◤手折った夜香花

 長宗我部元親には、歳の離れた正室がいる。名を菜々といい、輿入れしたのは彼女が十一の頃だ。
 まだまだあどけなさが残り、過ぎし日の元親のように肌の色が薄く、女と呼べるには程遠い可憐で物静かな姫だった。
 そんな幼い彼女を早々と輿入れさせたのには、抜き差しならない周辺国の状況に一石を投じることが急務だったのと、様々な政情が絡んだが故である。今世、どの家もよく使う手段であり、武家の娘に生まれたからには定めのようなものだ。聞けば、相手の娘は輿入れを大層嫌がり、親元から離れたくないと、理解を得るのに時間を要したらしかった。
 とはいえ、何とか幼き姫の説得も成り、決まれば進めと、縁談が取りまとめられると、ものの十日ほどで婚儀となった。
 祝いの席では、望みある同盟を得られたと酒が酌み交わされ、家々の結束は強固なものとなるも、高砂の二人は互いの心に不安を抱えたまま、注がれた酒に口をつけず、言葉も交わさぬままに初夜を迎えた。
 元親には、ままごとにもまだ興味が残るであろう幼い姫を抱く自信が皆無だった。宵闇に瞬く無数の星々に見守られ奥へ向うも足取りは重い。苦悶するもこれも当主としての責務だと己奮い立たせて夫婦の決意を胸に部屋を訪れた。
 咳払いをし、声の調子を整える。「は、入るぞ」と戸を引いた。そこには、人形のように澄まし、しおらしく頭を下げる少女がある。面を上げた菜々は、ほのかな蝋燭の灯りに照らされ、赤く染まった頬はその日初めてほころんだ。
 元親は、瞬時に敗北を覚えた。

「元親様、四国へ来たばかりの心細き菜々と、今夜はともに寝てくださるのだと、じじょが申しておりました。大変ありがとう存じまする」

 たどたどしく夫を敬う清らかな言葉が、今の元親にはあまりにも鋭利な刃物のように突き刺さった。明らかに閨事のその意味を履き違えている。いや、もはやこれは何も知らぬ様子だ。菜々の言葉の意味をかみ砕いた元親は、それまでの決意と、実は心底に根を張っていたらしい男の性へ黙って蓋をした。

「お、おうよ。まぁそう、気にすんな…」

 幼い菜々はすっくと立ち上がると、嬉しそうに元親の手を引き、敷かれた布団へ連れて行く。ままごとのように、さあどうぞと、その小さな手で布団をよいしょとめくり、元親のための場所を健気に空けてやるのだ。
 障子越しに、菜々の侍女が見守るかのごとく座っているのが陰になって写っている。侍女は、本来、房事の交わりなど詳しく教えてやるはずだが、敢えてそれをしない、教育していない、その事実こそが元親には答えだった。
 菜々と共に四国の地を踏んだ侍女は、元親の「西海の鬼」の異名について回る、二重三重と割増されたありもしない噂話を真に受け、警戒しているようだった。幼い姫は従者からも大層愛情を注がれて育てられたようである。
 とはいえ、はるばる海を越え、四国へやってきた幼い姫に、初っ端から見境なしにがっつくほど、元親は狂乱ではないのだが…そう、心の中でごちるも、ここは暫く菜々の言う事に従うほかないだろう。
 菜々に言われるがまま横になると、元親は自分の枕をよけ、腕を伸ばした。菜々は嬉しそうに小さな頭をその太い腕にちょんと乗せ、静かに目をとじる。童のような柔らかい髪が腕に触れる。さらりと菜々の顔にかかった髪を掬い上げ頭をなでてやると、嬉しそうにしていた。ここまで予想通りだと、力づくでも起こそうとしていた卑猥な心などどうでも良くなり、すべからく愛おしくなっていた。
 穏やかな表情で、菜々は更に額を元親の胸に寄せ、その腕にすっぽりと収まっている。下方から元親の顔を覗きこむと大きな瞳を潤ませた。

「元親様は菜々に毎晩どんなおはなしをしてくださるのでしょうか」
「お、おはなしっ?!…そ、そうか、伽か。ようし、任せろ!話にゃ事欠かねえ」

 こうして、ある時は、元親の冒険譚やからくりの話、また別の夜は四国の鬼の話──この話は、男子でありながら姫若子と呼ばれていたとある国の嫡男、つまり元親の生い立ちだったが、菜々は特にお気に入りのようだった。
 そんなわけで本来夫婦の営みが行われる筈だった初夜は、ものの見事に兄と妹のような微笑ましい夜となり、実は以後何年もの間、こうした兄妹のような夫婦関係が続くこととなったのである。
 庭を共に散歩をしていても、一緒に釣りへ出かけても、その様子はどこからどう見ても兄妹にしか見えなかった。仲睦まじい二人の様子に、家臣や女中も朗らかに見守っているばかりで、夫婦の間柄に口を挟むこともない。
 しかし一方の元親は内心焦り始めていた。いや、跡継ぎの問題も然りだが、その焦りよりも、日々健やかに女性の体つきになっていく菜々に、毎夜心穏やかに腕枕をすることが段々と苦痛になり始めていたのだ。
 それもそうだ。今、隣ですやすやと寝息を立てるのは、妙齢の愛おしい…妹ではない。正真正銘元親の妻だ。襦袢一枚で布団に横たわり、その寝姿は年々艶かしく、腕にもたれ襟から覗いたうなじは花が匂うように色気を帯び始めている。目に毒だ。生唾を飲み込んだ夜は数知れず、白く清いその肌にはこれまで一度だって触れたことはなかった。否、幾度と無く元親の意のままに触れることは出来たが、築き上げた心地良い関係が壊れてしまうのではないかと、触れる事を恐れていた。
 今夜も安らかに寝息を立てる菜々にため息ばかりが漏れる。最近は、近臣香宗我部親泰にも「甲斐性無し」などと揶揄される始末だ。

 そんな折、四国に客人があった。恋と愛しあう人々を愛す、加賀前田家の風来坊前田慶次だ。城へやって来た彼を門まで出迎えると、再会の挨拶もそこそこに、元親はがっしりと首に腕を回され、慶次は野郎どもの耳に届かぬよう、ぼそりと呟いた。

「元親、嫁さんと上手くいってないんだって?」

 へへっと慶次はいたずらな笑みを浮かべるも、視界に入った親泰と目が合った瞬間、彼はふいと顔を逸らした。大方、親泰が余計な世話を働いたに違いない。「あんにゃろう…」と心中思っていても仕方がなかった。何を以って夫婦仲の良し悪しとするか、元親には検討もつかないが、夫婦の営みに限って言えば事実だ。が、何もそこまで慶次に話す必要はない。元親は当たり障りなく答えた。

「ば、馬鹿野郎!上手く行ってねえ訳じゃねえ…。仲は、良いんだ…。で、その為に心配してわざわざ来てくれたってのか」
「いやあ、まあそれもあるけど、四国のお姫様は随分とべっぴんさんだって聞いたもんで、是非ともお目通り願いたいと思ってさ」

 いつもふらっと現れてはふらっと発つ割に、もっともらしい理由が元親の懐疑を弾いている。怪訝そうな顔を見せれば、慶次は心外だと言わんばかりに両手を眼前で振っていた。

「そんな、怖い顔すんなよ!変なことなんか吹き込まないし、安心してくれ。本当に嫁さん見に来ただけだ」
「…おう、なら、うまい飯用意してやらあ」

 慶次は物見遊山する旅人のように気ままに諸国を渡り歩いているが、その実腕っ節は強く、彼なりの武士道を持って放浪していることを元親は十分知っていたし、その腕を買っていた。故に慶次が、菜々の目にも己と同じように気骨有る一武人として映るだろうと思っていたのだ。
 ところが、菜々も含め宴会を開いたは良いものの、我が妻の様子はまるで元親自身を見るのと違っていた。
 客人が珍しいのも勿論あるだろう。慶次が舞いが上手かったのもあるだろう。或いは、度々菜々に歯の浮くような台詞を言った事も理由であるかもしれない。
 菜々の慶次への物珍しさが興味に、それが徐々に魅了されていく様を眺め、段々と気に食わなくなっていった。盃をちびちび傾け、騒ぎ手を叩き嬉しそうにする菜々を見るのは悪い気はしないが、慶次だけに向けられたものであるのが我慢ならない。しかし、慶次は客人だ。この楽しいひと時に、己のよく分からない不機嫌さで水を指すのは、野暮というものである。

 その晩、元親はいつもの様に菜々の部屋で床を共にしたが、菜々は布団の中で慶次の話をするばかりだった。慶次が奥州へ行った際、熊に襲われそうになったらしいとか、綺羅びやかな京の都にいつか行ってみたいなど、口から出る憧れに、いかに己が過保護だったを思い知らされる。
 菜々は終始笑みを浮かべ、元親は黙って聞いている。いつもと変わらぬ、和やかな夜の伽。興奮冷めやらぬ菜々の火照った様子と、自身の矮小さにとうとう我慢ならなかった。
 元親は、話に同調するよう、横になる菜々のこめかみから、掬うように髪へ指を通した。くすぐったいと目を瞑る菜々を見届けると、そのまま上に覆いかぶさった。瞼を開いた菜々は驚いていた。当然だろう。見下ろす元親の表情はとある決起で強ばっていたからだ。

「どう、なさいましたか…元親様」
「どうもこうもねえよ。なあ、菜々。俺たちゃ夫婦になって何年になる?」
「じき…五年、でしょうか…」

 菜々がそう答えると、襦袢の袂がひらりと捲れ、肌が涼やかな外気に触れた。元親は起用にもその膝を割って己の足を滑りこませた。こうなれば菜々も、これから何が起こるかを分からぬ程阿呆ではないだろう。輿入れしてから早幾年幾月、世継ぎの話もたまに出る。
 しっかりと逃げられぬよう元親は菜々の手首を掴んだ。力を入れすぎたのか、菜々は顔を歪めた。

「元、親様…」
「そんなに、風来坊の野郎が気に入ったか」
「いえ、あの、元親様!」

 菜々が少し大きな声を出したので、廊下に控える侍女が「いかがなさいましたか」と声がかかった。菜々は助けを求めるかと思っていたが、「なんでもありません」と言い、更に侍女を廊下から下がらせた。影が遠のくと、菜々は、真っ直ぐに元親を見つめ返した。澄んだ瞳に灯りの緋色が煌々とゆらぎ、菜々はそっと細い腕を伸ばすと、元親の頬に手滑らせた。灯りのせいも有るだろうが、今までに見たこともないほど菜々は上気していた。開けた襟から除く肌に思わず目が泳いでしまう。

「元親様、わたくしに…その、触れるのですか…」

 感情の赴くがままに、拒絶を承知で無理に組み敷いた元親は慌てた。菜々は溢れる涙を拭っている。やはり後悔にさいなまれた。

「菜々、わ、わるかった。つい、その…俺ぁ、すまん。まだ、待つべきだったか…」

 意外にも菜々は首を振った。布団に散らばった髪が波を描き乱れている。半ば、犯したようなその様子にどうにも元親の理性は混乱していた。

「嫁いだばかりの頃は、可愛がって下さり、とても大切にされているのだと思っておりました。ですが月日を重ねるにつれ、触れられぬことに私はそう、好かれて居ないのだとばかり思っていたので…」

 少し、ほっとしております。
元親の首に腕を回し、菜々は抱き寄せた。嫁いだばかりの頃は、元親のような体の大きい男を相手にするなど、恐怖であったに違いない。しかし、優しい元親が伽を聞かせ菜々に歩みを合わせたからこそ、肌を触れ合わぬも、夫婦としての距離は着実に少しずつは縮まっていたようだ。
 これまで、元親が菜々をあやすように抱いていたが、今はまるで逆だ。いつの間にか女の表情になった我が妻の抱擁がこうも安らぎを得るとはいよいよ以って、手放したくなくなる。
 五年の歳月、その忍耐からの開放感が一気に元親に押し寄せていた。これこそ、据え膳食わぬは男の恥も同然だ。少し体を起こした元親は、初めて菜々とくちづけを交わした。この先へ手を進めてよいかと確かめるように浅く深く繰り返す。滑りこませた足を動かせば、菜々は身をよじり、吐息を漏らした。

「いい、か」

 元親の問に菜々は笑みを返した。今夜ばかりは長い夜となるに違いない。元親が行儀の良い理性を保てたかは菜々のみが知るところとなった。