個々の立場04
これまで真夜中に目が覚めることなど滅多になかったが、近頃ナナリーは夢見が悪い。
ユーフェミア号の板きれを見てしまったからだろうか。或いは己の置かれている状況を今一度思い出したから、と言った方が的確である。しかし、一人夜盗のように人様の畑から芋を盗んで食していた時よりも、浦戸城に来てからの方が、ナナリーは随分情緒不安定になっている気がしていた。
手紙は獅子屋に預けたし、今は待つしか無いのは理解しているが、何故だか焦る気持ちばかりが大きく落ち着かないのだ。父親と乗組員はきっと無事だ。元親もそう言ってくれている。大丈夫だと幾度も言い聞かせて寝返りを打つ。が、寝付けない。
寝床を這い出たナナリーは部屋を出て濡れ縁に立った。良く晴れた空で、月の明かりに星々は輝きが儚い。大きく深呼吸をすれば、若草の匂いを一気に吸い込んだ。
城は静まりかえると己一人の気さえする。寝付けないのは心細いのだ。
そこに、遠くから物をたたく音がかすかに耳に届いた。かんかんと等間隔に、そして合いの手を入れるようにきんと鳴る。何の音なのか興味がわいた。金属のぶつかる音であるが、それにしても音が細い。ナナリーは、綿入れを羽織り、そっと自室の戸を閉めた。
音を頼りに廊下を二度曲がると、屋敷から人一人分、通れるほどの石畳が続いていた。その先は、鬱蒼と竹林の生い茂る奥へと続いている。雑草除去を仰せつかった際、この先に行くことは無かった。どうするべきか。明らかにこの先から音は響いている。ナナリーは進んだ。
石畳が竹林に入ると、ずっと遠くに提灯の明かりが見え、開けるとそこには藁葺きの小屋が一軒、ひっそりとたたずんでいた。ここはまだ、浦戸城敷地内ではあるが、離れがあったとはつゆ知らず、ナナリーはそっと戸口に立って「こんばんわ」とか細い声で声を掛けた。だが、中から先ほどの細い金属音は聞こえるのに、誰も出てこない。いまだ音が鳴り止まぬところからして、当人は気がつかないのかもしれない。失礼とは思いながらも、ナナリーは好奇心が勝った。そっと戸を開け、中に入ったが誰も居ない。室内は、竈と、上がりの座敷があって自在鉤には鉄瓶が下がっている。が、囲炉裏に火はくべられていない。座敷の隅には行燈が申し訳程度に灯っている。室内の灯りを取ると言うよりは、特定の場所を点すだけの役割であった。
付近をよく見れば、行燈の側の畳が一枚めくれ上がっていた。そっと覗き込むと地下に続く梯子が掛かっている。一瞬戸惑ったが、ナナリーは構わず降りた。
ゆっくりと、足を地に下ろすと、何か工ばのような場所で、長い椅子に長い机が平行して置いてある。上階と同じように、竈があるが、こちらには火がくべてあり、地下だというのに松明が柱にいくつも灯っていて、上の室内よりも明るかった。
机の上には、何か線が沢山書かれた大きな紙が広げてあるのが見える。誰が居るのだろう…そう、気になりつつも、もう帰ろうという気持ちと少しの罪悪感が沸き、梯子に再度足を掛けた時だった。
ナナリーが正面、竈向かって上手の方から、元親が頭を抱え、苦い顔をして出てきたのだ。頭をかきむしって唸っている。ナナリーに気づく様子がない。
「もとちか?」
びくりと肩を震わせた元親は大層驚いてナナリーに振り向いた。慌てて机の上にあった眼帯をひっつかんで付けた。
「なっ!?なんで此処にいるんだ!?」
「勝手に入ってごめんなさい。音が、聞こえたんです。気になって、辿ってきてみたら、その」
「ああ、上、畳かぶせてくるの忘れたなあ…。外まで響いてたか。すまねえ。まあ突っ立ってねえでこっち座れ」
こりゃまた明日親泰にどやされんなあと元親は笑っている。ナナリーは長椅子をまたがって、元親のとなりに腰掛けた。机の上には、大きな紙の他に、きらきらと光る物があった。ナナリーの懐中時計だ。
「元親、もしかして、懐中時計を作ろうとしているのですか?」
「ん?ああ、まあな。これおもしれえな。てんで上手くいかねえったらねえや」
アンから貰った懐中時計は、外装は一枚のガラスで包まれてあるから、もちろん中を取り出すことなど出来はしない。分解もせず、元親は一つ一つ歯車を作ろうとしていた。こんな複雑な仕掛けをどう、理解しようというのか、それほどこの時計は魅力的なものだろうか。確かに、英国でも珍しいガラス張りではあるが、ナナリーにとっては懐中時計は懐中時計だった。それでも元親は何度も歯車を覗いて、紙に線を引いていた。
「所持する私が時計に詳しかったら良かったのですが」
そう言ったナナリーに、一から作るのもまた一興ってな。と元親は笑って少し席を外した後、何か手に携えてやってきた。
時計の歯車である。既に数枚重なっていた。ねじを回すと、寸分の狂い無くかみ合い離れ、動作はナナリーの物と同じである。元親は懐中時計の軸となる部分の歯車を作り上げたのだ。ここから、針ごとの歯車と、時計の文字盤、長針、短針を組み合わせれば時計になる。
「まだまだ、先はなげえな」
元親は、針を作るため、正方形の鉄板を机の上に取って、形を切り始めた。
中々力がいるはずだが、器用にのみを回し、金槌をうっている。先ほどから鳴っていた音はこれだったのかと、音の出処が判明したナナリーはすっきりした心地になった。
ナナリーがにこにこ笑っていると、元親は何嬉しそうに笑ってんだと怪訝そうによそ見をした。その拍子、手を滑らせ、のみはナナリーのふともも目がけて刃先を向けた。元親は慌てて手を伸ばすと指を切ってしまっていた。鮮血がぽたぽたと指を伝って垂れている。慌てたナナリーはすかさず元親の手をとった。
「元親、指が、わ、私が邪魔をしたので」
「こんなん、つば付けとけば治る治る」
「駄目です!あぁ…っ、すぐに止血を」
ナナリーは、慌てて握った手を高い位置に上げ、切った親指をぐいと圧迫すると、紙を丸めていたであろう、そこらにあった紐を適度なところで縛った。するとみるみるうちに血は出てこなくなった。傷口を押さえたナナリーの指には元親の血が付着し、気づいた元親は顔をしかめて拭った。
「そういやあ、親泰が。あんた医者だって言ってたな。雑草抜かせんじゃなくて、そっちやって貰えばよかったか」
「仰せつかったことは何でもやります」
「そうかい」
元親は止血が早いことに驚きながら、礼を言うとまたのみを握って今度は歯車の溝を削り始めた。
「元親。邪魔してすみませんでした。そろそろ、戻ります」
「寝られなかったんだろ」
ナナリーは一度腰を浮かした後また同じ場所にゆっくりと掛けた。元親は一瞬、ナナリーに視線を投げると口角をあげた。
じっと元親の手元を見ているだけだが、鍛冶職人のようでもあるし、宝石職人のようでもあるし、丁寧に形取られる針や、歯車の溝が少しずつ形取られていくのは面白い。器用なものである。感心しながら、そっと元親をのぞき込むと真剣な表情だ。
「元親は凄いですね。何でも自分でやってしまいます。色々な顔がある」
「そうか。そんなこと言うならあんたもだ。医者で、商人で、通詞だって長けてる。立派に親父さんの手助けしてるじゃねえか。たいしたもんだぜ。俺とそんなかわりねえのによ」
一つ、歯車の溝ができあがったようで、元親は小さなそれを灯りにかざし、間を通る光と形を確認した。手のひらにのせるとナナリーに差し出した。見事に懐中時計を成す一部の歯車と違わない。またひとつ仕上がった。やりましたねと笑んだナナリーに元親は得意げに笑い返すと、また次の部品に取りかかった。
「私は、たいしたものでしょうか?」
「あんまりそう言うこと言ってっと、お天道様に叱られるぜ」
「ごめんなさい…。でも船医として外洋に出てから益々そう思うようになって。ときどきこれで良かったのかと考えます。医者になることは大変な私の志でした。父や店はとても大切です。守らねばならないと思います。不満も何も無い。でも…、いいえ。本当にわがままですね」
元親は作業する手を少し緩めると、くるくると金槌を弄ってそうさなー。と天井を見上げた。
「俺は、長宗我部の家にしかも嫡男で産まれた時から立場は決まってた。四国統一は親父の志でもあったが、今になっても戦の度にこれで良かったのかって思うさ。なんたって初陣飾る前までは、侍女の娘たちと歌読んでた方が楽しかったからなあ。武芸の稽古よりはよ」
時計を手にとった元親は己が作った針と、文字盤の針とを見比べている。少々大きかったようで、やすりで形を整え始めた。
「あんたのやってることは正しい。人の役にも立ってる。己に疑念が沸いちまうのは向き合ってる証拠だ。国元に帰ればきっと―」
前触れ無く元親の肩に重みが掛かったかと思うと、すうすうと寝息が聞こえていた。首をひねると、ナナリーは寄りかかって既に夢の中だ。ため息をついた元親は、娘をそっと抱きかかえ長椅子に横たわらせた。起きる様子もなく、しょうが無いのでこのまま寝かせておくことにした。彼女が着てきたはんてんに、己のものも掛けてやった。
松明の明かりが無音の中に弾けている。火の粉は地下室に漂った後すぐ煤となった。灯りの下にはそのように黒い煤が沢山落ちている。そろそろ掃除をするべきか、そう思案していると、気配を感じて元親は肩をがっくり落とした。
「おい、親泰なにしてる」
元親が梯子に背を向けたまま声を発すると、上階からは親泰が下りてきた。夜中に、居室を抜け出す客人の後を追ってきたか、そうでなくとも、音漏れせぬよう畳をきちんと閉めろと元親に言いに来たのかも知れない。
「てっきり、土佐へ落ち延びてきてきた者たち同様、また民を増やされるのかと思いましたよ」
「戯れ言抜かしやがる。帰る国があるんだ。そっちがいいに決まってらあ」
梯子からひょいと地におりた親泰は、灯りの中に姿を現した。身なりは相変わらずで、寝間着を着ることがあるのかと元親は問いたいくらいだ。
長椅子の端に、親泰は静かに腰掛けた。
「兄上の、そのお人柄はよくわかりません。もしやそのお体、砂糖で出来ているのではありませんか」
「何言ってんだ。さっさとナナリーを部屋まで運んでやれ」
「御意に」
親泰はナナリーを負ぶって、立ち上がると、梯子に向かったまま呟いた。
「殿、一条は益々混沌としている様です。事をおこすなら今を持って他ないでしょう。どうぞお考えください」
親泰の言葉を背に受けながら元親はまた作業に戻った。
今度は、試しに、先ほど拵えた歯車に針をつけ、仕掛けが動くか試してみることにした。中心に針を埋め、歯車のねじを回す。重ねて取り付けた歯車は順調に噛み合っている。一番大きな歯車が一周すると、表面の針が一目盛りぶん右に振れるはずである。見守りつつ、今後の一条家侵攻を思案した。
一条家は今、家臣達が武士、使用人、奥、侍女女中と城内の職ごとに大変な派閥をつくり、今にも内乱が起きそうだと常々聞いていた。主一条兼定は大層利己的で快楽に身を溺れさせている為に、家臣も統率が採れぬ状況が続いている。それが爆発してからでは手懐けるのに倍の労力を要してしまう。親泰の言うように、その隙に付け入るのはもう今しかないだろう。
元親が眺める中、一周した大きな歯車はかちっと音を立て、正確に長針を進めた。満足した元親は四国一円の地形図を取り出し、以前より考えていた四万十川から中村城への行軍を煮詰め始めた。
翌日ナナリーは、陽の昇る前に目がさめた。
障子の外はうっすらと白んで、早々に支度をする女中達が廊下を行き来している。飯の炊ける匂いが漂うのはいつもより早いかも知れない。
いつの間に自室に帰っていたのだと思いながらも、着替えて外へ出た。標高がいくらか高い浦戸の城はこの時分はもやが掛かり、たまに海との堺が見分けがつかぬほど雲海が広がることがある。まさに今日はそんな日だった。陽が昇りきれば、霧は晴れ、いつもの青い海と町並みが遠くまで見渡せるだろう。
暫く明け切らぬ雲海を眺めていると、早朝にもかかわらず元親がナナリーの部屋へやってきた。元親もまさか、ナナリーが出ているとは思わなかったようで、驚きながらよう、と手を上げた。
「おはようございます、元親。昨晩は、その。記憶が」
「親泰が部屋まで運んでくれた。それから、これ綿入れな、忘れてたもんで持ってきてやったぜ」
「ありがとう」
よくよく、元親を見れば、幾分腰に付けている物が多かった。いつもは城でも外でも素足だが、珍しく足袋もはいている。今から出かけるのかと問えば元親は答えた。
「ああ、しばらく城を空ける。戦だ」
「戦、あの、とっても急で…」
「まあな、今回はちいと長いかもしれねえ。そういやあんたが此処来てから戦出るのは初めてか。心配するな、俺の領地は戦場にはならねえ。安心していつもの様に過ごしていればいい」
「そうじゃない、のです」
俯き言葉を選ぶナナリーを元親は待った。昇り始めた陽と共に、暖かい海風が吹き抜けもやは晴れゆく。ナナリーは風に紛れるように「どうかご無事で」とようやく言葉を発した。ところが苦しそうに笑うので、元親は「俺は鬼だぜ?」と笑い返した。ナナリーの頭をまるで犬と戯れるように撫で回し、大きな背を向け浦戸城を発った。
城は一気に、静かになった。
浦戸の兵士が八割ほど出て行ったので、騒がしさがいつもより半減している。女中達は、静かでいいわねえなどと言っていたが、彼女たちが眺める先は四国の東南の方角であり、その先は一条領地だ。彼女たちには兵の中に夫が居る者もいる。心配でない訳がない。
ところで、これまで城内の仕事を兵らが担っていたこともあり、夕餉のおかず調達は必然的にナナリーとなった。以前の潮干狩りが大漁だったので、いつの間にかあさり穫り名人の様な扱いである。
とはいえ、ナナリーも頼って貰うことが嬉しく、海岸散策も実に楽しかった。近頃は釣りも覚え、先日は小さなかつおも釣り上げた。技術など全く分からぬが、在兵に少しずつ餌の付け方や、魚の種類によって違う仕掛けなどを教えて貰い、魚とのだまくらかしの日々である。また釣りの運は滅法よく、これまで坊主はなかった。
本日も、庭の雑草取りを終えた後、海岸へやってきた。魚籠を腰にさげ、小さな鍬を担いでいる。今日はあさりとにな貝取りだ。浅瀬に膝くらいまでつかると、にな貝は見つかると教えて貰った。着物の裾をたくし上げて、白い足を恥じらいも無く晒し、暑さの中水面を蹴って進んだ。すでにあさりは魚籠に一杯だ。慣れぬからか、にな貝はあまり見つからない。ナナリーはいつか行った四万十の河口辺りまで行ってみることにした。川辺では子らが楽しげに声を上げてはしゃいでいる。笑い合う様を眺めていると、ふと元親の笑顔が過ぎった。ナナリーも共に水遊びをしたい心地である。日中はそろそろ盛夏にも近い暑さだ。今頃元親はどうしているだろうか。帰った時、沢山のおかずを釣れるようになっていようと、目標を立て、水中に手を入れた。
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まったくこの四国の地は、四方を海に囲まれた島の形をしていながら山岳地帯はあり、峠はあり、分水嶺から生み出される清流は急流を有する川が張り巡るという、地形に富んだ国である。そのお陰で気候の違いで採れる作物の種類は多い。だが、大所帯の行軍ともなれば大変な苦労が伴うのであった。
一行は須崎の浜から北へ向かい、地芳峠を目指していた。そこから堂が森へ入り、背後から中村に入ろうというのである。
海岸線を堂々と行かず、ここまで遠回りな行軍には理由があった。
一つは、一条兼定に挙兵させぬよう、行軍を悟られぬように秘密裏に行動する必要があると言うこと、そして二つ目に、密かに中村へ降りたち、一条家重臣らと接触を試みようと言うのである。これは、悪政を振るっている主兼定に不満を持つ輩を、長宗我部に引き入れようという目論見だ。これには、元親の腹心香宗我部親泰を実動部隊として投入するが、恐らく難航を極めるだろう。いくら、出来の悪いたわけ者であっても、腐っても主だ。重臣格ともなれば、先代から長年仕えてきた筋金入りの忠臣であるが故に、説得するには相当な口八丁が必要となる。だがこの点だけに関しては、元親は割と心配はしていなかった。
「殿、少しはこの親泰の身を案じて頂きたいものです」
「あ?何言ってやがる、信用してるってことだ」
どうだか。そう言った親泰は、陣を張った小高い丘から中村の町を見下ろしていた。
この町は、一条家が四国に下った際に作り上げた町で、大凡京の町を真似て作られている。碁盤の目に区画をつくり、区画ごと職人の種別を分けて住まわせ、その周りに町人の住居を置いた。また民は中央の城を御所と呼んでいた。公家出身なだけあり、先代は風流と雅を重んじ、当時は政も中央仕込みの先端を行っていた。故に検地も進んでいたために、この区画整備とやらは早々と農地にも応用され、農民からの年貢も滞ることは無かったと聞く。均衡の取れた年貢徴収だったのだ。だが、現在は過去の栄光と反映は全て現当主兼定によって食い潰されている有様だ。
元親は今回の作戦の期限を一月と決めていた。あまり長い説得は、謀略が漏れる可能性があるからだ。それ以内に、重臣らを長宗我部に組み込む事が出来ねば、中村城へ進軍やむを得ずである。
というのも、あまり四国の内政ばかり悠長に構っている暇も無いのだ。
ひとつは、信長の一件から日の本中の大名が既に行動しているということだ。獅子屋がやってきた時、豊臣は兵を率いたと言っていた。その行軍にどれほどの大名が参加したのか詳しいことは福留隼人の報告待ちなのだが、既に明智討伐も終わり、本土では豊臣を中心とした集権が出来つつある。海を隔てた四国は、本土に比べれば情報伝達は遅い。故に戦々恐々の中に、いつ身を投じても良いよう、足場堅めは迅速にせねばならぬのだ。これは親泰の口癖だった。
そんな親泰は先ほど、中村城下へいそいそと出かけていった。
城下の武家屋敷を一軒一軒菓子折を持って回るのである。商人のようでもあるが、これが意外と地道に行うことで、皆屋敷へ上げてくれ、話をよく聞いてくれるのだ。また、親泰も頭の回転が速く、訪問先の下調べを十分にしているために、親泰の話に感服し元親に手紙を寄越すのである。
既に、兼定の腹心達は、ほぼ元親を頼って先代の残した中村の町を、これ以上御所の浪費で苦難に晒したくはないのだと慕ってきている。思いの外早い頭の垂れようだ。気の良い元親のことである。俺に任せろとすぐに返事も書いた。
残るは一番の重臣、土居宗珊だ。これは大変難航しそうである。親泰には無理なら宗珊には主と共に葬るしかないなと話していたが、珍しく親泰は異を唱えた。宗珊は相当頭の切れる武人で、現在愚鈍な兼定に代わって、領内の政を事実上全て総括しているのだという。長宗我部には是非とも欲しい人材で、兼定と共に切腹はさせるなと口を酸っぱくして言っていた。
元親と野郎どもは今日も今日とて親泰の帰りを待っていた。土居宗珊はあまりの激務ぶりで、己の邸内に居ることが少なく、ほぼ城内の執務室で寝泊まりをする有様らしい。ここまで来ると、元親も半ば同情の念が沸いてくる。
兵と雑談していると、親泰が戻ってきた。
「ご苦労だったな、親泰。今日は宗珊殿は居たか」
「いいえ、今日は主兼定殿と釣りに出かけたようですよ」
「釣りだあ?ったく暢気なもんだな」
すると、一人の兵が山から野草をかき分け、陣内へ入ってきた。福留隼人と共に上方調査に遣っていた兵士だ。元親は、立ち上がった。斜面を滑り降りてくる男がいる。待ちに待っていた、腹心福留隼人だ。ようやく、戻ってきたのだ。
「ただいま、戻りました。元親様」
「おお!隼人!よく戻った。それにしても中村だとよく分かったな」
隼人は親泰に目配せをした。どうやら、二人の間では逐一行軍の状況が共有されていたようだ。まったく出来の良すぎる家臣達である。元親は、酒を用意させ、皆で福留隼人の帰還を労った。
隼人には今回、本能寺での一件をきっかけに、本土へ出向いて貰い、情報収集に加え、諸国との連携を取り持つよう命じていたのだった。
あちらでは、前田慶次を頼って、名のある大名を訪問してきたようである。が、隼人は浮かない顔をしていた。
「元親様、単刀直入に申し上げます。恐らく豊臣はこの四国を攻める構えです」
その言葉に、騒いでいた兵達は一気に沈黙した。なんだって、と口々に言い、酒が入っているにも関わらず、さっと血の気が引いていた。元親は、杯に手酌をした。陣幕がゆったりと風になびいて、親泰はやっぱり、と空を仰いだ。なおも隼人は続けた。
「北条、徳川は既に豊臣方、軍神と甲斐の虎もだんまりを決め込んでる。それも当然です。四国に加勢をすれば、我が領地がねらわれますから。せめて武田や上杉と同盟を結ぶまで事を運びたかったのですが…。私の力不足だ。申し訳ない」
隼人は元親に頭を下げた。
仮に豊臣が四国に攻め入った際、手だてはあるかと言えば、正直なところからくり兵器以外に全く思いつか無い。それも操作を考えれば人手に限界がある。豊臣の軍勢は、周辺諸国が加われば、四国の五倍、十倍もの兵力だ。だが、戦は兵力ではない。それは初陣の時に学んだ。元親は竹中半兵衛の書状を突き返した時、既に覚悟を決めていたのだ。今更、恐れることなどない。
隼人に頭をあげろと命じた。起きてもいない先々のことを、今から思い悩むのは愚の骨頂である。それよりも、今は目先の足場を固めねばならない。
元親は声を張った。
「おい、おめえら、何しけた面してやがる。豊臣がなんだ?俺の名を言って見ろ!」
兵はそうだよな!そうだそうだ。と一斉にアニキ号令を掛けた後に、またいつものように宴会となった。どんちゃん煩く、只今陣を張っているということすら忘れている。元親はしょうがねえなと笑っていた。
「ところでだ、隼人。獅子屋とは会わなかったらしいな?」
「丁度、船が行き違いでしたが、俺が堺に着いた時、獅子屋は四国船から出てきたところだと言って会いましたよ。そういえば、その際聞きましたが、浦戸城で外つ国のおなごを預かっているそうですね」
「ああ、ナナリーか。いい娘だ。医者で通詞で商人で」
「代わった娘だよ。何も考えてなさそうで」
「おい、親泰それはちょっと言い過ぎだ」
すみません、と悪びれも無く親泰は酒を煽ると、元親と隼人に酌をした。一息に飲み干すとそれにしてもと親泰は頬杖をついた。顔は随分真っ赤だ。できあがっている時の親泰はいつも以上に頭がよく働く。
「豊臣の明智討伐、兵の準備が足りなかったと、獅子屋のあれはなんだったのでしょうか」
「ああ、そのことならどうやら、武器が足らなかったようだよ。兵が相当余剰だったからだとも思うんだが」
どういうこった?そう言った元親に、隼人は説明した。
「豊臣が元々、兵を増員し訓練したのは、鉄砲隊を作る為だったと言われています。兵の頭数は揃いましたが、その鉄砲が足りなかったのだとか。故に、明智討伐の際少々手間取ったようです。豊臣は外国から鉄砲を仕入れているらしいのですが、平戸に貿易商船の到着が遅れ、装備するにも遅滞があったようです」
まあ、逆をいえば、それだけ豊臣軍は鉄砲に頼り切った兵の編成とも言えますね。隼人は懐紙の上に置かれたするめに手を伸ばした。元親はその手を途端に取った。
「おい、その平戸着の貿易商船の詳細は分かるか」
元親がいつになく真剣で、隣で真っ赤な親泰はため息をついている。鋭い主の眼差しにただ事ではなさそうだと隼人は杯を置いた。
「一体、元親様も、親泰も、どうしたと…。平戸の事情でしたら商人たちに問えば教えてもらえると思いますよ。もちろんただという訳にはいかぬでしょうが」
ああ、そうだな。そうだ。元親はぶつぶつ呟くと、すまなかったと隼人の手を離した。親泰は引っ切りなしに酒を手酌し、煽り、荒れている。隼人が飲み過ぎだぞと云えば、お前には事情を説明するから、今は飲ませろと支離滅裂なこと言って地面にごろんと横になった。
すると、さきほどまで騒いでいた兵の一人が、中村城の様子がおかしいと、叫んでいる。また見回りをしていた別の兵がご注進と陣に駆け込んできたかと思うと、中村城が、籠城を始めましたと息を上げて報告してきた。まさか、行軍が相手方に知れてしまったのか、三人は顔を見合わせた。
生ぬるい初夏の風は、騒然と陣幕を揺らしていた。