「ところでさ。初穂ちゃんはどうするの?女中に聞いたけど、床に連れ込んだんだって?」
政宗が留め具外した拍子にごとりと轡は地に落ちた。一歩後ずさった愛馬を政宗は宥めた。その様子を成実はにやにやと笑っている。
「抜かしてんじゃねえ。同意の上だ」
「え、まさかやっ」
「ふざけんな。口ばっかで何もできやしねえ」
「この間は、気概が見れたとかって喜んでんのかと思ってたけど。えーと、武家のおなごとして?」
「見当違いだったってこった。あいつ何て言ったと思う?見逃せと言いやがった。武家に生まれながら武家も好かねえ奴だからな。俺もどうかしていた。血の迷いってやつだ」
「はは。最後のはよく分かんねえけど…。んじゃもう返しちゃう?」
成実は地面に落ちた轡を拾い上げながら冗談めかして言った。金具の擦れる音は一層辺りに無機質な音を響かせている。成実の言う通り、初穂が米沢に留まる理由は何一つなかった。
初穂が嘗て伊達に仕えた六条家の娘と知る近臣はいたが、元は先々代の家中騒動により決別した少数派だ。長らく伊達家に仕える家臣の中には六条家よく思わない者も居た。その娘が今度は定綱帰参の人質としてやって来たが、その父定綱は叛意を示している。父の責を負えと人質としての役割を政宗はいつでも実行に移せたはずだった。
轡は手のひらに存外重い。政宗は食い込むほど力を入れ握っていた。先ほどの蝶が無い花を求めまだ彷徨い側を横切った。
「そうだな。返すか」
成実は、慌てて振り向いた。
「え、は?ちょっとは俺に反論とかしないの?」
「Ah?反論も何もお前の言うことに納得したからの返答に決まってんだろうが。自分で言っときながら何だ」
「だったら何でそんなに苛々してるんだ」
「さっきから何訳の分からねえこと言ってやがる?!いつ俺が苛ついて」
「ちょっと待って、落ち着いて。最近の藤次郎はちょっと変だって思ったんだよ。そう、定綱殿の裏切りがあってから。戦のことは考えてるけどすっげー情緒不安定ていうか」
「んだそりゃ、どこもおかしかねえ。戯言抜かしてんじゃねえよ」
「戯言じゃない。心配してんだ」
政宗に向き合った成実は、先ほどと打って変わって鋭い目を釣り上げている。辺りの空気は刺を纏ったように張り詰め、成実の馬も主を察してか前足で地を幾度もかき落ち着きが無い。
定綱の裏切りがあってからと成実は言うが、政宗にとって定綱が戻らないことには驚くべきことではなかった。寧ろ、やはりなと思惑通りの事の運びに内心ほくそ笑んだくらいだ。当初より定綱への信用度はさほど無かったから尚更である。ところがその弊履な事実は、意外にも政宗の本能が拒絶していた。記憶の隅に堆積していた毒蛾の鱗粉が、吐き出しから部屋に再度舞い込んだかのような不快感だ。それは以前にもあった。触れれば吐き気をもよおし、怒りと憎しみが蘇るのだ。耐え切れず、自室の壺を割ったのはそのせいだった。
それ以来、内でのたうち回るどす黒い淀んだ塊は一切抑え、一時は葬った筈だった。それが道場での小十郎の報せと、初穂の懇願した態度に、心底が覗いたのだ。健気に、何かの間違いだと言い聞かせる初穂は益々不快に思った。
成実は腕を組み、仁王立ちしている。
「基信殿も心配してたよ」
「成実、もっぺん触れてみろ。留守役にしてやろうか」
「ごめん。もう言わない。でも全く別もんてこと忘れんなよ」
「ああ、余計なことは考えねえ。基信には大内の娘を小浜城へ一緒に連れて行けと伝えておけ」
・
執務室に溜息が三つ。片倉小十郎、留守政景、遠藤基信と、政宗側近の面々が顔を突き合わせ明日の出陣を前に腕を組んでいる。
政宗が成実と共に城へ戻った後、各々、自身が政宗を誘うべきだったと悔やんでいるのだった。しかし、主が決めてしまったのならそれに従うほか無い。小十郎は掛け合ったが、政宗自ら揺動隊として街道へ行くとの考えは曲げなかった。
外はもうじき陽が暮れる。この陽光を再び浴びる時、具足甲冑に身を包んだ者は領地を離れる。遠方の兵は親族と別れを済ませ早々に城内の宿舎へ入り、ここ数日寝泊まりをしていた。今年も幾人の兵が戦場で血の花を咲かせ散るのか。人死にを最小に抑えるのも参謀を始めとした将たる者の勤めである。それが、我が主なら尚の事だ。大将が先陣を斬るとは…先代輝宗より仕えている政景や基信には若武者の思い切りのよさは時に心臓に悪すぎた。
扇子を取り出し、皺を伸ばすように末を眉間に当てているのは政景だ。濃紺の羽織りは重厚な仕立てで、今日はそれが余計に重く映る。腹を決めたような表情を携え、一番に口を開いた。
「装備などは、入れ替えれば良いだけかな。片倉殿」
「は、左様でございます」
「殿のお決めになったことだ。致し方ない。本隊には貴殿と、成実の隊が付くのだ。心配なかろう。しっかり頼みましたぞ」
「畏まりましてございます」
「冷静さを欠かずに行きましょうぞ。私どもが殿をお守りすればよいのだ」
小十郎は堅く頷いていた。隣の基信は、晴れぬ顔をしている。政景が尋ねた。
「基信殿、何か意見がござろうか?」
「いえ、大内の娘のことです。政宗様は小浜へ共に連れて行けとのご命令。誠に良いのかと思いまして。攻める城にございます」
基信が、初穂に仕事を手伝わせ、可愛がっているのは城内でもよく知られていた。定綱殿よりも親子のようですね。と女中たちに言わしめるくらいには、信用を置いていたのは事実だ。初穂を返せば、無論彼女にも刃を向けねばならない。
初穂の処遇についてはこれまで政宗から特段の言及は無く、戦後に何かしらの処断が下されるものと考えていたが、目を背けたい何かに蓋をする様な政宗の急な判断には感情的な片鱗が垣間見えるように感じた。果たしてこれが政宗の誠の本心なのかと基信は疑問に思っているのだ。
日の落ちる中、女中が火を灯しにやって来た。明かりが付けられると、床を介して壁には大きな陰がいくつも揺らめいている。政景は緩んだ羽織紐を結わえ直し言った。
「初穂殿は、先日殿と一騒動あった様子で。聞けば初穂殿に粗相があったと。何でも我ら小浜攻略に当たり、家臣助命の嘆願をされたそうですな。そのお心認めてやるのが武士というものではござらぬか」
「政景殿の仰る通りでございますが、しかし…」
「基信殿、気を保ちなされ。そなたが初穂殿に目を掛けていたのはよく存じておる。あくまで人質として伊達へ参った娘だ。その父親が叛意を示した今、我らではどうこうできませぬ。ましてや娘が政宗様の逆鱗に触れたとあれば尚のこと」
「手に掛けろと仰るので」
「我が身を差し出し小浜の者の助命を請うたことに鑑みれば自ずと」
「武家の女子の宿命とはなんと慈悲なきことか」
翌朝、大手門には金色の丸印を携えた登りが幾百もひしめき立ち、総勢三万の軍勢が天に鬨を轟かせ城を震わせた。道幅一杯に曲がりくねる太い隊列は天駆ける竜のようで、将兵は例えるならそれぞれ鱗一枚一枚とでも言おうか。甲冑に闘志をぎらつかせ折り重なった深い藍色の鱗は竜の体を形取っている。梅桃の繚乱に誘われるように一軍は米沢の地を離れた。
政宗の本隊には、小十郎と成実を将とし、各隊街道沿いをひた走る。政宗自ら指揮を取り堂々と会津討伐を宣言し南下する。これによって、芦名に与する家、これまで中立を保っていた家は揺らぐ筈である。そこに使者を送り降伏を促し、無血開城させたいが、成らねば城攻めも考えていた。ひとつずつ城を手中に収めながら会津へ兵を進める。伊達軍本隊がよもや会津へ向かっていると知れれば、芦名は一大事と定綱の元へやっていた援軍を、会津へ返し始める筈である。
その間、別動隊には、本来政宗本隊が向かうはずだった大内定綱の小浜城侵攻を任せた。これには遠藤基信が大将となり各隊率いている。元より芦名から援軍が向かっているが、これが早々に引くか否かは政宗本隊の暴れように掛かっていた。だがこれに関しての心配は無用であった。
街道を行く政宗本隊の報せはあっという間に近隣の領地へ知れ渡り、地割れを起こすように家の均衡を揺るがす騒ぎとなった。その頃季節は萌木も無く、山道はわんさと深くなりゆく葉に空が覆われ始めていた。付近の城と城を繋ぐ主要な道には春雨の泥水を弾きながら早馬が幾度も掛けた。手を取り合う家々は書簡の応酬が絶えず、とりなす使者は昼夜問わず手綱に手に汗握る羽目になった。
あの伊達の若造が初陣よりたった数回の戦の果てに、いきなり芦名へ宣戦布告とは身の程知らずも良いところだと揶揄する者がある一方で、強大な軍をいつの間に拵えたのかと急速な軍の拡張に慄く者とある。
後者は辺りの反応を伺いつつも、家ごと取り潰されては敵わぬと戦の火蓋を切らぬうちに降ると次々に政宗へ使者を寄越してきた。目論見通り、降服の兆し伺える城から次々に伊達の属城とした。兵を挙げてからこの二月でその数は両手では足らない数となり、地図には大小墨の印が増えるばかりだ。それに沿うように、渓谷から尾根の道、街道への行路にはこれまでの障壁無く伊達軍が容易く行き来できるようになった。ここまでは、いまだ鞘から刀は抜いていない。大挙し押し寄せた伊達軍と、また小十郎の巧みな交渉で血を流さずに済んでいた。出立から勇んでいた成実ばかりは不服そうな様子だった。
程なくして会津芦名勢が徐々に安達郡界隈より援軍を引き上げに入り始めた。ここまで政宗の描いた通りだと、もはや笑いすら出てくる。だがそう胡座をかいてもいられなかった。一応の会津攻めの宣言はあるが、これはあくまで小浜周辺から援兵を引き上げさせる為の揺動でもあった。本来の目的は大内定綱の成敗だ。
月夜の晩、篝火を四方に配置した陣の中心に政宗はあった。傍らには小十郎と成実も同席している。
陣を張っている場所は米沢から真南に下った磐梯山の麓だ。辺りは鬱蒼と木々の生い茂る場所で人の声も飲み込まれる程深い森だが、静寂の中にあってはよく通る。近くを流れる川のせせらぎが風に乗り聞こえるが、支流は凡そ五里先に控える猪苗代湖へと注いでいる。政宗はいよいよ最後の仕上げにかかろうとしていた。
ここより東へ直線上に小浜の支城である苅松田城、小手森城がある。この二城は小浜上にほど近い位置にあるが、既に芦名の援兵は引き上げ、兵は城兵ばかりで構成されていた。政宗はその頃合いを見計らって苅松田城へ成実を遣わし、城をあけ渡せと書簡を送りつけていた。その返書が今しがた届いたのだ。政宗は明かりに照らしていた書状を小十郎へ手渡した。
「駄目だな。小浜城を背後から挟み打つかと思ったが」
「出城であるからには、他家の様にそう簡単に行きますまい」
「よし行こう、今すぐ進軍しよう」
瞳孔が開いた成実には、緋色のゆらぎが絶えずある。小十郎は成実を諌めた。
「ところで、小浜の様子はどうだ。芦名が引き上げた後どうなってる」
政宗は小十郎の向こう側、背後の暗がりに問いを投げた。
小浜にやっていた遠藤基信は相変わらず、門戸を閉ざす定綱と睨み合いを続けていた。小浜に到着して既に二月以上が経っている。政宗の命令どおり、基信は初穂を小浜城へ返した。最初の使者を小浜城へ遣った際その背を見送った。現在城には一族郎党兵糧を食い潰している最中だ。
城内は備蓄の目減りが目立ち、重い閉塞感が漂い始めていた。城には幼子を始め年端も行かぬ子供も多く、日に日にぐずる頻度が増していた。子供ながらも城と共に命を遂げる覚悟を感じ取っているのやもしれず、次第にそれは大人たちへ苛立ちへと姿を変えてゆく。黙らせろと声を上げる兵もあり、ぎすぎすとした空気に家臣たちの間にはいよいよ降伏と開城がちらついていた。
そんな中、小浜城へ突き返された初穂は日々皆を励まし過ごしていた。城の者は、嘗て主定綱が不気味な娘を養子にとったと聞いていたが、これまでまるで接点の無かった娘が献身的に声を掛ける様を不思議に思っていた。泣く子供や女中たちにきっと生き延びることができるから心配はいらないと言い聞かせ、名も知らぬ兵ひとりにも声を掛けている。彼女の言うその根拠が何処にあるのか城の者は全く分からなかったが、初穂の言葉には何かを信じて疑わない強い意思があった。
城内がこうして不安に駆られる時は、大抵伊達軍が鉄砲で一斉に威嚇をする時だ。外から煽る伊達軍の地鳴りのような声も女子供は殊更恐ろしいと見える。いつ城門をぶち破られてもおかしくはない状況だが、城主定綱は、その射撃あっても辺りに硝煙の匂い漂わせるだけで、弓矢の反撃なども伺えず随分静かにしていた。指揮も取らず、だんまりを続けたまま一向に自室から出てこなかったのだ。
「Ah?あんな啖呵切った割に、もう戦意喪失してんじゃねえだろうな。ったく笑わせてくれる」
政宗の乾いた笑いと共にくべていた薪木が大きく弾け、夜風に煽られた火の粉は陣幕に黒い斑を小さく空けた。幕には政宗の陰が揺らいでいる。陰影はなびくと夜闇に溶けた。
芦名の兵は皆引き上げた。小浜城の兵糧はじき底をつく。具足を軋ませ政宗は将棋を立った。
「基信と合流だ」