誰が為に風は吹く11
青い空、白い雲、沖まで見渡せる晴天だ。凪いだ水面と青々とした空は交じり合い、水平線の境すら判別がつかないくらいの色だが、今日のようなからりとした気候だと、うっすらと本土の山並みが陽炎のように海面に浮かび揺れる。目を細め、陰影を遠くに見据えた元親は手ぬぐいで額の汗を拭い、うんと背伸びをした。
野郎どもが暁丸の調子が悪いと難儀していたので、元親自ら見てやっている。調べてみると、推進するための羽の軸に亀裂が入り、上手く回転しなくなっていた。元親は暁丸の後方へ回り込み、修理の施した羽と軸を取り付けている最中だ。
豊臣軍の四国行軍はもう間もなくだろうと、福留隼人が報告に来てから結構な日数が経っている。長宗我部軍にしてみれば、ある意味十分な備えの期間がある状況だが、香宗我部親泰指揮の下、沿岸付近の警戒は昼夜問わず怠らないものの、今だ敵方の斥候すら見受けられない。これが嵐の前の静けさなのかはともかくとして、戦を控えているとは思えない不気味な異様さに、兵も浮き足立っていた。そんな訳で居てもたっても居られず、からくりの動作や、装備品に漏れがないかを何度も確認し落ち着きが無い様子なのだ。
「…参ったな」
暗雲立ち込める様に、元親はため息をつく。野郎どもが心配そうに見つめていた。
「アニキ、暁丸やばいんすか!」
「そうじゃねえ。敵さんが攻めてこねえことだ。こっちの出方を待っているのか…何なのか」
「確かに、緊張抜けないのは気疲れするどころじゃねえですぜ。親泰さんも大阪方面からの敵影はまだ確認してねえって言ってましたし」
「あぁ、こうも音沙汰ねえとは妙だよな」
大阪では触れが出て、兵も集められているとの報告を受けている。だが、それを待たずしても豊臣の強大な兵力をもってすれば、いつ何時でも攻め込む事は可能なはずだ。勿論火蓋が切られぬことが一番だが、陸に吹く風は怪しい。
元親は、しっかりと暁丸に取り付けを終えると、羽をくるりと一回転させた。微かにからんと小気味良い音をさせた羽は、動きが軽くなり機嫌よく回っている。動力部と羽の軸とは上手く噛み合ったようだ。最後の仕上げに、軸を固定する杭をしっかりと押さえ込んだ。
「うし、これでいい。後は任せたぜ」
「へい」
「それからよ、手の空いてる奴は、何隻か小舟を出してちょいとその辺見てこい。とくに崖の影になってるところは、もしかすっと敵さん潜んでるかもしれねえ」
「承知しやした」
「例え見つけても、くれぐれも先に手え出すんじゃねえぞ。すぐ引き返して知らせろ」
野郎どもは船に乗る人間を募り、勇んで桟橋まで駆けて行く。肩を組んだり、脇腹を突いたりとふざけながら坂を下る様子に「気いつけろよ!」と後ろから声を掛けた元親は、ひとつ大きなあくびをつき、真っ青な空を見上げた。
日に日に太陽も勢いづく季節になった。近頃夜は寝苦しい。遠くを見渡せば、海と同じく、山の端からもゆらゆらと空気が湯気のように立ち上り、歪んでいた。木陰も多いとはいえ、山中も相当暑そうだ。
その山々が一重二重と重なり落ち込む場所より、猛禽類がふわりと優雅に舞い上がっていた。眩しさに耐えながら何となく仰ぎ見、目で追う。
すると、その軌跡を辿り、一筋の白い煙が空に吸い込まれていた。明らかに狼煙のそれだ。煙が細く上がる方角に、元親は見張りを置いているのだ。ぼんやり鈍っていた頭が一気に冴えた。
何らかの合図に他ならなかった。側に居る兵らも、不穏な煙に作業の手を止め顔を上げた。その途端、すさまじい爆発音と共に、木々に羽を休めていた無数の鳥が甲高く喚き、一斉に飛び立った。逃げ惑う鳥と白い狼煙を飲み込み、黒煙は一気に膨れ上がり青い空を埋め尽くす。瞬く間に戦慄が走った。工具を手にしたままの元親は、腕をなぎ払い怒号を飛ばした。
「テメエら!ぐずぐずしてんな!」
元親の一声で、野郎どもは指示たる指示に散っていく。陸路を使っていては時間が掛かった。元親は船を出させた。
「沿岸から回れ!っくそっ、豊臣の連中、どこに潜んでやがった…!親泰っ、親泰はどこだ!!」
右往左往する兵たちに揉まれ、城内を急いで駆けてきた親泰は顔面蒼白だ。
「兄上!大変です。報せによれば毛利軍とのこと…」
「毛利…だと…?」
すると、喧騒の中をくぐり抜け、福留隼人も愛馬に跨がり現れた。急に駆りだされた馬は興奮している。鼻息荒いその太い首を一度叩くと、隼人は手綱を握り主の前でどうどうと落ち着かせた。
「元親様、我が隊が直ぐに出ます。恐らく豊臣は毛利に接触を図っていたのでしょう。私としたことが…、誠に迂闊でした」
「っ、毛利の野郎…!見張りで置いてる奴らは無事だろうな…。隼人頼んだぞ。何としてでも沿岸で食い止めろ。四国の土を踏ますんじゃねえ」
「御意」
隼人は愛馬に鞭打ち、野郎どもを引き連れ浦戸城を飛び出した。浦戸城から、煙の方角までは大分距離があるが、悠長に構えても居られない。すぐさま城の守りを固めさせた元親は、同じく数ある支城の将へと伝令を出し、己も本陣を築いた。
報告のために、兵がひっきりなしに幕を翻し、入れ替わり立ち替わりを繰り返す。机に大きな地形図がばさりと広げられると、親泰が手際よく配備済みの印として白い碁石を置いていった。元親は地図へ覆いかぶさるように両手を付き、隅々まで目を凝らす。
配置、装備と、迎撃体制に抜かりはない。だが、よろしく敵を待ってやる義理もない。頭の切れる毛利元就のことだ。相手を推し量れば、やられる前にやるべきだと元親は己を納得させた。先手を打ち、支城に戦線が後退するのは何とか回避したいところだ。
陣幕が海風になびき、湿り気を帯びた風は嫌に肌にまとわりつく。不快感に思考が揺らぐも、元親は先行した福留隊への援軍を出させ、挟撃を決意した。
「親泰、富嶽を毛利軍の掃討に当たらせろ。背後からだ」
碁石を握っていた親泰は、弾いたように顔を上げた。元親をじっと見つめる視線は、富嶽を出すには時期尚早と言いたげだ。最終兵器と謳っているだけに、今出せば兵らに動揺を与えかねないのではと親泰は考えている。だが元親はそうじゃねえと頭を振った。
「手遅れになってからじゃ遅えだろ。動力動かすにも時間が掛かる。相手の思い通りに水軍を動かせちゃならねえ。今こそ百鬼の出番だ」
「承知、致しました。直ぐ命じます」
親泰は、控えていた兵に富嶽出陣の用意を命じた。兵も元親の意図を十分汲み、停泊場所まで駆けて行く。富嶽の乗組員は、その絡繰り操縦に必要な豪腕武者が揃った強者ばかりだ。指揮系統がずたずたに切り裂かれない限り、彼らが獅子奮迅の如き働きを見せるのは間違いない。頼んだぞと兵の背を見送ると元親は再び地図へと戻した。
東西南北に走る山道、川、そして海路と、視線を這わしてみる。軍の配備に抜けがないか今一度思案した。
顎に手を当て唸れば、元親はやはり岡豊城が気にかかった。どの城下よりも栄え、商店が多く、周囲に広がる田畑は長宗我部の台所を預かっていると言っても過言ではない。民も多く、女子供が一番に多い。今、兵として駆り出されている野郎どものほとんどが、岡豊城へ避難している者の父であり、夫であり、息子だ。
「親泰、俺は一旦岡豊城へ戻る」
「あ、に、う、えっ!いくらなんでも、そんな勝手はお止め下さい!あちらへなら、私が向かいますから」
「いいや、野郎どもが命張ってんだ。城で怖い思いしねえよう、ドンと構えて背を見せるのも大将の役目ってもんだろうが」
「それは仰る通りですが!今元親様が動けば、隊を動かし、護衛を割かねばなりませぬ。ですから整えるまでもう少しお待ちください!」
「出さなくていい」
「断固拒否します」
「一人の方が、身軽だろうが。見くびってもらっちゃ困るぜ」
「はぁ、もうどうしてそう…。別に兄上の力量がどうこうという訳ではありません。ご自分の立場を弁えてください」
そこまで口にし、親泰はしまったと口に手を当てた。元親が欲しがっている文句が思わず口をついて出てしまっていたのだ。元親は腕を組み、得意げに親泰を見下ろしていた。
「親泰、てめえには、この浦戸城の一切を任せる。俺は岡豊城に構える」
親泰は眉を下げ、とうとう折れざるを得なかった。一つの城を任される。その大役を断れる家臣がどこに居ようか。さすれば、今抱えている兵らを他所へ裂き、戦力を分散させることは元親の命に反してしまう。
傾く西日の照射は勢いが衰え、いよいよ黄昏時を告げていた。夜の帳が下りきる前に岡豊城へ着くには、今出なければ間に合わない。完全に上手いこと言いくるめられた親泰は、天に祈るように空を見上げ、元親へ顔を戻すと観念したかのように溜息をついた。
「承知致しました…。元親様。ただ、くれぐれも無理だけはしないで下さい。お一人なら逃げるが勝ちです」
ニヤリと元親は笑みを浮かべた。しっかりやれと告げると、道なき城の斜面を慣れた様子で滑り、迫る闇へと駆け出した。
・
人が通る道を堂々と歩いても良かったが、何分目立つ事は控えたい。万一の事を考えれば、山道沿いの山林の影中を進んだ方が懸命だった。
長きに渡り、天蓋の如く生い茂った大小様々な常緑が、根本にたくさんの柔らかい腐葉を地面に積み上げている。お陰で、足元は少々不安定だ。しっかりと一歩ずつ踏みしめながら進むので、木と木の間から注ぎ込んでいた白い木漏れ日は濃い橙色に変わりつつある。辺りをうろついていた毛利の斥候と思しき兵も、藪をひと通りかき回した後、直ぐに離れて行った。
獅子屋の商船が無事に四国へ到着したのは、おおよそ一刻前、堺を出港したのは五日前だった。
前田慶次と別れたナナリーは、追手が来ないことに後ろ髪を引かれるも、堺の波止場で「獅子屋」の船を必死に探していた。
勿論ナナリーはその屋号に聞き覚えがあった。四国に漂着したばかりの頃、浦戸城へ行商にやって来た商人だ。恰幅の良い顔の大きな男性だったのをよく記憶していたので、それを頼りに荷積みを行う船を一艘ずつ見て回り、獅子屋さんの船ですかと船頭らに聞いて回った。人の良い船頭たちが案内してくれたお陰で、獅子屋の船はすぐに見つかった。
船は、小ぶりではあるが小回りのきく頑丈そうな帆船だ。甲板から船べりに掛け、がたいの良い船乗りが次々に荷を積み込んでいる。その後方で、獅子屋の店主は、山のように積まれた荷を背に雑談中だった。ナナリーが声を掛けると、広い顔に埋もれた目が途端にまん丸と開かれた。
四国に居た筈のナナリーが、なぜ堺に居るのかと驚き問いただしたが、ナナリーが四国へ行きたい旨を急いて頼み込むと、退っ引きならない事情を察し、乗船を許してくれたのである。
その後、心配していた慶次の到着はならず、船は刻限を迎え出港した。
実は、今回の便を最後に、獅子屋を始めとした交易船を所有する商人らは、当分四国に船は出さないのだと、主人は言った。
商人は鼻が利く。薬莢の臭いがし始めるとすぐに頭の中で算盤を弾く。戦火に巻き込まれれば商売上がったりなので、ほとんどの商人は戦地のど真ん中へ船は出さない。敢えてその戦時を逆手に取る者も居るらしいが大抵、賊に身ぐるみを剥がされるか、灰になるのだ。故に真っ当な商人は暖簾に傷が付くので、そういった火事場泥棒的な利を嫌うのだと言った。
ところが四国に到着し船が荷降ろしを終えた頃、突如切り立った岸壁より現れたのは、若草色の幟と、一文字に三つ星の帆を携えた毛利軍だった。
気づいた時には、沿岸では爆発が起こり、辺りは真っ黒い煙に覆われていた。ナナリーを堺から乗せてきてくれた獅子屋は、積荷を大急ぎでまとめ終えると、直ぐ四国を離れるべきだとナナリーに何度も念を押した。
今や中国地方を手中に収める毛利元就擁する水軍は、他家の水軍をも取り込み、その数は日ノ本屈指となっている。獅子屋曰く、毛利が四国へ攻め寄せたということはつまり、その大所帯が豊臣秀吉の傘下に収まったか或いは手を組んだかの現れで、上杉、島津辺りの大大名でなければ当然太刀打ち出来ないと言うのだ。
混乱の中、多くの商船が脱兎の如く離岸した。舳先に立った獅子屋は、その勇ましい相貌とは打って変わって、大層心配の面持ちでナナリーを気遣った。道中、何ゆえ戦場とならん四国へ行くのか、その経緯を話したナナリーを、同じ商人として放っておくことが出来なかったのだろう。
「宜しいのですか、ナナリー殿。最低でも以降三月、いやそれ以上、連絡船は途絶えるかもしれませんよ」
そう言われるも、水面に反射する己に固く頷き、獅子屋と別れて今に至るのである。
ナナリーは胸元に手を入れ、畳まれた紙を取り出した。広げたのは、いつか島左近と行った賭場で勝ち取った四国の地図だ。獅子屋が、到着した港に印をつけてくれたので、現在地はおおよそ分かる。
ただ問題なのは、これから夜になることだ。毛利軍は混乱に紛れ、対抗した長宗我部軍の帆船の隙間を縫い、いくつかの船が四国の地へ接岸していたのだ。
ナナリーにとって野宿は慣れたものだが、火を焚けば鉢合わせの可能性も考えられなくもない。どうやって元親の居る浦戸城を目指すか思案していると、再び茂みの奥がざわついた。人の声が聞こえた。
「人影を見たというのは誠か」
「ああ。間違いない。女だ」
「ふん、元就様もまだご到着されない」
「ひっ捕らえてもほどほどにしておけよ」
「それはその時の俺に言ってくれ」
ナナリーは地から二股に生えた太い幹の間に、身を潜めていた。こうも毛利軍がうろうろしていれば、迂闊に動けないのだ。地図からすると、浦戸城への道のりはまだまだ遠い。歩いて三日、いやそれ以上は掛かるかもしれない。
はあ。と溜息をつき顔を上げた時だ。眼前に、目と鼻の先に、にんまりと笑みを浮かべた毛利軍の水兵が正面にしゃがみこんでいたのである。全く気配を感じず、驚きの余り声も出ず、それでもナナリーは地を這い逃げようとした。ところが兵は、ナナリーのドレスに手を掛け引き寄せた。
「そう、逃げることはねえだろうよ。異国のお嬢さんっ!」
レースに枯葉が絡みつき、藻掻くナナリーに水兵は馬乗りになった。ナナリーは声を上げた。同時に、顔を命一杯ナナリーに近づけた水兵は、鼻息を荒らげている。かと思えば目をひんむいてパタリと横に転がった。その背からはどくどくと血が流れ、剥き出しになった枯葉の葉脈を辿っている。瞬時の出来事を理解できぬままに居ると、落葉を踏みしめる足音がした。
半泣きになりながらも、ナナリーは目を擦り、ゆっくりと顔を上げた。
黄昏時は誰そ彼の意味だというが、闇が押し迫り、この深い木々の影にあってもナナリーにはその人物が誰なのか、見間違うはずもない。
いつかの朝靄にも見た、七つかたばみをあしらった戦装束、大きな体。そして、いつかもこうしてナナリーを守ってくれ、また、今一番にナナリーが会いたいと思っていた西海の鬼、長宗我部元親その人が、ぬっと姿を現したのだ。風になびく度、夕焼けは銀色の髪に吸い込まれるかのように、照らしている。
「俺の民に手え出してんじゃねえぞ、下衆が」
「もとちか…」
眼前の元親は、ナナリーを視界に入れるなり、何度も右目を擦り、己の耳はおかしいとでも言うように何度も頭を振った。それでも、今倒した水兵に投げ出されていたのはナナリーで間違いない。
元親は幽霊でも見ているかのように、恐る恐るナナリーに近づき、正面にしゃがみ込んだ。実体を確かめるまで納得が行かないのか、付けていた手袋を外すと、ナナリーの頬に素手を這わす。白い頬に人肌の温もりは感じた。ナナリーは触れられた元親の手に、自身の手を重ねた。
「ナナリー…だよな。なんだ、何なんだ…。どうなってんだこりゃ…」
「元親、会いたかった。私元親の助けになりたいと思って、沢山の人を救いたいと思って戻ってきました。それから少し怒っています」
「怒って…る、だ?」
ナナリーは手のひらから頬を離すと、ぐいと元親の顔を覗きこんだ。
「そうです。どうして黙っていたのですか。豊臣軍が来ること、そして、ライトの店がその武器を提供していることを」
「そ、そりゃあ…」
「元親は、優しすぎます。そしていつもいつも、私を助けてくれる。勇気をくれる。私が元親の為に何か出来る事をしたいと思って勝手に戻ってきたんです」
「ナナリー…」
ナナリーは、元親の胸に飛び込み、回り切らない背に腕を伸ばした。追い返されるかも知れないという不安、背に元親の腕が回らないかもしれないという心配は、いとも簡単に解けていた。ナナリーは息もできないくらいにその腕に収まっていた。
一人の異国の女が、これから戦塵にまみれるであろう土地に丸腰で踏み込み、己の持ちうる術で力になりたいと言われれば、将としてこれ以上の喜びがあろうか。元親には追い返す理由も無い。寧ろ力強いくらいだった。負傷した野郎どもも安心して休ませてやれる。
「ありがとよ…、ナナリー」
ナナリーは首を振るも元親には一つ気掛かりなことがあった。彼女の父親だ。
「…親父さんには、何て言って出てきだんだ」
ナナリーは父親に手紙を残してきたが、その中で親子の縁を切るとの旨を書いてきた。そうでもしなければ、父親や店の従業員、乗組員にも迷惑が掛かると思ったからだ。荷を捨てたのもナナリーの独断でやったことだと念書を置いてきたのである。
だがこれはナナリーの賭けだった。親子の縁を切っただけで、父親や店の従業員の命の保証があるかといえばそうでもない。三成には既に荷を沈めたことが知られている。秀吉の耳にも直ぐ届くだろう。秀吉の怒りに触れることは間違いない。
しかし、そう安易に秀吉が外国の商人を罰せば、今日日天下統一を図る彼に、今後益々大量に必要となる銃火器類は十分に供給されなくなる。ナナリーは本国英国や、その他諸外国を軽視できない今の豊臣の状況を逆手に取った。だが、ナナリーは政略家ではない。本当の本当に望みでしかなかった。それでもあのまま大阪で悶々と過ごし、安地で生き延び後悔を残したくはなかったのだ。
そう話し、俯くナナリーに、元親は益々腕に力を込めた。
「馬鹿やろうが…」
元親の胸に暫し身を委ねていたナナリーは「ところで、元親…」とぽつりと呟いた。元親は少し体を離すとナナリーを覗きこんだ。
「ん?なんだ」
「今、どこからか来たのですか。それともどこかへ向かう途中だったのですか」
「岡豊城に戻るつもりだった。そしたら、悲鳴が聞こえたもんでよ」
元親が得意げに笑みを浮かべた、その時だ。藪の奥が再び震えていた。一人、二人、三人、瞬時に闇の中へ対角線上に視線を這わせた元親は、ナナリーを抱いていた腕に益々力を込め、己に引き寄せた。
一体どこから潜り込んだのか、毛利の斥候だけにしては明らかに数が多い。元親は少々この場に居すぎたと舌打ちをした。相手も殺気立って居るのがわかる。恐らく、仲間が戻らぬことに不信感を持たせてしまったに違いない。少しの呼吸も今は争闘の合図に成り兼ねなかった。元親は、ナナリーの頭を抱き込むようにして身を潜めると、その足音と気配が遠ざかるまでじっと待った。
どくどくと元親の心音が近く、ナナリーは顔から火を噴きそうだ。それでも先程一人で、水兵をやり過ごしていた時よりも随分と安心感がある。
足音は段々と遠のいて行く。ところが元親が力を抜いた瞬間、一本の矢が闇を裂いていたのだ。瞬時に元親はナナリーを庇い地へ伏せるも、その音に反応した敵兵が「居たぞ!」と声を荒げ、下生えの小枝を踏み潰し迫ってきていた。
元親は、ナナリーを抱きかかえるようにして、その場から駆け出した。姿の見えぬ敵兵は、容赦なく後ろから遠距離攻撃を繰り返してくる。樹の幹に矢が突き刺さった箇所からは、妙な臭気が放たれていた。ナナリーははっとした。放つ矢には毒が塗られている。
暗がりの山中を、二人は必死に逃げた。ところが、突き当たった場所は月光を浴びる開けた場所で、おまけに急傾斜の高所だ。下は鋭い岩肌が露出した谷で、川の水量は多く流れも早い。
絶望的状況に、ここで乱闘となっても良かったが、それでも敵の味方を更に呼び寄せてしまっては、元も子もない。月夜の下、楽しそうに狂気に満ちた笑みを浮かべる兵らは、じわりじわりと二人に近づいた。背は崖、正面は敵兵。林の奥からは具足の軋みが増している…。
元親の一番の心配は、爆発後すぐに先陣を斬らせた福留隼人と、富嶽に乗った連中だ。こうも敵兵が彷徨いている事自体そもそも妙だ。作戦が上手く行かなかったのだろうかと、彼らの身を案じていた。
「ほう、貴様、名のある将のように見受けるが」
一人の兵が顎を突き出し、ねっとりと呟いた。
「いいや、俺は雑兵だぜ?」
「ふん、その身なりで分かるわ。七つかたばみを誂えた着物が何よりの証拠。貴様長宗我部の縁者だな」
「おうおう、そいじゃ、テメエらの大将に言ってやんな!長宗我部の縁者を一人討った、ってな!」
そう言った元親は、ナナリーの腰をぐいと引き寄せると、崖から飛び降りた。宙に放り出されたナナリーを元親は仰向けになる自身にしっかりと抱きかかえ、元親自身は背から川面に落ちていく。
「元親っ!」
「大丈夫だ!俺を信じろ!」
浮遊感は恐怖に変わり、ナナリーは来る衝撃に瞼をぎゅっと閉じた。元親にしっかりとしがみついたまま、体が沈み行くのをどこか夢心地に感じていた。