向い風12

 轟々とうねりを伴う急流に元親とナナリーは飛び込んだ。水中では天地の判別もつかず、荒い流れに従うのみだ。宵闇の中ではあったが、雨の後で無かったのが幸いしていた。鋭い木々の枝葉も押し寄せることなく、二人は飛び込んでから比較的己の身だけに気をつけていればよかったからだ。
 ナナリーは元親の首へぶら下がるように腕を回し、元親はナナリーの腰をしっかりと捕らえ腕に力を込めた。離れないように互いに抱きあい、徐々に岸へ体を寄せる様に元親はもう片方の腕で辺りを探って、水をかく。そうして暫く流された後、やっと足先が水底に着くくらいの浅瀬に入った。息も絶え絶えになりながら、水に濡れた重い体を引きずり、元親はナナリーを引き上げる。着ているものの乱れなど気にしている余裕もない。ナナリーは元親の腕から離れると、雪崩れ込むようにして地面に両手をつき咳込んだ。力尽き、岸の砂利や砂に構わずぱたりと転がった。大量の水を飲み苦しいが、元親がなるべく水面より上に顔を覗かせ抱いていてくれたお陰で、苦しいと感じる程度で済んだのだろう。
 ナナリーが横たわる傍らでは、立てた膝に腕を乗せ、元親が頭を垂れていた。銀色の髪は主と同じく勢いが無くなっている。いくら体力のある元親でも、人一人抱えながら、流れに飲み込まれぬように川を下るのは容易では無い。顔を上げない元親が心配になり、ナナリーは体を起こすと「もとちか…」と呟いた。すると元親は、肩を震わせ途端に笑い出した。

「見たか!ナナリー!敵さんのあの顔!ありゃ、相当たまげたって面してたなー!」

 ナナリーは恐怖のあまり敵兵を眺める余裕は無かったが、元親はしてやったりと、ニヤリと笑みを浮かべていた。どこか怪我でもしているのではと思っていたナナリーは、ほっと息をつき頬を緩めて頷いた。

「あれじゃ、死んだと思ってるに違いねえな」

 飛び降りた崖は、一軒家を縦に二軒分積み重ねたくらいの高さはあった。水深がなければ確実に仏となっていたに違いない。流石にあの高所から落ち、こうして無事に流れ着いただけでも奇跡に近いのだ。まさか敵兵も生き延びているのは思わないだろう。追手が来る心配も当分は無さそうだった。
 見上げれば、既に薄っすらと白い月が滲み浮かんでいた。星々も瞬き始め、次第に空を埋め尽くしていく。砂利の岸から数十間先には、鬱蒼と木々の生い茂る森が広がっていた。黒々としたその奥では、陽も沈みきったというのに雉の様な甲高い鳥の鳴き声がなかなか仰々しく上がっている。その森の中から岸に突き抜ける夜風は、昼間の熱を吐き出すかの様に生暖かく吹き、肌に纏わりついた。
 ようやく呼吸が落ち着いたナナリーは、濡れて乱れた髪をひとつに結った。ドレスも砂まみれだ。手で砂利を払っていると、何となく視線を感じ、顔を上げた。元親と視線が合い、思わずナナリーは顔を逸らした。急に頬がかっと火照ったのだ。
 俯いたままいつまでも、砂が払われた場所を撫で付けていると、石ころ同士が擦れ合う音がした。かと思えば、元親がナナリーの正面にしゃがんでいた。元親はナナリーの顔を覗き込み、頬にそっと手の甲を当てた。

「どうした。具合でも悪いか。顔が赤えぞ」
「だ、大丈夫です元親」
「本当か?それにしても、着物、だいぶ汚れちまったな…」

 元親も手を伸ばし、砂を払ってくれる。
 ナナリーはただでさえ襟が大きく開いたものを着ていたが、濡れて布地が重くなったせいで更に着崩れ、肩ほどまで素肌が晒されていた。お陰で首から鎖骨に掛けても砂まみれの泥だらけだ。元親は特段気にせず、ただその砂を拭う一心で手を触れていると分かっては居ても、撫でる手が行き来する度に思わず体が硬直し、ぴくりと肩が弾く。
 元親はようやく察したのか、すぐさま手を引っ込めた。

「す、すまねえ!ナナリー悪かった…!」
「いいえ…。ありがとう、元親」
「お、おう…。んじゃ、まあ、先を急ぐとするか。かなり離れちまった。岡豊城までだいぶ距離がある。急がねえと、野郎どもが待ってるからよ」

 元親は気恥ずかしそうに頭の後ろをがしがしとかくと、ナナリーを引き上げた。
 二人は川沿いを再び上流の方へと向かって歩き始めた。渓流は曲がりくねり、巨岩があちこちに突出している。森の中を進む手もあったが、月明かりの下を行く方が周囲まで見渡せて懸命だ。
 そのまま夜通し歩いても良かったが、敵軍が四国の地を踏んでいることと、後々鉢合わせし戦闘となった場合を考えれば、十分な休息も必要だった。
 思案した末、元親とナナリーは月が傾き始めた頃に岩と岩の作る空洞を見つけ、野宿を決めた。岩が寄り添うように重なるその奥は、行き止まりになっているらしく、ほぼ洞窟の様な様相を呈している。一歩踏み入れば、何十もの蝙蝠がわっと飛び立ち、二人の頭を掠め外へ出て行った。
 この大岩の背後はすぐ崖だ。壁面からは山水が岩清水のようにして伝い、外のべたつく空気と比べるとなかなかに涼しい。堆積した泥と砂利とで泥濘んだ足元を慎重に踏みしめ、屈みながら奥へ進むと、元親は突然腕を上げ歩みを止めた。
 ナナリーは元親の背に恐る恐る手を触れた。

「なんだ、ありゃ…。あぁ、、」

 元親は、背後に居るナナリーの肩を掴んで抱き寄せると、更に頭に手を添え自身の胸に押さえ付けた。慌てるナナリーに、元親はただ一言「見るな」と低い声を出す。
 岩肌を伝う雫が水溜まりに音を立てて落ちた。その斑紋の広がった端には黒い影が沈黙し、横たわっていた。

「仏さんだ…。随分、経ってんな…」
「元親、私は大丈夫です…よ」
「いくらお医者でも、辞めておけ。無理に見るもんでもねえ」

 元親は、ナナリーをその場に座らせると「ちょっと待っとけ」と言い、一人奥へ入っていった。どうやら、その死人の周りにはかなりの荷が転がっているらしい。この瀬戸際だ。使えそうな物があれば、拝借しようというのだ。
 少し経つと元親は、色々抱えて戻ってきた。一番に驚いたのは、その仏が外国人だと分かったことだ。見る限り、持ち物にはローマ字で店名やら商品名が記されている。地面に広げられたのは、万年筆、小さなインク瓶、眼鏡、そして空になった羊皮の水筒、その中にはありがたいことに火口箱もあった。火を起こす為に旅人はよく携帯している。缶の蓋を開けてみると石は少し湿っているが、何度か打ち付ければ発火は出来そうだ。
 元親は、仏の方へ向かい、今一度手を合わすと早速、火を起こしに掛かった。一旦外へ出ると細い枯れ枝を拾い、それを裂いて火を移す。やがて大きく火柱が上がり始め、絶やさぬように更に太い枝をくべた。
 火の側に近づくと以外にも体が冷えていたのが分かった。川に入りそのまま歩き続けていたので当然とも言えるが、夜の山には思いの外体温を奪われていた。
 ナナリーは暫く黙り、じっと揺らぐ炎を眺め体を温めていると、元親は仏の側に珍しいものが落ちていたと言い、そのもう一つをナナリーに広げて見せた。

「見ろナナリー」

 描かれているのはとある島の半分を描いた太い線、そして港の印と航路の破線だ── その見覚えある地図に、ナナリーはっとした。
 慌てて、胸元に手を突っ込み、元親の目も構わずそれを取り出し広げた。元親も大層驚いていた。二人は、元親が持つ地図の端の部分と、ナナリーが持っている地図の丁度真ん中の辺りとを恐る恐る合わせてみる。
 すると思った通り、四国の周りの諸島を含めた一枚の地図になった。
 二枚の地図の紙質も同じで、線の引き方一つとってみても、双方の地図は同じ人物の手によって描かれたに違いなかった。元親もナナリーも、息を呑んだ。

「な、何だってんだ…こりゃ。いや、ナナリーの持ってるもんもそりゃえらく精巧な四国一島の地図だが…。仏さんの持つ方は、四国の半分から九州側のだけってのもなあ。にしてもこんな偶然があっていいのか」
「私も、吃驚しました。この地図を作った方は恐らく同じ方です…。亡くなられた方は冒険家だったのでしょう。この先の、つまり大阪側半分の地図がこちらには描かれていなかったから、きっと…」
「ああ、迷っておっ死んだに違いねえ」

 すると元親は、旅人の持っていた地図の“ばつ印”に人差し指をとんとんと落とした。島が転々としているが、印のある場所はその中でも一番小さな島だ。解せない様子で顎に手を当て唸っている。

「この島はよ、何度も賊が入ったり、隠れ家にしたりしているって話だ。ここいらの漁師ですら滅多に近寄らねえ。この仏さん、何だってこんな場所に印付けてんだか…。ところでナナリーはその地図どこで手に入れたんだ」
「実は、賭けに勝って紙問屋さんからいただいたんです。どうしても欲しくて…」

 手に入れるまでの賭場の出来事を一部始終話すと、元親は腹を抱えていた。

「そりゃあ、ナナリーの丁半博打はさぞ実物だったに違えねえ」
「そんなに笑わらないで下さい…。私、本当に嬉しかったんですよ」
「悪い悪い、俺もそうさ。地図を欲しいなんて言ってくれてよう。国主冥利につきるってな」

 元親はナナリーの地図も火に照らしまじまじと眺めると「こっちにも印があるな…」と呟き、指し示した。
 紙問屋は、掛け金として差し出す際、この地図を宝の地図だと言っていたが、ナナリーは半信半疑だった。それよりも、ただ四国の地図というその現物が喉から手が出るほど欲しかったので、宝の所在など正直気にしていなかったのだ。
 元親は嬉しそうに笑みを浮かべ両方の地図を見比べていた。

「ナナリーの地図の印も仏さんの地図と同じもの…。こりゃ何もかも全部片付た暁には、宝探しに行くっきゃねえな」

 元親は地図を畳むと火の側へ一層寄り、あぐらをかいた。一旦は、ナナリーへ地図を返す素振りを見せたが、何を思ったのかしかめっ面を見せた後、手を引っ込めた。ナナリーは小首を傾げた。

「ナナリー、その…、地図はよ…。懐なんぞいれんじゃねえ」
「ええと、他に、しまう所が無くて」
「俺様が預かっておく」

 ナナリーが首を縦に振ると、元親は自身の懐にそれをしまった。
 川に入れば、魚も取れるだろうが、生憎この暗闇ではそれもままならない。食べる物も無く、空腹は寝てやり過ごすしかなかった。体力温存の為にも早めの就寝が吉だ。
 元親は着ていた装束の上着を脱ぐと、ナナリーの肩へ掛けてやった。

「ナナリー疲れたろう。横になっていいぞ。何なら俺様の膝を貸してやろうか」

 頬杖をつき元親は遠慮すんなよと笑みを見せる。炎に揺らぐその表情が、ナナリーにはいつになく色がある様子に映った。切れ長な右目は細められ、炎の差すその瞳に飲み込まれそうになる。
 四国へ着き、浦戸城への道中は一刻も会いたい気持ち、力になりたい気持ちが募っていたが、いざこうして二人きりになってみると、それとは裏腹にナナリーの内側には余計な下心が顔を覗かせていた。今、長宗我部軍は豊臣、毛利を相手取る大戦の最中であり、本来なら一刻の猶予も許されない時だ。戦に勝ち、四国の土地を守りぬくことが本懐であるはずだ。押し黙るナナリーを元親が不思議そうに見つめていた。

「ナナリー?」
「いいえ、元親ごめんなさい。全然、平気です。座ったまま眠れます」
「おう、んじゃ、夜が明けたらすぐ出発だ。しっかり休んどけ」
「はい」

 そうして二人は、その岩の影で一夜を越し、翌朝は獣も巣から顔を出さぬであろうまだ薄暗い時分に出立した。
 夜が空け改めて辺りを見渡せば、木々は緑が濃く、川に転がる石の表面は苔に覆われ、森の息吹そのままに年月を重ねているのが、丸くなった石や窪んだ岩に表れていた。この辺りは一切、人が出入りしていない渓流だった。
 朝靄の漂う中、河原と森との堺になっている砂利道を、元親とナナリーはひたすら岡豊城を目指し進んだ。
 ところが、出立してからどうも元親の様子がおかしかった。元親が一歩先を歩き、ナナリーが少し後ろをついて歩いて居るのだが、彼の足元がおぼつかないのである。左足を引きずる様にして歩き、それと同時にまるで目眩を催したかのように、歩く姿がふらふらとしていてどうも落ち着きがない。

「元親…?」

 ナナリーが声をかけた時、元親は膝から崩れ、そのまま前に倒れこんだ。

「元親っ!!」

 うつ伏せに倒れ込んだ元親に駆け寄り、ナナリーは仰向けに体を反転させた。
 息が荒く、顔色が酷く悪かった。首から胸、鳩尾と手のひらをあてて触診するも、呼吸が荒い以外に悪いところが見つからない。ナナリーは必死に元親に呼びかけ、意識を保たせつつ、頭、胴、腕、そして足元を見た。
 厚い脚絆の巻かれた左足の白い紐が片方解けていた。よく見ると、紐は何かに裂かれたように解れ、その下は薄く血が滲んでいる。浅い切り傷故に元親はいつもの調子で、大丈夫だと我慢し、放って置いたのだろう。
 恐らく、昨夜敵から逃げる際、矢が足首を掠めたのだ。ナナリーは息を飲んだ。あの矢は何らかの毒が塗られていた。ナナリーは一気に青ざめた。傷から毒が入り、今こうして苦しんでいるのだ。元親の息はますます荒くなるばかりだった。

「しっかりして下さい、元親!」
「お、おう…。大丈夫、なはずなんだ…が、すまねえな…。どうも力が入らなくてよ…」

 下唇をギュッと噛み締め、ナナリーは元親を直ぐ脇の木陰まで移動させた。呼吸を少しでも楽にするために、大木に背をもたれさせ、顎を上げる。戦装束の帯を緩め、肩から掛けていた重そうな武具も取り外した。もう少し早く気がついてあげられていたなら…。後悔の念ばかりが焦燥を駆り立てる。ナナリーは元親の正面にしゃがむと、両の頬を手のひらで包み込んだ。元親は目が虚ろだ。

「元親、元親っ!私が分かりますか、今から、傷の手当をしますから、大丈夫です。私が…、今度は私が…」

 まずは毒が何なのか、見極めなければならない。ナナリーは逃げる時の嫌な臭気を思い出していた。比較的多くの毒に効果のある、解毒作用のある薬草── 中和させられれば多少は楽になるはずである。思い出せる限り、頭を回転させるも焦りと不安に混乱した。
 川の水で手ぬぐいを洗ったナナリーは、元親の傷口を綺麗に保った後、辺りに生い茂る葉を掻き分けた。すると白い花を携えた目的の薬草は、幸いにもすぐに見つかった。手で揉みつぶした後、手ぬぐいの端を裂き、その上に乗せて口をきゅっと結んだ。
 元親は次第に焦点が合わず、首はがくりと幹に支えられ、肩で息をしている状態だ。頭を抱きかかえたナナリーは、薬草を包んだ手ぬぐいを水に浸し、元親の口元まで持っていく。湿らせたそれを口元へ寄せ、濾した雫を口に含ませようとするも、朦朧とする意識の中で元親は自力で飲み込むことができない。
 倒れてから、見る見るうちに元親の様態は悪くなっていた。

「お願いです、元親、口を開けて下さい…!」

 ナナリーの必死の呼びかけにも元親の反応は鈍かった。瞳が少し動くだけで、今にも目を閉じてしまいそうだ。血の気が引く思いがした。このままでは、元親は── 最悪の状況が頭に過ぎるもナナリー必死に振り払った。何の為に、己はこの四国の地を再び踏んだのかと言い聞かせた。
 ナナリーは薬草を包んだそれを、もう一度水へ浸すと、今度は自分の口に含んだ。苦く青い草の味が口いっぱいに広がり、ツンとする匂いが鼻を抜ける。元親が自力で飲めぬのなら、口移しででも無理矢理に飲ませる他に方法はない。
 元親の頭をしっかりと抱え、顎を掴んだナナリーは顔を近づけた。紫色に変わってしまった唇に自身の唇を重ね、舌を歯と歯の間へ滑りこませると僅かに下顎が動いた。すかさず、再び閉じないように人差し指を口へ突っ込み、今度は喉元に下がった舌を押さえつけると元親の口へと薬を含ませた。一度目は上手く行かず、それを二三度繰り返し、ようやく元親の喉が動いた。上手く飲み込めた様子だ。だが、安心もしていられない。ナナリーは火を起こし、元親の体が冷えぬように、来ていたドレスを剥いで元親に巻きつけた。
 薬を飲ます前とすると、息の乱れは落ち着いていたが、ナナリーがやれることは全てやったというだけだ。あとは、元親次第だった。
 あの矢を受けたのがいつ頃だったのか、もう少し早く傷の手当をしていれば…。考えれば考える程、目的を見失いがちになっていたことにも気付いてしまった。

「ごめんなさい…。元親…」

 ナナリーは暫し元親を抱き、目が覚めるまで手を握っていた。
 既に太陽は天頂を過ぎている。風の音、水の音、鳥のさえずりなど、ようやく耳に届き始めていた。元親は呼吸の乱れは無く落ち着いている。顔に掛かった前髪を指でそっと眼帯の方へと避けた。
 そういえば、とナナリーはいつかの早朝、元親と井戸で会った日のことを思い出した。あの時、元親は眼帯を付けていなかったが、特段目が不自由というわけでも無さそうだった。何故眼帯を付けているのか、ナナリーは知らない。思わずため息が漏れた。
 唯一知っているのは、優しい民思いの国主で、戦場での元親は恐怖に震え上がる程凄まじい覇気を放つ武人といったことくらいだ。それしか分からない。ナナリーは元親のことを本当に何も知らなかった。
 ナナリーは自分を納得させるように元親の頬を撫でた。

「元親…、私、目的を見失っちゃいけませんよね。命の恩人を助けに来たんですから…。だから、早く目を覚まして下さい。皆さんお城で待ってますよ」

 そうして幾度か手を滑らせていると、元親は唸り、薄く目を開けた。握っていた手に力が込められた。

「ナナリー…、はは、随分と寝ちまってたみたいだな…」
「元親!良かった。寒くはありませんか。喉は渇きませ…」

 言葉は最後まで続かなかった。元親は空いている腕を伸ばすと、ナナリーの首へ回し引き寄せた。ナナリーはぐらりと揺らぎ、元親へ雪崩れた。

「ナナリーが居てくれて、助かった…」
「元親…」
「急がねえとな…。時間食っちまった」
「はい」

 それから、ナナリーは元親の体を支え、二人は凡そ四里ほどの山谷の荒い道を辿り、ようやく岡豊城の屋根が見える川辺まで辿り着いた。ナナリーが四国へ到着してから既に二度夜を迎えている。城を低い位置より照らす月は半分、恐らく子の刻はとうに過ぎていた。静寂の中、ほうと梟がひと鳴きし、直ぐ側で地を這う鼠が逃げて行ったらしい。かさかさと、茂みが揺れた。それに驚くナナリーに、元親は大丈夫だと手を引き大木の木の根に腰を下ろした。
 川沿いに歩いて来たのが幸いして、現在の位置は城へ渡る橋に近い場所なのだそうだ。ところが元親は、城の屋根をじっと睨んだまま、城は目と鼻の先だというのに中々動こうとしない。

「元親、城へ行かないのですか」
「ちとよ…。妙というか…」

 元親が気にかかるのは、城につけた自動発砲のからくり装置が外へ向けていつでも撃てるように、なっているとのことだ。暗いのでナナリーにはよく分からないのだが、城壁に設置した自動銃の銃口がむき出しになっているらしい。確かに、良く目を凝らしてみると、月光に当たり微かに黒光りするものが等間隔に壁に配置されている…ように見える。

「なんであんなに警戒してんだ。富嶽で敵さんの船は今頃瓦礫のはず…なんだが…」

 やはり、元親は福留隼人の隊が気掛かりだった。

「とにかく、明るくなってから城へは入る。俺の姿がちゃんと見えた方があいつらもいいだろう」

 頷いたナナリーは、膝を抱いた。今夜もまた林の中に野宿である。元親は腰を上げるとナナリーの側に座り直した。

「ナナリー、もう少しの辛抱だ」
「大丈夫です。元親。いいえ、元親様。お城についたら何でもこのナナリーめにお申し付けください」

 冗談めかしながら頭を下げたナナリーに、元親は「止めてくれ、そんながらじゃねえ」と自嘲気味に言った。
 元親は、ナナリーに真っ直ぐに向き直ると真剣な眼差しを向けた。

「ナナリー、今なら ──」
「元親、そこから先は言わないで下さい。私は覚悟を決めて戻ったのです。何を言っても無駄ですよ」

 その時、林の中で大きな影が幾つも横切った。僅かに擦れ合う葉の音が風に乗り、元親たちの元まで届いている。瞬時に元親はナナリーを背にし、右に左にとうごめく影を注視した。段々と、その影は近づいてくる。
 ところが、茂みの中から刀をむき出しにして現れたのは、福留隼人だった。凛々しい好青年の印象を何処かへ置き忘れてきたかのように、やけにくたびれている。只事ではない様子を元親も感じ取った。
 元親の顔を見るなり、隼人は安心しきった表情でずるずると腰を地に着けた。

「も、元親様…!ああ、心底、ご心配申し上げておりました…。お会いできて本当に…」
「おう、心配掛けてすまなかった…。それよりも何かあったのか」
「はっ…、どうやら長宗我部軍には毛利からの間者が紛れ混んでいた様子。申し訳ございません…、富嶽を、毛利の軍勢に押さえられてしまいました」
「なん…だと…」

 福留隼人と共に現れた野郎どもは、すんません!アニキ!!と皆次々に土下座をする始末だ。一体、元親が留守の間何が起こっていたのか。福留隼人は、渋い顔をしながら、とつとつと話し始めた ──