六、詰屈
定綱の子が産声を上げたのは、天まで祝福していると思わんばかりの麗らかな陽気の日だった。
女中は忙しく廊下を行き交う中、父となる定綱はお産の様子が気になりながらも不動岩の如く廊下に座り、時折障子越しの妻のいきみに無意識のうちに呼吸を合わせている。
まずは産まれてくる子の名を考えねばならなかった。男の子であれば一番良いが、おなごであったなら何としよう。思い浮かぶ文字を組み合わせ、かつ大内家に相応しく並び替えてみる。しかし、考えている内、早急に米沢へ帰らねばならぬことを思い出した。
初陣を終えたばかりの現定綱の若き主は、大殿輝宗が目を掛けていただけあり鬼才を持ち合わせていた。若さ故の思い切りのよさ、一見短慮と思えどそれは無駄を削ぎとった効率的な戦法であり、またそれが戦略としてもいちいち正しいものだから従わざるを得ない。
遠藤基信から事前に示された春からの策は、斬新で豪気に満ちた駒の進め方であった。それ故に長きに渡り多くの血を具足に染み込ませてきた定綱には何とも理解しがたい戦術だった。
一般的に、鉄砲隊などは密集させ、その後ろに徒兵や弓矢隊、騎馬隊と続くが、政宗の戦略は鉄砲隊のすぐ後ろに二陣として騎馬隊を持ってきていた。敵味方が弾を放ち終えたその充填の最中に将が戦陣を斬り、混乱を突っ切って大将首を続々狙おうと言うのである。下手をすれば、味方騎馬隊(次戦より定綱の所属する隊だった)は、敵方の鉄砲隊に打ち抜かれる可能性すら考えられるのだ。
定綱はそう基信に意見すると、いつもそろばんと理詰めで物事を考える彼の返答は、意外にも情を込めた台詞だった。
殿が、騎馬の将も兵も戦場の味方を信頼している証ですよ。
それを聞いた定綱は途端に腹が立った。
米沢にいる間、定綱は政宗から信頼の「し」の字も聞いたことはないし、其のように思われてすら居ない。基信の言葉も全て単なる当てつけにしか聞こえなかった。己を守るため、臣属先を転々として何が悪いか。次第に頭に血が昇っていた。
物事を割り切ることに置いては存分に長けている定綱は、考えた末、伊達にこれ以上付き従う理由はないと心に決め、結局米沢への帰還をあっさりと取りやめにした。小浜から米沢へ使者を遣わせ「戻らぬ」書状を突きつけてやったのだ。その後、伊達の臣属、重臣らが「今ならまだ間に合う。戻られよ」と再三書簡を携え小浜を訪れたが、それでも定綱は首を縦に振らなかった。終いには「次回の返答は弓矢、鉄砲に変えさせて頂きたく候云々」と返書し、事実上定綱は、若き昇竜に宣戦布告をしたのである。
これに面食らったのは、小浜城の支城にいる者だ。苅松田城、小手森城は常より小浜城を守るための出城であるから当然、小浜城の矢面に立ち応戦せねばならない。代替わりにより血気盛んな伊達軍を相手取るには定綱の兵だけでは数が足らず、現在、二本松の畠山義継へ援助を申し出、それを受けた義継は更には会津芦名へも力を借してくれと、只今援軍の要請を佐竹義広に掛け合っている最中である。
朝。小十郎はその報告をしに、政宗の部屋を訪れたが不在だった。
がらんとした主の自室は専ら調度品などの類は少なく、唯一部屋にある装飾品といえば床の間の壺くらいだが、定綱が小浜へ帰還した後、最初の「戻らぬ」が届いた日に怒りに任せて割っていた。お陰で床の間には今は何も飾られること無く益々殺風景な部屋と化している。
以来、度々定綱の説得成らずと報告を受けるも、一切家臣の前で怒りを露わにする事はなかったが、政宗の中では第一報より大内定綱への制裁は決まっていた。春になればいの一番に小浜へ兵を向ける腹積もりだ。
政宗は何処へ行ったのかと小十郎は道場付近を探し歩いていると、淡々と的を射る音が辺りに響いていた。兵らの鍛錬の時間にはまだ早い時分だ。小十郎は道場の戸を引いて中へ入った。
半屋外の射場には朝霧がうっすらと漂い肌寒い。だが的前に立つ政宗の片袖を下ろした背には汗が伝い、長い時間弓を引いているのがわかった。人の気配に気づいた様子であったが、振り向きもせず、集中を切らさずに次々と矢を消化していく。全て射終わるまで小十郎は待った。やがて最後の一本になり、政宗が狙いを定めている時だ。黒脛巾の一人が小十郎へ定時の報告にやって来た。それを聞き届けた時、一層大きな的射の音がたんと響き、矢は的の中心に寸分の振れもなく突き刺さった。黒脛巾の報告に小十郎は頭をがつんと射られた気分だった。
全て射終えた政宗は手ぬぐいで汗を拭うと首に掛けた。
「調子はよろしいようで」
「黒脛巾は何だって」
「は。定綱の助力となった畠山義継は芦名佐竹へも援軍を請うておりましたが、先ほどそれが成ったようでございます」
「差し向けてくるか…」
水筒から水を一気に流しこみ、政宗は口元を手の甲で拭った。
縦格子から陽の光が差し込み、映った横顔に小十郎はぞくりと背を震わせた。知らせを聞いても、騒動当初とは打って変わって若き主は不気味なほどに静かだ。家督を継いだ当主の威厳が増しているのだろうかと小十郎は思案したが、素直に感心はできない。何故なら最近の政宗はいつ鬱積が爆発してもおかしくないくらいには己を押さえつけているからだ。張った糸は物が切られるほどに細く強靭だが故に危うさも孕んでいる。
一瞬、眉間に皺を携えた政宗だったが、寧ろ楽しむ余裕さえ見え、今にも喉はくつりと鳴りそうである。さしたる大事ではないと満足気に口角を上げた。
「ったく、余計なことしてくれやがる。黙って見てろってんだ」
「芦名が出てくれば編成も今一度考えねばなりませぬ」
そうだな、と左袖に腕を通し道着を整え、政宗は袴を締め直した。
「しっかし、援軍を寄越す芦名勢をまともに相手してりゃこっちの後詰が足らねえ」
「いかにも。街道沿いにはその芦名に加勢する家も出てきます。敵方の兵は恐らくは倍に。此方の兵力の分散は免れませぬ」
「だが、逆にchanceだな。動けば動いただけ芦名の息がかかってる連中は俺らに釣られる。そこを一気に叩くぞ」
小十郎は目を見張った。政宗は、大内定綱の制裁を機に周辺を掻き回し危険因子を一掃する気でいる。伊達の行軍を試金石とし、仇なす者どもを尽くあぶり出そうというのだ。自軍を餌とするのだからある意味捨て身ともいえるが、上手く行けば、これまで根強く蔓延っていた目障りな雑草を刈ることはできる。
だがあまりにも大胆すぎやしなか。小十郎は唸ったが、政宗は不敵に笑ってひれ伏す腹心を見下ろしている。やはり、この若い主は侮れない。揺動の完遂は側近の手腕にも掛かっている。それを見越して政宗は言っているのだ。決して軽口をたたいているのではない。政宗はただ一言「やれるな」と呟いた。
「承知、いたしました。対芦名隊もなるだけ間に合わせます」
「頼んだぞ。あとそれから、芦名へは一応“定綱に余計なことすんな”って書状送っとけ。でなきゃ、本体に一太刀も浴びせられねえ」
小十郎は益々呆気にとられ、ぽかんと政宗を見上げた。言葉が出てこなかった。
政宗は、芦名勢を叩いた暁には会津芦名まで南下する構想を練っている。
会津まで兵を進めれたとあれば、芦名義広の兄である常陸の佐竹義宣が黙っては居ない。さすれば、二階堂家も加勢するやもしれず、待ち構える佐竹勢にとっては、突っ込んだ伊達軍はまさに据え膳も同じだ。下手をすれば伊達領より南にある家々が徒党を組むことになるやも知れぬ。導火線に火をつければひとたまりもない。
「恐れながら政宗様、会津芦名にまでも兵を伸ばすのはいささか急ぎ過ぎと存じます。手堅く行かねば、よもや背後を突かれます」
含みを持たせる小十郎に政宗は苦々しい表情を浮かべた。
大雑把に現在の伊達付近の所領を説明すると、伊達領を中心として、北西方向出羽の地に最上義光の所領、そして北東方向陸奥の地に最上の本家である大崎義隆領があり、さらに東南方向に相馬義胤、盛胤親子の領地、南方面に畠山義国、義継親子の領地、その下に二階堂、芦名、佐竹…と続いている。
小十郎の背後を突かれるとの意は、何も南方面に進軍しそこに構える家の事を言っているのではなく、北に位置する政宗の母方の縁戚である最上、大崎のことを言っていた。
「大崎より中野宗時殿は度々義姫様の元へ出向かれているご様子と聞き及んでおります」
もう一口、水筒に口を付ける寸前で政宗は無意識に手を止めていた。先ほど飲み込んだ水が遡ってくる感覚が押し寄せるも、ぐっと堪え、飲み口に再び栓をした。
「好きにさせておけ。今家の事はいい。小十郎、この機を絶対に逃すなよ。南への、関東への足がかりの一歩目だ。そう肝に銘じておけ」
そう言って政宗はさっさと一人道場を出て行ってしまった。ぴしゃりと閉められた戸に小十郎の追従は許さない。
定綱の一件より、近頃こういったことが多々あった。政宗は、小十郎さえ近づけぬことが多くなっている。刺をむき出しにしたような空気を纏い、かと言って怒気を露わにしているわけでもない。図りし得ぬ政宗に、まだ何か別の思惑があるのではと小十郎は考えていた。だがその様子が見受けられても、政宗が手の内を晒すことはない。
「一体、政宗様は何を考えておられるのか…」
ため息とともに漏れた小十郎の嘆きは、政宗が草履を履いた時耳に届いたが、気にせず立ち上がった。
道場の外へ出るとすっかり靄は晴れ、朝陽が差し込み空気はからりとしている。政宗の当面の目的は決まった。定綱目掛けて軍を進め、加勢に来た軍勢を一気に叩き領地を得、属城を築き関東進軍への拠点とする。
背中を北条に睨まれ、正面からは竜にじわじわと蜷局を巻かれれば会津芦名は耐えられぬだろう。ことが上手く運べば年内のうちに針道の街道は制覇できるかもしれない。政宗はほくそ笑み、定綱の後はどこから食らってやるかと自室へ戻ろうとした時だった。
厨から道場へ続く垣根の連なりに初穂が現れた。水屋へ向かうところなのか、腰には前掛けをつけ、手には桶を携えている。緩く結った髪を撫で付け、顔を上げた初穂と視線が通った。二人は互いに見合うも、初穂はどことなく苦しげな表情を携え、訴えかけるように政宗を見つめ返している。しかし政宗はそれに構わず、素知らぬ顔でさっさと歩みを進めた。早い男の歩調に、急いた砂利の音が重なり、遠慮がちに後を追って来る。か細い声が背にぶつかった。
「殿」
「あんたと話すことは何もねえ」
「ご無礼を承知でございます。小浜へ兵を出されるとお聞き致しました。どうか、」
「その手に持ってるのは、顔洗いに行く途中なんだろ。まだ目え覚めてねえんじゃねえか。寝言は寝て言え。俺は忙しいんだ」
初穂はたまらず政宗様!と主の袖をぐいと引っ張り引き止めた。振り向いた政宗は隻眼をつり上げ青筋を浮かべている。ここ数日、逐一逆撫でするような報告を受け続け、政宗の忍耐はもはや限界に達しつつあった。不躾に袖を掴む初穂を勢い良く振り払うと、手にしていた桶は無機質な音を立て、ころんと地面に転がり落ちる。一瞬よろめくも初穂は居すまいを正し、尚も食い下がった。
「大内の人間としてお頼み申します。何卒、城の者の命はお助け下さい。定綱殿も、この突然の判断にはきっと…、魔が差したに違いませぬ」
「Ah?何かの間違いだとでも言いてえのか。あの野郎、弾込めまでして小浜城で待ち構えてるらしいぜ。冗談も休み休み言って貰いたいもんだ」
政宗は嘲るように言い放った。喧嘩をふっかけてきたのは定綱で、買ってやるのが当然とでも言おうか。
「つーか、あんた、定綱に親父を殺されてんだろうが。恨みはねえのか。あの狸まで庇って一体何になる」
囀っていた鳥がばさりと木々から音を立てて飛び立ったかと思うと、一陣の風が間合いに吹き抜けた。霞を伴う強い風に初穂は思わず目をつむった。脳裏には安達の峠を超えた日、六条家の最後が蘇っていた。土埃に鈍く光る刀身、猛々しく上がる声が一瞬にして潰れ折り重なる肉塊と化した家臣たち、そして血だまりの中に倒れ、初穂を見つめながら徐々に虹彩が濁り息絶えゆく父の姿。思い出し胸が詰まった。
確かに政宗の言う通りだった。定綱は憎い、本来養子であるのも辛い。初穂は恨みを抱いていても、家でただ一人残された現実に目を背け、己が死を選ぼうとした。しかしそれは定綱へ刃を向ける力も勇気も無かったからだ。無闇な人死にによって怨恨を抱いた者の矛先がどこに向けられるのかは明々白々で、政宗にそれが予期できぬわけがない。
一度蘇った過去を初穂は頭を振って懸命に払った。
「定綱殿は父が仇にございますが、さればこそ、主が倒れれば、悲しむ者がいるのも私はよくわかります…」
「そうか、そうだな。あんな軽薄な定綱でも、殺れば確かに悲しむもんも居るかもな」
振り向いた政宗はいつかの書庫のように初穂を見下ろした。勢い余って口をついた言葉を気にかけるよりも、過敏な若者には苛立ちの方が勝っていた。幾らこれまで我慢を重ねていても政宗にはまだそれを静かに咀嚼し飲み込むほどの器量は持ち合わせていない。
「だが、今、俺は定綱に裏切られ、毎日毎日余計な仕事は増えるし、苛々してる。そろそろどっかの糸も切れそうだ。あんたが皆を許せというなら、俺はこの怒りをどこにぶつけりゃいい」
初穂との間合いはじりじりと無くなっていく。迫る政宗に後退すると木の幹に帯が押された。
見上げた葉の隙間からは僅かに零れる光がかろうじて政宗の顔を照らしている。白黒交互に映る斑には時折底知れぬ暗がりが見え隠れしていた。決して過去を引きずるような人間ではないと分かってはいても、裏切りという行為の中に戻らぬものも政宗は知っている。
「それとも何か、あんたが慰める相手でもしてくれんのか」
政宗の手の甲が初穂の頬を撫でた。冷たい手のひらは顔を包むように這わされる。隻眼には初穂が映るほど、互いの距離は近くなった。政宗が情けをかけ一時でも家臣として仕えた定綱の翻意に怒るのは当たり前だ。血走った目には行き場の無い感情が初穂を貫いている。
政宗は以前、初穂に立派に大内の人間だと言った。ならば、と覚悟を決め、負けじと睨み返し唇を動かした。
「さ、さすれば、許しを請えるのでございましょうか」
初めの勢いは何処へやら、尻すぼみになる言葉を初穂は必死に紡いだ。その返答に驚いたのは政宗だ。突然何を言い出すかと思えば、身を呈してまで小浜の者を救おうとしている。
「上等だ」
政宗は初穂の腕を乱暴に掴み、引きずるように連れると廊下を踏み鳴らした。
行き掛け、女中とすれ違い一体何事かと只ならぬ様子を問おうとするも、当主の剣幕にたじろき、とても声を掛けることができない。
女中を横目に初穂は己の判断は正しいと言い聞かせていたが、それは次第に恐れと後悔に取って代わりつつあった。男を知らぬ初穂は正直に怖いのだ。政宗はまるで刀を握るように初穂の手首を握っている。握力は並大抵ではなく手首は痛い。刀の気持ちはこのようなものかと見当違いのことを考えても、部屋が近づくにつれ足取りは重くなる。
高々上りゆく陽の光は、障子を白く映すもその採光は、奥の閨には関係なかった。連れ込んだ部屋の衝立の奥には藍染めの夜着が綺麗に横たわっている。政宗は後ろ手に障子戸を閉め、夜着の上に初穂を放ると、馬乗りになり性急に帯へと手を掛け衿を開けさせた。肩口に顔を埋めようと顔を寄せたが、そこでぴたりと動作を止めた。
上体を起こし初穂を眺めている。怯えが目に見えてわかる。このままやっても良い気分ではない。小浜の為、初穂が承知の上とは言え、今にも零れそうなくらいに涙を浮かべ、上気した頬には赤みが差し、肌蹴た着物より肢体や胸が覗いた様子には、睦み合う時なら興奮もするのだろうが、この有り様ではまるで政宗が無理矢理に犯しているような絵面だ。またその震え様にも政宗は次第に腹が立ち、覆い被さる体を避けた。
「出来もしねえこと言うんじゃねえ」
鼻をぐすぐす言わせた初穂の顔は真っ赤になっている。衿を胸の前でかき合わせているが、手が震えて中々腰紐に手が届かない。初穂の返答など全く待つ気も無い政宗は続けざまに吐いた。
「あんたの覚悟に免じて、小浜の使用人たちは見逃してやる。だが、向かってくる連中や定綱は別だ。戰場で立ち向かってくる奴らは覚悟のある奴だ。挑めば斬る」
政宗は初穂の着けていた帯を投げつけると背を向け立ち上がった。憚る衝立を激しい音を立てて床に叩きつけ、音に驚き女中が廊下を掛けてくる。部屋の壁を背に、乱れた着物に包まる初穂に女中は言葉を失い、呆然と政宗が退出した戸口をただ見遣ることしかできなかった。