風来坊と左腕09
とある屋敷の一室、ナナリーはもやもやとした気持ちを抱え四国の地図を眺めていた。
外はさんさんと陽が降りそそぎ、新緑は目を突くほど色濃いが、障子戸を開けていても室内がほの暗いのは、大木の太い枝が常葉をわんさと携え、濡縁の庇を覆っているからである。
賭場から帰った夜、竹中半兵衛の言葉を聞いてしまったナナリーは、翌日から気もそぞろ、心ここにあらずで数日過ごしていた。父親からの問いも上の空になりがちで、城内を歩くと必ず女中に心配される有様だ。そんな中、ある日半兵衛が、
『屋敷を一棟貸すのでそちらでゆっくりと過ごしてください。人の多い城だと何かと気を使うでしょうから』
と、大阪城を出るように親子に勧めたのである。
部屋には、城を出る際、半ば押し付けられるようにして寄越された真新しい家財道具一式がすましたように鎮座していた。滞在中は不便も有るだろうから是非使ってくれと、竹中半兵衛が甲斐甲斐しく用意してくれたものだ。もちろん、親子二人には手に余るこの広い庭付きの屋敷もである。
父親は、屋敷を一介の商人に貸し出す秀吉の懐の深さに心酔し、喜んでご厚意をお受けしますと二つ返事だった。大阪城からこの屋敷へ移る際も、手取り足取り生活用品等を整えてくれた半兵衛に何度も礼を言い、また半兵衛も親子をにこやかに見送ってくれたのである。
与えられた屋敷の場所は、城下町の賑いには近かったが、大阪城からは少々距離があった。大人の足でもここから城までゆうに四半刻強は掛かる場所だ。それでも、父親は毎朝城から来る迎えの家臣と共に、堺港へ入港した他国の同業他社と豊臣との商談を手伝い、精力的に仕事をこなしていた。ナナリーもしばらくは、武器の取引きや輸入品の値段交渉など、通詞としての役割だと割り切って仕事をしていたが、日に日に顔色が悪いと父親に心配され、ここ幾日かは、四国の地図を眺め一人不安にかられながら過ごしているのである。
─ 鉄砲も手に入ったしね。順調だよ。機動力はこれで少しは西海の鬼のからくりに近づいたんじゃないかな。
─ 弱き者、従わぬ者は豊臣の世には要らぬ。我が拳で捻じ伏せるまで。いずれ長宗我部の四国は我のもの。
言葉は幾度も頭のなかを駆け巡っていた。屋敷を与えられるまでの何もかもが、出来すぎたシナリオのように思えてならなかった。
豊臣秀吉が四国を攻めるつもりなら、彼の地にしばらく滞在していたライト親子を遠ざけるのは、諜報などを危惧するのであれば当然の措置だ。不都合な人間をおいそれと抱え込む大将、軍師はいないだろう。賭場の夜以来、左近とも一度も顔を合わせていないことも気にかかる。
眺めていた四国の地図に何度目かのため息を落とした。いくらナナリーが思い、考えていても、現状屋敷を与えられているという事実は変わりない。
父親は今、新しい商談があるとかで、今朝よりとある商家へ赴いている。しんと静まり返った、広い屋敷の一室にぽつんと一人きりで居るのは、益々気が沈んでいた。
ナナリーの部屋には東洋の医学書などが、何冊も積まれてあった。全て城下で買い揃えたものだ。一冊手に取り、中をぱらぱらめくってみる。もちろん薬学のことも記してある。以前、大谷吉継に処方した薬が良く効いたことを思い出し、新しい薬などを求め気晴らしに町へ出てみることにした。
端から端まで歩けば、日ノ本の北から南まで、その特産品をおおよそ手に入れることができる通りには、ところ狭しと行商人がござの上に商品を広げている。合間合間に垂れる大店の暖簾幕も負けじと風になびき、客を誘っていた。
行き交う人々に威勢よく声を張り上げ、旨い文句を浴びせるので、若い女性は螺鈿細工の簪をうっとりと眺め立ち止まっている。楽しげな子らの声が響いたかと思えば、独楽売りが実演し喝采を送られていた。
各所の賑わいを尻目に、ナナリーは「薬」の文字を探し歩いていると、とある店の前で大勢の人が輪をなしていた。店の暖簾には「南蛮物・質」の文字だ。どうやら、西洋人渡航者を主な客とする質屋であるらしい。
ところが店主は、己の倍ほどはある大柄な男性に、何やら文句を言っていた。店主は西洋人で、まるっきり英語しか喋らないので、全く言葉が通じていない。身振り手振りを交え懸命に話す店主に、店先の腰掛けに座る男性は困ったように頭の後ろをかいていた。人の輪の外から、ナナリーはしばし様子をうかがった。
どうやら男性は、店の腰掛けにかなり長い間座り込んでいるらしい。じきにお得意様が到着するので席を立ってくれと、店主は男性に頼み込んでいるようだ。一方の男性は相変わらず首をひねっている。
「あー何だ…。すまねえ。ちっとも言葉がわからねえ。参ったな…」
周りの人々も、誰一人として言葉がわかる者は居ない様子だ。ご主人は何て言ってるんだと顔を見合わせていた。ナナリーは、意を決し、人の輪を割ると店主の前に躍り出た。
「あの!そちらの男性のかた。質屋のご主人は腰掛けに長く座って貰っては困ると言っておられます。じきにお得意様がいらっしゃるのだそうです」
喧騒から飛び出た澄んだ声に、視線が一挙にナナリーへと集まった。男性は頭をかいていた手をぴたりと止めると、途端に恐縮し腰を折った。顔の前でぱちんと手を合わせ、質屋の店主に深々と頭を下げた。
「そう言うことだったのか。ご主人本当、すまねえ!俺が悪かった!ついつい、考え事しちまっててさ」
謝る男性の言葉を伝えると、店主の表情は和らぎ「わかってくれればいいんだ。こちらこそすまないね」と万事解決となった。折り合いがついたとあって、人の輪も再び散り散りになり、雑踏の中へ戻っていく。
ナナリーも胸を撫で下ろし、さあ薬屋へと足を向けた途端、とっさに手を握られた。近い男性の顔におののき、思わず後ずさった。
「あんた、言葉分かるんだな!助かったよ!」
「え、ええ。はい…!」
すると、男性の肩から甲高い鳴き声が聞こえた。そこには小猿がぴょんぴょんと飛び跳ねている。大変かわいらしい。紅白の首輪はこの大きな男性のお手製なのだろうか…。惹かれてそっと手を掲げると小さな手がナナリーの指に触れた。
「小さなお猿さんですね。名前はあるのですか?」
「おっと、いけねえ。俺は前田慶次!こいつは夢吉!」
慶次の太い人差し指が、夢吉の頭にそっと置かれると、夢吉は嬉しそうに自ら頭を擦り付けた。
「申し遅れました。私はナナリー・ライトといいます。医者をしております。どうぞ、ナナリーと」
「ナナリーな。それにしてもなんだって、西洋のお医者が日ノ本に…?」
慶次が話を続けようとすると、夢吉がまたきいとひと鳴きし、彼の耳たぶを幾度か引っ張った。言葉の意味が分かるのか「そうだな!」と慶次は夢吉に微笑んだ。
「ナナリーさん。あんた腹あ減ってないかい?助けてもらった礼させてくれよ!こっち来てからうまい飯屋見つけたんだ!」
「いえ、私、今から薬屋さんに行くところなんです。お気持ちだけで」
「薬屋は逃げねえって!な!立ち話も何だしさ、それに、俺異国の話、聞きてえな、なんて!」
この頃は父親以外との会話は殆ど無く、少々塞ぎがちだ。これも何かの縁だと、ナナリーは慶次の厚意に甘えることにした。
連れて来られたのは、大通りから路地に入った「白屋」という食事処だ。緑色の暖簾に白抜きの文字が品よくたなびいている。
まわりには、酒屋が一軒、そしてその隣には甘味屋が一軒並んでいるだけだった。賑やかな通りと比較すれば、こちらは人もまばらで落ち着いた場所である。派手な暖簾や呼び込みの売り子なども居らず、店の佇まいもなかなか洒落ている。そのせいか、男女の二人組が多かった。
甘味屋の腰掛けに、楽しげに会話が弾む様子が視界に入ると、ナナリーはさっと視線を外し、慶次の大きな背を借りた。慶次も元親に負けず劣らず体躯のよい男性である。視界はすぐに遮られた。
緑色の暖簾をくぐり、中へ入ると若い女将が「いらっしゃい」と二人と一匹を出迎えた。が、女将は、慶次の後ろからひょっこり顔を出したナナリーを見るなり、はたと動きが止まった。驚いた様子で目をぱちぱちと瞬かせた。
異国人の客に驚いた、という様子ではない。慶次が怪訝そうに「どうしたんだ、お菊さん」と女将に問うと、お菊はナナリーににっこりと微笑んだ。視線が交わったナナリーはそこでようやく、あ、と気がついた。
綺麗な黒髪は、きちんと結われ、派手なかんざしは付けていないが、間違いなく深い夜、「いい人なの?」と左近に声を掛けていた、賭場で会った女性だ。艶やかな佇まいは見惚れたが、目の前で給仕をする女将としてのお菊もまた、大変品の良い大和撫子である。
慶次は、空いている座敷に腰を下ろすと「なんだい、ナナリーとお菊さんは知り合いだったのか」と品書きを見て笑っていた。
ナナリーも座敷に上がった。どうやらお菊は、昼はこの料理屋で命一杯働き、夜は賭場で遊んでいるらしい。「賭け事、好きなのよ」と笑んだ雰囲気は、あの夜の妖麗さを覚えた。
「あなた、ナナリーさんていうの。確か…島様んとこのお客人だったわよね。あの夜は大活躍だったらしいじゃない?」
そう言われ、ナナリーは「四国の地図」に奮起していたのを思い出し、我を忘れていた羞恥がこみ上げた。小さくありがとうございますと返答した。
「ビギナーズラック、だったのかもしれませんけど…」
「なあに、それ」
「初心者のたまたまの運の良さ、とでも言いましょうか」
「ふふ、そうかもしれないし、案外、そうじゃないかもしれないわよ」
お菊はそう言いながら茶を出してくれた。湯気の上がった湯のみを置くと、自身もナナリーの傍らに腰をおろし、抱いていた盆を座敷に置いた。
店内には、大人の胸ほどある高さの衝立が客席と調理場とを区切ってある。挟んだ向こう側には厨房の中が見え、女性がもう二人、かまどの側に立ち煮炊きをしていた。鍋をひとかきする毎に、良い匂いがふわりと漂った。
お菊は、垂れた一房の髪に手を寄せ、撫でると、思い出したように口を開いた。
「ところで、最近、島様お元気?」
「島様…、どうかなさったんですか?」
「賭場には結構、顔を出すんだけど、何か始終考え事してる感じなのよね。一度悩みでもあるの?って聞いたんだけど、“誰にも言えねえ” とかなんとか言っちゃって。私にはなーんにも話してくれなかったわ」
「そうですか…。実を言いますと、このところ島様とは顔を会わせていないんです。お忙しいのでしょうか」
目を伏せたナナリーをお菊は覗きこんだ。
「あなたも。この間会った時より、随分やつれた感じ。何か想い人を心底心配するような顔してるわ」
「え?」
心中覗くような、お菊の真っ黒な瞳が、少しの好奇心を交えナナリーを射抜いていた。
その言葉を慶次が聞き逃すはずもなく、品書きを差し向け女性二人の会話に割って入った。机に立っていた夢吉もキぃと鳴き、慶次の真似をしてびしっと手刀をナナリーに向けている。
「おっと、そりゃ聞き捨てならねえな。ナナリーは恋わずらいかい?」
「慶次さん。突っ込みすぎるのは野暮ってものよ。ささ、今日はまけてあげるから、ナナリーさんも慶次さんもたくさん食べてってね」
「ありがとうございます」
二人で食べるには随分な量の料理が机の上に並べられた。煮魚、お浸し、焼き物などなど、慶次が品書きの端から端まで注文したからである。食べきれる量とは到底思えなかったが、ナナリーの腹が膨れる頃には、あれだけ机を彩っていた料理は、慶次の底なしの胃袋に全て収まっていた。夢吉の腹も少々膨れている気がする。
食事をしながら慶次は、ナナリーの故郷のことを根掘り葉掘りと聞いた。外国と日ノ本との違いに、中でも何頭もの馬に馬車を引かせるのを「そりゃ、贅沢だな」と口を大きく開けて笑っていた。
「まあ、でも、甲斐の虎も馬二頭使うらしいって聞いたことあるからな…似たようなもんか」
はぁー食った食ったと腹を擦りながら、慶次は楊枝をくわえると少々苦しげに声を出した。
「そういや、さっき島様、とかってお菊さん言ってたが、島って言ったら、あの島左近か。あんた大阪城の客人なのかい?」
「はい。ご厄介になっています。今はお城ではなく、屋敷をお借りしてそちらに寝泊まりを」
「へー。異国のお医者さまってえのは、待遇がいいもんだな」
「いいえ、私は直接医者としてご奉公しているわけではないのです。父が商人で城主様とお取引させて貰っているので、私は船医として父と一緒にやってきました」
「あぁ、そういうことだったのか」
慶次は、納得したように頷いた。急須を傾けると湯のみを一杯にし、一気に飲み干した。
「よっしゃ。ナナリーさん、腹一杯になったかい?あんた、薬屋行きたいって言ってたろ!俺が案内してやるよ!」
「それは、大変助かります。看板の字は読めると言っても、探すのに一苦労だったので。ありがたいです」
「そいじゃあ、行くか!」
店を出る間際「また、いらっしゃい」とお菊が笑顔で見送ってくれた。
慶次とナナリーは、大通りまで出て薬屋を目指した。慶次曰く、薬屋は通り沿いにあるらしい。
昼も過ぎたので、町は大変な盛況っぷりだ。他人の着物の柄が幾度も目と鼻の先で通り過ぎ、道々の隙間を埋め尽くす。雑踏の波は絶えずうねっていた。右を見ても左を見ても人人人だ。慶次は「離れないでくれよ」と、ぴったりとナナリーの傍らを歩いた。夢吉は相変わらず楽しそうに慶次の肩で跳ねている。
目的の薬屋まで来たナナリーは、必要な薬草などを目的のものを無事に購入することができた。大事に包みを抱え慶次に礼を言い、その後は、しばし町を散策した。
淀川や大阪城の堀へと注ぐ細い水路を、小舟が一艘通り過ぎている。船頭が操った艪は時折船体と擦れ、籠もるような木の温かい音を不規則に発し、船は川面を滑っていた。橋の下を通り過ぎた時、その袂から子供が桁を駆け上がり、中頃から船へ向かって手を振っていた。
水路沿いには柳や桜が植えられ、腰掛けの上には春の名残か枯れた花びらが一層色褪せて積もっている。
ナナリーの歩みが小さな石ころを弾き、転がったその先には高札が掲げられていた。一瞬吹いた生ぬるい風が長閑な空気をさらっていった。幾人か町の人が深刻そうな様子で札を眺めている。慶次も気になったらしく、行ってみようと内容を確認しに向かった。
気さくな彼は、眺める人らに声を掛けた。
「今日の触れは何が書いてあるんだい?」
手ぬぐいで額を拭う町人が答えた。
「じき、また戦だってよ。お触れは、兵の招集、戦の遠征のことだな。今度は海を越えにゃならんらしいぞ」
「へえ…」
顔をしかめて高札を覗きこむ慶次の後ろから、ナナリーも己の目で確かめた。ところが、その遠征先の地名が飛び込んだ瞬間、胸が詰まった。危惧していた事実そのものだったのである。何かの間違いであって欲しいという希望的観測は支えのない柵のように傾いた。
─ 四国討伐遠征の為、雑兵の招集ここに記す
以下、入隊から訓練と、出陣までの大まかな流れが書かれてあった。町人は斜め読みを終えると、客がまた減るなあ…などとこぼしながらその場を去った。無意識の内に、抱えていた包みをとさりと地面に落とし、ただその四国という字を食入いるように見つめていた。
「ナナリー?ぼうっとして、どうしたんだ」
「あ、いいえ。何でもありません。手を滑らせてしまいました…」
包みを持ち上げようと屈んだとき、思わず熱くなった瞼に力が入った。なかなか顔を上げられない。四国に大挙して豊臣軍が雪崩込もうとするその事実を知り得ながらも、ナナリーには何も手立てが浮かばないのだ。
なかなかナナリーが体を起こさぬので、慶次は隣にしゃがみこんでいた。
「ナナリー、あんた本当に大丈夫かい?具合でも悪いのか」
「い、いいえ!なんでも、本当になんでも」
「ちょいと歩きすぎたかもな。休憩にするか。まんじゅうでも食いに行こう」
夢吉も心配し、ナナリーの頬に小さな手のひらをそっと当てた。それからナナリーを気遣い、慶次は薬の包みを代わりに抱え、再び大通りへ出ると甘味屋までやってきた。店先の小さな腰掛けに二人して座った。
「おばちゃん!まんじゅう三つな!」
「あいよ!」
出された湯のみを両手で抱え、ため息を付いたナナリーは空を仰いだ。
逢魔が時も近づく頃だった。傾き始めた陽は、勢いをつけて空を橙色に変えていく。かと思いきや山の裾からは次第に夜闇が訪れようとしていた。しかし濃紺はまだ顔を出したばかりだ。
まんじゅうが出てくる間、ナナリーは通りを眺めていた。こんなにも大勢の人が行き交う城下を持っていても、豊臣秀吉は四国の地を手に入れたいのだろうか。繁盛する店も多い、住まう人も朗らかで陽気な者ばかりだ。楽しげに笑う声とは裏腹にナナリーには日ノ本の武人、侍の考えることが少しも理解できない。それが逆に心底苦しかった。
只ならぬ落ち込み具合を心配し、慶次が遠慮がちに声を掛けた。
「悩みがあるなら、俺いつだって聞いてやるぜ?」
「前田様…。ありがとうございます」
「まあ、つっても、俺もじき大阪離れるからよ。すっきり吐き出してえなら今のうちな。早く出したほうが楽になるってもんだ!」
そう言った慶次は歯を見せ笑った。そういえば、とナナリーは慶次の職を聞いていなかったことを思い出した。大きな剣を背にしていることからも、恐らくは武士であるだろうが、どうにもこれまでナナリーの見てきた武士という類の人物とは少々毛色が違うように思ったのだ。とはいえ、出会ったばかりの人物にあれこれ聞くのも気が引ける。
「前田様は、旅をしておられるのですか」
「まあ、そうだな。旅だな。自分で言うのもあれだが放浪癖がついちまってさ」
「大阪を離れると仰っていましたけど…次はどちらに?」
「四国にな」
俯いていたナナリーは、勢い良く慶次に振り向いた。あまりにも真剣な眼差しに慶次はたじろいだ。
「前田様も戦を?」
「いいや、俺は戦にゃ出ねえよ。四国に友達がいるからよ。ちょいと顔見せにな」
「そう、ですか…」
「なんだか、そんな顔されちまうと、離れがたいねえ」
慶次は冗談めかして笑っている。丁度その時、甘味屋の主人がやってきた。出来たての温かいまんじゅうが盆の上に三つ乗っている。「おうっ、美味そうだ!」盆ごと預かった慶次は、ナナリーにも「ほらよ!」と差し出した。
ところが、小ぶりの物を選ぼうと手を伸ばしたその時、慶次はおもむろにナナリーの手首を掴んだかと思うと、己が胸に力いっぱい抱き寄せた。突然のことにナナリーは慌てた。頭の後ろは大きな手のひらに支えられ、慶次の鼓動は近かった。
「ま、前田様…あの、」
「ナナリー。悪い。ちょっと動くなよ。あんた、本当に城の客人かい?」
慶次の問いは慎重なもので、半日共にいる中で初めて聞いた低い声色だった。
ナナリーを抱き寄せ、限りなく耳元に口を近づけ、誰にも聞こえないように囁くそれは、何かを過敏に警戒している様子だ。
「あんた、どうもさっきから付けられてるぜ。明らかに視線は俺に向けてじゃねえ。心当たりは?」
つけられている、そう言われ咄嗟に周囲を見回そうとしたが、慶次にぐいと動きを止められた。
「付けられる…心当たりなんて、思いつきません!私、何も…、どうして…」
人通りの絶えぬ中、夕暮れ時の男女の抱擁は、大層目立つ。にも関わらず、慶次の敢えての行動と洞察力にナナリーは動揺していた。とにかく、一応は城の客人であることには変わりない。
「俺にも分からねえが…。とにかくあんたの屋敷はどこだ?こりゃ敵さん巻いて帰らなきゃならねえな」
「そんな。今までこんなこと」
「親父さんは、まだ仕事中か?」
「父は今晩、城で会食があるのだと言っていました。恐らくは既に城にいるかと思います」
「そうか。わんさか兵のいる城で、親父さんに手を出すなんてことはねえだろうから大丈夫だろう。とにかく、悪いが少し恋人ごっこに付き合ってくれるかい」
ナナリーは顔を上げると、慶次は「心配すんな」と頼りがいのある笑みを見せた。
それから恋人よろしくまんじゅうを平らげた二人は、人通りの多い道を選び、武家屋敷までの帰路を辿った。慶次は薬の包みを右腕に抱え、ナナリーの右手を握っている。
屋敷群に入ったところから、人が極端に少なくなった。
慶次は、今であればついてくる何者かの、その正体、あるいは数だけでも判別がつくと踏んでいた。思う通り、鋭く研がれた殺気はひとつだ。完全にナナリーへと向けられている。
慶次は繋いだ手を離すと腕を伸ばし、歩きながらナナリーの肩を引き寄せた。地面に並び、くっついた二人の影は、命一杯伸びた先から次第に夜の帳に飲み込まれつつある。
「ナナリー、屋敷は?」
「あの、正面を向いている蔵の二軒先です」
「了解」
そう言った慶次は、屋敷へ直接向かわず、ひとつめの四つ辻を左へ曲がるよう言った。曲がったが最後、慶次は一旦歩みを止めた。ひとつ、ふたつ、みっつ数えた後、即座に振り返った。
すると、慶次の目論見通り、目の前には頭巾で頭を覆った何者かが塀の影にぬっと姿を表した。相手も、まさか待ちぶせされているとは思っていなかったと見え、即座に反転し、一目散に裏路地へ駈け出した。慶次もすぐに後を追い走りだした。
「くっそ!早えな!夢吉!ナナリーさんを屋敷まで送ったら俺のあと追ってきてくれ!」
頭の良い夢吉は、手を上げその旨引き受けると、急いで屋敷へ帰るようナナリーを促した。
それとは反対方向へ慶次が駆け、後ろ姿はどんどん遠のいていく。陽の落ちきる方角を何度も振り返るも、肩に乗る夢吉は心配するなとでも言うように、ナナリーの頬をぺちぺちと叩き、歩みを急がせた。
・
緋色は帳を押し上げるように辛うじて空に残っているが、部屋は真っ暗だ。ナナリーは行灯に火を灯した。
慶次が何者かを追い、夢吉が屋敷を去ってからそれ程時は経っていない。当然音沙汰はない。ナナリーは思案するも己が狙われる理由が全く思いつかなかった。
この部屋の荷物ですら全て大阪に来てから揃えたものばかりだ。特段珍しいもの、貴重な物、高価なものといった類は見渡しても何一つない。おまけに一度、何もかも失い遭難した身である。ナナリーの命一つ奪ったとしても、誰の得になるのか。それすらも不明だ。
夢吉は屋敷を出る時、絶対に部屋から出るなと、自身の何倍もある障子戸を一生懸命閉めて出て行った。そんなことをされれば、絶対に出てはいけないだろう。父親が帰ってくるまで暫しの辛抱だと、部屋の隅に膝を抱えてナナリーは待った。
そうしている内に、意識が少しずつ遠退きうつらうつらし始めた時、はっと、何かの気配を感じ顔を上げた。父親だろうか。部屋に近づく足音があった。
「お父様…?」
障子戸を挟んだ廊下には、ひとつの影がある。だが、明らかに父親のものとは異なっていた。体つきが違うのだ。ナナリーの父親はもっとふくよかである。廊下の何者かわからぬことに恐怖を覚えた。
「だ、誰…」
「ナナリーさん、夜分にすまねえ。障子を開けてくれ」
久方ぶりに聞いた覚えの有る声に、ナナリーは胸をなでおろしていた。恐怖心は和らいだ。
「島様…、ですか?」
「ああ、俺だ。左近だ。頼むよナナリーさん」
ナナリーは昼間の「白屋」でのお菊の話を思い出していた。
─ 賭場には結構、顔を出すんだけど、何か始終考え事してる感じなのよね。一度悩みでもあるの?って聞いたんだけど、“誰にも言えねえ” とかなんとか言っちゃって。私にはなーんにも話してくれなかったわ
襟を整え、手に汗握りながらナナリーは障子戸を開けた。そこにはやはり、石田三成左腕、島左近が意気消沈した様子で庭に立っていた。すっかり陽も落ちた中部屋から零れた僅かな灯りでは、俯いた左近の表情を掴むには足りない。覗きこむように前かがみになった。
「どう、なさったのですか」
「ちょいと、一緒に来て欲しいところがあるんだ」
左近は突然、ナナリーの手首を握りぐいと引っ張った。無理矢理に濡縁から降ろされたナナリーは、慌てて草履をつっかけ、引かれるがままだ。左近の深刻な様子といい、強引さといい、様子がおかしい。いつものひょうきんな彼とは全く別人のようである。
「島様!あの!どちらに行かれるのですか!」
「黙って着いてくりゃわかるから」
左近は有無を言わさず、ナナリーを屋敷から連れだした。夢吉に絶対に出るなと小さな体いっぱいにたしなめられたが、早くも破ってしまった。後ろめたい気持ちがあるも、思いつめた左近も気にかかる。今更戻るとも言えない。うっ血しそうなほど、きつく握られるのには余程深刻な理由が有るとみえた。
武家屋敷の連なる通りから、更に細い道を選び、人気の無い通りを進んでいく。隙間なく並ぶ屋敷の塀は、次第に民家の生け垣へと変わり、屋敷群から遠ざかっていた。城へ行くのかとも考えたがそれも違った。薄い月明かりを受け黒い影を帯びた天守は次第に遠くなり、闇に埋もれていく。
すっかり城下の外れに来ていた。左近は歩くのが早い。ナナリーは息が上がっていた。
あぜ道の眠る草花の夜露を弾き、たどり着いたのは藁葺き屋根の小奇麗な庵だった。左近は木戸を押し中へ入った。石畳を踏みしめ戸口に立った。
「入ってくれ」
ようやく、掴んでいた腕を離された。手首をさすりながら、玄関を上がった。先に入った左近は襖の前に座り「入ります」と中に声を掛けた。誰かいるようだ。ところが返事は無い。左近は構わず引いた。隙間からは細い灯りが次第に太く廊下へ広がる。
例えば、ナナリーがただの商人で、通詞であれば、こんなにも複雑に感情を巡らすことはなかっただろう。
いつか元親は、ナナリーが商人で、通詞で、医者で有ることを大したもんだと言っていた。
血迷い、一時の高ぶった感情に左右されてはならないと言い聞かせ、ナナリーは床に伏せる竹中半兵衛と左近に、どうしてこんなになるまで放っておいたのかと、声を振り絞った。