迷い人07
一体何をどうすれば、島左近という男は目と鼻の先にあるこの港にいつまで経っても到着せぬのだろうか。
石田三成は奉行所を出た途端、部下を見失うも、一足先に出て行ったはずだからと、てっきり着いているものと思っていた。ところが今、この波止場にいるのは三成だけだ。
「あやつは何をやっている!」
驚いた海鳥が水面を弾いて飛んでいった。目を吊り上げた三成に、作業をしていた漁師や水夫たちも「ああ、また島様か」と苦笑いを浮かべている。
鋳られた鋼の如き忠誠心を持つ三成は、その思考は常に真っ直ぐで、主秀吉への忠誠心は雑兵を束にしたそれをも凌駕する。故に、奔放で突拍子もない斜め上の左近の振る舞いにはいつも手を焼いていた。見方を変えれば要は堅物なのである。そんな少々柔軟性に欠ける三成へも、気苦労の絶えぬお方だと左近よろしく水夫より苦笑いを向けられているのを知るのは、彼らの上に立つ竹中半兵衛くらいだろう。
それはさておき、南蛮からやってきた大型商船イサベル号は既に接岸し、桟橋より渡した斜路を滑るように積荷を下ろし始めていた。
大小様々な船と、異なる風体の人々がひしめき合う中、がたいの良い堺の水夫たちによって、滞り無く荷箱は運び出される。三成は、左近に積荷の検閲をさせるつもりだったが、居ないので、己が行う他ない。頬を引き攣らせながら、これも秀吉様の為だと帳面を開いた。
全ての荷を改めるのはさすがに日が暮れてしまう。適当な流れの内に何度か止め、無差別に中を見る。そして、納入先を記録し、どのようにして大店まで流通するのかを帳面に記す。
同時に、この堺の町にやって来た南蛮商人も素性を調べる。違法な薬物等密輸していないかきちんと取り締まる為だ。秀吉の治める土地で妙な事を企む輩がいれば、三成は問答無用でその場で処罰を言い渡す。今年に入り既に三回、三成は刀を抜いていた。言えども単なる脅しだが、そういう命の危機迫る報せは外国商船にはすぐに広まる。
イサベル号の船長も、堺の役人は大変気難しいと聞いていたから、内心ハラハラしつつ甲板から荷降ろしの様子を眺めていた。ようやく最後のひとつが運び出されると、上陸の許可が下り、船長はほっと一息ついた。地上に降りれば、波止場は波止場で人の波である。
そんな異国の商船がひとたび入港すると、港はいつも一重にも二重にも人が輪をなすのだった。外国船の入港は日常茶飯事だが、今日の船からはどんな面白い格好をした南蛮人が降りてくるのかと大勢が見物に訪れる。シルクハットに眼鏡を掛けた学者、金髪の大男が立派なフロックコートなど着ていればやはり堺の人々にも目新しい。今日も今日とて、ひと目見ようと、跳ねたり背伸びをしたりして群がる様は、見世物小屋に集まる観衆のようだ。これもまた人々にとっては一種の娯楽なのである。
すると唐突に、喧騒の中を三成の怒号が貫いた。皆、押し合いへし合いに体を滑り込ませ、声の出処を探し、興奮気味に人々は目をギラつかせていた。三成は観衆に更なる興を添えたのだ。やったれやったれと煽り始める者もいる。
三成はだんと大きな音を立てて積まれた荷箱を叩いた。
「この船の乗組員は多いぞ!聞いていた数と合わぬではないか!」
続々と船から降りてきた乗組員を睨み、三成は目が血走っている。慌てたイサベル号の通詞が、腰を低くして前へ出た。
「石田様、何卒ご慈悲を。この者たちは難破船の乗組員で、航海中に私共が救助し、大海原を共にしてきたのです。どうかご寛大にお取り計らいくださいませ」
疑り深い三成は顔をしかめると、帳面を睨みつけるようにして今一度遡った。乗組員のみならず、荷数にも差異がある。難破船の荷も積んで来たのかと問えば、通詞は左様でと底姿勢を保ったまま答えた。三成は積まれた荷箱を見上げてみる。
日ノ本に陸揚げされる荷箱には、何処の港であっても船名と荷の所有者を書くよう、定めてあった。どれが増えた荷箱だと目で追っていると、ふと、ある箱の前で視線が止まった。
[ アリシア号/平戸/ライト ]
忘れもしない。三成はその名に覚えがあった。
明智討伐の出陣前、軍議の席で半兵衛の口から聞いた外国商人の名だ。装備拡充として、その商人から鉄砲を仕入れる予定にしていたが、それが戦で使われることはなかった。「困ったことに船が到着しないんだ」と半兵衛が秀吉に報告していたのは記憶に新しい。冷静沈着な軍師が、珍しく顔を曇らせていたから殊更頭に残っていた。結局、豊臣軍は銃を十分に確保できぬままの出陣となり、無事明智光秀は討ち取ったものの、珍しくもたついた戦だった。
その苦々しい記憶を思い出しながら、三成は有無を言わさず荷箱の蓋を開けた。曇天の下に現れたのは、真っ黒な種子島だ。何十丁と入っていた。やはり豊臣と鉄砲の取引をするはずだった問屋の荷に間違いない。このライトからの銃が届かず、出陣前に装備は整わなかった。今更手元に届いたことに歯噛みする思いがした。
三成の指は自然と刀の鍔に触れていた。
「おい、このアリシア号というのは、平戸に向かっていた商船だな。それが難破したのか」
船長は頷き、通訳はおどおどしながら「左様でございます」と応えた。
「何故荷は無事なのだ」
「ええ、実は…」
通訳は、これまでの経緯とアリシア号とユーフェミア号の悲劇を話し始めた。相変わらず周りは喧騒に包まれるも三成は黙って耳を凝らして聞いていた。遠くではまた海鳥が甲高い声を上げている。風も少しずつ強くなっている気がしていた。
大海原にあって、イサベル号通詞の話はあまりにも出来過ぎていて、胡散臭いと思っていたが、現に、イサベル号の当初予定していた乗組員は増えているし、豊臣に届くはずだった鉄砲も、取引先の名を携え今この場にある。三成は溜息をつき、渋々己を納得させ鍔から親指を離した。
「大体はわかった。聞くが、この荷の商人、ライトの者たちは藻屑か」
「第三次のアリシア号に乗船していた者は行方しれずですが、第四次のユーフェミア号に乗っていた旦那様はご無事でございます。お嬢様も乗船されております」
「何、女を船に乗せるとは正気か、貴様ら」
「返す言葉もございませぬが、ユーフェミア号の出港に当たっては、退っ引きならない事情があったとのことで」
「そんな事情など知ったことか。とにかくその親子には話がある。すぐに連れて来い」
イサベル号の船長も通訳も、三成には逆らってはならないと、ライト親子に降りてくるよう言った。船長たちの顛末を不安に思いながら眺めていたナナリーは、揉めている対象が自分たち親子であると知り気が重くなっていた。作業が残る船員たちも、斜路を下る親子を甲板から心配そう眺めている。
親子が三成と対面すると、腰に下がった獲物が音を立て瞬時に緊張が走った。
「貴様らか。私は秀吉様が家臣、石田三成だ。先般の、平戸未到着の商船について、聞きたいことが山ほどある。拒むことは許さない。奉行所までついて来い」
その言葉に反応したのはナナリーの父親だ。金勘定が関わると根っからの商売人は勘が鋭く働く。真っ先に取引先の関係者ではなかろうかと察して、父親はずいと三成へ歩み寄った。
「お役人様はもしや、平戸着の鉄砲を待たれていたお客様でございますか?」
「だったらなんだ!いいか!とにかく貴様らは秀吉様の前で頭を垂れろ!ひれ伏せ!謝罪の一つでもなければこの地で商売などさせてなるものか!」
私が許さない!と光成は鋭い眼光で睨み付けた。
握手を求めるために、父親の手は三成に差し出されていたが宙に浮いたままだ。三成はふんとぞんざいにあしらった。お辞儀をしていたナナリーにも冷ややかな視線を向けている。
「いいからさっさと着いて来い!」
三成は群がり出来た人垣に、邪魔だ退けと吐き捨て一歩踏み出した。その時、人垣を割って「三成様あ!」と飄々とした笑みを浮かべた男が向かってきた。軒の影から姿を現したのは島左近だ。ようやく港にご到着だった。
「遅れてすみませんっっ!三成様!近道しようと思って、すっと路地に入ったら、昨日賭場で喧嘩した奴らにばったり会っちまって、そんで…」
三成は頬をひきつらせていた。
「左近…。貴様は賭け事、喧嘩に於いてはよく頭も回るようだが、その才をもっと仕事にあてろ!仕事にだっ!港は目と鼻の先なのだぞ!ふざけるのも大概にっ、」
「まあまあ、三成くん。そんなに怒鳴ることないだろう。予期せぬ遭遇はしようのないことだよ」
三成の言葉を遮り、左近の後ろからひょっこり現れたのは、彼らの上役である竹中半兵衛だった。左近の胸ぐらを掴みかけていた三成は驚いて手を離すと即座に一礼した。
ナナリーも父親も、威圧を放っていた三成が従うほどの人物とは、よほどの人物なのだと瞬時に判断していた。
「半兵衛様、何ゆえこちらまで」
曰く、今回堺に入港する船には、学者や医者をはじめとした欧州の権威も乗り込んでいると半兵衛は聞き、兵法、治国などに詳しい人間はいないかと物見にやって来たらしい。秀吉も大層興味を抱いているとのことだ。それならば私めに命じてくだされば!と申し出た三成に、半兵衛は半分は僕も立派な船を見たかったんだ。いつも報告ばかりだったからね。と涼やかに笑みを浮かべた。
「その途中で、俺と会ったんですよ。ね!半兵衛様!」
「貴様は黙っていろ」
「ばったりね。ところで三成くん。後ろの方々は」
「は。この者達は…」
三成は苦い顔をしつつ、先だってのやり取りを一部始終話すと、半兵衛は腕を組み思案していた。隣に立つ左近は、話を聞いていても珍しく口を挟まず、静かに上司の判断を待っている。
一方のナナリーは、とうとう処罰を言いつけられるのではと内心びくびくしていた。客の前には不着の荷、そして店の主人がいる。責任を負わねばならない状況は揃っていた。イギリスを発つ前、この日ノ本には責任を取る風習としてハラキリなるものがあることを知っていたナナリーは、たまらず「お父様…」と父親の袖を引っ張った。
ところがナナリーの心配は糸も容易く解かれた。思案していた半兵衛は、腕をとくと親子に歩み寄り、おもむろに手を差し出したのだ。色白い。いや、蒼白な顔には歓迎が伺えた。
「部下が失礼を。歓迎いたしますよ。大変な航海、ご苦労さまでした。ひとまず秀吉に会わせたい。是非大阪城にいらして下さい」
「半兵衛様!よろしいので?!」
「今はね、三成くん。少しの戦力も僕は無駄にしたくはないんだ。折角満身創痍でここまで来て下さったんだから。それに今後の取引のことも話し合いたい。三成くんも、左近くんも、そのつもりで。二人共、城まで一緒に来てくれるかい」
「はっ」
「もちろんす!」
その後、奉行所から役人が馬を連れてやってきた。ナナリーと父親は三成と左近にそれぞれ相乗りさせて貰い、一行は大阪城を目指した。
堺の港から城までの道のりは五里ほどだ。
物流盛んな道は、四国浦戸城へ続く道とは違い、よく整備されている。幅員の広い平坦な道は、さほど馬の揺れもなく、軽やかに進んでいく。さすが交易の中心といったところで、忙しい人々が大勢行き交い、活気に満ちた空気はその都度撹拌し充満している。すれ違う馬の馬具ひとつとってみても、細やかな装飾まで手を掛ける余裕が人々にはあるのだった。華美な馬の出で立ちには思わず息を呑む美しさだ。だが、金銀真鍮の綺羅びやかな様は、ナナリーにとってはどこか冷たく映り、味気なくも心細くもあった。
馬に揺られてつい思い出すのだった。なだらかな丘陵地にぽつぽつとある荒屋や、貧相な畑。その閑散とした中から、何時でも方方より城主を慕う民の声だ。先ほどまで張り詰めていた気が緩んだナナリーは、無意識の内に元親の顔が過っている。
「おい、貴様」
後ろからの声に驚き、ナナリーは一気に引き戻された。
「先程から、この紐が邪魔だ。何とかしろ」
三成の言う紐とは、ナナリーの着ているドレスのリボンのことを言っていた。背中の大きなリボンはドレスの裾が汚れぬように、裾を少々引っ張りあげるようにして腰より高い位置で結んでいた。ナナリーは謝るも、だからと言って今どうこうできるわけではない。すると左近が馬を寄せた。
「三成様、三成様も、うしろ…」
左近が言い終わらぬ間に、三成の刀はすでに鯉口から五寸ほど抜かれている。青筋を浮かべ、抜刀寸前だ。前方をぽくぽくと進む半兵衛はまるで背に目でも付いているかの様に、ため息を付いて二人を諌めた。
「君たち、一応客人の前なんだから。もう少し静かにできないのかい」
「申し訳ございません、半兵衛様…」
「すみません…。てか俺褒めようとしただけ」
「それが余計だと言っているのだ!」
三成に一喝された左近は「なんだい、なんだい」とふてくされながら、驚いた馬をどうどうとなだめると、再度確りと手綱を握った。
将や兵はどこも似たようなものなのだろうか。ナナリーは四国の“野郎ども”を思い出し、くすりと頬に笑みを溜めた。
さて、一刻と少し馬に揺られ続け、一行はようやく大阪城下へ入った。ここもまた、人の賑いは港の比ではない。通りに隙間なく連なる店先の暖簾は客を招くようになびいていたが、ナナリーは思わずその光景に目を奪われ、馬から下りてしまいたいくらいだ。この城下町が、見たこともないような派手な色と、厳かな鈍色とが交じり合ったように映るのは、異国の品物と日ノ本の本来の産物で溢れかえっているからだ。四国でも見た峠の茶屋のような佇まいの甘味屋があるかと思えば、向かい側は西洋甲冑や外国の刃物を売る金物屋で、その隣は琉球織物を扱う反物屋だ。ナナリーにはどの店も珍しい。
きょろきょろと見回しながら馬が進むと、次第に人々の視線がナナリーたちへ向けられているのが分かった。
それもそのはずである。豊臣秀吉一番の軍師竹中半兵衛と、加えて石田三成、その左腕島左近が西洋人を馬に乗せ、城への架橋を渡ろうとしているのだ。それはそれは大層目立つのである。一行が通り過ぎた後は、店の者はこれから何が始まるのかと顔を出していた。
大阪城は城郭に溝を入れるように架橋があり、城下町と城とを結ぶ出入口となっている。外濠を渡るその橋は、戌亥(北西)、丑寅(北東)、辰巳(南東)、未申(南西)の四方向に一箇所ずつあるが、通常、登城する者たちは未申にある大手門を渡り、桜門をくぐって表御殿へと抜ける。ナナリーたちもその順路をたどった。
門番が帰城した半兵衛たちに礼をすると、半兵衛は馬を降りるよう言った。ここからは徒歩でいくらしい。
敷地内に入ると、すぐ左手には蔵が連なっている。そこは食料庫と厨のようで、かまどからは藁葺き屋根を突き抜け、もくもくと白い煙が登っていた。その奥には、立派な城が悠然とそびえ立っている。
半兵衛を始め、三成と左近は当たり前の様に城内に入るが、親子は呆然と威風堂々たる城を見上げていた。真っ白な壁面に重厚な瓦屋根がどっしりと鎮座し、天を突き上げる様は壮観である。
「凄い…」
ナナリーが思わずこぼすと、半兵衛が振り向き、ここはまだ天守じゃないよと微笑み廊下を進んだ。
建物内を歩いていると今度はすれ違う女中たちが立ち止まり、彼らに礼をする。そして、後ろに続くライト親子を不思議そうに眺めていた。
そうして暫く前を行き、案内を務める半兵衛を見ていると、ナナリーはふと気づいたことがあった。
半兵衛は時折、左手を胸に当てるような仕草をしているのだ。背を向けたままでは確信はないが、少々苦しそうに構える様子が見受けられる。そうこう考えている間にナナリーはいつの間にか医者の頭に切り替わり、半兵衛をまじまじと観察していた。やはり肩で息をしている。心配になり、声を掛けようとしたが、それは突然廊下を掛けてきた兵士によって妨げられた。息を切らした兵は、石田様!と叫び廊下に滑り込んだ。
「なんだ。半兵衛様の前だぞ」
「お三方とも、ご無礼誠に申し訳ございませぬ。しかし急ぎ伝えねばならぬことが!刑部様が!お体優れぬと床に臥せって居られたのですが、急に苦しみ出されまして!」
「なに?刑部が…!?」
「は。今医者を呼んでは居るのですが、いかんせん苦しみ方…、見ておるのがもう、拙者辛うございますれば。これは只事ではないと」
大谷吉継は豊臣家臣で、智略に優れた参謀の一人だ。
三日ほど前より彼は、気分が優れぬと暫く政務を休んでいた。元々病を患っているから無理をするなと度々三成は忠告していたが、このところ属城が次々と増えるので、やれ次は誰を城主にしてくれ、役職はなんだと外野をあしらうのに骨を折っていたのだ。それがたたったのだろう。しかし様態の急変とはかつて無いことだ。三成は唇を噛んでいた。すると左近が声を上げた。
「三成様、早く刑部さんとこ行きましょうよ!」
「だが!しかし…」
三成は、半兵衛とライト親子を交互に見遣っては迷っていた。確かに大谷吉継は三成の最も信用する同輩だが、今は執務中で客人の案内をしている。私情に駆られていてはと、忠義に厚い三成らしいが、半兵衛はそれを察してすぐ行くよう促した。
ナナリーも話を聞きつつ職業柄居ても立っても居られなかった。
「石田様。私こう見えても医者なのです。その方のお医者様が来るまで、私にできることがあるとやも」
「貴様、医者だと?」
頷くと、左近は急に真剣な顔付きになり、ナナリーの肩を掴むと大きく揺すった。
「あんたそれ本当かよ?!三成様!もう問答してる暇ないですって!すぐ行きましょう!」
そう言うと、ナナリーの腕を掴み、左近は廊下をばたばたと駆けて行く。三成は半兵衛に一礼しその後を追った。
大谷吉継が療養しているのは自室であったが、彼の部屋は城の屋敷内の部屋ではなく、一戸の小さな庵だった。三人は、質素な庭へ続く石畳に砂利を跳ね上げ、部屋へ上がると、そこには包帯を体に巻きつけた一人の男が床に横になっていた。傍らには女中が一人ぽつねんと何も手を打てぬままに座っている。
来る途中、左近よりらい病だと聞かされてはいたが、部屋を満たす苦しい息遣いに、ナナリーはそれ由来のものとは思えなかった。まず咳がひどい。
刑部さん…と呟いた左近は、力なく臥せる吉継を目にして到着前の気概がすっかり抜けていた。三成は枕元に座り込んだ。
「刑部!貴様何をしている!」
包帯の隙間から、淀んだ瞳が覗いた。顔に巻かれた包帯で、表情は分からぬものの、その布が作る皺はしがみつき、もがく様を表しているようだ。吉継は一度大きく息を吸った。
「おお、三成か、主は奉行所では…なかったか」
「先ほど登城したのだ。どうある?今ここに外つ国の医者が居る。診てくれる!」
ナナリーはぐいと三成に引っ張られ、吉継に顔を見せた。余程辛いのだろう。頭を動かすのがやっとである。何がどうしてこんなに重い症状なのか、ナナリーは女中に詳しく吉継の様子を聞いた。風邪で寝込んだのが三日前、発熱と、咳が止まらなかったらしい。大変苦しいのだという。
ナナリーは失礼しますと、吉継の布団を剥ぎ衿を開くとゆっくりと包帯を取った。皮膚には斑な痕が多くあるも、肋骨から胸の辺りを触ってその上下を見た。
「石田様、薬屋さんに乾燥させた南天の実があると思いますので、貰って下さい。それで恐らくは苦しくはなくなると思います」
「本当だな」
「はい」
ナナリーの返事を聞いた左近は、すぐさま庵を飛び出して行った。それから女中に湯と手ぬぐいと持ってこさせ、ナナリーは吉継の体を拭い、温石を用意して貰った。左近がお使いから戻り、処置をする間も、心配症な三成は何度も吉継を「刑部!刑部!」と呼ぶので、薬を飲み症状が和らいだ吉継は三成に煩いと外へ出るよう言った。
包帯を取り替え、体を温め、布団をかぶった吉継はほっと一息つけた様子だった。ナナリーが来た時よりも、随分呼吸も落ち着いていた。
水差しに手を伸ばした吉継に代わってナナリーが取り、起き上がる吉継を支えた。
「すまぬな。見ず知らずの、しかも南蛮人に病を診てもらうとは思っても見なんだ。礼を言う」
「いいえ、これでも医者の端くれですので」
一口飲んだ後、吉継は暫く床に入らず起き上がっていた。横になるようにと告げようとしたナナリーは、包帯と包帯の影から己へ向けられる吉継の視線がやけに恐ろしく感じた。狭い視界の分、相手の心奥深くまで見透かしてしまうような眼差しだ。どうかしましたかとナナリーは目を逸らしながら尋ねた。
「何、主の心ここにあらずと、思ったまで」
「え?」
「いや、何も言うまい。ほれ、太閤殿に呼ばれているのだろう。待たせてはなるまい。じき我の医者も来る」
さあ、行け。そう言った吉継を、ナナリーは少し不気味な人だと感じながらも、残りの薬の飲み方を伝えて、庵を出た。出ると、そこには島左近一人だけだった。三成は何処にも居なかった。
「島様、石田様は」
「三成様は、ちょっと先に呼ばれちゃってさ。きっとあんたのお父上も秀吉様や半兵衛様と一緒の席に居るんじゃないかな。てか刑部さん、もう大丈夫なのか」
左近は下を向き、石ころをぽんと蹴った。目で追うも砂利に紛れて見分けがつかなくなった。
「落ち着きましたよ。薬屋さんの薬はとても良い物でした」
「そっか。そりゃよかった」
「私も父のところへ急がないと」
「ああ、それは大丈夫大丈夫。ナナリーさんは許し貰ってっから。まあ庭でも眺めつつゆっくり広間まで行けばいい」
ナナリーが怪訝そうに左近を見るので、左近は「本当だって本当!」と言うと、庵を離れ始めた。ナナリーもこの広い城を一人動くのは無理だ。左近の後ろを付いていくほか無い。
左近は、大きな池のある庭にナナリーを連れてきた。大層肥えた鯉が口を開けて餌を強請っている。池の周りに滲み出た水が流れ着く先には、水を求めたのか、そこばかり野草の緑が濃い色をしていた。
左近は、港で会った時の騒がしさは何処へやらで、随分静かだ。池の淵にしゃがみ、ぼんやりと水面を眺めている。ポチャンと鯉が跳ねると「ところでさ」と左近は口を開いた。
「あんた、医者って言ったけどさ、治せない病ってあるの」
「それは、その方を診てみないことにはなんとも」
神妙な面持ちでナナリーに問うので、ナナリーは逆に質問した。
「どなたか、親しい方がご病気ですか」
「いーや。ただ聞いてみただけ。聞いてみただけだ」
そう言うと、左近は近くの雑草を引っこ抜いて池へ投げた。勘違いした鯉は、あるかも分からぬ餌を探し、しばらく必死になって水面に食らい続けていた。