四、波濤の境界
今だ西方諸国は刃音の鳴り止まぬ処もあると聞くが、奥羽の山々が雪原を貫くこの土地は、玲瓏を思わせるが如く、寒々とした空気が満ち、皮膚を刺す冷たい風はしんしんと雪を降らせた。
秋祭りで活気に満ちていた城下の熱は瞬く間に取り除かれ、民は万全に冬に備えている。
白い自然の要塞を前に戦をするなど、奥州諸国の大名らはその怖さを誰よりも分かっている。無闇矢鱈にことを起こそうとする者はもちろん居ない。しばし武器を置き、刀を鞘で温め、春に備えての武将の編成など暇が掛かる用務を片付ける。そうして冬は内儀を整え、結束を強固にし、道々の雪が溶ければまた各家、花の繚乱待つ間もなく戦地へと赴くのである。
伊達家の正月行事は秋祭りにも劣らず派手で、睦月十日と一日の頃、家臣らを広間に集め、その年の武将らの指揮を高める軍評定が開かれる。そこでは各隊の大将も選出されることから、一年の働きを査定する為に今米沢城では政宗の近臣が忙しい。
だが一方、初穂の住まう遠藤屋敷は城とは違い人間の行き来も少なく、牡丹雪の降り積もるように穏やかだった。
米沢での初めての冬は厳冬になると思われていたが、初穂の心配が杞憂に終わったからだろう。
瞳の色に奇異な視線を注ぐ者が誰一人として居らず、胸を撫で下ろしていたのだ。恐らく主政宗の隻眼を、皆よく理解しているからだろうか。同情の眼差しもなく、近すぎず、遠すぎずな使用人たちの距離は、特段の干渉もなくありがたかった。
相変わらず、現父定綱は、政宗の厳しい監視の下、言いつけられた執務を自室で黙々とこなしている。夜はすることもないから小浜城に残している妻女に毎晩手紙を認めていた。よほどの愛妻家である記憶は無いのだが、離れてからが恋しいのか、やり取りは頻繁で、小浜からの使者は風雪の無い日を狙ってはよくやって来ていた。
庭の石灯籠の火が洩れ、障子戸に影を写し始めた頃、遠藤屋敷の侍女が初穂の部屋に訪れた。
戸を引くと、傍らには藤で拵えた長櫃が置かれてある。この立派な長櫃はなにごとだろう、首を傾げた初穂に面を上げた侍女は微笑むと、小浜城から姫様へ届いたのでございますよ。そう言って部屋へと運んだ。
「私に、ですか?」
「ええ。そう承っております」
初穂には覚えが無かった。小浜城から必要なものは全て持参していたし、後に従って持ってこさせる物なども記憶がない。
不思議に思い飴色の蓋を開けてみると、中に入っていたのは厚手の綿入れだった。藍染めされた木綿の仕立ては丈夫で、刺し子の小花柄の模様は実に繊細で可愛らしい。布に滑らせていた指を口元へ持っていき、誰が送ってきたのだろうと思案した。侍女は目尻を下げて櫃へ視線を落とした。よく見ると一通の手紙が入っている。広げてみると小浜の侍女からだった。初穂の脳裏には一瞬に冷たい無表情が過ったが、読み進め視界に映り込んだ文字に次第に目の前が滲み始めた。
時節の挨拶、小浜城の近況が記された後、初穂の体を案じる文言が綴ってあったのだ。
〈米沢は小浜よりも内にあります。冷え込みます故、お風邪など召されませぬよう〉
初穂の体を気づかい、この綿入れを送ってくれたのである。正直狼狽えてしまった。
小浜城に居ても、城の者とは必要最低限の言葉しか交わさなかったし、皆、瞳の色を目視すると意識的に視線を逸らす。下手に触らぬ方が良いとでも言う様に敬遠する雰囲気を感じていた。いや、そう考えていなければ父や母を失った初穂は、引き裂かれた己の悲哀を遣り切れなかった。
蝋燭の火を吹き消し、六条一家の命を奪ったのは大内定綱の独断であり、小浜城の使用人らが初穂とあまり言葉を交わさないのも主定綱の言いつけだということは頭ではわかっていた筈だったのだ。それ故に侍女や使用人には自ら心を開く余地はあったのではと、受け取った手紙に後悔の念がひしひしと押し寄せていた。
櫃から綿入れを取り出した侍女は初穂の肩に羽織らせてくれた。少し重いが直に中綿に体温が伝って温まる。しばらく顔を上げられなかった。
「返事を書かれてはいかがですか。きっと小浜の侍女も喜びますよ」
初穂はこくりと頷いた。
武家には当代が居て、主従の関係にある以上、逆らうことなどできはしない。
それは侍女でも兵士でも同じである。侍女であるならば主の意のままに従い、兵士であるならば目をつけてもらえるよう戦場では立ち回りを激しく、いくつもの首級を上げる。皆、よく取りたてて貰うにも、懸命に働き、武勲をあげんと威勢を振るうのだ。
しかし、忠心を以てして主に仕える者が殆どである中、己が立場を隠れ蓑として柔軟に知恵を絞り謀反の形を潜め、虎視眈々と主の首を狙う者も少なくはない。そういう輩は端から見れば実直な振舞をしていても、獲物をたぐり寄せる糸のどれに唾をつけておこうかと常に算盤を弾くずる賢い連中だと政宗は肝に銘じていた。
目下政宗が頭を抱えているのは大内定綱だった。
屋敷を与え、改心の猶予も必要ないと今だ政宗の考えは変わりなく、本来なら一刻も早く安達郡へと進攻し手を広げたい。小浜城を属城として、伊達の統治下に置きたかった。そこを抑えれば、またひとつ南への行路が拓かれ奥州平定にも、天下にも近づく。
だが現実は輝宗の恩情で大内親子、小浜城共々今だ健在であり、政宗の計画の一端にも乗っていない。
織田信長、豊臣秀吉は言わずもがなそのおぞましい手腕で着実に領土を広げ、兵力を増強していると聞くが、最近では三河徳川家康の進撃も目覚ましく、うかうかと近隣諸国を手懐けるのに暇を使っている場合ではなかった。機を重んじなければ大事は成せぬと分かってはいても、この先天下を狙うに於いて、地固めに労力を注ぐばかりでは日ノ本の覇道に乗り遅れてしまう。ひどく歯がみする思いだった。いっその事どいつもこいつも、こちらに兵を向けさせるよう仕向け、謀反、暗躍をしてくれた等と戦の口実を片っ端から取り上げて手中に納めたいと思っていた。
それ故に、手元に戻った羽織り…正確には初穂が繕ったという己のそれを広げては実に腑に落ちなかったのだ。
解れていた箇所は縫い目も目立たぬほど元通りになって、加えていつもと違う香の匂いも混じっている。
聞けば、女中の針子がこの寒さで針が握れぬ程に手が腫れてしまい、それを知った初穂が手伝わせてくれと申し出たのだそうだ。
大広間で面会した際、初穂は野獣を見るような嫌悪感を青い目に携え、政宗を睨みつけていた。思い出せば酷く不愉快な血の巡りになる心地だった。こちとら、帰参した大内定綱を寛大に受け入れ、改心の猶予を与えてやるというのに、あの娘は己の立場をまるで分かっていない。武家として、定綱の娘としての態は保ってはいるが、その意識も自覚も見事に政宗に刺さることは無く、不遇さと鬱々しさをまき散らしていたのには腹が立っていた。
娘があの様な態度ならば、粗相があったと難癖を付け進軍してやれと目論んでいた。だが、政宗の予想とは打って変わってこの有様である。初穂が米沢に来てまだ日も浅い。まったく理解に苦しんだ。
考えを巡らすうちに煙管に詰めた煙草は早くに灰になった。
「初穂ちゃんが針仕事手伝っただけなのに、それ、そんなに考えることか?」
成実は、執務室に入ってくるなり政宗の傍らに帳面をどさっと積み上げた。
「慎重を期すに越したこたねえだろ」
「まあ、ね。今日は基信殿の手伝いしてるらしい。年も終わるし古い帳簿の整理とかって言ってたよ」
「ったく、基信のやつ…」
「そんなに殿が心配する様なことないんじゃねえの。俺には全然っ間諜とかには見えないけど」
積まれたものを恨めしそうに眺め、政宗は煙を吐いて煙草の灰をカンと灰受けへ返すと、よっこらせと立ち上がった。傍らで書き物をしていた小十郎のどちらへ?との問いに厠と答えて部屋を出た。
肩の凝りをほぐす様に腕を回しながら、その足は最初から厠へ向けられるわけも無く、遠藤基信屋敷の方角へと進んだ。
口では心配ないと言っている成実の本心は、例え思惑があっても泳がすだけ泳がし、定綱の粗相を幾らでも積んでやれば良いという考えなのだろうが、政宗はあちらの意のままに家臣や使用人が掌握されないかが気がかりなのである。
現に、このところ女中らの初穂への評判が聞こえるには、政宗の心証よりははるかに良い。それもこれも、人との交わりを極力避けていたはずの初穂が、使用人らに打ち解けていたからだった。外から来た者が配下の者とわだかまりが無いに越したことはないが、あの定綱、加えて初穂の目のこともある。親子共々厳しく見張って置かねばなるまい。
使用人とすれ違い恭しく礼をするのを静止して、大内親子の様子を聞く為に基信の所在を聞いた。基信の執務室へと冷たい板張りをひたひた行き、書庫に差し掛かった時人の気配がした。
噂をすれば影か、開け放たれた所から覗けば、様子を訊ねようと思っていた人物、襷を掛けた初穂が薄暗い部屋の中で戸棚の帳面を整理している。
基信に何か言いつけられたのか、城の様子を探っているのか。後者の疑念がなかなか払拭できない政宗はしばしその場に留まりうかがった。
積み上げられた冊子をぱらぱらと捲っては首をひねり、これは違うこれはこっちと冊子を選別している。
幾度もそれを繰り返して床が見えるとため息を付き、大量の帳面に囲まれながら天井を仰ぎ途方に暮れていた。どうやら探し物がある様子だった。
初穂の視線が這う先は、使われていない冊子が上へ上へと積みあがっている棚である。一段目、二段目と差し掛かった時、途端に初穂の表情が明るくなって、どうにかしてその内の一冊を取ろうと背を伸ばし始めた。側にある踏み台には気付く様子も無い。無心に腕を伸ばすその姿に、政宗は部屋に入ると背後から腕を伸ばした。
「これを、どうすんだ?」
己より高く伸びた腕に振り向いた初穂は政宗に驚き、更に羽織りに釘付けになって交互に忙しなく見遣った。落ちつきがなく、棚に背をぶつけ、床に重なった帳面と自身の着物の裾を踏み、体勢を崩して尻餅をついた。
「……何やってんだよ」
「申し訳、ございません」
政宗が手を差しだし引っ張り上げようとするも、初穂は取らずに自力で起き上がった。仕草に可愛げが無くいちいち癪に障る女だと舌打ちをしたくなる。
手にした綴紐の表紙をよく見ると、城の女中名簿であった。何に使うのか再度問いただすと初穂はしばらく考えてから口を開いた。
「人様の名前を覚えるのが苦手ですので…遠藤様に御頼みしたのでございます」
「へぇ…」
しおらしく答える娘は、古びた書棚を背にして立つには妙に不釣り合いに思えた。
紙の湿気る匂いに時折むっと黴臭さも混じるが、その中に初穂の香がふわりと漂う。襷をかけた袖口からは着物の艶やかな柄とは対照的に白く細い腕が覗き、結った長い髪がひと房首元に垂れている。描かれた曲線の表すはやはり女だった。不快感に小腹が立っていた政宗は、名簿を持つ己の立場に優越感を覚えた。
肩を強張らせ、両手を前で握りしめた初穂は次の言葉を待っている。脇で縛った襷の紐が揺れていた。
ほらよ。と差しだすと初穂は安堵した様子で受け取ろうと素直に手を伸ばしたが、政宗はすかさず手首を掴み、ぐっと引き寄せた。長い睫毛が幾度も弾き、無意識に眼帯の方ばかりに視線が行っている。
「なあ、一体何考えてやがる」
政宗は喰らうように彼女の青い瞳を覗き込んだ。隻眼は薄く開かれて矢尻のように鋭い。逃れたい初穂は顔を逸らしたが、こちらを向けと言わんばかりに腕には縛り上げる力が如く益々力が加わった。
沈黙以上に重く囁かれた声色に初穂は身がすくんでいた。唐突なことに混乱していた。逃げたいと本能が足を運ばせようとするも、後方には棚、前方には政宗が塞いでいる。
「何をと申されましても、私はなにも…」
「じゃあはっきり言ってやる。その目を以てして何企んでんだって聞いてんだよ」
羽織の菊の縁取は薄暗い中に金色の光沢を放っていた。初穂はその柄を見まがう筈もない。数日前に手の荒れた針子に代わり、己が繕ったものだ。
よく効く薬草を教え、今朝方、随分調子が良くなりましてと嬉しそうに報告に来た針子と言葉を交わしたばかりだった。それだけに城主の疑念を膨らませてしまったのかとかえって胸が詰まった。
「決してそのような心持ちで、針子の代わりを申し出た訳ではございませぬ」
「なら定綱はなんであんたを米沢に寄越した。細君でもよかった筈だ」
「それは、父上が大内の家を思われてのことかと」
「Ha…なら尚更だな。帰参した伊達家の為に勤めるってのが忠義ってもんだ。分かったならとっとと吐け」
「ですから、かような!」
「吐かねえならいくらでもやり方はある。皆まで言わせたいか」
襷の結び目に政宗の指が絡むと、着物の袖がすとんと落ちた。息をのみ正面に見据えると、どちらか選べと隻眼が言っている。
確かに定綱は初穂の先読みを信じている。
我妻を人質としてでは無く、初穂を米沢城へ同行させたのは、青い目をした珍妙な娘を、珍しもの好きな政宗へ差し出すことで己が首がつながると保身を第一に考えた結果であろう。しかし、定綱の行為を政宗の思考はそう単純には受け取らなかった。少しの綻びも見逃すこと無く、機は己が作るのだと確実に小浜城進攻への口実を捜しているのだ。
見下ろす主は口角を上げ、帯に食指が掛け縁をなぞった。益々距離は縮まる。
いっそ本当のことを言ってしまおうとの考えが過った。初穂は先を読むことなど出来はしないのだと。だが、嘘と分かれば結末は言うに及ばず、政宗は人質に嘘を盛って定綱は米沢に寄越したとその端を掴み小浜に兵を向けるかもしれない。
文をくれた女中を思うと胸が張り裂けんばかりだった。どのように返答してもいずれも政宗の意に沿う形には収まらない。
言い掛かりだと言ってやりたい気持はきつく書棚に押し付けられた。刀を握るとは思えぬ長い指が襟の合わせを遡り初穂の首筋に這わされ、政宗の吐息と分かる距離までになった。初穂はじっと耐えていた。
すると廊下から足音が聞こえた。両端から一人ずつ、この部屋目がけてやってくる。「ああ、遠藤殿」「おや、片倉殿」二人の声が重なり、政宗は咄嗟に拘束をといた。
入口には片倉小十郎と遠藤基信が立っていた。
「政宗様!厠から戻って来られるのが遅いと思えば、何故こちらに」
「これは殿も、ご一緒でしたか。初穂殿、女中の名簿はありましたかな」
初穂は頷き、居すまいを正すと頭を下げた。
「…そろそろ、休憩に入る頃合いですので、私も廚へ皆の手伝いに参ります。殿、お手伝い頂きありがとうございました。御前失礼致します」
初穂は逃げるように部屋を去った。其の様子に小十郎も基信も首を傾げ、政宗は舌打ちをしている。
床には初穂の解けた襷が落ちてる。小十郎は諌める様に視線を送った。
「Say no more…。ったく、基信。俺の許可無く手伝いさせてんのはどういう了見だ」
政宗よりいくらも歳を取った皺の多い顔は柔和に笑っていた。元々、遠藤基信は父輝宗の側近であったが、政宗が跡目を継いでからも勘定方を任せている。どことなくその思考は輝宗に似て穏やかだった。
「我が使用人を気に掛けて下さる、それだけではいけませぬか」
「お前も少しは他人を疑え。そんなところまで父上に似るんじゃねえよ」
「大殿に似ておるとは、これまた光栄なことですな。ですが私は少々懐かしんでおったまでです」
「Ah?」
「初穂殿は少しばかり殿より尾を引いていらっしゃる、そう申せばお分かりでしょうか」
「…基信、幾らお前でも戯言はそれくらいにしておけよ。おい小十郎」
「は、」
「黒巾布を当てておけ」
「御意に」
廊下を踏みならし、政宗は自室へと戻って行った。
頭を上げ、主を見送った小十郎は背中を眺めてため息をついた。緊張が解けた雪がとさりと落ちた。
「片倉殿、私は初穂殿にも十分目を配っておりますが、定綱殿の方がいくらも不審のように思えますな」
「それは、いかがな…」
「小浜との文のやり取りが頻度を増しております。まあ何かあればすぐ報告します故」
「かたじけない。政宗様は随分と大内親子には苛立っておりまして、冬は只でさえ出陣できぬというのもあるのでしょうが」
「同族嫌悪という言葉がございますな」
「は…?」
話の飛びように小十郎はあっけらかんとしていた。
「殿が、初穂殿を余計に視界に入れてしまうのはそこなのでしょう」
「嗚呼…、成る程」
「疎まれる者の気持が分かるだけに、養子とはいえ初穂殿がお家の為に気概を持たぬことが癪に障るのでしょうな」
東に上った薄い月を眺めて基信は云った。政宗の幼き日から小性として腹心として長年付き従う小十郎は、苦笑いを浮かべて答えを濁すことしかできなかった。
年が明け、悪天候が続いていたせいか、定綱に文を届けるが為に米沢城と小浜城を行き来していた遣いもめっきり顔を出さなくなった。妻女からの手紙は近頃滞っている。
伊達家臣としてしずしずと執務をこなしている定綱は、己が使われる立場に移ったことで日に日に苛立ちが張りつめていた。茶を届けた時などは恨めしい視線が初穂を貫いてくる。
それもこれも初穂の書庫の一件で定綱は政宗から詰問を受けたのだ。妙なことはしてくれるなよと念を押されたのである。定綱の不機嫌は益々顕著になった。それもそうだ。執務はこなしているのに、娘の不審で己にまで火の粉が降りかかるのが定綱は腹立たしい。定綱の身の回りの世話をしている初穂は己の粗相だと咎められ肩身が狭く、しばらくは逆撫でせぬよう相当に気を配らねばならなかった。心労に埋まる心地だった。
その様子に女中らはよく話し相手になってくれた。先だっての針子の話が瞬く間に彼女たちの間で広がり、友人のように接してくれる。初穂も手が空いた時などは女中の仕事をよく手伝うようになっていた。
今城は、年始の祝賀を述べにやってくる者で賑わっている。遠藤屋敷に届く声は祝いの膳を囲む者たちの朗らかな声だ。政宗をはじめとした重臣たちは一日広間でその客の相手をする。今しがた支度を終え手が空いた女中たちは、陽光が差し込むつかの間、大根を軒下に干した濡縁に腰掛けて休憩中だ。初穂は彼女たちと談笑していた。
東の館から中央の広間への渡り廊下を、奥の侍女が行き来しているのが臨めた。その中に、輝宗の姿があった。輝宗は初穂に気づくと手を掲げ、目尻に皺を携え初穂のもとまでやってきた。
「久しいのう。米沢での生活はどうだ、慣れたか」
「はい。大殿のご厚意には頭も上がりませぬ」
そう畏まるな。と嬉しそうに頷いた輝宗は、女中から湯のみを受け取り口を付けた。
枯れ草色の羽織りには竹に雀の伊達家の家紋が風格を損なうことなく胸の所に鎮座している。老人と呼ぶにはあまりにも早く、隠居するまでもない壮齢であるが、早々と政宗に家督を譲ったのが初穂には不思議だった。
「大殿は、広間の祝宴には行かれないのですか」
「そうじゃな。今年からは政宗が取り仕切る故わしは裏方だ。立派に努めてはおるようだが、もう少し酒には強うなって貰いたいのう」
笑みを向ける輝宗に初穂も首を傾げながら笑んだが、ぎこちなかった。「政宗はな」と輝宗が続けようとすると初穂の表情は自然と曇る。その原因も輝宗は下の者から聞いていた。
「あれもな、急いておるのは分かるが、足らぬ所も多くてな。もっと鷹揚に構えよと言いつけてはおるんだが」
「殿は…、私と年もそう違いませんのに、お家の為にご立派と存じます」
膝の上で揃えられた小さな白い手は、落ち着きなく袖を手繰り寄せていた。
「政宗は要領がよいからな。人が幾らも暇が掛かることを難なくやってのける。わしもお人好しすぎる、付け入られるぞと政宗にはよく叱られていてな。先達てそちにもすまんかった。お主はお父上の言いつけをよう守った」
先代でも大殿でもない眼差しが初穂を捉えた。
「よう、辛抱して生きながらえ、定綱の養子となった。大内の者としての時はしばし掛かるだろうが」
不意をつかれた初穂を見て輝宗は三春から遣いが来よったわ。と笑い、いつかの様に初穂の頭を撫でた。もう幼子でもないが、過ぎし日が思い出される。父の顔が過り熱くなった。
「お主を見ておると、政宗の幼い頃を思い出す。後ろ指をさされながら家の為にと気を保つのは容易い事ではなかろうが…。必ず助けになってくれる者はおる。既に大内は伊達の家臣でもあるからな。そうだ初穂、ひとつお主に頼みごとをしてもよいか」
◇
雑音と呼ぶにはあまりにも刺々しく、騒音と呼ぶにはそれは繊細すぎる。嘗て己に向けられた言葉ひとつひとつは、家督を継いでからも心に傷として刻まれていた。思い出すだけでも吐き気がする。丁度夜明け間近の冷たい早朝、その吐き気で目が覚めた政宗は、水差しから一口含んで布団を抜けた。
障子戸を開ければ、昨夜の吹雪で一面は銀世界だった。冷たい空気を肺に無理矢理に入れ、吐き気を押さえ込むと、前髪をかきあげた。不意に触れた右目に眼帯を付けていないことを思い出したが取りに戻ろうとは思わなかった。人が通ることもないし、前髪だけでも十分だった。もう少し刺す様な空気に触れさせていたかった。
長い間見ていなかった夢を、久方ぶりに見たのだ。
つい先日、大内定綱の思惑の片鱗でも掴んでやろうと、娘の初穂をからかってみたが、その後の基信の言ったことが意外と頭に残っていたらしい。
「らしくねえ」
引きずることなど決してあってはならない。今は前に進まねば。家督を継いだことが間違いなかったと証明せねばならぬのだ。
政宗がやることはただ一つ、それは変わらない。配下の者たち、腹心らは皆優秀で類い稀なる手腕の持ち主ばかりだ。故に、政宗が抱え込んだ大名連中に侵されることがあってはならないのだ。確実に、早期に疑わしきを潰さねばならない。
だが、
―やり過ぎだったかもしれない…
日ごろから眠りは浅く己の身体を鍛えてはいるが、さすがに夢見が悪ければ寝起きも一入悪い。草履をひっかけて、政宗は建物の裏へまわった。
そこには、寒椿の生垣がある。今の時期は、白い雪と真っ赤な花が対を成してより一層美しい。気を沈めるには、美しいものを愛でるに限る、と欠伸をしながら建物を曲がったときだった。
白い寝間着に綿入れを羽織っただけの、大内の娘初穂がその前に陣取っていた。庭は雪をかいていたが、昨晩でそれも無用のものとなっている。早朝から、しかもこの生け垣に初穂がいるのに驚いた。
「Hey、そこは俺の特等席だぜ」
書庫で会った時のように、驚いた初穂は足もとを滑らせて雪の中に埋まった。政宗は呆れて初穂に手を貸すと、一瞬戸惑いながらもさすがに今日は初穂も手を取った。少々引く力を入れ過ぎて、初穂は政宗の胸に飛び込んだ。
「おっと」
「申し訳、ございません。…ありがとうございます」
尻すぼみに礼を言ったあと、初穂はよろめきながらもすぐ政宗との距離を取った。ぎしぎしと氷結し硬くなった雪を踏む音が冷たい空気に余計に響く。政宗がからかい過ぎを思ったのは、どうやら自身の感傷からくるものでは無く、事実であったらしい。立ち往生する初穂は綿入れの襟元をぐいと引き寄せ部屋に戻る構えだった。
居合わせたのはただの偶然なのだろうか。「何してんだ。こんな朝早くから」と聞いた政宗に、相変わらずびくびくしながら初穂は答えた。
「寒椿が今見頃だと、先日大殿にお教え頂きまして」
「Ah…、父上か」
初穂は、ますますその距離を取り、後退している。先日のことで相当に怯えた視線を向けている。
ところが真っ赤な椿と、政宗へ視線を交互に遣り、己が欲求と葛藤していた。城主は怖いが、美しい椿はここで眺めていたい。だが、近づけないし近づかない。政宗にはその様子が少々可笑しいと同時に深くため息をついた。己に呆れていたのだ。
分かりやすく感情を表に出すこの初穂が間諜なのだろうか。政宗は父輝宗と違い疑り深い。初穂が後ずさるとまた足元がよろめいてぎしりと雪が鳴った。抱いていた疑念のいち部分が潰れた音がした。
「おい」
「は、はい」
「あんたが定綱の差し金じゃねえことはよくわかった。そんな様子じゃとてもじゃねえ」
これ以上疑いを掛けられぬやもしれぬと緊張を若干緩めた初穂は、こわばった表情を和らげると赤い花を愛おしそうに眺めた。
「もう少し寄ったらどうだ。離れてちゃ、見れねえだろう」
恐る恐る初穂は政宗の側まで寄ると、そっと花に手を触れた。いつも険しい表情の初穂しか知らぬ政宗は、愛でる横顔をしばし眺めた。寒さで頬は赤い。
「こちらの生け垣のものは、特に美しゅうございますね」
それ以上会話はなく、二人しばしその場に佇んでいた。
陽が山の後ろから顔を出し、明るくなり始め、さすがに長時間留まれば身体も冷えてきた。政宗は自室へと足を向けた。
初穂に背をむけ雪を踏みしめる。その音に混じって、かろうじて聞こえた言葉に、初穂は政宗への恐怖心が少しだけ取り除かれた。
朝焼けに染まった空と、日の光が届いた空気は少しだけ暖かくなった。