きっとその時まで 1

 家の近所の駄菓子屋には夏休みな事もあり小学生がやいのやいのと詰め掛けていた。
未だに瓶詰め菓子や紐付きおみくじなども置いてあって、店にはいつもおばあちゃんが一人、勘定をする棚から卓上扇風機を浴びて、土間の上がりにゆったりと座っている。店先の軒に下がっている氷の文字が入った氷旗と、金魚が泳ぐ風鈴は風が吹くたびにゆらゆらと揺れていた。
そこから少し裏路地に入ると昭和30年から40年代に建てられた2階建ての古い木造アパートが三軒連なっている。外装も朽ちた壁面には蔦植物がみっしりと蔓延って、トタン屋根まで伸び、緑のカーテンを形成していた。今だからこそこれはエコと言われるのかもしれないが、それを抜きにして見ると周囲の建物の陰になれば三軒のアパートは廃墟のようにおどろおどろしいのだ。二階へ続く外付け階段の手すりは錆が錆を覆いつくしているようで、掴めば手が赤褐色になるのではないかと思う程の酸化具合だった。
しかし、三軒あるアパートの内二軒はいくつもの空室看板が部屋の前に目立っているのに対して、香菜の住むマンションの向いの常葉荘というアパートだけは何故か毎年満室なのだ。空室看板が掛けられてあっても4月になるときれいに無くなってまた新しい入居者がすぐ決まる。
この辺りは近くに国立大学があって、キャンパスから徒歩五分と言った立地だ。しかし周りには安く、築年数もそう経っていないもっと良い物件もありそうなものだが、学生はこぞってこのアパートに引越しを希望するのだと言う。
普段から人の出入りも多く、薄い壁からは時折賑やかな笑い声が外まで聞こえている。大学から近いこともあって学生同士の集会場と化しているようだった。

道路を挟んで15階建てマンションの8階に住んでいる香菜は一人暮らしの女性にはあまりにも立派過ぎるマンションに住んでいる。恐らくこのマンションは所帯向けなのだが、父は少ない財産の税金対策に一室買ったからと半ば強制的に香菜に住めと言い、香菜は部屋の鍵を貰ったのだ。しかし、税金対策と言ってはいるものの、本当は"税金対策でマンションを買う"という父の見栄っ張りだと香菜は思っている。しかし何にしても、ここの立地は香菜にとって条件が良かった。職場からも近く、駅までの道も遠くない。商店街も徒歩圏内にあって地場の小さなスーパーは品揃えも良く、非常に生活しやすいのだ。父の見栄っ張りが香菜のライフスタイルに合った物件を引き合わせたのか、それとも親心なのかと問われれば香菜は後者を信じて感謝したいと思った。
それでも香菜には一つだけこの住まいに不満があった。
香菜は毎朝、通勤する際マンション前面の道路を通り、駅へ向かうのだが、引っ越して間もない頃のとある朝、玄関を出ると、


「行かないでくれ!!」


と切羽詰った男の声に急に呼び止められたのだ。
いきなり掛かった声に驚き、声のした方を見ると常葉荘の二階から男がこちらをじっと見ている。香菜は何事かと一時その様子を伺っていたが、相手ははっとして、


「お、おはよう!お姉さん!いやぁ~そのワンピース可愛いね!」


と先ほどの焦ったような声とは一転しておどけたように言うのだ。行かないでくれとは自分以外の誰かに言ったのかと思い、辺りを見回すが香菜以外に通行人は居ない。とりあえず、愛想笑いを顔にくっつけて軽く会釈をし、その場を離れた。
しかしそれからというもの、大体3日に一度の割合で男は香菜の通勤時間帯に常葉荘の二階から声を掛けてくるようになったのだ。
「今日もいい天気だな!」とか「あ、髪型かっわいい~~!」「ねぇねぇ、たまには俺の相手してよー!」とやたらと馴れ馴れしく、時には歯の浮くような事も言ってくる。何度も声をかけて来るので香菜は何処かで知り合った人かと思い返してみるが全く記憶にも無く、面識もない。
最初は突然の事にびっくりして愛想笑いをしていたが、いい加減香菜はうんざりしていた。朝は只でさえバタバタとしてるのに、訳も分からない男に声を掛けられる。きっとこれは新手のナンパだと思った。もしかしたら最初に愛想笑いをしたのがいけなかったのかもしれないと思い、その後声を掛けられても無視を決め込んでいたのだ。
本来ならばすぐさま引越しをしたいところなのだが、生憎今は引越し資金も無い。

今朝も香菜はエレベーターで1階へ下りながら、ナンパ男に会いませんようにと祈りつつ、マンションのエントランスから外へ出た。見上げると夏空は青く高い。絵葉書になりそうな空から目線を少し下げて常葉荘二階を少しだけ視界に入れる。どうやら今朝は例のナンパ男は居ないようだと安心して肩の力を抜き、朝の空気をうーんと命一杯吸い込んで駅へ軽やかに一歩踏み出した。


「お姉さんっ!おっはよー!」


降ってきた声に一気に、吸い込んだ朝のすがすがしい空気はため息として吐き出される。肩に掛けているバッグも気持ち重くなったように思えた。あぁ、またかと香菜は今日も振り返らずに、駅へ急いでヒールを鳴らす。
後ろの方では、部屋のドアがガチャリと開いた音がしたかと思うとまた別の男の声が聞こえた。


「てんめぇ、朝からうるせぇよ!」


と、何人か出てきたようでぎゃあぎゃあと騒いでいる。どうやら、あの部屋も学生の溜り場になっているようだ。その声を背中に受けながら、学生はのん気なものだなと突き当たりのT字路を左に曲がる。ちらと来た道を振り返ると、ポニーテールのナンパ男は仲間にもみくちゃにされながらも錆びた手すりに身体を乗り出して、香菜にいってらっしゃーいとにこにこと手を振っていた。



「ちょ、痛い痛いよ!手すりが…腹に食い込む!!!」


政宗と元親はこれでもかと慶次の首に腕を廻したり、背に覆いかぶさったりしてじゃれる。二人分の体重が身体に乗って時折うぇとかぐへぇと言いながらも慶次は抵抗するが、起き抜けに二人分のプロレス技を受けるのはさすがにもう限界で、上に乗りかかる二人にギブギブ!と声を絞り出し、自分を押さえつける腕をぺちぺちと叩いた。開放された慶次はぜぇぜぇと肩で息をして二人に向き直り手すりに背を預ける。Tシャツの腹の辺りは案の定一文字に赤褐色の模様が出来ていた。


「あーあ、このTシャツ気に入ってたのに」

「あーあじゃねぇ!ったく、朝から盛ってんじゃねーよ」

と政宗はにやっと笑ったかと思うと慶次の頭にさらにチョップを喰らわす。

「ほら、さっさと部屋片付けるぞ」

そう言って、政宗と元親は部屋へと引き返す。元親は玄関から「おーい。家康ー起きろー」と声を発していた。
玄関の前にはもう一人、前髪だけ一つに束ねた佐助が腕を組んでニヤニヤと笑っていた。肩をドア枠に寄せてははーん。とわざとらしく大きく首を上下させる。その度に結んだ前髪が慶次をからかう様にぴょんぴょんと揺れていた。


「プレイボーイの慶ちゃんがずーっと、相手にされない人ってあの人~?家康の家で飲み会する度に早起きするな~とは思ってたけど」

さっ!と佐助はドアから離れて慶次の肩にぽんっと手をのせた。

「残念だったね。毎年このアパート満室で」


と、またにやりと笑って、面白いおもちゃを見つけたと言わんばかりに目はらんらんと輝いていた。いつもやる気のなさそうで、他人にはあまり興味を示さない佐助だが、恋人であるかすがとのことを茶化すと機嫌を損ねるくせに、こういう時だけはやけに食いついてくる。少々面倒くさいなと思っていると、部屋の中からは元親が何か叫ぶのが聞こえた。大方余った一升瓶の酒は誰が持って帰るのかと、いつものように政宗と言い争っているのだろう。弱ぇくせにとか、いーや、俺様によこせ!とか聞こえて、まったく煩いのはどっちだと文句を言いたくなった。

夕べはこの常葉荘の家康の部屋で、家康、慶次、政宗、元親、佐助と五人でゲーム対戦をしながら宅飲みをしていたのだ。元親カービィと家康ピカチュウ、政宗マリオにぼっこぼこに攻撃されたヨッシー慶次は、罰ゲームとしてビール、焼酎、ワインを混ぜたちゃんぽんドリンクをジョッキで3杯も飲むことになってしまい、べろんべろんに酔っ払ってしまったのだ。佐助に介抱されつつトイレに駆け込んだはいいものの、そのまま寝てしまっていたらしい。酒臭い自分に目を覚まし、外の空気を吸いに部屋を出ると丁度香菜が自宅を出るところだったのだ。

慶次は初めて香菜を見た時、ほんの一瞬だけねねが戻ってきたと思ったのだ。

家康の家に来るのはいつもの事だったが、ある時今日のようにべろんべろんに酔っ払った慶次は成人男子が何人も六畳間に寝られるわけも無く、一人じゃんけんに負け、玄関に続く板の間に寝ていた。
玄関までは冷房も効かず、暑かったせいかもしれない。明け方まで馬鹿騒ぎをして起きていたのにもかかわらず、その日は何故か三時間ほどで目が覚めてしまった。凝り固まった背を伸ばして、外の方が涼しいのではないかと寝ぼけた頭のままドアを開け外に出たのだ。雨上がりの澄んだ空気は酔い覚ましには良く効いた。背伸びをして大きく深呼吸をすると壁に生い茂る葉っぱの青い匂いが初夏を感じさせた。
目の前の立派なマンションが建っている敷地には、元々このアパートと同じ型のものが2棟建っていた。慶次たちが入学して一年目の冬に取り壊され、その後すぐにこのマンションが建ったのだ。ぴかぴかに磨かれたオートロックのドアに、ホテルのロビーのようなエントランスホールはソファやテーブルも据えられている。さぞかしブルジョアが住んでるのだろうなと頬杖えを付いて慶次は少しの間眺めていた。「あいつもこんなところに住みたかったのかな」と慶次は無意識のうちにぽつりと呟いていた。


――いつかね。眺めのいい部屋に住んで、そこから夕日を見たり、朝焼けを見て…それでね。秀吉の隣に居ることが私の夢なの。――


恥ずかしそうに頬を染めて話していたねねの顔を今でも時々思い出すのだ。
慶次とねねと秀吉は近所に住む幼馴染で、慶次とねねは同い年、秀吉は慶次たちよりも4つ年上だったが、三人ともよく気があった。ねねは笑った顔は可憐で、いつも明るく振舞って、良く気が利くし、慶次にはいい事も悪い事もオープン過ぎるほどに話してくれた。そのねねは良き友でもあったが、慶次の初恋の人でもあったのだ。しかしその長い長い片思いも突然散ってしまうことになる。
ねねは大学に入学して一月ほど経った時に交通事故に遭った。転がったサッカーボールを子供の代わりに取りに行ったねねは、前方不注意のトラックが横断歩道に突っ込み、そのまま目が覚める事も無く若くして逝ってしまったのだ。
慶次には心残りもたくさんあった。伝えられなかった気持ちが今でも慶次の奥底に沈殿している。伝えられなかったというのも、ねねもまた秀吉に片思いをしていたからだった。
ねねと、秀吉と、幼馴染の関係を慶次は崩したくなかったのだ。この関係が一番幸せだと、ずっとこのままならと思っていたが、ねねの死を機にして秀吉とも大喧嘩をしてしまい、それは突然にして塞がれてしまった。

寝ぼけた頭でそんなことを思い出していたからかもしれないし、夕べの酒がまだ残っていたせいだったのかもしれない。
目の前のマンションの磨かれたドアがその時はスローモーションで開いたように見えて、エントランスから出てきた紺色のワンピースを着た香菜に慶次は突然「行かないでくれ!!」と声を掛けてしまっていたのだ。よくよく見れば彼女の外見ははねねにはちっとも似ては居ない。髪は肩に付くか付かないか位だし、ヒールを履いていたせいもあるかもしれないが背も高かった。ねねを純情可憐とあらわすなら香菜は解語之花といった感じだ。
慶次自身何故急に行かないでくれなんて言葉が出てきたのか正直動揺していた。はっと我に返っていつも女の子に接するのと同じように香菜におどけてみせる。明らかに香菜が慶次を見る目は不審人物を見る目だった。いきなりそんなことを言われれば誰だって気味悪くなるのも当然だ。
香菜は愛想笑いをしてその場を立ち去った。
それから、慶次は何故か香菜が頭から離れなかった。講義中も、バイト中もふとした時にあの後ろ姿と困ったような笑いを思い出していた。何故だか純粋に側に居て欲しいと直感的に思ったのだ。
あぁ、これがもしかしたら一目惚れなのかもしれないと考えて、元親に話してみたところ、焼酎を噴出して話しどころではなかった。真剣に話しをしているのにと言うも腹を抱えているばかりだった。
しかし、元親に話しをしてからは家康の家で宅飲みをすることが増えたのだ。それは元親の計らいだったのかもしれないが、慶次はあえて何も言わず、気づかない振りをして政宗や元親の誘いに乗った。その度に部屋に死屍累々転がる友人たちより早く起きて、二階の手すりに寄りかかり彼女が出勤するのを見届けているのだ。
そして今朝、一瞬だったが香菜は最初に声をかけたその日以来、初めてあのT字路から振り返ってくれた。政宗と元親が騒いだのもあるかもしれないが、今まで散々無視をされていたのを考えればたとえ、自分の勘違いであってでも一歩前進したと思いたい。
彼女が去って行った道路をいつまでも眺めて、慶次は少しの喜びに浸りたかった。これからどうやってお近づきになろうかと考えを巡らせていると、また部屋から怒号が飛んでくる。


「おい!!慶次!補講遅れるから早くお前も片付け手伝え!!それとも単位も一緒にゴミ袋に捨てるのか?!」


何度目か分からない政宗の小言だった。手に携えた缶の入ったゴミ袋を慶次に差し出しながら言う。


「お前さ、やっぱ最近小十郎さんに似てきたよ」




 綺麗な快晴だったにもかかわらず、以外と湿度が高いように思われた。
電車内にすし詰めになりながら纏わり付く湿気が香菜の不快感をより一層のものにする。
もうそろそろ、ぴしゃりとあのナンパ男に一言物申さねばならないと思っていた。悪質なストーカーでは無いように思われるが、見ず知らずの男を相手にするほど香菜は軽くないと自負している。しかし、相手に注意を入れたところで万が一の事もある。なるべく相手を刺激しないように話を持って行かなければと思っていた。その考えを肯定するように電車の窓に映る自分の姿を確認してこくりとうなづいた。


「まずは、きちんと誰かに相談しよう…」


香菜が努めている会社は旅行代理店だ。香菜の仕事は旅行プラン商品の企画が主で、各地でのホテルや名所を調査し、価格やスケジュールを調整して最終的には店頭でフライヤーになり、商品として売り出される。香菜がツアーガイドとして旅行客と一緒にあちこち出かけることはほとんどない。企画段階で調査に行くくらいだ。
現在進行中の個人向けの旅行計画は旦那さんが定年を迎えた夫婦の温泉旅行だった。関東から九州の温泉地への旅行は10泊を予定している。大分湯布院、別府に始まり、霧島、阿蘇黒川を回って雲仙と九州有名どころの温泉地が十分に楽しめるプランを詰め込んだ。その計画書を上司である主任の前田まつに最終チェックをしてもらう。香菜の作った20ページ程の冊子に目を通してまつは誤字を確認したり、修正を加えていった。もう少し旅館の写真を入れた方がいいとか、この日の時間はもう少し詳細に明記した方がいいですね。と事細かに香菜に指示を出していった。


「相変わらず、香菜殿は仕事が速いですね。私としても助かります」


香菜は打ち合わせ用の広めのデスクに広げていた資料を集めてとんとんと揃えた。


「いいえ、そんなこと…。あの、主任…少しお話いいですか?」


まつは頭に疑問符を浮かべながら、少し心配した面持ちで香菜を見る。


「以前、一度だけ話したことありましたよね。例のナンパ男の話。覚えてらっしゃいますか?」

「ええ、覚えてます。声かけられるんでしたよね。その後どうなりました?」

「実はまだ続いてて、正直困ってるんです。一言、ガツンと言ってやりたいんですけど、なかなか部屋に行く勇気も無くて」

まつはあごに手を当ててと眉を寄せて何やら少し考え込んだ。

「確かに女性一人で殿方の部屋へ行くのは止めた方がいいですね。部署のどなたか…男性に付き添いを頼んでみてはいかがですか?例えば…竹中殿とか?」

「竹中さんですか?」

「ええ、私も彼の事はよく知っていますから一緒に頼んであげますよ」


ナンパ男への制裁決行日は次の土曜日という事に決まった。大体3日おきというサイクルを考えれば、次は恐らく土曜日だと香菜は考えたのだ。しかし休日の朝に今まで会ったことがあるかと思い返すも、ただゴミを出しに行った一度きりで、必ずしも次の土曜日に声を掛けられるとは限らない。それでも香菜の話を聞いた同じ部署で2つ先輩の竹中半兵衛は快く引き受けてくれて、朝早くから香菜の家を訪ねて来てくれたのだった。
朝の7時、部屋のインターホンが鳴って香菜はエントランスまで下りていった。ソファに掛けて待っていた半兵衛はスーツ姿ではないからか、いつもと印象が違って見える。Tシャツにタイトめのパンツ姿はいつもより若く見えた。


「おはようございます。朝早くからすみません。何か巻き込んでしまって」


香菜は買っておいた缶コーヒーを半兵衛に手渡した。


「いいんだ。僕も丁度暇してたしね。主任にもよろしくって頼まれてるし」


ありがとうとコーヒーのタブを開けて香菜に笑いかける。一口飲んで半兵衛は大きなガラス窓から見える向いのアパートをじっと見ていた。


「あのアパート?香菜さんが迷惑している人が住んでるところって」

「そうです。二階なんですけど、いつも階段から三番目のドアの前に立ってるんで恐らくそこが例の人の部屋なんじゃないかと…」

「そう。夏休みの学生さんには少し早い時間かもしれないけどコーヒー飲み終ったら訪ねてみよう」


香菜は少しだけ心配していた。半兵衛がナンパ男に注意をしてくれて危ない目にあってしまったり、よくニュースで見るような事が起こらないとも限らない。それに加えて、住人の部屋もあの3番目の部屋なのか正直なところ香菜もあまり自信はなかった。迷惑千万の出来事だが、しかし警察に突き出す事でも無いような気もして、その中途半端な位置が更に香菜を悩ませた。
ともあれ、一度はきちんと注意をしておかなければ香菜も相当もやもやが溜まっていて気分が悪い。
そんな香菜の心中を知ってか知らずか半兵衛は割と良く喋った。仕事のことに始まり、主任のまつとどういった経緯で家族のような付き合いになったとかだ。
半兵衛は主任のまつとは家が近所で、小さい時からよくまつの家に行き来していていたのだ。まつの夫、利家の甥である慶次が半兵衛より4つ年下で、関西から引っ越してきたばかりの半兵衛と何かとよく悪戯をして遊んでいたのだ。かえるを大量にとって来ては、前田夫婦の家の玄関にばら撒いたり、半兵衛が慶次に仕掛けた落とし穴に謝ってまつが落ちてしまったりと今の半兵衛からは考えられないほどやんちゃをしでかしていたのだ。
「悪戯の首班は大抵いつも主任の旦那さんの甥、慶次くんだったんだけど僕も一緒になってまつさんに怒られてたよ。怒ると主任はものすごく怖いよ?」
あまり半兵衛のプライベートな話は入社してから聞いた事もなかったので香菜はとても新鮮だった。きっと同僚の女の子は羨ましがるだろう。半兵衛はルックスもいいし仕事もテキパキとこなす。手が空くと進んで忙しそうな人をも手伝ってくれるという紳士っぷりだ。会社の女性に人気が無いわけが無い。そんな幼い時の話は香菜の気を紛らわしてくれるようだった。
珈琲を飲み終わった半兵衛は、腕時計をみて時間を確認した。


「さて、それじゃあそろそろ行こうか」


半兵衛と香菜は立ち上がって、常葉荘の二階へ続く階段を登る。足を置くたびに錆びのせいなのか階段はギシギシと鳴って、二人は3番目の部屋の前までやってきた。半兵衛は、香菜に目を合わせて咳払いをするとえんじ色のドアチャイムを二回押した。


「おはようございます」


と声を掛けるが、まだ就寝中なのか中から人は出てこない。半兵衛は扉もノックしてみるがその向こうからは何の反応も無かった。香菜はドアに向かって呟く。


「留守…?なんでしょうか?」

「んー。居ないみたいだね」


もう一度半兵衛は同じ事を繰り返すがやはり部屋に人はいないようだ。今日は空振りだったねと肩をすくめた。内心ほっとしたような、しかし今度はいつ苦情を申し立てようかと先延ばしになるのには気が重い。謝る香菜に気にしなくていいと言って二人は階段を下ろうとすると、またギシギシと香菜たちが上って来た時と同じ様に錆びが軋む音が聞こえた。半歩前に居る半兵衛は振り向いて香菜は首をかしげる。足音からするにどうやら一人二人のものではなかった。
ふと大柄な男が視界に入るなり、香菜は半兵衛の後ろに隠れるように縮まった。


「Dumn it!猿飛の最後、ストライク3連発はねーわ」

「へへー。俺様前半本気出してなかったんだよね~。にしても、慶ちゃん今日不調だったね」

「いやぁ~さすがに合コンの盛り上げ役に9割くらい燃料使っちゃったからさ。俺だって万全の体力だったら…」


慶次は家康の部屋の前に居る人の気配に気付いてその場に立ち止まった。後ろから元親が来ていることも忘れ、目の前の人物をただ一点に見つめる。


「おい、前田どうした?」


慶次は目の前に居る人物に驚いたのと嬉しいのとで合コンとボウリングの疲れは一気に吹っ飛んだ。何と言ったって二年ぶりくらいに旧友が目の前に居るのだ。興奮した慶次は佐助を押しのけて前に出てずんずんと半兵衛に寄って行く。


「半兵衛!こんなとこで何!何!?どうしたんだよー!」


いやぁー!びっくりしたー。随分久しぶりだ!と顔に一杯の笑みを浮かべて半兵衛の肩をばしばしと叩いた。半兵衛の後ろに隠れるようにして香菜は様子を伺っていた。


「慶次くん?何で君がこんなところに居るんだい?」

「いやいや、其れはこっちの台詞だっ…」


てばと、慶次はひょこと半兵衛の後ろを覗いて固まった。二人の会話を聞いていた香菜は半兵衛と慶次が知り合いという事実に、また慶次も半兵衛と一緒に居る香菜の存在に驚きを隠せない。慶次も香菜もお互い目を見開いたままどういうことかと半兵衛を見つめた。