墜ちゆく05
嬌声交わる閨の中、すだれ一枚隔てた廊下に一条家重臣、土居宗珊はひれ伏していた。まだ世間は、初夏陽光が煌びやかに、青々とした萌木をさんさんと照らす時分であるが、主、一条兼定に至っては時節などもはや関係ない。
本日も、農家からの年貢、商家からの貢ぎものなどを報告し、政の運びに伺いを立てるべく奥へ訪れたが、相変わらず兼定は良きに計らえとしか言わない。毎日この報告も意味があるのか、宗珊は頭を抱えていた。いや、近頃は下位の家臣からの圧力も酷く、板挟み状態であり、もはや抱える頭の重さでは無くなっていると言ってもいい。
「参った。これでは領民のくすぶりも今に火種では収まらぬ」
報告を終え、宗珊は自室へむかった。山積するは、兼定へ奉公させる娘たちの推薦状である。主兼定の色欲はもうそれは、領内のみならず、他国へも知れ渡っていて、かの大友宗麟の娘御が傾国せしめん美女と聞けば兼定は所望し、易々と一条領地を大友へ献上してしまうほどだった。それ以来、公家一条という懐を狙って、ご自慢の娘を兼定へ差し出す者が後を絶たない。
世も末とはこのことだ。本来なら、召し抱える娘の選別など、奥が取り仕切ればよいものを、彼女たちもまた兼定を囲んで豪遊三昧であるから、たまった物ではない。財政の歳出は多く、絢爛な衣装調度品など、資金調達には具足を売れとまで言われる始末だ。もはやある種のヒエラルキーは、かつての武臣より、いかに兼定を悦ばせるかと言った伽衆の方が力を持っていた。
先代の事を思い出しては、宗珊は目の前が滲み、うっと声に詰まってしまう。兼定の父房基は大変な智略を持ち合わせ、政事に長けていたからだなおの事だ。
いまや、四国の情勢も大きく代わってしまった。安芸国虎、本山茂辰と、四国の地に名を轟かせていた有力大名は、長宗我部元親の手の内に落ちている。長宗我部のやり口は、だらだらと血を流させる戦では無く、家臣の足下を掬う形でいつも決着が付いていた。これ以上家臣らの信頼を失ってしまえば、いくら中央に名を連ねる一条家といえども、長宗我部元親を前にすれば、今の軍備ではひとたまりも無い。蔵や備品庫を覗いても非常に心許ない装備だった。
勤めをしていると、部屋に奥女中がやってきて、再度兼定のもとへ出向くようにと言づてをしにきた。今度はまた何用だろうか。一時に済ませてくれれば良い物を、そうため息をつき立ち上がった。
また奥へ出向いた宗珊だったが、今度は閨ではなく、兼定の自室であった。主は上座につき肘掛けにだらしなく体を預けている。黙っていれば、大変清廉で、聡明そうな男の子に見える。これでも今年でようよう二十を過ぎた頃だ。毎日欲に任せて過ごすので、すこぶる血色が良い。いかが、なさいましたかと問えば、兼定は釣りに出かけようと宗珊を誘った。
「釣りに?でございまするか?」
「そうだ。用意せよ。女子は連れては行かぬ故、ようく申しつけよ」
「はぁ、連れて行かれぬと、それはまこと…」
「はよう馬をもて」
兼定に従い、宗珊は竿や魚籠、餌を用意して四万十川の注ぐ海浜へとやってきた。この時期、初夏に入った日中は暑さもあってか漁民もそうそう浜へ出て、陽の下で勤めはしない。海女などは素潜りをするが、たいてい陽の落ちる頃にその日の晩飯を調達するくらいだ。
急に釣りをしたいなどと、一体どういった風の吹き回しだと、宗珊が考えあぐねていると、その答えは主に聞かずとも自ずと出た。浜に、一人の女がいた。やはり腐っても兼定であった。
「兼定様、一応お聞きしてもよろしゅうございますか」
「なんだ」
「釣りと申されましたな。こちらの浜よりも、あちらの岩礁辺りが穴場と聞いております」
「ほう、そうか、我にはこの辺りが大変よい漁場ときいておるが。いつだったか、潮干狩りの長宗我部を見かけたことがあっただろう」
「はあ、それまた随分前のことで」
「その時、珍しい魚が共におるのを見つけてな」
宗珊は、我が耳を疑った。主兼定は、あろうことか長宗我部家の人間に目をつけたのである。これは非常にまずい。誰彼構わず、気に入った女を御殿に連れ込むのは兼定の悪い癖だ。仮に今ここで、波打ち際で仕事をする女中を連れ帰ったことが長宗我部に知れたらと思うと、宗珊は生きた心地がしなかった。今の長宗我部を相手に指揮するのは兼定には到底無理な話だ。中村を責められれば、恐らく主は大友息女同様、女と引き替えに易々領地を明け渡してしまうに違いない。
宗珊は必死だった。
「主、今生最後の土居家の願いとしてお聞き入れ下され。長宗我部に縁のある人間など、囲ってはなりませぬ」
「なに、女中の一人、あの鬼にとってはどうでもよかろう。ほれみよ。あの濡れた美しい御御足を。艶めかしゅうのう。のう?宗珊」
「兼定様、どうか、ご乱心召されるな。あれに手を出せばただではすみませぬ。領地に差し障りがあればいかがなさいます!」
宗珊の制止を振りほどき、兼定は浜を掛け、その女に近づいた。浜で、にな貝とりに精を出しているのは、ナナリー・ライトである。
着物の袂から伸びる足に兼定は釘付けになっていた。たすきをかけ、捲り上げた袖から見える二の腕にも大層触れたい。
そんな妄想を浮かべながら浜を踏んでいると、声を掛ける前にナナリーが兼定に気づき、領民かと思ったナナリーは愛想良く会釈をした。品のあって、かわいげがある。閨で喘ぐ金目当ての女よりも、純潔であり、容姿が日の本の人間でないことに、兼定は益々興奮した。
「お主、この辺りの者か」
「はい、お侍様は…どちらの?」
ナナリーは怪訝に思い、一歩後ずさった。すると、兼定も一歩前へ出る。
「そなた、日の本の民ではあるまい?何故この地におるのか、その話を是非、我兼定に伽を聞かせてはくれぬか?そなたを屋敷に招待したいのだが。どうだ?」
フランス人など、よく社交場でこのような文句を垂れるが、日本に来てから男性に誘い文句を貰うとは思ってもおらず、可笑しくなってくすりと笑ってしまった。
兼定はまたもどうだ?と言う。ナナリーは、今は仕事中ですからとあしらって、その場から離れようとした。
すると、兼定はナナリーの腕を取って、羽交い締めにし、口に布を噛ませ、馬にほいと乗せてしまった。慌てたナナリーはじたばたと馬上で暴れるも、兼定に押さえつけられて逃げられない。とっさのことに頭も混乱していた。
ナナリーと兼定を乗せた馬はあっという間に山道を進み中村への帰路を辿った。
宗珊も突然の成り行きに唖然とし、慌てて主の後を追いかけた。宗珊は、棺桶に片足を突っ込んでいる気分だった。兼定の行動は完璧な拉致である。女中が帰らぬと知れれば、長宗我部は良い大義名分だと踏んで、一斉に兵を挙げるに違いない。
宗珊は腹をくくった。中村城へ帰ったならすぐ兵をまとめ、籠城の準備をせねばならぬかと、軍備を考えて胃が痛くなった。
またもや女子を連れ帰った兼定に、門番や使用人達はいつものことだとため息をついたが、追って重臣土居宗珊が血相を掻いて現れたことに焦燥していた。どうなさったのですかと問えば、宗珊は兼定の行いを一部始終話し、すぐ籠城の準備をせよと命じた。これが兵に知らされると城内は大変な騒ぎとなった。堀と城下の架橋を外し、砦に兵を配して、家臣の誰を長宗我部との交渉人とするか頭を悩ませた。
しかしながら、主兼定はそんな城の騒ぎなどお構いなしにナナリーを閨に連れ込んだ。縛られたナナリーは部屋の雰囲気を察し、益々恐ろしくなった。一体この男は何者なのだとそればかりが頭を駆け巡っていた。必死に助けを請いたいが、声が出せない。
兼定は、既に着物を脱ぎ、ふんどし一丁になっていた。大変鼻息を荒くして近づいてくる。ナナリーはずるずると部屋の隅まで身を寄せた。逃げ場が無い。兼定がナナリーの着物に手を掛けた時だった。部屋の外から、土居宗珊がいつにない怒鳴り声で、主兼定を叱り付けんばかりに呼んでいる。さすがに、この怒号には兼定もナナリーも肩を震わせた。部屋からなんだ!と叫び返せば、どうか、外へ出てきて下されと宗珊は言った。
「城の一切はお主に任せている!何かあったならそちらで何とかせい!」
「もう、私では手遅れで御座います!殿、今一度ご自分の目でお確かめ下され。城の外をご覧ください!」
半裸の兼定は、馳走を前に酷く面倒くさそうな表情を携えて、障子戸を大きく開くと廊下へ出た。
欄干に手をつき、眼下に見える軍勢に驚いた。なんたることか、そこには長宗我部の七つかたばみを携えた菖蒲色の旗がさんざひしめき立ち、そしていくつか、己が家臣の旗印も見える。兼定は思わず舌打ちした。寝返ったか馬鹿どもが。それにしても、この女中を連れ帰ってまだ半時も経っていないのに、長宗我部の進軍はあまりにも早すぎる。
兼定はひれ伏す宗珊に問うた。
「おい、宗珊。この長宗我部の軍はなんぞ。我が軍は何をしておる!」
「配備は終わっております。が、相手の出方次第で…」
そんな主従の張り出しでのやりとりを、長宗我部軍は見上げていた。
兵が「中村城が籠城の準備をし始めています!」と叫び知らせた時、元親は、この行軍と潜伏がばれたのかと焦っていた。
親泰、隼人と話し合った結果、土居宗珊の説得は諦め、こちらに寝返った家臣らと共に、直ぐさま城を攻め落とすのが一番良い判断だとの結論に至ったのだ。ところが、城下武家屋敷を回り、支度をさせ、中村本城に来てみればどうだ。籠城し、待ち構えているはずの一条兼定は具足も付けず、あろうことか半裸であるし、長宗我部、元家臣連合軍を見たその驚きようである。一体、元親の行軍がばれていなければ、何故籠城し始めたのか、その訳が分からない。
半裸で出てきた兼定に、親泰は酷く嫌悪を示している。まるで、虫けらを見る目だ。涼しい顔をしてさらに雑言を吐いた。
「一条兼定は私の想像以上の色情魔なのでしょうか。まこと、汚らわしいことありませんね」
土居宗珊が兼定と共に天守にいるのを認めた元親は、親泰に、土居宗珊と面会し開城するよう説得しろと命じた。余計な血は流さないほうが良いからだ。しかし、親泰は大層嫌な顔をしている。それを見かねた隼人が私も行きましょうと言うと、渋々了承し、二人は、土居宗珊の面会を請うた。
天守広間に無事通された二人は、宗珊と面会することが出来た。敢えて、己が行軍には触れず、何故只今籠城しているのかと聞けば、長宗我部領地から、城の女中を一人兼定が見初め連れ帰ってきたというではないか。それが、早速知れれば、予てから四国統一を悲願としている長宗我部は一条に兵を挙げると思い、兵力差を考えた末、籠城せざるを得ないと判断したらしい。
親泰は、女中一人を大義名分に中村へ兵を挙げるとは、それは名案だ。只今からそのようにしますと冗談を言ったが、主元親は無血開城を望んでいるのだ。だから城を明け渡せときちんと伝えた。
しかしながら、宗珊はその気は無いときっぱり言い放った。これでは平行線でらちがあかない。
とにもかくにも、その兼定が見初めたという女中とやらに、親泰は大変嫌な予感がしていた。宗珊に容姿をだいたい聞くと、全く親泰の予想通りであり、もうこれに至っては、進軍やむなしである。
陣に帰り報告すると、元親は思わず床几から腰を落としそうになった。
「はあ!?なんでナナリーが!」
「海岸で潮干狩りの時に一目惚れしたんだそうで、ところで、ナナリー殿をくれてやれば、見事に一条領地は我が長宗我部のものになりそうですよ、殿」
「そ、そりゃあ…だめに決まってんだろうがよ」
では早速進軍しましょう。親泰が一軍率いて今にも突っ込みそうなのを、隼人はそう急くなと、抑えた。親泰は相当兼定が気に入らない様子である。
そんな二人のやりとりを眺めながら、元親は手を組み何やら考えていた。
暫くして、立ち上がると、元親は長宗我部隊だけで進軍すると全軍に伝えた。時間がない。ナナリーは一応は長宗我部の客人であり、既に英本国へも手紙を出して元親も書簡には花押も書いた。
預かりの娘を手込めにされるのは気分が悪い。さらに元親は、ナナリーの置かれた状況の為にも一条兼定は己が斬らねばならないと考えていた。
思い詰めた表情をしていたのか、隼人が元親の側へやってきた。
「元親様、よろしいのですか」
「ああ、もう決めた。兼定を目の前で斬ればナナリーは俺を恐ろしく思うだろうな」
「いいえ、元親様は、やはり優しすぎると思いますよ」
「いいや…。とにかく、時間がねえ。兼定はナナリーと同じ部屋に居ると言ってたか?あんのぼんくら発情しきるまでに間に合えばいいが…」
野郎ども、準備はいいか!元親の号令に、七つかたばみは幾十にも波を打って、城門をこじ開け天守頂上、一条兼定を目指し雄叫びを上げた。
怒号と悲鳴は、ナナリーの居る閨にも聞こえていた。地響きと共にぶわりと地が盛り上がるような振動が床に伝わってくる。兼定の配下、宗珊は長宗我部軍が進軍してきたと行っていた。元親の戦とは、この場所のことだったのか。しかし元親が同じ場所にいる。そう思うだけでも、気を保つことが出来た。だがそれでも、怖いものは怖い。男に犯されそうな恐怖と、戦乱の恐怖が二重にナナリーに押し寄せた。
階下では、金属の弾ける音と絶叫が凄まじく、聞いたことの無い人の死に際の声は、耳を潰されそうな凄惨さだった。手で塞いでも届き、脳にこびりついて残響が痕を残す。この部屋まで血なまぐさい臭いが漂う気すらする。しかし、下階で配下が死合いをしているのに、兼定はなんとも思って居ない様子でナナリーに手を掛けた。兼定の色狂いはもはや理性を持たぬ獣だ。
ナナリーは震えながら元親を思った。だが、この死合いは長宗我部軍によって起こっているのもまた事実だった。元親はこの場にいる、しかし、血なまぐさい騒動の渦中に元親がいるのだ、そう気がついた瞬間、それまでゆるゆるとナナリーに触れていた兼定が突然襟元を開き、ナナリーの肌を露わにしてしまった。声を上げる間もなかった。ぽたりとナナリーの鎖骨にひとしずく鮮血が垂れ、胸までつうっと下がっていた。
覆い被さる兼定は口から吐血し、焦点が合わぬ瞳を散乱させてぱたりと倒れた。その後ろに立っていたのは元親だった。
ナナリーに普段映る元親は、いつも体全体でめい一杯笑う大変気の良い大きな人柄だ。だが、只今見上げる、いやナナリーを見下ろす元親はどうだ。見たことの無い鋭い隻眼から放たれる視線は、獲物を狩るまさしく鬼のようだ。人の生き死にを片手で幾らでも、操作できるのでは無いかと思わせる大きな碇を握り、威圧感に押しつぶされそうである。兼定はこの獲物に命を取られた。碇の鋭い尖端に赤黒い塊が付着している。助けて貰ったのだと頭で理解しようにも、礼などの声も出せず、ナナリーは思わず膝を引き寄せた。元親が恐ろしかった。
元親は兼定の返り血を浴びていた。目の前にしゃがむと、ナナリーに落ちてしまった兼定の血を認め、それを乳房から鎖骨に掛け、手の甲で拭った。手をそっとナナリーの頬に触れようとするも、ナナリーはとっさに顔を逸らした。犯されずに元親が助けてくれたにも関わらず、本能は相反している。はっと己の行動に気づいた時には遅かった。元親は悲しそうに笑ってナナリーの頭に幾度か軽く手を乗せると着物を整えてやった。
「おい!隼人!どこにいる!」
「元親様こちらに」
「兼定はやった。後は頼んだ。ナナリーを、おめえの馬に乗せてやれ」
「承知いたしました」
背を向け早々に閨をあとにする元親に、ナナリーは「もとちか」と名を呟いたが、喧騒に紛れて声は届かず消えた。
ナナリーは福留隼人と会うのは初めてだ。刀を鞘に収めた隼人は、黒い髪は短く、優しそうな青年だ。ぼんやりしていると落ち着き払った声で再度名を呼ばれ、隼人は元親にかわりナナリーを抱きかかえ階下へ向かった。
ナナリーは医者だが、それでも人間だ。病気や多少の怪我は院内での日常茶飯事ではあるが、軍医でないから人間の激しい損傷はこれまであまり目にしたことはない。戦の後とは、色で例えればどす黒い。襖や欄間に部位が刺さっているのも見た。城外へ出るまで目を伏せたままナナリーは一言も発しなかった。
その日、一条兼定は長宗我部元親に討ち取られ、中村城は落城。長宗我部軍の鬨は天高く鳴り響いた。
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鴎のひなが岩から飛び立ち無事海面に着水した。巣に卵があるのを知ってから、幾日かに一度観察していたが、戦で浦戸を離れていたこともあってとんと忘れていた。だが、ようやく産まれた雛は無事巣立ち、己で餌も採れるようになったようだ。鳥の成長とはかくも早いものか。元親は、沿岸の木陰で涼みながらその様子を暫く眺めていた。
四国という土地は日の本全土とすれば小さいが、その土地を巡る戦いは応仁の乱以降公家を中心として長い間行われてきた。家同士の婚姻、裏切りによる策略は幾代にも続き、加えてこの地は古くには流罪地であったから、その名残か、なかなか土地の者は気性の激しく、豪気な連中も多い。故にまとまりが付かなかった。だが一方で、よそから流浪してきたり、戦で土地を追われ、住む国を無くした者を受け入れるには寛大だったこともあり、民は増えた。
そうして、多くの人間を受け入れた土地は、このたび長宗我部元親のものとなった。
先日、長宗我部軍が中村城を落城し、城主一条兼定を討ち取り四国平定を成したとの知らせは、瞬く間に四国全土に、いや、日の本中に知れ渡ることとなった。晴れて元親は、四国の王となったのだ。
とはいえ、元親の一日は変わらない。こうして、暇な時は海浜にやってきては海を眺めたり、からくりいじりに精を出すのだ。親泰や隼人に小言を頂戴しながら執務もきちんとこなす。敢えてひとつ変わったことを上げるなら、只今預かる異国の商人もといナナリーとの友好だろうか。
中村城の一件からそう日は経過していないが、ナナリーは戦の凄惨さを目の当たりにしたせいか、気が落ち込んでいた。加えて強姦未遂や人斬りを一時に味わえば、誰であっても暫くは気は沈む。元親も、初陣の翌日は飯ものどを通らなかったものだ。
そして、ナナリーの目の前で一条兼定を斬ってしまったのは、やはり酷だったかと、今更ながら後悔の念がわき上がりそうだった。だが、彼女を救うにはしようの無いことである。元親は帰城してからナナリーとは、顔を合わせていなかった。先々の事を考えればこれで良かったと言い聞かせている。
さて、これからどうすべきか。四国は統一した。己は国主たる威厳を益々振るわねばならない。今後は豊臣との決戦も控えている。国のために命をかける時である。
元親は、寝転がっていた大きな体躯を起き上がらせて、広大な土佐湾を見つめた。今日も水平線まで見渡せる快晴だ。
すると沖合に見慣れない帆船が停泊していた。やけに、大きな船だが係留先はまだ南であるのに、近海を巡洋して陸地をうかがう様子が見受けられる。なんとなく妙な船だと思った元親は、早速野郎どもに調べさせるべく、浦戸城へと戻った。
元親の帰りを聞きつけ、一番にやってきたのは福留隼人だった。
「元親様、沖合の船舶をお気づきに?」
「ああ、妙だな。でけえ帆船だが…ありゃいったいどこの船だ」
二人は、城の一番見晴らしのよい廊下へ出た。
それぞれ望遠鏡を持って見れば、帆の頂上には黄色地の布に赤い線の入った旗がはためいている。見ない家紋だと思って居ると、廊下を慌てて掛けてくる足音が聞こえた。板が軋み、振り向くとナナリーが複雑な表情を浮かべて立っていた。ナナリーはとっさに張り出しから体を乗り出し、遠くの船にじっと目を凝らした。
「お、おい、ナナリー、あっぶねえだろう!」
「スペイン船だわ…」
「ナナリー殿、今なんと?」
欧州の大国の船です。
顔を合わせていなかったナナリーと元親は一瞬視線が通うも、吹き去った風に長い髪が流れ、視界を遮った。
その後、海岸端に一艘の小舟が着いたと漁民が城へやってきて、元親は親泰、隼人と念のため、通詞に長けるナナリーを連れて浜へ向かった。馬は三頭、ナナリーは隼人と相乗りである。道中、馬上から帆船を眺めると、帆船から更に五艘ほど小舟が桂浜に向かって漕がれていた。スペイン船がこの四国に何の様なのだろうか。旗を見るに、東インド会社のペナントは確認できなかったところからも商船ではなさそうである。
到着すると、近所に住む者が騒ぎを聞きつけ、小舟が着岸した場所に輪を成し野次馬となっていた。元親が現れると、漁民は道を作った。人垣が裂けたところから、小舟に乗っていた人間が確認できた。船から浜へ上がったのは、背の高い、黒い修道服を着た宣教師だ。ナナリーはイエズス会だと分かり、話しかけようとしたが、さらに小舟に横になる、病人らしき人物を見て思わず船に駆け寄っていた。
「お父様っ!しっかりしてください!お父様!!」
ナナリーは側に居る宣教師に、畳みかけるように質問をした。一体、何故この地にやってきたのか、ユーフェミア号はどうなったのか。息継ぐ間もない。
その様子を眺めていた長宗我部の面々は言葉が分からぬので、唖然とするばかりだ。恐らくナナリーの知り合いであり、小舟に横たわる人物は大層な病を患っているのではないかという雰囲気を感じ取ることが精一杯である。
やはり遙か西国の地から来た異国人だったのだと、元親はナナリーを遠くから見つめるばかりだった。