後悔先に立たず01

 稲妻が夜闇を裂いた後すぐに雷鳴が轟いた。風雨が激しい。ひどい嵐の晩だ。
外を眺めて叩き付ける雨粒を少々うるさく思いながらも、ナナリーは気を取り直し、万年筆にインクをつけた。
使用人がランプの油を足してくれたおかげで、先ほどよりも明かりが煌々と灯っている。白い家具を基調とした部屋には、父親の土産物が所狭しと置かれ、煌びやかな宝石をまとった異国の調度品は方々にランプの光を反射させて、散らした文字にエメラルドやトパーズの光線を重ねた。そんな中、ナナリーが認めているのは枢密院への嘆願書である。内容は第四次貿易商船における船医増員の要望だ。
 先日、英国を出港したロンドン東インド会社の第三次貿易商船「アリシア号」が大海原で忽然と姿を消した。行方知れずとなったのである。船の最終目的地は、日本の平戸であった。
 アリシア号は、一回目の補給でインドのゴアへ寄港した。その後シンガポールに寄港する予定だったが、予定日を過ぎてもなかなか船が港に到着しなかった。三日経ち、五日過ぎても沖に帆は見えず、不審に思ったシンガポール駐在員はすぐに本国東インド会社へ連絡した。
 東インド会社は、多くの商人たちが各々の屋号を持ち寄って作った協力会社であり、これは英国のみならず、オランダ、フランスと欧州にいくつか存在する。
 ナナリーの家、ライト家も東インド会社を通じて、東方向けの織物、武器の製造輸出を行っていた。近年は主に日本との取引が多い。宣教者を乗せたポルトガル船が、旧式の火縄銃を披露したのがきっかけで、戦乱のただ中にある日本では所望する国が多く、国力のある領主を上客によく平戸で取引をしていた。その為、ライトからも従業員が数十名、商談のためにアリシア号に乗船していたのだ。
 シンガポールから連絡を受けたロンドン東インド会社商人会ではすぐにアリシア号の調査機関が設けられた。商人会へ出席したナナリーの父親は従業員安否不明の状況にやきもきしていた。
 調査機関は、インドからシンガポールまで、ベンガル湾やマラッカ海峡の海域を捜索したが、それらしい船は見つからなかった。近辺の漁民に訪ねても、特段激しい嵐も無く、比較的穏やかな波が続いているし、何しろ大型帆船は見ていない…との情報から、アリシア号は船舶事故に遭った可能性は低いと判断していた。残骸なども見つかっていないからだ。しかし、大きな帆船が突如として消えてしまうなど信じがたい事実である。調査員は、今一度不審な点は無かったか、再度航海日誌を精査した。貿易商船の日誌は、天候、航行状況に加え、船内の様子、乗組員の健康状態までが事細かに記され、寄港の度に現地の東インド会社の駐在員へ写しを提出し、駐在員は本国へ届けるように義務付けられている。
 読み進めた調査員は「乗組員の一人が風邪をひき寝込んだ」と気に掛かる一文を見つけ、もしやと最悪な状況を思い描いていた。黒死病が頭を過ぎったのだ。近頃英国内では黒死病が蔓延していて、相当数の死者を出していた。
 医師であるナナリーも、拡大阻止の為にあちこちに出向いて働いていた。日に日に増える苦しむ患者と、足りぬ薬、悲しむ家族、それらを目の当たりにしていると、四方を海に囲まれた洋上で、発症した惨状は想像に難く無い。
 当時アリシア号に乗船していた船医は、乗組員百数十に対して、わずか二名。感染力も高く、致死力もある黒死病は、発症後数日から一週間で死に至る恐ろしい病だ。船医たちは手が回らなかったか、或いはすでに己が病に冒されていたのか、黒死病は動ける者を次々と沈黙させ、結果、船は航路を外れてしまったのではないか。
 報告会での調査員の推察に皆ため息をつき、遺族は泣き崩れた。
 それを受け、ナナリーの父は商人会と相談し、船医確保が整うまでしばらく次回の出航を見合わせようと提案した。従業員にも休暇を出そうと考えていた。
 ところがその矢先、第四次貿易商船出港がいつの間にやら枢密院で決定されていたのである。
 アリシア号が行方知れずとなり、報告会が終わって間もないというのに、貴族は行方不明者の遺族の心などは知らぬと云った風で、早く次の替え玉を挿げろと言わんばかりに議会をあっさり通してしまったのだ。
 貿易船を出さねば、それだけ対外の売り上げが減ることとなり、商人たちへ投資している貴族たちの利益も当然ながら減る。今回の決定はパトロンである貴族と、一部の東インド会社の商人とが結託した結果だった。
 大航海時代を経て、冒険家が国へ帰ってきたのを皮切りに、己の名誉をかけて、各国の商人たちは真っ白な帆を大海原へはためかせた。開拓地を求め、異国を発見すると文化を学び商談を開始した。物流は陸路のみであった中国に留まらず、その先の東方諸国へと市場が拡大していき、自ら多大な富を得たのだ。
 爵位のある貴族たちがこれに目を付けぬ筈が無かった。儲かる先を目ざとく見つけた貴族は、こぞって商人へ投資を始めた。枢密院に通ずる彼らは、更なる利を得るために、その権力を使い、国主導による通貨操作をも行った。ポンド通貨を下落させ、輸出を飛躍的に増加するようしむけたのだ。結果的に、現在英国はかつて無い好景気で町の溢れ者も減ったが、投資額を増やした貴族たちは、徐々に東インド会社へ影響力を強めていった。本来ならその運営は商人たちの手に委ねられるものであるのに、決定権は彼らの手にある。
 枢密院で決まったからには、商人会は急いで船医を集めることが必須だった。ナナリーは父親と共にロンドン中を駆け回り、船医となってくれる医者を捜し回った。しかし、アリシア号の一件と国内の黒死病対策もあり、首を縦に振ってくれる医者はいなかった。
 船医は最低でも四人は必要だった。ナナリーを含めればあと三人だ。しかしいくら声を掛けてもやはり長期の航海を承諾する者はいない。ナナリーは考え抜いた末、国王から直々の王命があれば、船医が集まるかもしれないと思い、藁をもすがる思いで王命を拝借できないかとこうして枢密院に嘆願書を出すことにしたのである。何が何でも、船員の安全を確保せねばならぬと、ナナリーの父親も、あちこちと手を回していた。
 書類を書き終わると、いつの間にか風雨は止み月が顔を覗かせていた。窓を開けると熱が取れた風が頬を優しく撫でてくる。従業員の為にも、家の為にも、そして医者としてナナリーは次の航海を無事に遂げたいと心していた。
 明日の診療に響くのはまずいと思い、そろそろ床につこうと背伸びをした時だった。ドアの向こうで使用人がナナリーを呼んだ。こんな時間に来客らしい。誰と訪ねると、驚くべき事にアン・ブーリンだという。すぐに面会することを伝え、急いで着替えて客間へ向かった。
 アンは現在、王宮でキャサリン王妃の侍女をやっているナナリーの友人だ。しかしいくら王妃に近い侍女とてそう易々と宮殿を抜け出すことは出来ないし、何しろライトの屋敷までは馬車を使わねば来られぬ距離だ。夜更けの来訪は、もしやヘンリー王と何かあったのかと、不安を煽った。
 下の階へ降りると、客間のソファにアンは座ってナナリーを待っていた。淡いランプの橙色が絹のカーテンに溶け、部屋には紅茶の良い匂いが充満している。仕事の早い使用人にありがとうと声を掛けると、彼女は部屋を出て行った。

「アン、一体どうしたの。こんな時間に」

隣に座ったナナリーにアンはずいと近寄ると、目をつり上げ、睨みつけると捲し立てた。

「聞いたわよ!ナナリー。あなた次の航海で日本に出かけるんですって?しかも船医として!どうして私に相談してくれなかったの?」
「どういうこと?私は医者として、その…、航海にで」
「そうじゃなくて!船医が足りないってことよ。言ってくれれば、枢密院に掛け合うより、私が直接ヘンリー王に王命を出してもらえるよう言ったわ!」
「それは、やっぱり順序があるし…」
「あなた本当に融通が利かないのね。こういう時はずるしていいのよ。侯爵たちを見てご覧なさいな。船が消えても、あなたたち商人をまるでチェス盤に乗せる様に扱ってお金儲けしてるじゃない。自分たちで船医を集めもせずに!」
「それは…仕方ないわ。投資家が居ない商家は潰れてしまうもの。でも、ありがとうアン。その言葉だけでも私十分嬉しい」

ナナリーが、微笑むとアンは寂しそうに笑って、カップに口を付けた。
 ふと、ナナリーにはアンが以前の雰囲気よりどことなく違って映った。やはりヘンリー王と関係を持ったからだろうか。
 ヘンリー八世は、現在キャサリン王妃が妻であるのだが、よくある話で、その侍女であるアンと数ヶ月前より愛人の間柄であり、王の寵愛を一身に受けた肉体関係であった。ヘンリー王は側近などには男子を産ませる為だともっともな理由を言っているようだが、アンを見ていると、どう見てもヘンリー王の言うような割り切った関係には見えなかった。近頃の彼女は女性のしなやかさが増したとでも言おうか、いや、そうではなくもっと根本的な、ナナリーにはあまりなじみの無い雰囲気で、アンが触れた場所からは今にもブーケが飛び出しそうな気さえする。動作一つとっても思わず見とれてしまうのだ。じっとアンに視線を這わせて居たナナリーに、アンはなあにと笑った。

「アン、聞いてもいい?」
「なに、改まって」
「その、ヘンリー王とは…そういうのって恋?なの?」

アンはきょとんと目を丸くしてナナリーを見つめると、声を上げて笑っていた。なんだか小馬鹿にされているような気がしたナナリーは、そんなに笑わなくてもいいじゃないとむすっと頬を膨らませると、アンはごめんなさい。と目尻にハンカチを当てた。

「ナナリーは初心ね。そうね…これって恋、なのかしら。正直なところ分からないわ。ヘンリー王の事はとても愛しているけど、私の場合、冒険心が強かったのかも。あなたには、素敵な婚約者がいるでしょう。一緒に居て、そういう恋してるような気持ちにならないの?ラブレー公とは会っていないの?」
「彼とは…婚約が決まった時、まだ一度しか会ってないわ。それに私、よく分からないの。お父様が決めたことだからきっと間違っていないとは思っているけど、正直、婚約なんかしなくたって、ううん。したくないって思ってる」

俯いたナナリーの緩やかな銀色の髪をアンは梳くと、頭を撫でた。

「出航前に一度ゆっくりラブレー公と話をしてみたらいいんじゃないかしら。お互いの気持ちをきちんと話すことが大切よ。彼は貴族院でも評判いいから。大丈夫」
「そう、なのかしら…。なんだかアンのようには…なれない気がする」
「あなたが私みたいになったら大変。毎日毎日キャサリン妃の視線が痛いわ」

冗談めかして言ったアンはふと柱時計を見ると、もうこんな時間ねと呟いて、思い出したかのようにクラッチから何かを取り出した。出てきたのはガラスで出来た懐中時計で、透き通った中の歯車が動くのが外側からでもよく見える。かみ合っては離れを繰り返す一連の仕掛けは、見ていて飽きなかった。

「これね、餞別。ナナリーにあげるわ。私のこともたまには船の上で思い出してね」
「こんなに珍しいもの、貰っていいの」
「もちろん。今日はそのために来たの。その代わり、嘆願書。あなたのことだから、もう出来てるんでしょ?持ってきなさい」

ナナリーは戸惑ったが、友人のありがたい申し出を素直に受けることに決め、先ほど書いた巻物を渡し、アンは屋敷を後にした。その晩ナナリーは久々に穏やかな眠りに付くことが出来たのだった。

 ・

 出港が迫ったある日、ナナリーはラブレー公の屋敷に招かれた。
船医として第四次貿易船に乗船するので、婚儀はそれ以降になるとラブレー邸に使者を出したところ、すぐに会いたいとの返事だったからだ。
ナナリーは一番仕立てのよいアイボリー色のドレス纏い、馬車もわざわざ六頭立てで婚約者の邸へ向かった。馬の頭数は父親の意向であるが、それは階級を現す一種の指標にもなっている。一介の商人ジェントルであるにも関わらず、道中、一体どこの貴族だと街中の注目を浴びたナナリーは景色を楽しむことなく窓のレースを引っ張った。緊張でコルセットがいつもよりきつく感じ、揺られながら酷い気分であった。
 進んでいた馬車がラブレー邸の門の前で止まり、門番に用件を告げると立派なバロック調のアーチを描いた門扉は音を立てて左右に開いた。ところがぽくっと一歩進んだだけの馬は中へ入らず止まった。不思議に思い、外を覗くと、婚約者のローランド・ラブレー公がわざわざ出迎えに来ていたのだ。金糸で縁取られた黒いロングジャケットを着て、腰には刀剣を下げている。凛とした佇まいで、馬車の中のナナリーを見つめていた。使用人が扉を開けると、すかさずローランドはナナリーの手をとり、甲に口付けをした。

「お待ちしておりました。ナナリー嬢。お久しぶりですね。邸で待ちきれず、門まで来てしまいました」

爽やかな笑みを浮かべ、馬車から降りるナナリーの体を支えた。

「それは、その、大変嬉しく思います。ラブレー公」
「どうぞ、ローランドとお呼びください。僕は、君の夫になるんだ」
「で、では…。ローランド、と」

 俯きながら呟いたナナリーに、ローランドは満足げな笑みを見せた。庭を散策しながら、邸へご案内しますと手を握ったまま二人は歩き始めた。
 相当数の種類の薔薇がひしめくラブレー邸は、貴族の間でも無類の薔薇好きと有名であって、その庭は大変立派な回遊式庭園だ。薔薇園専属の庭師も雇っていて、毎年ロンドン薔薇品評会を主催しているのもラブレー公である。
 ローランドは楽し気に自慢のバラの説明をしながら終始ご満悦の様子だ。あの薔薇はダマスというバラ、あちらの真っ赤に濡れた色のものは妃という名で、ああ、君にぴったりかなと歯の浮くことをさらりと言ってのけた。ぎこちなく隣を歩くナナリーは、美しい薔薇の様子も説明もなにひとつ頭に入ってこなかった。こういったことに慣れなければならぬのだろうかと友人のアンを思い浮かべ、助けを求めたかった。
 連れ立った二人は、やがて庭のパーゴラの下にやってきた。這った葡萄の蔓が緑の屋根を作り、ちょうどよい木陰になっている。枝垂れた枝には小さな青い実がなっていた。二人はベンチに腰掛けた。葡萄の収穫はまだまだ先かなとローランドは笑んで、下がった一粒だけを千切り、手のひらに乗せてナナリーに差し出した。艶々とした実は葉の緑とは違いもっと若い色をしている。宝石のようなそれにナナリーが手を伸ばした時、ローランドは徐に抱き寄せた。

「ナナリー、君がロンドンを離れてしまうのはとても寂しい。何かあったら、僕はすぐに駆けつける用意はある。お願いだ。無事に帰ってきてくれ」

 きちんと会うのは二度目だというのに、決められた婚約であってもローランドは慕ってくれる。敬遠していたこれまでに少しの罪悪感を覚え、今後は気持を寄せる努力をしなければならないと思い、ナナリーは素直に頷いた。

 その後、ナナリーは出港の準備に追われた。
アンのおかげもあって無事に船医は集まった。出航までは船上の医療行為について取り決めをしたり、事前に乗組員の身体検査などしたり、更には日ごろナナリーが勤務している診療所の仕事もこなし、大変忙しい。これまでの日常は目まぐるしく過ぎ去り、いよいよ、第四次貿易商船の出港の日を向かえた。
 今回ナナリーが乗船する船は、ユーフェミア号といって三年前に新造されたばかりの大型ガレオン船だ。凡そ八百トン近い大きさで、ロンドン東インド会社が所有する船の中でも最大級の商船である。海路が次々と開拓される中、船の需要は増え、造船技術も船自体の機能も向上している。また、商人たちは造船技師協力の下、積載量を増やす為に日々改良を行っていた。そうしてできたこの船は、先月試験航海を終え、今回が初の長期航海、つまり処女航海である。
 ユーフェミア号のメインマストには、英国旗を頂点に、そこから東インド会社に属する会社のペナントが放射線状に飾り付けられ、出港を待ち望むように風を誘っている。
 港は見送りの家族や恋人たちで溢れかえっていた。先の第三次航海のこともあって、皆一層心配そうな表情を浮かべ、乗組員と別れを惜しんでいる。その様子をデッキで眺めながら、ナナリーは父親と日本での主な取引について話をしていた。ナナリーは、一応は船医であるが、平戸に到着すればライトの商人として商談にも立ち会うことになっている。
 現在、日本の国内情勢は混沌の只中にあって、国によっては一触即発もありえる程に不安定なのだという。故に、国防に力を注ぐ領主が多く、日本での銃、弾薬の売上は格段に伸びていた。既に第四次分の買い手は決まっているようで、相手方は前回のアリシア号で納入予定だった品物が届かないことを気を揉んでいるらしい。また、他国が隙を突いて積荷を狙ってくることも肝に銘じておけとのことだ。随分物騒な国だとナナリーはため息が漏れた。
 真剣に親子で話をしていると、岸壁からの視線を捉えた父親はナナリーに目で合図をした。見送りの人の中に、ローランド・ラブレーがいる。船は離岸準備に入っていた。今更降りるわけには行かず、ナナリーは遠慮がちにデッキから手を振った。

「ナナリー!きっと僕のところへ戻ってきてくれ!」

 出港の合図である音楽隊の演奏に重なったローランドの叫びは、英国の岸が見えなくなるまでナナリーの耳にいつまでも残っていた。

 航海は順調に進んだ。悪天候で時化る日はあっても、白波が甲板を襲うほどの高波にも今のところ遭遇していない。インドが近くなり、発生していたサイクロンも運良くユーフェミア号と接近することはなく進路を逸れた。
 穏やかで、きらきら光る水面を眺めていると、つい先日まで嘆願書を書いていたのが嘘のようである。ため息をつくナナリーに、側に居た父親は恋しいかと冗談を言った。父が思い浮かべるのは婿になるローランド・ラブレーである。

「あれはいい男だろう。実直で、思いやりのあって。婚約の決まった日以来、ナナリーと長い間逢わなかったのは、結ばれる日まで気持ちを抑え切れそうにないからだときている。まったく、わしの娘は幸せ者だ」

 ラム酒を片手に、父親は酒が回っている様子だった。ナナリーはええ。と一度頷いてまた波間を眺めた。父の言うように、恵まれていた。生まれた環境にしてもそうだ。商家の家に生まれなければ、今こうして長年の夢であった医者として働いていなかったかもしれない。この船に乗船したのも、家の為、医者としての責務を果たすためで、己の選んだ最良の選択だ。何事も良い方向に舵を取っているし、これ以上に何を望もうというのか。このユーフェミア号が進みゆくように、文句の付けようのない大きな船体、泰平な航路、ナナリーという娘は父親の描く理想の娘だ。
 船員たちと談笑をはじめた父はその場を離れた。ナナリーは遠くの海を眺めてみる。三六〇度、何処を見ても平らかに凪いだ海が延々と続き、水平線へと繋がっている。それだけでも十分に美しく、額縁に飾られた絵のようだ。例えばここに、海豚か鯨、或いは海鳥を加えたなら、眼前に広がる美しい殺風景を冒険小説の挿絵にすることも出来るかも知れない。今一度、楽しそうに酒を煽る父を眺めたナナリーは、医療日誌を書かねばと思い出し、甲板からそっと自室へ戻った。

 そうしてナナリーが珍しく絵空事に思いを馳せたのは何かの前触れだったのかは分からない。

 真夜中だった。
メインマストで宿直の監視をしていた船員が、向かい側から大きな何かが迫っていると、しきりに面舵一杯を叫び、警笛を鳴らしていた。慌ててナナリーも飛び起きデッキに出た。妙な潮風が巻き上がるようにユーフェミア号を包んでいる。船の急旋回でタープにくるまっていたはずの荷は解け、酒類の瓶が割れ、ガラスがそこら中に散乱していた。けがをして動けない乗組員が居た。手を貸さねばと進もうとすると、先生邪魔だ!とがたいの良い船員がナナリーを船室へ押し込むその時、ナナリーは、ユーフェミア号の目前から闇間にぬっと現れたものに唖然とした。
 幾月も前、ナナリーも父親も見送った行方不明となっていたあのアリシア号が、この船に迫っていたのだ。他の乗組員も信じられない様子で幽霊船でも見ているかのように呆然と眺めていた。しかし、そんな余裕はなかった。波と潮風に煽られたアリシア号は、どういったわけか帆が張られたままである。この風の中、帆を畳んだユーフェミア号よりも何ノットも早い。両船は、オールで船体を操作しても衝突が避けられない位置まで迫っていた。気づいた時には、アリシア号の船首は、勢いをつけてユーフェミア号の右舷に轟音を上げていた。砕けた箇所は海水を勢いよく吸い込み、船内下部でオールの操作をしていた乗組員の叫び声が聞こえ、一瞬にして消えた。悪夢であればいいと誰もが願っていた。甲板に居る者たちは、船体が無事なアリシア号に急いで乗り移れと誘導をはじめた。だが、アリシア号は黒死病の疑いを持ちながら行方が分からなくなっていたのだ。ナナリーはとっさに引き留めた。

「だめよ!黒死病がアリシア号に蔓延しているかも知れないのに!」
「先生!こんな状況でそんなこと言ってる場合じゃねえよ!先生も早く飛び移るんだ!」

押し問答をする間ももったいないと、その船員がアリシア号に移った時だった。父親がユーフェミア号から夜の海に放り出されたのである。ナナリーは無我夢中で海に飛び込んだ。暗闇の中、父の手を辛うじて握ることが出来、溺れそうになりながらもやっとの思いで水面まで引き上げた。すぐそこには、ユーフェミア号から、船員たちが手を伸ばして父親を引っ張りあげた。最後に聞いたのは、船員の声だったが、力尽きたナナリーは、砕けた板に押し流され、ユーフェミア号の明かりが次第に遠くなっていく様子を夢の中で見ていた。