朝 顔 の 檻

第 七 話

「ほう…。狭小な部屋での乱闘を避けるか。懸命な判断だ」
「そんなに余裕ぶっこいってっと、泣きを見るのはあんたの方だぜ?」

 高利貸しは、頭の側に付き添っていた仕切りの男へ壺振りを連れてくるように命じると、仕切りの男は壺振りと共に二階へ戻ってきた。いかめしい顔の壺振りも、この場の惨状と髭の男を視界に入れるなりその威厳を下階へ置き忘れた様子で、倒れている頭を前に顔を真っ青にして呆然としている。
 高利貸しは、口が半開きになる壺振りに準備をしろと命じた。
 左近がこの勝負を受けるにあたり、一番に恐れているのは、仕込み、つまりはイカサマだ。
 イカサマの壺振りは、細工を施した壺を使う。客が丁半叫んだその直後、壺の内側の細い針によって自在に賽子の出目を変えてしまうのだ。左近は、この賭場ではこれまで一度も出会ったことはないが、高利貸しに対するうやうやしい態度はやけに気になった。
 盆を広げ、用意を始めた壺振りの手元を注意深く見ていると、高利貸しは左近の思考を読んだかの様に、おもむろに壺を取り上げ、投げて寄越した。

「細工などはしてはいない。確認するといい」
「…ご丁寧にどうも」

 高利貸しの目敏さには、身の毛がよだつ。左近は壺を確認した。何の変哲もない、いつも使われる物と変わらない壺だ。

 今回は三本勝負となった。二本目で勝負が決まる可能性もある。最初の回を確実に取らねば、忍耐も平常心も削られてしまうだろう。
 各々、定位置に座ると、早速一回目が始まった。
 壺振りが高々と賽子と壺を構えた。動きを目で追いながら左近はかつて経験したことのない緊張に浮き足立っていた。戦場以外で己の命を掛けた勝負はこれが初めてなのだから当然だ。
 壺が振られてから丁半叫ぶまでの時間が酷く長く感じる。唾をごくりと飲み込んだ。千代が背に手のひらをついている。己の逆立つ神経が落ち着くのがわかった。
 壺に賽子が入り、大きく弧を描き伏せられる。「被りました」と壺振りの一言が響き渡ると、左近は真っ先に「丁」を呼んだ。向かい側で高利貸しは表情ひとつ変えず、左近の読みに目を細めている。一呼吸、間があった後呟いた。

「では、私は半としよう」

 双方出揃いました。お二方ようござんすね。壺振りが手首をひねるようにして壺をひっくり返した。白い立方体の粒が二つ、影より現れ出目が覗いた。そこに記された黒い点のひとつは二、ひとつは六、二六の丁だ。

「っし!見たか!」
「弱い犬は良く吠えると言うぞ。狂王の犬よ」
「なっ…」

 左近は目の前の男が高利貸しであるということしか知らない。にも関わらず、相手は左近の素性を知っている。意表を突かれた左近は腰を浮かしたが、すぐ座布団に座った。目の前の男はただのひげ面の男だとそう己に言い聞かせた。取り乱しては、相手の思うつぼである。冷静さを欠いては丁半の見極めに迷いが出てくる。
 思案する内に、壺振りは二回目を構えた。人差し指、中指、薬指、それぞれの間に挟まれた賽子は指から離れると、吸い込まれるように壺に入った。伏せられるまでその間、瞬き二回分。これで勝負が決まるか、はたまた三回目へ持ち越しとなるか。左近は固唾を呑んで見守った。こめかみの辺りにじわりと汗が吹き出ている。手の甲で拭うと、今度は「半」を叫んだ。

「では、私は丁としよう」
「あんた、さっきから見てれば随分余裕だな」
「残りわずかの生に対する、少しばかりの私の心配りだ」

 悪態をついた左近は、結果が告げられるのを待った。壺振りが出目を披露する。賽子は四と四。四ゾロの丁だ。左近はぎゅっと唇を噛んだ。後ろで千代も息を呑んだのが分かる。高利貸しは、千代を一瞥すると口元に手をあて、慄く様を見て笑っていた。

「従順に戻ると言っておけば、恐怖に苛まれることもなかったであろうな、娘」
「あんたと今勝負してんのは俺だろ。次こっちが勝てばいい話だ」

 もう後は無い。この三回目で左近と千代の命運が決まる。
 始まってまだ四半刻くらいしか経っていない。時間を稼ぐために、高利貸しの戯れにのったが、思いの外賽は順調に転がりすぎていた。
 下階の賭場からは、今なおどよめきが強弱つけて湧きあがっている。大店の旦那衆は盛況真っ只中の様子だ。二階の命を掛けた賽子振りとは裏腹に、酒盛りをしているのか、銚子と猪口の響く音が深い夜によく響いていた。
 左近は更に耳をすませた。三成に背を向け架橋を再び超えたのは凡そ半刻前。三成の制止も聞かずに走りだしたから、きっと目くじらを立てた主は、今左近を探しまわっているに違いない。大所帯がこの狭い路地の賭場へ到着するにはまだまだ時間を要するだろう。気配も、足音も、兵が近ければ夜風に具足の匂いなど漂ってもおかしくはない。が、五感全てを擁しても未だに到着を感じられない。少しの可能性を信じてみたが、やはり今の運否天賦には逆らえないのかと歯噛みする思いだった。
 壺振りは手を掲げた。三度目の壺が振られるのを見守った。
 これまでと同じく壺へ入った賽子は、華麗な手さばきによって、からからとせせら笑う様に壺の中で跳ね、静かに伏せられた。
 いざ勝負の時だ。左近はすかさず「半」を唱えた。

「では、私は丁としよう」

 双方出揃いました。そう壺振りが呟いた瞬間、殺気が部屋に渦巻いた。左近も高利貸しも、一見すれば居すまいを正し、大人しく結果を待っているようにしか見えないが、見方によってはいつでも抜刀できる態勢だ。
 行灯の揺らめく炎が立ち上る様に、互いに獲物への集中が練上げられつつある。間に座る壺振りは二人に氣圧され、手元しか見ることができずに居た。
 そして今、ゆっくりと壺がその内を見せる。
 一つ、二つ、三つ、賽子が顔を出すのを数えた。左近は、勝ったとしても、この高利貸しがまともな取引に応じるなどと、元より信じて居なかった。是が非でも高利貸しの動きを封じ、或いは捕らえ、きっちり城の金の在りかを聞き出すまでは油断できない。
 被った壺の縁が床から全て離れた時、ふと窓から風が入り込んだ。待ちに待った追い風であるのを感じた左近は、出目を視界に入れたその瞬間、己の勝ちに興奮するがまま、激しく畳を叩き、宙に弾き返した。
 垂直に立った畳からむき出しとなった板張りは、ぶわりと埃を舞い上げている。
 霞む視界に左近の後に居た千代は悲鳴をあげていた。盾となった畳から、ずぶりと太刀が貫き、左近の脇腹の辺りで鈍く光っている。だが左近は、腰にしていた己が得物を瞬時に抜いていた。
 刺さった高利貸しの刀は、厚く束ねられた葦草に捕らえられ、その摩擦に自ら引き抜くことはできない。無理に抜こうとすれば、ひねった首の先には左近のもう一本の短刀が、喉笛斬り裂かんと直刃をぎらつかせていた。

「賽子見てみな。あんたの負けだぜ。高利貸しさん…っ、よっ!」

 刀が刺さったままの畳を掴み、左近は畳ごと投げ飛ばした。高利貸しは咄嗟に後方へ避けた。武器を奪われたにも関わらず、尚も纏う雰囲気に動揺は伺えない。まんじりともせず、左近は千代に気を配りながら高利貸しに全神経を注いでいた。次にどう出るか、今の状況をみれば丸腰の高利貸しには、もはや手立ては無いはず――。
 しかし左近は、今の立ち位置に思わず舌打ちをした。床の間に立てかけてあった古い飾り刀を高利貸しは手に取っていた。

「高利貸しさんよ。あんた博打打ちの風上にも置けねえや」
「そもそも私は卿のような博打打ちではない。危ない橋は渡らない主義だ」
「そりゃ、そうだ。手前の命、鼻から掛けてねえもんな。そんじゃ、その橋に是が非でも引きずってやりやしょうかねっ!」

 両手に短刀を握りしめた左近は、体の一部のように扱い、舞うように上下左右から間断なく繰り出した。だが高利貸しも左近の動きを的確に読み、嘲笑うように避ける。
 飾り刀はその慎ましやかな刀身の割に、高利貸しの打ち合いは重く、存外左近の刃に歯向かって幾度も鈍い色が急所をかすり肝をつぶした。しのぎを削る攻防は一瞬の気の乱れも許されない状況だ。
 押し合いとなり、双方睨み合ううち、下階が急に騒がしくなっていた。よくよく耳を澄ませば覚えのある声だ。左近の主、石田三成の怒号が、賭場の客から叫喚を引きずり出している。程なくして、馴染みのある具足の軋みが階段を駆け上がっていた。
 襖の取っ払われた入口より正面切って現れたのは三成だ。部屋に入るなり、戦場と引けを取らぬほど鋭い目つきを携え、今にも首を斬り落とさんばかりの殺気を放った。

「左近…貴様こやつが何者か、分かっておらぬのか…!」
「こいつが高利貸しです!三成様」
「そうではない!この男、松永久秀だ…!貴様、何故この地にいる!土足で上がり込んでくれるとは、私が切り刻んでくれる!」

 松永久秀 ── そう呼ばれた高利貸しは、あからさまに溜息を表すとぱちんと指を鳴らした。そこへ前触れもなく現れたのは黒い一筋の煙の様なものだ。座敷の畳からゆるゆると立ち上ったそれを、高利貸しもとい松永は、まるで傀儡子のように操り、己に纏い始めた。得体のしれない黒いものは、徐々に上へ上へと伸び、まるで松永を守るように胸辺りにまで達していた。

「さすがの私とて、荒れ狂う狂王までをも、まともに相手にするほど浅はかでは無いのでね。骨を折るだけの仕事はしない主義だ。ここで引くとしよう」

 一歩、松永が後ずさる。背後は床の間の壁、両脇も部屋の壁だ。退路は無いはずなのに今にもこの部屋から抜け出しそうである。左近は前に躍り出た。

「俺は賭けに勝ったじゃねえか。賭けたもん寄越しな!」
「ふん、そこでくたばっている頭に尋問すればいい。全てがそ奴の知る所だ。私が話すまでもない。その娘も好きにするがいい」

 そう言って、再び指を鳴らすと松永久秀は瞬く間に闇に溶けて消え去った。今しがた立っていた場所は入口のない壁際だったにも関わらず、跡形もなく姿が消えた。その後にはすっと、黒い煤の様なものがはらりと漂っただけだが、それもすぐ薄暗い部屋に溶けて無くなった。
 左近は我が目を疑い、暫し呆然と立ち尽くしていたが、我に返り部屋から駆け出そうとした。すると三成が遮った。

「よせ。深追いはするな。貴様が追っても犬死にするだけだ。それよりも賭場を隈なく検分する方が先だ。この頭は奉行所まで連行する」

 対峙し、あと一歩で追い詰めることができた悔しさが、左近の内にのたうち回っていた。

「今すぐ追えば…!」
「二度も言わせるな。さっさと頭を連れて行け。それから、その娘もだ」

 左近に庇われていた千代は、背を壁に付け膝を抱いていた。狭い一室で短い時間に起きた出来事に整理がつかず、丸まっている。おまけに、父親の悪行を知り気持ちが沈んでいた。「千代」と呟いた左近は、彼女の前にしゃがんだ。
 
「…騒々しかったな。怖い思いさせちまって。ひとまずは、賭場と頭の尋問してから、あんたの──」

 左近の言葉を最後まで聞かず、千代は首を横に振った。決して許されてはならないと責任を感じているのだ。抱いていた膝を離すと、手をついた。深々と頭を下げる千代に、改めて己の立場を思い出した左近は、肩に伸ばしかけた手を無理に引っ込めた。

「父は、お城のものに手をつけてしまいました…。島様、誠に申し訳ありません。父の不届き、娘の私がこの命で償いが出来るかはわかりませんが、どうぞ、今手になさっているもので…」
「それを、決めるのは俺じゃねえ…。俺は沙汰を言い渡すことも出来ねえ。秀吉様だけだ。それに、松永の口ぶりからして親父さんは間違いなくそそのかされたんだろう。いや、何にせよ、あんたにも城まで来て貰わなきゃなんねえ。詮議はそれからだ」

 左近が千代をなだめる後ろでは、兵が幾人か戸板を持って現れた。手際よく賭場の頭を乗せて部屋を出て行った。去り際に、事情を知らない兵らは娘一人と左近との会話が気になる様子だ。部屋を検分するふりをしてちらちらと視線を向けている。
 千代の居た堪れない様子に、左近は助け舟を出した。

「立てるか」

 その言葉が、左近から千代に向けられたのは二回目だ。だが、以前より乱暴ではなく気遣うように導いた手は、優しく千代の腕を掴んで引き上げていた。



 城に一行が戻り、賭場の頭が目を覚ますと、半兵衛や三成が同席し厳しい尋問が始まった。
 千代の父親が借金をしていたことは事実だが、その返済が滞っていた際「勘定方なら城の金をちょいと小細工でもすればいい」と、頭や松永は入れ知恵を働いたようである。そうして火の点いたが最後、千代の父親は己の弱さに打ち勝てず、帳簿を改ざんし、城の金を持ち出したのだった。
 城の金の在り処は、賭場の頭に吐き出させるとすぐに見つかった。
 場所は、左近が千代を探しまわっていた夜に見つけたあの立派な蔵の中だった。驚くべきことに、所狭しと並べられていた大小様々な桐箱の中身がそれだったのである。ひとつひとつの箱書きに、ものの見事に騙された左近は、何故あの時中を確認しなかったのかと悔やんだ。
 また、以前千代が話していたように、賭場で不当に借金を背負わされ、茶屋に出された娘が他にも大勢居たことが判明した。頭の営む茶屋は即座に取り潰しとなり、加えて、元凶となった賭場にも秀吉は商い停止を言い渡した。

 そうして城の金は無事に戻り、茶屋も賭場も無くなった。
 結局賭場の頭と共謀していた松永久秀を取り逃がしたことも、秀吉に報告したが「いずれ、我が手で捻り潰す。この件はこれにて終わる」と、いつになく険しい顔で言い放つと、松永追撃の可否はそこで終いとなった。
 会合の最中、それ以上松永久秀の話題に触れてはならない、怨恨を漂わす雰囲気が秀吉から滲み出ていたからである。
 ともあれ、残るは千代の処遇だ。
 今、広間には今回、帳簿改ざんの調べにあたっていた半兵衛を始め、三成、吉継、左近の面々が秀吉の前にひれ伏していた。
 千代に、父親の責をどう償わせるか…。
 意外にも、その処遇を決定づけたのは、吉継の意見だった ──

 ・

 帳簿改ざんの騒動中、左近の仕事を肩代わりしていた三成は、事態が収束した途端、今までの借りを返さんとばかりに、これでもかと左近に仕事を持って来た。
 積み上げられた紙束を、気の遠くなる様な思いをしながら、左近は苦手な内務を必死に消化した。これからもうひとつ、まだ大事な仕事が残っているのだ。
 書類を全て処理した左近は急いで納屋から荷車を取り出すと、兵の宿舎まで引いて歩いた。宿舎に着くと、ほころびた戦装束や傷んだ甲冑など、具合の悪い物は全て出せと部下に命じ、次々に荷車に載せる。そうして集めたものを、とある長屋まで持っていくのが近頃課せられたもう一つの仕事だった。
 紐が切れた具足や、留め具の無くなった甲冑などをどっさりと乗せ、左近は城を出た。城に雇われた浪人や使用人らが住まう長屋、その壁に朝顔が伝う家が目的の場所である。
 玄関先に荷車を止め、左近は声を張った。

「よう、持ってきたぜ!」

 ぱたぱたと床を鳴らし、戸越しに「はい!」と返答するのは千代だ。この家の戸は建付けが悪い。一生懸命内側から硬い戸を引く千代を想像し、笑いを含ませた左近は、外側から力を加えてやった。難なく戸が開くと、千代は「開きました!」と嬉しそうな顔をして出迎えた。
 前掛けで手を拭い、ぱらりと落ちた髪を耳にかける仕草は、今の左近には、茶屋で逢瀬を繰り返していた時よりもずっと色香が増して見える。
 一言目で口をつぐんだ左近を、千代は不思議そうに覗きこんでいた。

「島様。お疲れ…ですか?」
「ん?あぁ!いや!悪い悪い、今日はこれだけな。また派手にやらかしてくれたぜ、あいつら」
「ふふ、皆さん稽古も熱心ですので、致し方ありません。お持ち頂きありがとうございました。お直し承ります」

 そう。吉継の提案とは、償いとして千代に奉公させることだったのだ。豊臣軍は人間が多い。その分、入用だ。傷んだり壊れたりする武具や装束は、兵らは経費がかからぬようにと、自分たちで修繕を施していたのだが、雑事に取られている暇があれば、その時間を鍛錬に当てるべきだと吉継は言い、それら一切を千代へ貸すことにしたのである。
 そして左近は、その監理を任されたのだ。
 あの騒動から、暫くは千代も塞ぎこんでいたが、仕事に慣れ、城の兵士にも顔見知りが増えた様子でこの所は笑みが絶えない。茶屋に務めていた時の陰鬱な様子からは考えられぬ程明るくなった。似合わない着物を無理に着ることも無く、豊臣に仕える者同士、左近は日々共に仕事をしている。
 左荷車から大量の具足などを部屋に運び入れ終えると、左近は玄関に腰掛け息を吐いた。千代は直ぐ様、茶を出してくれた。

「わりいな」

 ゆっくり首を振った千代は、土間へ下りた。夕刻も過ぎた頃だ。左近が来るまでは炊事をしていたのだろう。長屋のあちこちで煮炊きの匂いが広がっている。
 今朝からずっと忙しくしていた左近は、気が抜けた途端、空腹と眠気とが一気に押し寄せていた。
 あの日賭場に行った晩も、似たような気だるさだった。賭けに勝ち多く支払われるはずだった代金の使い道を思案するも受け取れずに今に至る。結局、左近は千代に初めて会った晩と、千代を探しに行った晩と、二度同じことを繰り返し損をしていた。ただ、こればかりは損得勘定での判断は出来なかった。千代のしゃんとした立ち姿を後ろから眺めていれば、過ぎたことなどどうでも良くなっている。
 まるで、三成に引き上げられた昔の自分を見ているかの様だった。
 左近の痛いほどの視線を感じたのか、千代がくるりと振り返った。

「島様、先程から少々背中が…」
「あ、わりい。何かつい見惚れちまって…なーんつって」

 照れ隠しで言葉を付け足した己に心中ため息をつくも、左近は誤魔化し、へらっと笑った。千代は頬を染め、前掛けの裾を握ったり、指先で弄ったりしている。

「…あ、あの!島様!お夕飯、食べていかれませんか…!実は今日、お蕎麦をと、思いまして…島様の分も用意したのです!」

 言い切った千代は肩で息をし、顔は真っ赤になっていた。まともに左近を見ること無く、土間の地面と向き合っている。

「蕎麦か、いいねえ。そりゃぁ、食わねえわけにはいかねえか」

 夕食の最中、千代はいつか二人で食べた蕎麦の夜を思い出し、あの晩左近と出会わなければ今ここに自分は居ないのだと、しきりに左近に礼を述べた。差し伸べられた手が嬉しかったと、心からの感謝を向けられ左近も悪い気はしない。
 面倒だと関係のない人間だと放って置いても良かったのかもしれない。ただ、主が己にそうしてくれたようにまた、自分が一人の人間に道を指し示すことができたのだとしたら── そう思えば左近は随分誇らしかった。

 歓談は大変弾み、長屋のとある一室の灯りが消えるのは存外早かったそうだが、それがいつ頃の夜なのかは、軒先の朝顔のみが知るところとなった。