欧州使節団06
近頃、欧州各国から出港した船舶遭難が相次いでいるという噂は、市民単位まで街のあちこちに広まっていた。ゴシップ紙が大げさに記事にするので、飲み屋では噂が大きくなり尾ひれが付き放題で、貿易商は商売あがったりであった。
大航海時代が幕を開けて以降、交易の波はヨーロッパ内に留まらず、各国の商人は輸出、事業を拡大していたが、商品が無事に売買されず、こうも損害ばかりが伴うと次第に商人たちへの風当たりは厳しいものとなり、信用に障って投資家も見放し始めていた。
そんな商人たちの嘆きと、対外交易に危機感を覚えた各国は、近年布教活動を精力的に行っているイエズス会の協力を得て、航路調査を兼ねた使節団を東方へ派遣することに決定したのだった。調査船はスペインが調達することとなり、食料をポルトガルが、装備品や酒などをイギリスがというように、各国、この機に対外政策を有利に進めるべく、利権を逃すまいとこぞって協力したのである。
船には、航海術に長けた船員の他に、測量技術を持つ者、商人はもちろんのこと宣教団や社会学者なども乗り込み、東方諸国の実態調査も行われることとなっていた。
スペイン船はイサベル号といい、かの英雄コロンブスを大海へ導いた王女イサベルの名を付けられた栄光輝かしい船である。欧州の英知を結集し、詰め込んだ船は、各国の名誉と利益をかけ、一路、極東の日本、その中でも最近物流の中心である大阪、堺を目指し帆を張ったのだった。
出港し最初の寄港はゴアだった。
その際、イギリス東インド会社の商船が二度にわたって難破し、乗組員も行方が分からぬという情報を受け、海域航行時はくれぐれも気をつけるようにと忠告を受けていた。それはなにも、不明船体の残骸などに気をつけよということばかりでは無く、イサベル号自身も魔の海域に注意せよとのことだ。どうも、東方へ抜ける海域には、西洋船乗りたちにとって妙な風が吹いているらしく、魔の海域などと呼ばれ始めたのは最近のことである。
ゴアでの忠告を念頭に置いたイサベル号船長は、昼夜問わず細心の注意を払っていた。それが功を奏したと言ってよいのか、順調に船を進めていくと、一隻の大型商船を発見したのだ。ところが、船の航行が異様に蛇行し、妙な動きであった為、イサベル号の乗組員はすぐさま船を寄せた。が、船長はその船名に驚いていた。何ヶ月も前に行方不明となっていた、アリシア号だったからだ。
船長はイサベル号の船員にアリシア号の船内を捜索させて驚いた。
船内には、ぐったりと何十人もの人が今にも死にそうな表情で、生気無く蹲っていたのだ。イサベル号船長は、すぐに人々をこちらの船に移し、水や食事など取らせた。話をきくと、彼らはユーフェミア号の船員であり、突風に煽られ操舵が利かなくなり、さらには、アリシア号と衝突し、乗っていたユーフェミア号は地没してしまった為、アリシア号に乗り移ったというではないか。
危機的状況に、アリシア号が現れなければ、この船員達も海の藻屑と化していただろう。とにかく、この調査船の目的を告げ、ユーフェミア号の乗組員にも航海を共にしてもらうことにしたのだった。
幸いにも、アリシア号の積荷は無事であったようで、ユーフェミア号の船員が生きながらえたのはそのお陰だという。それにしても、元々のアリシア号の船員たちは一体どこに消えてしまったのだろうか。それは不思議だったが、とにかくアリシア号の積荷を移し、イサベル号一隻に集約して、日本を目指すことにした。
船長の判断は賢明だったと言えよう。この時期は海水温の上昇で、大きな嵐が巻き起こる季節だ。イサベル号、アリシア号の二隻で日本を目指していれば、ユーフェミア号の二の舞に他ならない。
そして、無事イサベル号は日本近海まで到着したのだが、堺に入る前にもう一波乱起こった。ユーフェミア号の船員が幾人か体調不良を起こし、船内の治療薬はほぼ使い果たしていた為、堺の港を前に航路を変更し、手前の土佐係留地を目指したのだった。ところが大型商船は浅瀬では海岸まで乗り入れられ無い為、こうして小舟を渡したのである。
ナナリーの通訳を借り、イサベル号の船長は一通り話を終えた。
浦戸城二の丸大広間には、イサベル号から船長、宣教団、そしてユーフェミア号船長以下乗組員の面々が、四国の長元親の前にひれ伏している。
船上の苦難は元親も十分に経験があることだった。話を聞き、それは難儀なことだったな…。と命がけで日本までやってきた異国の彼らを称え身を案じた。側で共に話しを聞いていた浦戸城の兵士らも、感情の高ぶりを抑えられず、なんて悲惨で壮絶な航海だったんだと鼻をすすっている。
ナナリーの父親をはじめ、体調不良を起こした船員たちは、先ほど城の一室に運び込まれナナリーが処置を施した。幸い、黒死病では無くただの疲労と栄養失調で一安心である。暫く十分な休息をとればじき回復するだろう。
元親は、船の乗組員諸共、四国に歓迎すると彼らを城へ招きしばしゆっくり陸で過ごせと広間を貸すことにした。これに親泰は猛反対していたが、隼人は乗組員と、ナナリーの恩人である元親には余計な手出しはしないだろうと親泰をなだめた。
海を愛す者同士気が合うのか、長宗我部の兵士とイサベル号の乗組員は、連日釣りに出かけ、夜は広間で宴会と言葉が分かるわけでもないのに何か通じるものがあるらしい。ナナリーの通訳がなくとも、身振り手振りで意思の疎通を図っている。英語で挨拶を覚える兵も出始めた。
幾日か賑やかな日が続いた三日月の晩だ。夜風に虫の音が乗り、かすかに障子戸を叩いた。返事をして開けると父親が起き上がっていた。ナナリーはとっさに抱きついた。
「お父様、もう大丈夫ですか?よかった、本当によかった」
「ナナリー、どれほど心配だったか。お互い生きて何よりだ」
共に濡れ縁に腰掛け、ナナリーは肩にはんてんを掛けてやった。瞬く空を見上げると、父親はいいところだなとため息をついた。
「素晴らしいところだ。長閑で、人々も親切で温かい。正直、異国の地で生き延びられるとは思っても見なかった」
「私もそうです。ユーフェミア号から流されて気がつけば、この地に。最初は絶望しかありませんでしたが。私も元、いえ、ミスター元親に助けられて…。彼は命の恩人です…」
二人が話していると、女中が一人通りかかった。また戻ってきたかと思うと、茶を出してくれた。礼を言う間もなく、女中は恥ずかしそうにまたすぐ廚へ戻っていった。
「お父様、これからどうされますか。使節団と共に堺へ参るのですか」
「ううむ…。私も考えていた。正直を言えば、私は平戸へ向かいたい。幸い、アリシア号の積荷は無事だ。一回分の輸出になってしまったが、それらを持って平戸の仲買と交渉しようかとも思っているんだ」
食料品以外の輸出品は、全て出港時のまま無事であるから平戸で再度商売をしようという父親の考えだ。商魂たくましいとはこのことだろうか。父親は根っからの商売人だ。
「しかし実はな、商品の買い手は大阪にいるのだと以前仲買人から聞いたことがあるんだ。イサベル号で堺まで行き、大阪で直接交渉しようかとも考えている。二度の難破で予定より遅れてしまったからな」
ナナリーは頷いた。わざわざ四国から遠い平戸で取引をするより、買い手が近い場所に居るなら、直接取引をした方が合理的である。
「それが一番早いですね。ところでイサベル号の逗留はどのくらいなのですか」
「日本には三年と聞いている。さすがに、その帰りまで待つにはいかないな。実はマレーシアに寄港した際、ラブレー公に船の手配を頼めないかと手紙を書いてきた。彼なら、力になってくれるだろうと思ってな」
「ラブレー公に…。そう、ですか」
「なんだ、そんなに恥ずかしがることもあるまい」
父親は笑って、茶を一口飲んだ。
病み上がりであまり夜風に当たるのはよくないと、ナナリーは父親を部屋に帰した。その足で、他の船員が休んでいる大部屋に様子を見に行った。皆ほぼ普通に食事を取れるまで回復している。もうじき船に乗れるまでにはなるだろう。寝付く船員の脈など取って、ナナリーは記録した。
ライト親子の監視を命じていた女中の報告を受け、親泰は激しく憤っていた。報告により、疑念は決定的なものとなったからだ。
いかにも元親に説教を食らわせたい。自室を出て、廊下を鳴らし元親の部屋へ向かった。主の部屋に行けば、灯りが点っていない。離れか。そう思い竹林の暗闇を通り過ぎ、小屋の梯子を下りた。そこには福留隼人と元親が大きな机に四国の地形図を広げ、戦略を練っている最中であった。
「兄上!あんたは馬鹿でお人好しでどうしようも無い馬鹿兄貴だ!」
怒鳴り込んで来る親泰はお見通しだったと言わんばかりにため息をついた。「よう、馬鹿が二回はちいと言い過ぎやしねえか」といつものように返事をしている。親泰の正面には福留隼人がいる。苦笑するばかりで元親には何も言わない。持っていた駒を親泰に投げると、親泰にも戦略案を述べてくれと言った。
なにを暢気に案を述べる暇などあろうか。元親と隼人の余裕は見るに堪えない。出来ることなら、ライト親子共々今すぐにでも斬首に処したい構えだ。恩を仇で返すとはまさにこの親子のことである。「少しは落ち着け、親泰」元親は松明の明かりの反射する懐中時計を愛おしそうに手に取っていた。
中村城攻略の際、久々に主従三人で杯を交わした親泰は、獅子屋の言葉と、隼人の報告にひとつの疑念が沸き起こっていた。これには元親も、もしやと同じ考えが過ぎったので、急くように「おい、その平戸着の貿易商船の詳細は分かるか」と隼人に尋ねたのだ。
豊臣軍が明智光秀を討つ際、兵の編成に滞りがあったのは、武器の調達が成らなかった為、つまりそれは平戸に商船が到着せず鉄砲が手に入らなかったのが理由だ。
平戸に来る外国の商船は多数ある。それが必ずしもナナリーの乗っていた船であるとは限らない。それでも、元親は万一の場合を考えた。
隼人の報告通り、豊臣が四国侵攻を目論んでいるとすれば、その際相手方は確実に万全の状態で挑んでくるはずである。家ひとつではなく国を相手取るのだからなおの事、兵も、武器も、明智光秀の時と同じ轍は踏まぬだろう。兵と同じだけ鉄砲を用意し、十分に訓練させた軍を送り込む。竹中半兵衛とは緻密に智略を駆使し二度と同じ過ちはせぬ男だ。
奇しくも中村城攻略中、一条兼定と共にナナリーは居た。その時元親は、覚悟を決めたのだ。ナナリーは何も知らない。四国から離れる時、いかなる思いも残すこと無く、すぐに脱出あるいは渡航できるようにせねばならない。いや、元親がそれを望んでいた。
福留隼人は元親の事を優しいと言うが、それは我が儘にに他ならなかった。ナナリーが四国の地で獅子屋からの連絡を待つ間、仮に豊臣の侵攻があったとして、混沌と狂乱の渦中に身を置かせたくはなかったし、元親自身も、ナナリーが全てを知り悲しむ顔を見たくは無かった。出来ることなら、何もしらず、分からぬままに離れることを望んだ。異国の客人は、元親にとって次第に客人では無くなっていたのだ。
親泰が、それに気づくのはいつの頃だったか、ただ互いの距離が少々近いとは常々感じていた。海岸で、城で、地下室で…。見受けた印象は気のせいなどでは無かった。主の思いは尊重したいが、それは傾国というものだ。親泰は腹が立っていた。
「二人とも、いい加減にしてください。今、ここで、あのすぺいん船の積荷を押収すれば、四国の窮地は免れます。隼人が以前言っていたように、平戸到着が遅れていた貿易商船とは間違いなくナナリー殿、そしてお父上だ。女中の報告ではっきりしました。大阪の買い手とは間違いなく豊臣ですよ?!ナナリー殿のお父上は平戸で豊臣に鉄砲を売っている武器商人です!ここで止めれば、豊臣の戦力を削れます!」
捲し立てる親泰に、隼人は静かに視線を向けた。
「もう、決まったことだ。ナナリー殿も、我が長宗我部の兵士らも、イサベル号の者も皆、何も知らぬままだ。それが最良の選択だ」
「隼人のきれい事は僕は聞きたくない。折角、四国を平定した。民も兵も皆これからの長宗我部に期待している。それなのに、兄上の我が儘でこの地を豊臣に荒らされるなんて真っ平ご免です!」
それまで黙って地形図に駒を並べていた元親は、前屈みになっていた体をゆっくり起こした。親泰に振り向き、ため息をついてふっと笑った後、突然親泰を柱に押しつけた。さすがの親泰も反応が遅れ、一瞬にして背に激痛が走っていた。元親は太い腕を親泰の首元に押しつけている。隼人はただ兄弟を見守ることしか出来なかった。松明の火は揺れ、ぱらぱらと煤が地に落ちた。元親が親泰を見遣る隻眼は、国主でも、主でもなかった。
「いいか、親泰。西海の鬼長宗我部元親を見くびんじゃねえぞ。豊臣軍なんぞに、四国の地が蹂躙されるわけねえだろう!いいか!もう一度同じ事を口にしたら、お前は二度と前線には立つな!!」
元親の激怒を親泰は随分久々に見た。いつも何事があっても笑って吹き飛ばす元親だ。つばを飛ばすほど怒号するのはいつ以来か。親泰がまだ元親の後を付いて遊ぶ子供の頃、一人川遊びをして溺れた時以来だろうか。含まれた悲痛は兄の情だった。親泰は悔しさと恥ずかしさとが渦巻いていた。元親にとって、隼人や親泰は最後の砦だ。ようやく、頭に昇っていた血の巡る音が、己自身に聞こえはじめた。
「申し訳、ありません兄上…」
「分かればいい。俺はお前らも、野郎どもも皆信じてる。元々、武器調達が遅れても、豊臣はすぐ次策を立てて戦力を全て投入してくる腹に決まってる。だが、まあ、俺は…」
元親が言葉を続けようとすると、親泰は先ほど隼人から受け取った駒を地図の上に叩き付けるように置き、声を張り上げた。
「まずは!この峠の北東に兄上のからくりを。敵を十分に足止めする必要がありますから」
親泰の言葉に、元親も隼人も頷き、三人は夜の明けるまで地図に駒を動かしていた。
ひとしきり戦略を練り、今後の方針など議論した後小屋を出れば、既に陽は昇りはじめていた。先ほどまで目が冴えて居た元親だったが、明け方の淡い空は妙に眠気を誘う。腹心二人と別れた後、顔を洗うために一人井戸へ向かった。
目指していると、桶に水を注ぐ音が聞こえた。女中達が早々と洗濯をはじめているようだ。そう思い角を曲がれば井戸に居たのはナナリーだった。
傍らの桶には、たくさんの手ぬぐいが入っている。船員たちの額に当てていたものだ。人の気配に気づき、振り向いたナナリーは元親と視線が通った。
しばし、互いに動きが止まった。朝靄は薄く漂い、それに反射した陽光が元親にもナナリーにも続いていた。二人きりとなるのは、中村城の一件以来なかった。ナナリーが避けていたのか、元親が敢えて近づかなかったか、あるいはその両方かは分からない。鳥のさえずりに互いに我に返り、早朝の冷たさを含んだ風が緩くなびいた。
先に、声を発したのはナナリーだった。
「元親、井戸をつかいますか?」
「あ、ああ。すまねえな。邪魔して」
元親は滑車に張られた縄を引いて、水をくみ上げた。ナナリーに背を向け眼帯を外すと両手で水を掬った。手ぬぐいを絞る音はまだ続いている。元親は顔を洗った。
「元親」
弾く水音の中に、か細いながら澄んだ声は良く通った。久々に名を呼ばれ、気を取られ、井戸の縁に置いた眼帯のことなどすっかり忘れていた。元親は濡れたまま顔を上げると、目の前には手ぬぐいが差し出されていた。
「どうぞ、使ってください」
それから、とナナリーは俯き、前掛けを弄りながら続けた。垂れた襷がかすかに震えた。
「お礼を、言わないと、と、ずっと思って居たのですが。なかなかきっかけがなくて、その、それで…」
そう言うと、突然ごめんなさいと言って、蹲り泣き出した。慌てて元親は側に寄るが、肩に触れてよいものかと戸惑っていた。嗚咽は益々大きくなった。
「お、おい。一体、どうしたって…」
「私、元親のことを怖いと思ってしまいました。あの時本当に元親が怖かった。全然知らない人みたいで。助けて貰ったのに。頭では分かっているつもりでした。でも、」
元親は隣にしゃがむとたまらず体を引き寄せていた。華奢な肩はいまだに震えていたが、構わず腕に力を入れた。
「大変な思いさせちまって済まなかった。だが、もう、そんな怖い思いもせずに済む。親父さんも無事でよかったじゃねえか。一緒に国へ帰れるんだ」
「元親…」
「ほら、朝から泣いてっと、親父さんや皆に心配されんぞ。手ぬぐい絞るの手伝ってやるから。乗組員の診察もあんだろ?」
瞼に指を這わし元親は涙を拭った。ナナリーはこくりと頷いた。その後、二人で全ての手ぬぐいを絞った。意外と暇が掛かったのはナナリーが一枚ずつ丁寧に皺を伸ばしていたからだ。全てを終え、ナナリーはお辞儀をすると、桶を持って船員のもとへ向かっていった。
元親はその背が見えなくなるまで暫く井戸に居た。囲った積石の間には苔が繁茂し、ぽたぽたと滴が落ちている。その先は少し窪んでいたが、穿つまでにはまだまだ時が入るほどの浅さだ。元親は堪らず桶の水を頭から勢いよくかぶった。
晴れて、イサベル号の船員たちは全快した。
浦戸城滞在中は、船員と兵士は打ち解けてすっかり仲間意識も生まれている様子だ。そしていよいよ、別れの時がやってきた。イサベル号は堺の港へ向けて出港するのである。
浦戸の海岸には、長宗我部の面々と、近所の漁民とが見送りに来ていた。もちろん元親、親泰、隼人もその輪に居る。堺まではすぐで五日もすれば到着するが、少しの食料や水を持たせてやった。今野郎どもは船員たちと共に、沖合に停泊中のイサベル号に物資を積み込んでいる。その様子を見守っていると、イサベル号の船長と、ユーフェミア号の船長、そしてナナリーと父親が元親の元へやってきた。
ハットを取って、ナナリーの父親は元親にお辞儀をした。
「ミスター元親、娘と、そして私をはじめ船員達を助けて頂き、本当にありがとうございました。感謝の言葉もございません。これで無事に商売もできるというもの」
元親の側に居た親泰は歯を食いしばっていた。ふるふると肩が震えるのを、隼人が必死に抑えている。地下室で親泰は戦術案の啖呵を切ったが、それでも不安が拭えない。
皆何も知らない。知らなくて良いのだ。
元親は「いいってことよ。元気になって何よりだ」とナナリーの父親と互いに手を握った。
海岸には、イサベル号の小舟を係留させている。積荷の搬入が全て終わったと、浦戸の兵が知らせに来た。
ナナリーは、父親と同じように元親に小さな手を差し出した。幾らも背の高い元親は屈んでナナリーに視線を合わすと、初めて会った時と同じく、頭に手をぽんと乗せ、にかっと笑った。
「もう、会うこともねえだろうが、そのなんだ。色々と楽しかったぜ」
「元親…。私も、楽しかった。皆さんも、本当に、本当にありがとうございました」
ナナリーは零れそうになる涙を必死に堪えて俯いたが手遅れで、気づいた元親は「なんだあ。また泣くのか」と笑いながら頬に手を伸ばした。本当にこれで最後である。すると、元親は、忘れるところだったと、ナナリーに懐中時計を手渡した。
「危ねえ危ねえ。これ、ありがとな。珍しいもん見せて貰った」
「元親、もしかして、時計できたのですか?」
「いいや、まだ完成はしてねえけどよ」
「元親が持っていて下さい。助けて頂いたお礼です」
ナナリーは元親から受け取った懐中時計を押し返したが、元親は受け取らなかった。
「何言ってんだ。友達から貰ったもんなんだろ。大事に取っときな」
そう押し問答をしていると、兵が「アニキー!最後の一艘出します!」と声を上げている。元親は、ナナリーに早く船に乗るよう、背を押した。
「ほら、置いて行かれちまうぜ」
ナナリーは兵と、父親とに急かされつつも、元親に別れのハグをした。元親、ありがとう。今日までのことは一生忘れません。
最後の一艘が、沖合の帆船に向かって漕がれていく。波は穏やかだった。白波も立つこと無く、堺までの航行は順調であるだろう。
遠く、小さくなっていくイサベル号を、元親は見えなくなるまで見送っていた。
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堺の町は、信長が存命の時には既に、日本の商業の中心となっていて、日本のあちこちから、食料品、小間物、調度品など、口に入れる物から棺桶まで、人が住み生活する全ての物資が揃うほど、様々な物で溢れかえり、多くの商人で賑わっていた。
次第に、堺の町で財を成した商人たちには、それら売買を取り仕切る者も出てくるようになり、これが後の会合衆であり、多くの外国商船の出入りなども監視・監理し、不正や悪質な取引などを取り締まる堺政所となるのである。
今日も今日とて、主君豊臣秀吉からその役を仰せつかる石田三成は、船舶の乗り入れの帳簿と上からの通達とを見比べ、船内検査の予定を立てていた。
近頃は、ザビー教などという、得体の知れない宗教を広めるために宣教者どもがこの堺の町を闊歩している。不逞の輩を取り締まるのが三成の役目である。
三成があまり南蛮人は好きでは無いと零せば、秀吉は、「下見をせねば、日の本を侵略すらできぬ奴らよ」と冗談を言って笑い飛ばしていたが、三成には次第にそれが誠のように思え、通りを歩く南蛮人を見れば皆、侵略者であるかの様に思えてしまうので、すべて残滅させたいが堪えている。
時勢は大きく変わりつつあった。信長は謀反した光秀に討たれた。それを主秀吉が成敗した。時の流れを掌握しているのは現在秀吉なのだ。そのもとで働く三成は己を誇りに思って居る。だが、少々職場環境を整えたい所存ではあった。
港に近いこの奉行所は、宿場が近いために多くの異国人で雑踏が日夜耐えない非常にやかましい場所だ。仕事であるとはいえ、三成はもう少し静かなところに身を置きたいのである。外も騒がしいのに、更に隣の島左近に至っては、口を閉じるという事をまるで知らぬようで、針子を雇いたいほどだ。
先ほどまで、政務を大人しくやっていたかと思いきや、いきなり外に出て行って「三成様ー!船!船!来ましたよ!でっけえ南蛮船!」と駆け込んできた。そう騒がずとも、三成の座敷からは、港が一望できるのだ。
戸を開け眺めると、沖合から大きな帆船が帆を畳み入港していた。ふと空をみあげると、朝方は快晴だったが、次第に曇り始めている。これはひと嵐来そうな気配である。積荷が吹き飛ばされぬよう、ようく商人どもに言い聞かせねばならないとため息をついた。仕事が増えた。
なおも、左近は「三成様!お早く!」と下から叫んでいる。まったく騒がしいことこの上ない。「わかっている!」と、童を叱りつけるように声を発した三成は腰を上げた。