沖と残骸、予兆03
夕餉を抜け出した元親が、戻らぬことに親泰はいらいらしていた。湿った空気を含んだ鬱陶しい夜だ。門番と共に城の入口に立ち、鯉口に人差し指を掛け、幾度も鐔を鳴らしている。親泰は歌を詠むのが好きだが、透き通った夏虫の音が聞こえるも今は煩いの一言で片付けられそうだった。門の施錠は子の刻と刻限を決めているのに、いつもいつも手を煩わせることに於いては彼らの右に出る者は居ない。
普段ならこの時間は欠伸をしながら勤める門番も、親泰をこれ以上刺激させぬようにと心している。しかし、流石元親といったところか、厄介を抱え帰城した。親泰の青筋は今に破裂寸前というものだ。
だが彼は腐っても元親の弟であり家臣である。城主が帰れば眉をひくひくと震わせながらも、お帰りなさいませと告げた後、礼儀正しく二三質問をした。
「兄上、その腕に抱えているものはなんで御座いましょうか」
「あー!川辺でな。拾ってな。噂の鬼さんだ」
「それで?」
「いやあな、随分辛そうだったもんで連れて帰っ」
「犬猫じゃないのですよ!そうほいほいと、素性の知れぬ輩を、一体何を考えておいでですか!」
「そんな怒鳴るこたあねえだろうがよう…」
元親が腕に抱える者の、身に着けた小汚いぼろは裂け、着物の原型をまるで留めていなかったし、港の揚げ場で物乞いをしている乞食の様に映っていた。
皆が皆、豊かに暮らせる世で無いのは親泰は十分に分かっている。まして四国の地は周りを海で囲まれた島だ。航路経由港があるとはいえ、上方のように雑踏を成すほど人は住んでいないし、商いの活発な範囲といえば土佐中部、一条家領地あたりがせいぜいである。故にその日暮らしの自給自足のものが最も多い。豪農もいるがそれは一握りだ。よって日々畑を耕し、己が一日を終えることが精一杯で、耕す土地すら手にせぬ者は飢えに苦しみ死にゆくさだめである。元親は皆が穏やかに過ごせる四国を作り上げたいのだ。それが四国を統べることから始まる。だが、その大義があっても、仮にも一国の主が誰彼構わず手を差し伸べていてはきりが無い。元親は存在する身分や境遇を垣根と捉えないのだ。良いのか悪いのか、何度目か知れぬ行いに、親泰はため息も出尽くしていた。
放っておけない性分はいつものことである。結局、親泰は拾い子を引き受け、女中に世話をするよう言いつけた。
聞けば衰弱気味であって、あちこち怪我の痕もあるという。元親が連れ帰らなかったら今頃野垂れ死んでいたやもしれぬと診た医者は言った。
ところが着物も見繕ってやり、少しの療養の後、只今面会してみればどうだ。目の前には、主の腕に抱かれていた晩とは全く違う人間が畳の上にちょんと座っている。きちんと整えられた髪は元親そっくりの髪色で、大名の娘とも見まがうほどの容姿だ。城内の女中たちが、やたら噂しているのも頷けた。ただ日の本の人間ではないのは確かだった。
正座になれていないのか居心地悪そうに膝を触っている。肩をすくめ、叱りを受ける子供のように怯えるものの、部屋にある調度品などをしげしげと見つめては、花器、掛け軸の画に興味津々だった。小さな頭を振ると、髪から白いうなじが覗き、時折何か不思議に思うことがあるのか品良く首をかしげる。
思わずその様子を目で追っていた親泰は気を取り直した。随分と体調も良くなった様子なら、さっさとお帰り願いたいのが本心である。
「私は、香宗我部親泰と申します。ここは、長宗我部元親が浦戸城に御座いますれば」
ナナリーは息をのんだと同時に、安堵していた。
川辺で見えた際、てっきり盗賊とばかり思って居たが、連れてこられた場所がそのアジトで無かったことに安堵していたし、さらには城を持つ土地の有力者とは願っても無い幸運だったからである。すぐに英本国への連絡も取れるかも知れない。
だが、親泰は頼みを聞いてくれそうな雰囲気ではなかった。威厳たっぷりに、睨んだ瞳は早々に城から立ち去れと言っている。この城で発言権のある人物なのだと察したナナリーは、父親に教えて貰った通りに頭を下げた。
「色々と世話を頂き、ありがとうございました。私は、英国商人です。ナナリー・ライトと言います。一月、二月ほど前に我が商船が難破し、ひとりこの地へ流れ着いてしまったようです。図々しいのは百も承知ですが、早急に本国と連絡を取りたいのです。なにとぞお力をお貸りできませんでしょうか」
その流暢な喋りに親泰は内心驚いていたが、商人というなら言葉が堪能なのも納得がいった。もちろん聡明な親泰は英国も知っていたし、日の本は南蛮との交易で多数船も出入りしいる。九州にはその玄関口、平戸もあるし、大阪には堺がある。
親泰はナナリーのこれまでの経緯を一部始終聞いた。しかし、国元と連絡を取りたいと言っては居るが、これ以上娘一人の為に手を焼くのはご免被る話だった。連絡を取るにも遣いを出さねばならぬからだ。ただ主の手前、乗りかかった船である。旅支度はこちらで整え、本来の目的地である平戸まで一人行かれてみてはどうかと提案するつもりだった。
ところが、廊下を騒がしくこの部屋に向かう足音がある。親泰が聞き間違うはずも無い元親の足音だ。しかも大層ご機嫌である。眉をひくつかせた親泰は、今度はなんだと開け放たれた障子戸に振り向いた。ずかずかと部屋に入り込んだ元親は親泰の隣に腰を下ろした。
二人は出会った晩以来、初めて顔を合わせた。元親も親泰同様、目の前のナナリーがあの晩連れ帰ってきた者とはにわかに信じられない様子で、しばらくナナリーをじっとみつめていた。ナナリーが改めて礼を言うと、元親はようやく納得して、いやいや、気にすんなと、手に握りしめていた物をナナリーに差し出した。
「おい、これあんたのだろ?女中がよ、着替えやら治療やらさせる時に、首から掛かってたっつって、俺に預けて行ったんだが、日の本じゃ見ねえからくりだな」
元親が持ってきたのは、アンから貰った懐中時計である。そういえば体を綺麗にして貰ってから、首に掛かっていなかったことに気づいた。外装のガラスから透けた中の歯車は等間隔に動き、伴って針は相変わらず文字盤を滑っている。元親は目を輝かせて眺めていた。ナナリーが受け取った後も気になる様子で、下がった胸元から目が離れない。
「もっと、ご覧になりますか」
「いいのか」
「ええ、減るものでもございませんので」
思わず頬が緩み、ナナリーは首から時計を外した。
二人のやりとりに、親泰は一度大きく咳払いをすると仕切り直し、旅支度は整えさせて頂きますから、平戸に行かれよとナナリーに言えば、元親は時計を眺めながら珍しく親泰に口を挟んだ。
「親泰、そんなケチくせえこと言うなよ。もうじき堺から獅子屋が渡ってくるだろ。あれは九州にも行くんだ。平戸への遣い、頼んでやれ」
「兄上、お言葉ですが異国の方へ義理立てする気は御座いませんよ」
「義理も何も、俺が助けたんだ。その分城で働いて貰えば済む話だろうがよ。それに平戸に直接行っても、人一人、外国船にすぐ乗れるとは限らねえ。あっちで一人船待つよか、四国で待ちねい」
元親のいう獅子屋とは、堺を拠点に日の本をあちこち回って、各国と物の取引をする行商人のことだ。獅子屋は、国内品もさることながら、九州は平戸まで出向き、唐、南蛮、印度と、外洋を隔てた外つ国の品物も多数取り扱っている。獅子屋は海を越えた四国にも上方の物資を届ける役目を担っていた。諸国を放浪し、情勢にも通じているから、よい情報屋でもある。
ナナリーはじっと沙汰を待っていた。日本は、逆らったり、無闇に口出しをしたり、気に喰わぬ事があれば腹切りを避けられないと父親に教わったからだ。親泰はナナリー一人で平戸にいけと言うが、元親は来る行商人に本国への手紙を託し、平戸に向かわせ返事が来るのを城で待てば良いと言う。二人のやりとりを眺めていると、元親は相変わらず、手の中の時計から目が離れない。そんな主を見た親泰は、ははーん。と元親の腹を読んでいた。この、時計とやらに大変興味をそそられるので、ナナリーを城に置く間、是非ともこのからくりの仕掛けを解き明かしたいのが本心なのだ。政務官であるからにはと少々灸を据えてやることにした。
「殿、先達て、お願いしておりました、領民の作物の収量と田畑の検地、目を通していただけましたか?」
「あ?何で今そんなこと聞くんだ。そんなんとっくに終わってらあ。今野郎どもに、具足振り分けさせてるとこよ」
元親は得意げに笑っている。からくりばかりに脳みそを使っていると思いきや、政務も二歩先進めているようだった。伊達に安芸、本山の臣属を引き込んだ才ではない。己が家臣の様子も見据え、目を光らせて居るようである。全く抜け目ないと思いながら、親泰はとうとう折れた。
「それでは、こういたしましょう。殿の仰るとおり、もう幾日かすれば堺から獅子屋は参りますでしょう。イギリスへの手紙を託し、連絡の来るまでは、どうぞ、ナナリー殿は城でお待ち下さい。その代わり、せっせと働いて頂きます」
親泰の言葉にナナリーは一気に顔が熱くなった。よかったこれで連絡が取れる。父親や、ユーフェミア号の皆の安否も調べてもらえるよう手紙に書こう。ナナリーは何度も元親と親泰に礼を言った。目頭が熱くなって、目尻に指を触れると、時計と睨めっこをしていた元親と視線が通った。初めて会った夜と同じくにかっと笑って、ナナリーはまた心安まった。
それから四日が経ち、沢山の交易品を抱えてようやく獅子屋が四国の地を踏んだ。
元親に呼ばれたナナリーは、詳細を綴った本国への手紙を持って広間を目指していた。着物を着て歩くのはいまだに足がおぼつかない。その生地はドレスの絹とは違い、庶民が着る日の本の着物は麻が多く、歩く度に摩擦が大きい。が、大変軽く通気がよい。暖かな四国の気候で過ごすには丁度良く、ナナリーは元親が見繕ったという菖蒲の柄も大変気に入っていた。
元親に着物を貰ったのには経緯があった。
先日、ナナリーの傷の世話をしてくれた女中が可愛らしい匂い袋を見せてくれたのだが、突然謝ってきたのだ。一体、どうしたのだと聞くと、ナナリーが小汚く着ていた下着を綺麗に洗濯したところ、見覚えのある生地で、それは元親が以前海で拾ってきた絹の布とそっくりだった。ナナリー様は海を漂流してこの四国の地へ流れついたから、もしやお召し物だったのでは、と問われたのだ。確かに、ナナリーは移動に邪魔だったこともあってネグリジェを海に投げてきた。だが、二月ほど前に海に流した寝間着が、浦戸に流れ着くとはどんな因果だろうか。
半信半疑に思いながらも、女中の差し出した匂い袋をよく見ると、確かに既視感のある生地だった。刺繍は独特であったから見覚えがある。女中が言うに、皆で、その布を解き一枚の布にして、巾着やら匂い袋やら作ったらしい。縫い物が得意でないナナリーはあのネグリジェの仕立てを解いたのかと、器用な針仕事に感心していたが、女中は酷く申し訳なさそうにしていた。一度は捨てたものですから、気にしていませんよ。と言ったものの、それがどうやら元親の耳に入ったらしく、城主自ら着物を見繕ってくれたと言うわけだ。
不格好な歩みで広間に行くと、でっぷり太った顎髭を蓄えた中年男性が元親にひれ伏していた。この男性が獅子屋なのだろう。屋号に違わぬ獅子のように勇ましい面構えの主人だった。
「おう、ナナリー。こいつが獅子屋だ。手紙持ってきたか」
「はい。ミスター元親」
獅子屋はナナリーを見るなりでれっと鼻の下を伸ばした。よろしくお願いしますと主人に手紙を託すと、獅子屋はがっしりとナナリーの細い手を掴み、この獅子屋にお任せあれと黄色い歯をにいと見せて笑っている。
「なんでも、商船が難破されたとか…おうおう、それは大層難儀でしたなあ」
「お、お気遣いありがとう、御座います」
獅子屋はやけにべたべたとナナリーの肩に手を置いた。向かいの元親は一度大きく咳払いすると、獅子屋はばつが悪そうに「いやはや、随分かわゆいお方で」と頭の後ろをかいた。
「おい、獅子屋。ところで隼人、いや、堺の町で福留隼人と会わなかったか?」
「ほ?福留殿ですかな。いいえ、某はお目に掛かってはおりませぬが」
「それならいい。今、あっちはどうだ。豊臣は」
「ええ、もうそれは。明智殿は業火の中、首を討ち取られたとか。それにしても、豊臣は当初予定していた兵力でなかった為に、少々苦戦した様子で」
「あ?苦戦だ?そりゃまたどういうこった」
「なんでも、兵の準備が間に合わなかったとか。行商人の間ではもっぱらの噂で御座います」
元親は首をかしげた。あれだけの兵を有していながら、当初予定していた兵力、その準備とは一体何なのか気になったのだ。更に獅子屋に問うも、さあ。私もそこまでは…と知っているのか知らぬのか勿体ぶっている。あまり行商人の話に首を突っ込んでも、余計に買わされるのが落ちだ。今は、福留隼人を本土へ遣って、情報収集をさせている。帰ってくるのを待てば良い。元親は、今回もご苦労だったと、親泰に代金を払わせると獅子屋を帰した。
獅子屋を見送りに親泰が部屋を辞した後、広間には元親とナナリーが二人だ。目の前には、上方や外国のものと思われる部品や調度品、小間物などが並べられている。これらは今回元親が購入したものだ。調度品などは煌びやかで人の目を引くのでまだわかるが、歯車や部品の類いがやたら多い。元親のからくりに役立てられる物のようで、しかしナナリーはあまり機械には詳しくないからその価値はいまいち分からない。
元親は満足そうに工具を一つ手にした。
「そういやあ女中から聞いたが、あんたの着物は本当にすまなかったなあ…」
「ネグリジェ…いえ、寝間着でしたし、一度捨てたものでしたから。本当に気になさらないで下さいミスター元親。この着物はとっても気に入っていますよ。ありがとうございます」
「お、おう。その、なんだ。“みすたあ”ってのは毎度付けなきゃなんねえのか?元親でいいぞ」
なんだか慣れねえんだよなあ。はにかみながら笑った元親に、ナナリーは可笑しくなってつられて笑うとその旨承知した。
獅子屋の平戸への届けは恐らく一月後、よって本国から返答がくるのはおおよそ一年と少しは掛かるだろう。気が遠くなりそうだが、何しろ連絡すら絶望的に思えていた数日前とすれば、状況は一転だ。しばしそれまでナナリーは元親のもとで奉公しようと心に決めた。
体調も体力も回復したナナリーは初夏の雑草刈りを仕事としていた。
良い日よりであるから、天に向かって葉は茂り、根強く伸びている。根っこの部分を持って引き抜くのを何度も繰り返していた。休憩になると女中は知らせに来てくれ、茶や甘味を出してくれ皆で雑談などする。ナナリーが異国人でも、浦戸城の人々は優しく接してくれた。
饅頭を食べたナナリーはまた雑草を求め城内の広い庭を闊歩した。今度は大層、抜き甲斐のある雑草が一面にはびこっている場所をみつけると、気合いを入れてしゃがんだ。せっせと抜いていると、いつの間にやら隣に気配があった。太い腕がぬっと出てきて、顔を上げるとそこには元親がいた。ナナリーが両手を使ってで引き抜いていた太い茎の雑草を、元親は片手で糸も容易く引き抜き、得意げに笑っている。
「よう。お嬢さん、精が出るなあ」
「元親、もう本日のお勤めは終わったのですか」
「まあな。親泰に小言言われない程度には、勤めは果たしたぜ」
ナナリーがくすくす笑っている間も元親は軽々と、頑固な根っこの雑草を抜いていった。
「ところで、何か?」
「そうだ。明日は、別の仕事を頼もうと思ってな」
「雑草抜きではなく?」
「おうよ、潮干狩りだ!あさりをとるぞ」
翌朝、野郎どもを数十人連れ、大所帯の長宗我部軍は土佐湾に面する須崎の浜へとやってきた。この浜は四万十川分流の河口あたりで清い川水が土佐湾に注がれている。故に河口付近から数十間沖合は魚もよく捕れる大変豊かな海岸である。
一面の砂浜、そこから少し波打ち際に寄ると、岩礁と砂砂利とが混じり合う場所があり、そこで大量のあさりが毎年採れるのだ。兵らは皆々晩のおかずが掛かっているので必死だ。到着するなり持ってきた鍬や鋤で一斉に掘り出した。毎年の事ながらあさりが出る箇所出ない箇所がある。それは時々の運だ。小ぶりの鍬を借りたナナリーも、兵の見よう見真似で波打ち際で砂を掻いた。ひと掻きすれば石にぶつかったような音がする。砂をよけ、手で確かめるとあさり貝だ。潮干狩りとやらの経験はナナリーは初めてだった。興奮気味なナナリーは益々調子を良くしてどんどん掘った。ところがナナリーが掘るところ掘るところ、穴をつついた蟻のように、あさり貝が引っ切りなしに出てくるのである。夢中になりすぎていつの間にか魚籠一杯になったあさり貝を元親へ持って行けば「すげえな!大漁じゃねえか!」と元親は大層喜んで笑っていた。
早朝出発した元親たちの後を追って、女中らが茶菓子など持ってきてくれたようで、皆で綺麗な海を眺め休憩をした。女中は大量のあさり貝を見ると、満足げに献立を話し合っていた。
茶を貰い、機嫌の良いナナリーは何かおもしろい物はないかと一人砂浜を歩いた。
着物の裾をつまみ上げて、裸足で波打ち際を歩く。切れた昆布や、桜貝の破片がそこらに散らばっている。桜貝は透明で艶があって綺麗な桜色だ。それを辿って少し先へ行くと、潮だまりの中には小さな縞模様の魚が泳いでいるのを見つけた。目を凝らしていると、「そりゃおやびっちゃだなあ」と元親がやってきた。
「おやびっ?」
「親美姫って書いておやびっちゃだ」
元親は浜に文字を書くと、隣に己の名前も書いた。
「まあ。素敵な名前ですね。元親と同じ字が」
「はは、そうだな。しま模様はいつ見ても綺麗だ。俺も久しぶりにまじまじとみたな。ガキん時、親父と見た時以来か?」
二人して、小さな水槽の中をしばらく覗いていた。元親は魚に詳しく、解説をする。そうして潮だまりを共に渡り歩いていると、沖合からたいそうな板きれが流れてきているのにナナリーは気づいた。板きれには何か文字が書かれている。白いペンキで、ローマ字だ。それを遠目に見てナナリーは驚愕した。突然元親の隣から立ち上がり、着物の裾を太もも辺りまでたくし上げると、元親の制止も聞かずにしぶきを上げて海に進んだ。板きれを掴み、浜にひっぱり上げると、書かれた文字を見てナナリーは浜にへたり込んだ。単語は前半分は板が砕かれ分からぬが、Euphemiaとはっき認められるのだ。
「おい、いきなりどうしたんだ。そんな板っきれ追いかけて。着物のまま入っちゃ危ねえだろうがよ」
俯くナナリーに元親は再度おいと声を掛け、肩を揺すると、ナナリーは顔を上げた。目は真っ赤に腫れていた。
「元親、これ、私の乗っていた船のです。ユーフェミア号。ユーフェミア号といいます。父上も乗組員も…この船に乗っていたんです」
元親が見るに、板は右舷の船体部であるようだった。大きな船だったんだなと呟けば、ナナリーはこくりと頷いた。するとナナリーは、ユーフェミア号での出来事を一部始終元親に話し始めた。今全てはき出さねば、あの夜の恐怖が蘇って押しつぶされそうだったのである。元親は、側で黙って聞いていた。
これまで、元親は敢えて難破の状況など詳しく聞こうとも思って居なかっただけに、ナナリーの突然の吐露は意外なものだった。家臣の親泰は素性を洗いざらい調べ上げたい性分で、根掘り葉掘り聞けと元親に苦言していたが、難破というならあまり深く聞くことはやめましょうとそこはある程度温情を見せた。元親も辛い思いをしてまで口にさせたくは無かった。
ナナリーは夜の海に投げ出された父親を救うため海へ飛び込み、船員にその身を預け、己はこの四国の地まで流されてきた。救助者が犠牲となることは多々あるが、それでもナナリーは命はある。元親は励ました。
「親父さん、船員どもが引き上げたところをあんた見たんだろ?なら、助かってるさ。きっと大丈夫だ」
途切れず話したせいかナナリーは嗚咽し、肩の震えが止まらなかった。頭には元親の手がぽんと乗って、落ち着くまで肩を抱いてくれていた。波の音と、元親の心音が混じって耳に届くと次第に落ち着いた。
遠くで兵らが「アニキー!日が暮れっちまいますぜい!そろそろ帰らねえと!」と叫んでいる。元親はナナリーの引き上げたユーフェミア号の板を抱えた。
「城まで、これ持って帰るか」
帰りは、その板きれを馬に乗せ、ナナリーは元親の隣を歩いた。
四国の陽はいつも海へ沈んでゆく。傾き始めた太陽は、山の端を金色に染めたあと、一瞬にしてすみれ色に変えていった。薄闇の中、ナナリーは元親が、潮だまりを覗いた際話していた父親のことを聞いた。元親の父親はどんな人なのか気になったのだ。
「元親のお父上は、どのようなお方ですか」
「あー、親父か?そうさなー。俺はよう。こう見えて昔はめっぽう色白で気弱な形してたもんで、嫡男なわりに大層期待されてなかったな。それでも親父は信じてくれてた」
色白で気弱という言葉に案の定、意外だと反応したナナリーの真顔で驚く様に元親はまた声を上げて笑った。たいてい今の元親しか知らぬ人間は驚いて言葉を失うらしい。
「俺の親父は、急に死んじまったもんで、俺も心の準備っつーもんが定まらぬまま、跡目継いじまったからな。まあ、家臣も、親泰や隼人だが、あいつらの居るお陰で助かってる」
「元親、聞いてごめんなさい」
「ん?ああ、気にすんな。もう何年も昔の話さ。だからなんつーのか、親の死に目にあってねえから、ナナリーの親父さんはきっと無事だって言いてえだけだ」
不安になったら、また俺にぶちまけりゃあいい。
少し先をゆく元親の背を見て今の時分が夕方でよかったと、ナナリーは思わずに居られなかった。
元親は今晩のおかずをしきりにあさりの佃煮を出せと後ろから女中に叫んでいる。兵らはそれはいいですねとどっとそれに賛同していた。その一言で声を集める度量の彼であるから、ナナリーは今ここで潮干狩りなども出来たのである。何を複雑な気持ちになろうか。
夕空は橙色と闇が混じり、色が変わりつつある。見上げた空に吸い込まれてしまいそうになるのは、きっと気のせいだと言い聞かせていた。