鬼の噂02
ぷかぷかと凪いだ海に、白いものが漂っていた。遠目から見ると大きな白い布、帆のようなものだ。なんだあれは。そう思いつつも、今、西海の鬼にとっては、一刻垂らし続けている眼前の糸の方がよっぽど重要であった。
今日はあまりにも天気が良く、俗に言うベタ波だ。穏やかすぎる日和で、初夏の浜辺では潮だまりに子等が楽しげにはしゃいでいる。乾物屋はこれ幸いとばかりに一家総出で烏賊を竿に吊し、するめづくりに精を出していた。できたばかりなんでさあ。釣りのお供にお一つどうぞ。元親は、乾物屋の主人から貰ったするめをしゃぶりつつ真っ青な空を仰いだ。お天道様は働きもんだなあと天を褒めたところでちっとも魚は引っかからない。針先には、先日家臣たちと浅瀬で探したとっておきの太ったゴカイを下げているのに竿はぴくりとも言わない。陸から海中の様子などわかりはせぬが、もしや魚は腹が減らぬ日などがあるのではないかと疑うほどに喰わぬのだ。そんなことがあっては堪らない。元親は夕餉には腹が減る。だからこうして長い時間掛けて今晩のおかずを釣り上げようとしているのだ。
朝からがたいの良い体を、岩礁と兄弟のようにして肩を並べ腰掛けているが、真上近くなった太陽の下、動かぬ体はじりじりと火照り汗ばんでいた。やはり竿はうんともすんとも言わない。先ほどの布はまだ漂っていて、ちらちらと視界の端に入ってくる。とうとう耐えきれなくなった元親は、白い頭をかきむしると、その正体を突き止めるべく、竿を引き上げ海へ飛び込んだ。
こちら側の海は天敵毛利元就が目を光らせている瀬戸内海では無く、外洋に続く偉大な土佐湾である。陸地が無いと目の前はさっぱりとしていて大変気持ちが良い。そんな雑言を垂れつつ泳いでいると、波に乗った白い何かは元親に絡まり、身動きがとれなくなった。危うく体を持って行かれるところだ。やはり戯れ言はほどほどにしておけと言う海の神のお達しか、すまなかったと心の中で手を合わせ、漂う白いものを引き上げた。思うとおりやはり布だった。よく見ると上等の絹で、幾十にも鮮やかな模様の刺繍が施され、おおよそ傘のような形をしている。これは珍しいお宝を拾ったと、元親は満足して、城へ持って帰ることにした。
村々に寄り道をして、幾人かと言葉を交わした後浦戸城へ戻ると、兵たちが集まって何やら騒がしかった。どうしたと問えば、鬼が出たらしいんでさあと野郎の一人が興奮気味に言った。
「鬼だあ?四国の鬼は西海の鬼こと、この俺様にきまってんだろうがよお」
「いや、アニキが西海の鬼なのは重々承知ですが、俺らが話してんのは、本物の鬼が出たって話で」
「本物?ったく。俺に挨拶に来ねえとはふてえ野郎だな」
いやあ、まあ、そうなんですが。兵は頭の後ろをかきつつ、自由奔放で掴めぬ我が主に、何からどう順序立てて説明しようかと困っていると、元親が背に抱えた白い塊に目が釘付けになり、話す目的を持っていかれた。主は釣りに出かけていた筈だが、明らかに魚ではない。
「アニキ、一体なんです、それ」
「おう!これか、よく聞いてくれた。今日の戦利品だ!」
「戦利品って…、今晩のおかずはどうしたんですか」
「お、おう。まあ、聞いてくれ。こらあ全部絹で出来てんだぜい。上等だぞー。女どもにほどかせて、皆で好きなように使えって言っとけ」
結局は坊主だったのだなと納得した兵は、ため息をつくとそれ以上問わず、へい、ではありがたく。と言ってあまり価値も分からぬままに女中を呼んだ。すると即座に嬉々とした歓声が上がり、礼を言われた元親は上機嫌で自室へむかった。
この浦戸城は、桂浜にほど近い陸の上に建っている。
もともとは長宗我部の城では無かった。本山茂辰との戦長浜での戦いに勝ち、入城したのである。ところがあまりにもおんぼろであったのですぐに普請させた。こういう金の使い所も、四国統一を掲げた長宗我部家の威信を示す機会である。
以前は本丸しかなかったこの城も、今では三の丸まで建造し、いつ何時攻撃をうけても耐えうるよう、城郭は八方強固な櫓で囲み、まるで要塞の形となっていた。
政務さることながら、暇さえあれば寝る間も惜しんでからくり弄りに没頭するほど、西海の鬼は機械の類に執心しているが為に、櫓には城主ご自慢のからくり兵器まで仕込んであるのだ。故に元親は、近頃岡豊城よりも浦戸城に居ることの方が多い。
城の大改修に合わせ、城下の整備も進め、現在は立派な町が栄えている。豊後をはじめ、九州や琉球とも交易が盛んであり、上方航路の係留地でもある浦戸は、商人をはじめ日々幾多の人々が出入りしていた。
城からは、その様子がよく見渡せる。廊下を歩きながら、賑やかに行き交う小さな人々を眺めていると実に誇らしくなる。
つい先頃まで、つまり元親が家督を継いだすぐの四国は、おおよそ四家によって領地がまとめ上げられていた。土佐中部を長宗我部元親が、四国の東側は安芸国虎、吉野川近辺以北を本山茂辰、そして四万十川から平野部を一条兼定といった領割だ。
父国親が急逝した後間もなく当主となった元親は、姫若子と呼ばれた時分など無かったかのように、所領へ侵攻、戦塵舞う中に見たるは鬼の如しとその猛進と采配を恐れられ、少領主を囲い込んだ。やはり安芸、本山、一条と、臣属する者にも、日常の不平不満などは山積するもで、元親はそんな末端の家臣たちを突いたのだ。皆で豊かな四国をつくろうと、極力人死にを抑えて家臣勧誘を行い長宗我部に寝返らせたのである。これではまるで盗賊の統領のような一杯かませてやるぜという誘い文句の様でもあるが、しかし元親の懐の大きさに心酔した者は徐々に増え、現在はじわじわと他家の臣属を手中に収めている最中だ。
そんなわけで、かつては一進一退の戦を幾度も繰り返し、血を流し合った敵対する大家の家臣という戦力を我が物にすることによって、攻めやすく降伏させやすい状況へと誘導し、本山も安芸もめでたく元親のものとなった。現在残るは一条家だけである。ところが一条家は他家とは少々毛色が違って厄介な家柄だ。何しろその血筋である。応仁の乱以降、四国へ落ち流れてきた公家大名であり、四万十川流域に作られた城下はそれは風光明媚な京のような町並みであり、民も一条家を大変慕っていたからだ。だが、それも先代までの話であって、現当主の兼定は大変好色で、ぼんくらと聞いている。元親よりもいくらか年下であるのに、既に妻女を幾人も抱えて、それは昼夜問わず閨遊びが激しいときているから、これには一条家の側近達も頭を抱えていた。何しろ政務が捗らない。
元親はまたもや、どうにかして側近を引き込みたいと思案していた。
欄干に手を掛け心地よい海風を受けていると、そこへ香宗我部親泰が現れた。こんな汗ばむ日和でも、相変わらず涼しい表情を携え、きちんと羽織袴である。
精悍な顔つきの親泰は政務官であり、外交官でもあり、さらには元親の四つ下の弟であった。大変あくの強い将兵が多い長宗我部軍という組織の中で、彼は抜きん出て頭脳明晰であり、実に強かな気質で最後の良心である。とは、彼にひそかに心を寄せる侍女らの評だ。
やっと、見つけましたよ兄上。ため息をつきながらの第一声は、聞き慣れた文句であった。
「よう、親泰。相変わらずそんなかっこで暑くねえのかよ。真面目だなあ」
「何を仰いますか。兄上の露出が激しいのです。立派な体躯であるのはこの親泰、存分に知り得ております故、たまにはちゃんと着物を来て下さい。そんなことより見ましたよ。あの布、どこで拾ってきたんですか」
先ほど女中たちに渡したものかと問えば、親泰は頷いた。
「いいですか。あれは西洋の着物ですよ。しかも、女性ものの…。寝間着にございます!近くに人など居なかったのですか?」
「いやあ、あれ意外は何も見てねえが、お前詳しいな」
親泰は一度咳払いをした。
「はあ。まあ、いいです。海にはいろんなものが暖かい潮に乗ってきますから、外洋から流れ着いたのでしょう。それよりも兄上、少々込み入ったお話が御座います。ここでは何ですので。部屋に」
その時、親泰様と夕餉を取られますかと侍女が伺いをたてに来た。元親は悪いが少し後にしてくれと言い、部屋にしばらくは誰も近づけるなと命じた。
陽の暮れゆく外は、薄く白い月が撫でるように夕闇を手招いている。魔が時の城下は次第に赤い提灯が軒下に灯りはじめ、一瞬にして昼とは違った様相を呈する。明るいうちにを相手取った金回りのよい商人などは、情欲を求めて徘徊し、自ずと隙を与えやすい。特に漆黒に紛れてくる他国の忍は厄介である。やはり城下の民も改修したばかりの立派な城は自慢したいものだ。
大変用心深い親泰は今一度戸の外を確認すると、上座に座る元親に真剣な表情を向けた。
「単刀直入に申し上げます。豊臣秀吉殿が明智殿へ挙兵いたしました。我が、長宗我部にも加勢せよと、竹中半兵衛殿からのお達しでございます、殿」
元親は受け取った書状に一通り目を通すと、口に手を当て唸った。謀反の上に掲げられた旗は明らかに出来すぎた大義名分だ。揺らぐ行燈の明かりをみつめ、右目を細めた。
先日、本能寺で織田信長が家臣明智光秀に討たれたと急報が入った。周辺諸国には激震が走っていた。
変事が遭ったのは夜だが、その日中、信長は寺で茶会を開き、気に入りが一同に介していた。千利休はもちろんのこと細川忠興をはじめとする利休七哲、松永久秀、足利義輝も招かれたと聞いている。自慢の茶器を披露したり、利休の点前があったりと茶会は和やかに終えた。その晩は、招いた客らと夕餉をとり、酒を酌み交わした。
ところが皆が寝静まった夜半、信長は寝込みを襲われたのだ。地を揺さぶる轟音は地滑りではなく、軍馬が寺に押し寄せる波であった。しかし妙なことに、蹄の音を聞かぬうちに境内は火に包まれていたのである。
寺に居た小姓や侍女は、信長はもちろんのこと、当時客人として宿泊していた松永久秀と足利義輝にもすぐに異変を知らせたが、火の周りが早く、為す術なく退路を断たれた。そんな折、現れたのは明智光秀だった。皆助けがやってきたと胸を撫で下ろしたが、即座に悲鳴へと変わった。
厳重な筈の寺に易々と火を放った主犯が、己が抱える家臣であっては、在兵が壁をなしたとて目の大きい笊である。信長はその日、灰となり明智光秀は第六天魔王に取って代わったのだ。
事実を知った信長の忠臣はもちろん明智光秀を許せぬ筈が無い。我が亡き主のためと明智討伐の号令を掛けていた処へ、どこからともなく豊臣秀吉が力を貸そうと申し出てきたのだ。
現在の豊臣はかつての羽柴姓であった時とは比べものにならぬ程の国力を有し、軍もそれは訓練され統率のとれた強大さだ。信長が存命だった時も、今対等に渡り合えるのは、秀吉殿ではないかと巷でも噂されていたくらいだ。故に加勢の報せを受けた、織田家臣らは心強いと士気が上がっている。
だが元親は豊臣秀吉が好かない。たとえどんなに素晴らしい軍であっても、豊臣は兵を人形の様に扱うからだ。戦場での一糸乱れぬ騎馬隊、弓矢隊などは操り人形と思わせるかの如く、兵の表情には血の通いが感じられない。一度まみえた事があったが、あれはよく言えば統率、悪く言えば洗脳の類いである。
竹中半兵衛が今回通達を寄越したのは、表向きは明智光秀の謀反に於ける織田忠臣達への善意、そして信長の敵という大義名分であるが、その実、将来的に豊臣の配下に付く大名を仕分けしている最中なのだろう。混乱に乗じて、踏み絵のまねごととは、親泰に負けず劣らず竹中半兵衛も実に腹黒い軍師のようである。
元親がため息をつくと、親泰は書状を取り上げて目の前で破り、行燈の火にくべてしまった。元親はそれを見てにやりと笑った。
「分かってんなら聞くな」
「一応の体裁はなければなりません。主にはきちんと伝言したということです」
元親はうんと背伸びをすると、手を後ろについた。
「どうすっか。豊臣にけんか売っちまうな」
「売るも何も、初めから秀吉殿と事を構える気など御座いませぬ故、我らには関係のないこと。兄上は、いいえ殿は、四国の安寧がいずれ日の本に波及するのを望んでおられるのでしょう」
「そうだ」
「であるなら、この地を豊かにし、からくりの技術など以てして民を豊かにする事が先決であります」
「ああ。時にはお宝探しなんかして、笑って過ごせる世がいいに決まってらあな」
誰に向けられた言葉か、元親の声は天井に打つかった。いつになく心配そうに親泰は元親を眺めている。元親は飯にするかと、声を張り上げて女中に夕餉の用意を急がせた。
二つの膳が向かい同士に並べられている。元親が坊主だったこともあって、主菜の無い大変質素な食事であった。親泰は、余計なものを拾ってくる暇があるなら云々と小言を言う。飯を食えるだけありがてえだろうが!とまたいつもの言い合いが起こりそうなのを見計らったかのように、忙しく煩い足音が部屋に向かっていた。すぐさま障子戸は行儀悪く勢いを付けて開いた。野郎どもである。元親がなんだと問う間も無く、彼らは口を開いた。
「アニキ!!大変です!鬼が!鬼がまた出たって、今、峠の茶屋のばあちゃんが!」
昼間の話を半信半疑で聞いていた元親は、本当だったのかと目を輝かせ、意気揚々と立ち上がった。
「っし!この四国の鬼!西海の鬼が、鬼を退治してくれようじゃねえかっ!いくぜ野郎どもっ!」
待ってましたアニキ!やっぱそう来なくっちゃな!アニキ!と大変な盛り上がりで、食事の最中であるというのに元親は兵らと出かけていった。正直なところ、鬼の噂など気にも留めない親泰は、門の施錠がありますから、夜半までには帰ってきて下さいよ。と主の背に投げたが、果たして聞き届けられたかは不明である。残った膳を消化しつつ主の分まで平らげてやるかと、向かいの膳から残りの芋を箸で取った。
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転がった芋を追いかけて、ようやく掴んだナナリーはすかさず森の中へ隠れた。
もう何日、いや何ヶ月も夜盗のようなことをしていた。生きるために必死とはいえ、そろそろ体力的にも精神的にも限界である。
ナナリーの現状はまさに悲劇そのものだ。以前シアター座で、シェイクスピアの作品をいくつか観たことがあったが、人間の尊厳や生は悲劇を以てして如実に捉えていたと再認識した次第だ。まさか己が辛い現実によって生を確かめるとは思ってもみなかったのである。
ナナリーは拾った芋を大事に握ると、昨晩より寝床にしている川沿いの大岩までとぼとぼと峠を下った。
ユーフェミア号の明かりを夢うつつに確認した後、気づけば浅瀬の浜辺に流れ着いていた。白い浜に頬を付け、うつぶせで倒れていたのだ。体は塩水に浸かり続け、まともに水を飲んでおらず、起きた時には声が出なかった。足も腰も力が入らない。しばらく経って、辺りを伺うと洞窟があるのを見つけ、全身ずぶ濡れの体を引きずりながら入った。洞窟の近くは砂浜ではなく潮だまりのようになっていて、ごつごつとした岩は、素足で歩くのにも気を遣う。ようやく落ち着ける場所へ腰を下ろすと、途端に涙が止まらなかった。思い出して嗚咽を漏らした。
海に落ちた父親を海面からユーフェミア号に押し上げた時、船員たちが引っ張り上げていたから、きっと父は無事であるに違いない。ナナリーは皆の無事を何度も何度も神に祈った。願うことしか出来なかった。
それからしばらくは動く気になれず、洞窟の中で幾晩か過ごした。
人気が無く無人島かと思って居たのだが、三日か四日経った頃人の話し声が聞こえ、流れ着いた場所は無人ではないのだと、その事実だけでも希望がわいた。早速、情報収集を始めなければ。そう思い、行動を決意した。だが、どうもネグリジェが重く、ナナリーはそれを脱ぎ海へ放った。
薄い布地の下着一枚になり、ナナリーは首からさげていた懐中時計にようやく気づいた。やけにきらきらと光って秒針は変わらず時を刻んでいる。今頃アンはどうしているだろうか。友人を思い出すと益々心細くなったが、涙を拭ってナナリーは進んだ。
人を求めて海岸を離れたはいいが、全く建物も見つからないし誰ともすれ違わない。先日聞いた声はどうやら海上の船からの声だったようだ。ふとナナリーは遠くに見える里山から白い煙が上がっているのを認め、目指して歩いた。非常に歩きにくいあぜ道ばかりが続いていた。畑の道沿いを歩いていると、ようやく作業中の人を見つけ、声を掛けた。ところが、ナナリーをみるなり、中年の女性は声を上げて逃げて行ってしまった。戸惑い、呆然と立ち尽くしていると、みるみるうちに人が集まり始めた。驚くべき事に人々の手には鍬や鉈が握られ、今にもナナリーに襲いかからんばかりの殺気だったのだ。恐ろしくなったナナリーは一目散に山中に逃げ込んだ。皆口々に鬼だ鬼だと叫んで威嚇してくる。
こうなっては何を話すにも穏やかでは無い。人が居れば何か食べ物でも恵んで貰えはせぬだろうかという己の考えが相当に浅はかであった。
今度は人が寝静まった真夜中にそっと人里へ下りて、周囲を見て回った。たいていの三叉路には行先を示す文字が板きれに書かれてあった。よく目を凝らして見ると、その文字はなんとなく見覚えがある。右の板には「うらど」左の板には「かつらはま」と読めたのだ。これらは父親とユーフェミア号で商談内容を確認している時に見たかな文字である。そうと分かった瞬間、ずるずると腰から地面へへたり込んだ。先日までインド洋沖を航行していたはずが、現在、日本のどこかの地に居るのだ。一応の最終目的地とはいえ、信じがたい事実である。
そんな事を繰り返しながら、人の多そうな地域までやってきたのだが、相変わらず日中に出て行くと人々はナナリーの姿を見て激しく拒絶した。それも分からなくはなかった。何しろ、綺麗な銀色の巻髪はおおよそ猛禽類の巣を逆さにして被ったような頭だったし、何ヶ月も手入れをしておらず不精も良いところである。おまけに風呂にも入っておらず、体は幾日もの山歩きで炭鉱の炭を被ったように黒ずんでいた。
最初は泣きたい気持ちで一杯だったが、この惨状に慣れてくると次第に笑いにすら変わりつつある。お先真っ暗だ。
芋を抱えたナナリーは大岩に背をつけ、燻っていた小さな火種に、枯れ木をくべて大きくした。先日、道ばたに落ちていた何かの金物の器は実に重宝している。それを火の上に乗せ、水を入れて沸騰させると芋を入れた。こんなことばかりやっていた。
芋が煮立つまでにはかなりの時間が掛かる。歩き疲れていたナナリーには睡魔が押し寄せていた。うつらうつらしている時はこの現実はきっと悪夢であるようにと願った。目が覚めれば、現実にどっと疲れが押し寄せ、虚無と恐怖が入り乱れるからだ。
しかしあろうことか、今まさに新たな恐怖に苛まれていた。
一体、この悪夢は何度繰り返されれば良いのか分からない。
芋が煮立つのを待っていた筈が、いつの間にか幾人もの男達がナナリーを囲み見下ろしていた。暗がりの中目を凝らすと、皆々何かを手にしている。また農村集落の人たちのように、鍬や鉈かと思いきや、ナナリーの予想を遙かに超えていた。明らかに剣である。夜闇に光った刀身は、近くの川から月明かりを反射させて、弱く鋭い光は突き刺すようにナナリーに当たっていた。明らかに集落の人では無い。盗賊かもしれない。だがナナリーは恐怖で全く体が動かなかった。もう潮時だと悟ったナナリーは「アーメン」と呟き、天に祈りを捧げた。
「おい、お前、よく見りゃ鬼じゃあねえな。それに言葉。外つ国からか」
死を覚悟していたナナリーにとって、言葉をまともに掛けられたのがこんなにも安堵するとは思っておらず、途端に目から涙が止まらなかった。ぽろぽろと溢れだし、声を上げ、肩をふるわせ泣くナナリーに、大の男たちは「おい、何だ」「鬼が泣いているぞ」「どうしたんだよ…」としどろもどろしている。
兵らに注意を促されつつも、益々近寄った元親は、目の前にしゃがむとナナリーと視線を合わせ、そっと頭に手を乗せた。
「俺あ、長宗我部元親。この四国を束ねる西海の鬼たあ、俺のことよ」
にかっと笑った目の前の元親は、いつか本で読んだ古い時代のバイキングそのものに思えた。眼帯を付け、大きな体で笑う仕草の一文があった気がする。冒険物語の序章あたりだっただろうか。
人が笑うのを久方ぶりに見たナナリーは、長い間張っていた緊張の糸がぷっつりと切れてしまった。