背に恋情 1
「そろそろ、幸村を戦に。初陣は次の北条征伐とするか…」そう独り言のように言ってにやりと笑った武田信玄は、背後の忍を上田へ使いに遣った。
近頃は、蒸し暑い日が続いていて初夏の訪れが駆け足で来ているかの様な気候が続いている。
今朝もお香は己が勤める団子茶屋、赤松屋に出勤すべく間借りしている長屋で身支度を整えていた。
間借りと言っても、この部屋にはお香しか住んでいない。もともと店主が住んでいたところをそのまま譲り受けたのだった。代金はもちろんお香の給料から引いてもらっている。
いつもと同じ少しくすんだ朱色の生地に百合がのった着物を着て、山吹色の帯を締めた。帯留めだけでも今日は違った物をしてみようと店に来る客から貰ったべっこう細工の帯留めを引き出しから取り出した。
それを帯紐に通しながら、今日は団子の注文が大量に入っていたのを思い出した。女将は早く出て来てもらえる?とは言わなかったが、きっと店主松乃輔と早くから準備に忙しいに違いない。
髪を撫で付けて、自分も手伝いをしなければと巾着を手にしたお香はいつもより早く家を出た。
途中、井戸のところで近所の女性陣がこの長屋の管理をしている米問屋の旦那と談笑しているところに出くわした。「おはようございます」「あら、お香ちゃん、いってらっしゃい」と軽く挨拶を交わして急いで店までかけた。
団子茶屋赤松屋は真田昌幸が城主である上田城の城下にある。
大手門から真っ直ぐ伸びた海野町に構える店は、長屋を管理する米問屋が建てたものだった。そこに四十路を過ぎた店主の松乃輔と女将のお美代の仲睦まじい夫婦が切り盛りしている。
お香が店に着くと暖簾はまだ裏返ったままで、店内からは小豆の匂いを漂わせて白い蒸気がもくもくと外へ溢れ出ていた。お香は裏口から店へ入った。
「おはようございます~」
「あら、お香ちゃんおはよう。随分早いわねえ」
にっこりと笑った女将は手ぬぐいを三角に折って頭に充てている。小豆の入ったせいろを手にしてちょうど小豆を蒸かし終わったようだった。
「注文入ったの思い出して急いできました」
「まあまあ、ありがとう」
そう言った女将は上機嫌に「あんたー!あんたあ?!」と厨房の旦那もとい店主松乃輔を呼んで「ちょっとお、今日はお香ちゃん、早番で帳面につけとくんな!」と叫んだ。厨房では松乃輔が「おう!」と一言返事をした。
「女将さん、今日はどのくらい注文あるんですか?」
「今日はみたらしと餡子、三十人前ずつだって」
「三十人前ずつ…?!源次郎さん一人で平らげちゃう気かしら」
「あの旦那も本当に甘いの好きよねえ。うちの団子は特に美味しいって言ってくれるからうちんのはいつも張り切っちゃってるわ」
女将は窯に小豆を移し終えると、竃の火の具合を調節しながら言った。
注文の分はもちろんのこと本日営業分の団子も仕込みをしなければならない。作業が増えるが、それも開店時間に間に合わせる必要がある。
店主の松乃輔は先ほどから注文分の団子を三十人前一心不乱に煮えたぎる湯釜に放り込んでいた。
その隣の窯ではみたらしのたれを火にかけている。松乃輔に竃から何本か炭を除いてくれといわれたお香は火を弱めると、源次郎から預かった重箱を取り出して机に並べた。
店に来る源次郎というお香と同い年くらいの青年は、どうやら商人の家であるらしいが、正直な所お香も詳しいことは知らなかった。ただ、人懐っこく甘味好きで世間話が大好きな常連客という印象しか無い。
襟足だけが長く、少し変わった頭をした源次郎は毎日のように店にやって来て、必ず一本以上は団子を食べて帰り、更に手土産までも買ってゆく。
今日の様に大量に注文をする時は、大抵お付きの人が「これに詰めて下さい」と重箱をわざわざ手ずから携えて予約にやってくるのだった。
またこの重箱が非常に繊細な細工が施されてあって、えんじの重箱の蓋には金縁、そしてその表面には鶴、亀、柏、松竹梅といった縁起の良いものが金箔で描かれている。
重箱の側面には何故か菱形が四つ並んでいる武田の家紋が刻まれてあった。
源次郎の風貌からは育ちのよさが染み出ていていたのを、女将は「きっと縁のある人なのかもねえ」と言っていたが、本人からは全くそんな話しを聞いたことも無かったし、お香にとって源次郎はただの甘味好き源次郎だった。
餡子とみたらし三十人前がまさか全て源次郎の腹に収まる訳ではなかろうなと考えて、開店までまだ少し暇があったお香は箒を手に取って店先の掃除をすることにした。
「頼もう!松乃輔!団子は出来ておるか!」
突然、頭に思い浮かべていた人物の声が響いてあたふたしていると源次郎はひょこりと暖簾から顔を出していた。
「おお!お香!団子はできているか!」
「源次郎さん?!びっくりした~まだお店開店前よ?もう少しでできるからお茶でも飲んで待ってて」
「んもう、甘味の事となると本当そそっかしいんだから。はい、お茶どうぞ」とお香は湯のみを差し出した。「すまぬ、忝い」と源次郎は腰かけるとその目線丁度の高さは、お香の帯の部分だった。湯のみを手にしたまま源次郎はお香の帯をじっと見つめていた。
「あ!そうよ、これ。源次郎さんから頂いた帯留めよ!本当素敵、ありがとう!実は今日初めてつけてみたの」
どお?似合う?と小袖の裾を持ってくるりと一回転して首をかしげて言った。
源次郎は湯のみを口に充ててなにかもごもごと言っている。お香はなあに?と笑って源次郎に他に言うことは無いのかと問うが、厨房から「お香ちゃんあがったよー!」との女将の声にお香はその場を離れた。
源次郎は湯飲みで口を覆ったまま「似合っておる…」と言ったがそれはお香の耳には届かずにぶくぶくと泡になって湯のみの内で消えた。
「はい!源次郎さん。餡子とみたらし三十本ずつね!」
「おお、良い匂いだ!」
「途中でつまみ食いなんてしちゃ駄目よ?」
「わ、わかっておる!」
「それならばよろしい!」
澄んだ朝の空気の中、店からは仕込みの甘い匂いが漂って、店先の静かな通りには二人の笑い声が響いた。
「では、お香」
「うん、気をつけてね!いつも御贔負にありがとうございます!」
源次郎は重箱を抱えて、城の方角へと遠のいて行く。お香はその姿が見えなくなるまでずっと眺めていたが、度々、源次郎が振り返り、振り返り、しながら何度も手を振っているのがおかしく、危なっかしい。源次郎を見送りながらお香は顔から笑みが絶えなかった。
「源次郎さあん!そんなによそ見ばっかりしてたら、転んじゃうわよ!」
その言葉に源次郎は重箱を大事そうに抱え直して、今度こそ背を向けたのだった。
赤松屋から城へ続く道から直接大手門をくぐらずに、幸村は東側の門から場内へ入った。
重箱を手にしたご機嫌な幸村に、門番は槍を持ち直し居直って礼儀正しくお辞儀をする。
軽快に砂利を踏みしめながら、中庭を横切って自室に戻ろうとすると、松の木から突然声が降った。
「旦那ー。顔、にやけてるけど?」
「佐助!お前も一緒にどうだ?たった今出来たばかりだ」
「いんや、遠慮しとくよ。それよりも大将から伝言だ」
大将と聞いて幸村はその顔を引き締めた。縁側に座り風呂敷を開こうと手をかけていたがはたと止めて、真剣なまなざしで佐助を見据えた。その伝言は幸村がずっと待ち続けていたものかも知れない。佐助から発せられる言葉に気が高ぶりはじめた。
「初陣、決まったよ。おめっとさん」
「そうか!そうか!!俺もいよいよ戦場に赴くことが出来るのだな!!お館様ああ!!ありがたき仕合せにござります!!!」
その声に驚いて木々に留っていた鳩がばさばさと羽を広げて空へ飛んで行った。
「ちなみに真田軍は三万、兵を用意するように言われてるよ。足りない数は牢人を雇う。手はずは現在進行中で昌幸様が整えてる。旦那は大将から武田の一軍を任されると思う。明日から躑躅ヶ崎館に詰めてくれってさ」
「明日からか。あい、分かった。お館様にも是非幸村が一番槍をご覧にいれますと伝えてくれ」
「了解っ」
幸村は、初陣と言う最高の知らせを受け、これまでに無い程最高の気分で重箱の包みを解いた。両手に団子を握りしめ、勢いよく食べ始めた。朝からその甘い香りを漂わせ、美味しそうにかぶりつくその様子は呆れもしたが、本人が幸せならばよいと佐助は思った。
「なんだ?やはり佐助も欲しいのではないか?」
「違うよ!旦那ー…そう言えば最近赤松屋のお香ちゃんとえらく仲いいじゃないの」
その言葉に幸村は思わず吹き出しそうになって、むせて苦しいのか顔は真っ赤になっている。咳払いしながら呼吸を整えた。
「だ、だ、団子を買いに行っているだけだ!」
「ふーん。それならいいけど。取り敢えず俺は一旦戻るよ。明朝までに出立の準備しといてね。いい?明日だよ」
「うむ」
佐助はまた松の木へ跳躍して上まで昇ると黒いカラスと共に飛び去って行った。
それから、団子を平らげた幸村は串だけになった重箱を廚へ持って行くことにした。次に赤松屋の団子を食べることが出来るのはいつになるだろうと考えてとぼとぼと廊下を歩いた。
団子茶屋赤松屋は本日も千客万来仕込み分完売のうちに今日の営業を終えた。
店内から客が全て引き、その後片付けをして外の洗い場で台拭きを洗い終えたお香は前掛けで手を拭った。
裏口からまた店内に入ろうとすると、中から皿や湯飲みが入ったもろぶたを抱え、女将も出てきた。
「お香ちゃん。そういえば、ここのところ源次郎さんとんと来ないわねえ」
「そうですね。お勤め忙しいんじゃ無いかしら。でもこうも来ないとなると、そろそろ雪か、槍でも降っちゃいますね」
「んもう、お香ちゃんったら!」
笑った女将も台拭きを桶に入れて、もみ洗いを始めた。
赤松屋の裏口脇に延びている小道には先ほどから侍や真田の武士が度々通りかかった。
店から真っ直ぐ上田城方面へ上ると、城の三の丸や下屋敷に続く道で、この道は隣の海野裏から登城する上田の直臣たちがよく使っていた。
近頃は、臨時で雇われたらしき牢人が昼夜問わず多く行き交っている。あまりこの辺りでは見ない様な風体の侍ばかりだ。
血気が今にも溢れ出そうなほど勇ましい人ばかりであるものだから、その猛々しさに町人街に買い物に来る一般客や赤松屋に来る客は、そろそろまた戦が始まるのではないかと噂をしていた。
手ぬぐいをぎゅっと絞った女将は皺を叩きながら言った。
「そういえば、昌幸様。やっぱりご出陣されるんですってよ。米問屋の旦那が話してたわ。俵の準備に忙しいって」
「そうなんですか…そういえばここの所騒がしい気もします。常田の辺りも随分と人の出入りも多くなった気もするし…」
「まあねえ。でも、こうして城下で店構えてられるのも真田様のお陰だから」
そうですよねとお香は首を縦に振って、女将から器や湯飲みの入ったもろぶたを受け取ろうとすると「今日はもういいわよ!お香ちゃんはもうお上がんなさいな」と言ってお香はその言葉に甘えて今日の仕事を終えた。
帰り道、初夏の土手は菜の花のしおれた茎がくたりと横たわっていた。枯れてその表面は少しばかり白くなっている。色濃くなった周りの草花を見ているとその緑が移ったかのようだった。
その茂る中にお香はふと見慣れた、随分と長いこと見送らなかった後姿が目に飛び込んで来た。認識した瞬間お香ははっと息をのんで、途端胸の奥が熱くなった。
間違いなく、それは源次郎だった。
土手の少し斜めになったところにぽつねんとしゃがみこんで物思いに耽っているように見える。その背中は土産の団子を携えて意気揚々と店を出るいつもの源次郎では無いように思った。
お香は声を掛けようか掛けまいか迷っていた。客の事情に首を突っ込むのもどうかと思ったのだ。
細い土手の道を向こうから豆腐屋がやって来ている。お香はすれ違うのにその場に立ち止まった。豆腐屋は会釈をしてお香の前を通り過ぎた。
いつの間にかお香の唇からは自然と源次郎の名が零れ出ていた。
「源次郎さん!」
名前を呼ばれ、振り向いた源次郎はお香の姿に驚いた様子だった。
源次郎は袴を着ていたが、どことなく店に着てくるものよりも上等の生地のように思えて、珍しく羽織も羽織っていた。落ち着いた朱色のものだ。
「お香!随分久しいな。もう店は仕舞いか?」
「そうよ。今帰りなの。最近来ないわねって女将さんとも話してたの」
お香は土手をゆっくり下りて「元気にしてた?」と笑みを浮かべて、源次郎の隣に座り顔を覗き込んだ。
「一人でしゃがみこんで…何か、考え事?」
「あ、ああ。まぁ大したことは無い」
川をまっすぐに見つめていた源次郎はお香に顔を向けて困ったようにお香に笑い返した。
ただ、どことなく心配事がある様な雰囲気だった。
川岸ほのあちこちでは蛙がげこげこと鳴いて、傾き始めて色濃くなった陽が護岸の木々に当たって、源次郎に影を落とした。
「源次郎さん。お客さんの諸々の私情にあまり突っ込むのはあれだけど、私でよければ話聞くわよ?お勤めそんなに大変なの?」
「大変、ということはない。むしろ勤めが俺の望みでもある。ただ…」
先日、信玄に呼ばれて出向き、軍議に参加した幸村に待ち受けていたのは酷な現況だった。北条、今川、上杉はどうやら三軍勢とも同日の武田軍への戦闘開始を計画しているらしく、あまりにも多勢に無勢の様な構図は初陣の幸村にとっては壮絶な戦になることは間違いなかろうとの家老の見解だ。だからといって、そのくらいのことで幸村がひるむ訳ではない。いつでも己の死に場所は戦場であると心に決めているからだ。
しかし、そんなことを考えているとはさすがにお香には言えない。幸村は甘味好きの源次郎さんなのだ。
お香は「ただ…?」と幸村の最後の言葉をおうむ返しにして首を傾げた。
「少しの間、上田を離れるのだ。赤松の団子が食えなくなってしまうのが悔やまれると思ったのだ」
「あら、遠方へお出かけなの。いつでも暖簾掲げてお店で待ってるから、帰ってきたらいつでも来て頂戴な。そんな大袈裟に悔やむこと無いでしょう?」
一時の沈黙があって後、少しばかり強い風が対岸の方へ吹き抜けた。茎が弱くなった菜の花は大きく流されて揺れて倒れていった。幸村はその一部始終を眺めて少しため息をついた。
「源次郎さんって本当甘味だけには真面目なのねえ」
「お香、そなた時折心に来ることを言うな…」
「冗談よ!」
ふと幸村はお香の帯留めが目に入った。この間もお香は幸村が贈ったものをつけていた。あれから帯留めはこのままなのだろうか、きっと気に入ってくれているのだ。そう思うと緊張は柔んで自然と顔はほころんだ。
「時に、源次郎さん。前々から聞こうと思ってたんだけど…」
「なんだ?」
「その首からさげてるのね。それって六文銭よね?やっぱり城主の真田様にあやかって?」
すると、幸村は少々慌てた様な様子で首から下がっているそれを隠す様に咄嗟に握った。
「そうよね。やっぱりそう。私も真田様をお慕いしてるわ」
「お、おおおお慕い?!!」
「ええ、だってこんなに素敵な城下をお作りになって、私も楽しく過ごせているんですもの。源次郎さんもそう思わない?」
「あ、ああ…そちらの意味であったか、思う!俺もそう、、思うぞ…」
「でしょ?それにね、」
源次郎さんともお知り合いになれたから、私嬉しいのよ。とお香は少し恥じらいながら言った。
その言葉を聞いて幸村は思ったのだ。
槍を振るうのは己の武功の為でもある。それによって恩賞も弾む。ただ、戦はそればかりではない。この城下に住まう人々がお香の様に暮らせる為であるのだ。
信玄の為に槍を命一杯振るうこともそれもまた、家臣冥利に尽きるというものだ。しかし、槍を振るって死に場所を求めるだけでなく、例えば民の、いや誰かの為に振るう槍はもしかするとそれはより一層強靭なものに生まれ変わるのかも知れない。
対岸を眺めたまま幸村は大きく深呼吸した。
今川、北条、上杉、同日作戦決行が何だというのだ。己の初陣である。
「俺も、っ、お香と知り合えて嬉しく思う。帰ったら、団子をまたよろしく頼む」
任せといて!と言ったお香の手を幸村はそっと握って心の中で決意を新たにしたのだった。