毎日日が暮れる頃に、主人は店の玄関を掃いている。いつもの場所に居た白一は問われた。

「白一の時期ももう終わってしまうな」
「はい。戻らねばなりません」
「今年、政宗様はいらっしゃるだろうか。お前もひと目は会っておきたいだろう?」

 白一は頷きはしたが、果たして会うだけで己は満足するのだろうかと考えた。寧ろその逆の様な気がしている。
 年に一度、政宗に会う楽しみは年を重ねる毎に次第に苦しくなりつつあった。あと何年、この地で奉公できるのか、考えてみてもせいぜいあと五六年が限度なのではないか。
 とっぷりと夕陽は姿を隠し、いつの間にか月は顔を覗かせていた。白い光を受けた白一は、立ち上がると厨へと配膳の手伝いに向かった。

 米沢城より峠を超えて南へ五里程下った、最上川の上流部に宿屋「月花 げっか」はある。
 周囲は、点在する水源から殿様のお膝元まで届く渓流が網目をなし、奥まった山間部は冬間の沈黙が続くままに暖かい風を招き入れるので、春や夏になっても陰に雪を残したまま花が咲き乱れている。盛夏の如く青空に雲が立ち上っていても、高原特有の寒暖差あるが故に新緑と紅葉とが入り乱れもするので、月花の周囲の山々は四季の境が溶け出しような不思議な様相を呈していた。
 ひとたび山歩きをすると、一歩踏み込めば暗く冷たい山林にも花が繚乱する色彩鮮やかな場所へも続くので、この辺りは仙境と黄泉の境界なのだ。と山師や旅人の噂はあながち間違っていないのかもしれない。
 初夏を迎えると、鮎釣りの釣り人で月花はあふれ返る。皐月の暮れから常に満室状態で、宿の食堂も大賑わいだ。今年も、渓流釣りの客が後を絶たない。
 白一は物心ついた時から、月花で看板娘だった。店に顔を出すのは繁忙期である初夏から夏にかけての短い間にも関わらず、毎年訪れる客は白一のことをよく覚えていてくれる。白一が玄関先で客を迎えると、皆笑みを零して「やあ、また今年も来たよ」と声を掛けてくれる。白一はそれがたまらなく嬉しい。
 その白一には、毎年心待ちにしている客がいた。土地の領主であり、米沢城の城主こと伊達政宗である。
 彼は、年の頃が同じくらいで、幼いころから父輝宗と共に渓流釣りを楽しむため、月花にやって来ていた。滞在中の親子はいつも笑いが絶えず、大漁の日は大腕をふって宿まで帰ってくるし、坊主の日があると政宗は非常に不機嫌になる。ころころと表情を変える政宗を遠くから眺めては、白一は可笑しく、また羨ましくもあった。
 毎年、政宗が訪れる度、白一は共に遊びたかったのだが、それは叶わなかった。何しろ身分は違うし、城主様のご嫡男である。粗相があってはならないからと、月花の主人には仲居の仕事以外で政宗と顔を合わせるのは控えなさいと念を押されていた。 
 しかし、子供の旺盛な好奇心侮る無かれ。そんな事を言われると白一は益々政宗と遊びたいし、話をしたい。それはどうやら政宗も同じらしかった。
 白一は主人に黙って夜な夜な、伊達親子の宿泊する庵へ伺い、密かに約束をしていた政宗とこっそり城での話を聞かせて貰ったり、釣りの仕掛けを作ったりと、そうして毎年の夏を過ごしていたのだ。それが白一の毎年の楽しみだった。
 ところが、政宗が伊達家を継いでからは、毎年月花を訪れはするものの、昔のように語らうことは無くなっていた。決して宿内で二人に接点が無かったわけではない。政宗が当主になった様に、白一もそれなりに仲居の仕事が板についたことで、領主と宿の仲居という本来のくくりに収まっただけだ。
 ただ白一が毎年会いたいと思っている心は、昔よりも違った形で存在していることは、紛れも無い事実だった。
 そして今年、政宗は未だ月花にやってきてはいない。夏の間だけ働く白一も、そろそろ戻らねばならぬ頃が近づいていた。今年は政宗の姿を見ることは叶いませんかと、昇り始めた月にため息をついた。その時だった。
 月花へ続くなだらかな登坂を、馬の蹄が地に着く音が聞こえた。
 間もなく下男が数名やってきたかと思えば、門を潜り、月明かりの下に現れたのは伊達主従だった。
 政宗と小十郎は馬を降り、下男に手綱を預けると白一の居る庵の玄関へ向かってくる。舞い上がりそうな気持ちを押さえつけ、白一は静かに頭を垂れた。
 ところが小十郎の視線がやけに白一に刺さるのが分かった。明らかに怪訝な表情を浮かべていた。
 庵に一歩入るも、己が後に続かぬ腹心に、政宗は振り向いた。

「どうした、小十郎」
「いえ…」
「さっさと腹ごしらえだ」

 息をついた政宗は、部屋に入るなり武装を脱ぎ捨て座敷に横になった。すぐさま主人がやってくると、食事や風呂の用意をさせますと、丁寧な所作で部屋をあとにする。
 嬉しい急な客人に、白一は急いで前掛けをつけると厨へ向かった。厨房では早くも支度は整っていた。今晩の献立はかぼちゃの煮付けと、川で釣れたイワナ、それから山菜の味噌汁に麦飯だ。板長はさすがの手際の良さである。膳を受け取った白一は庵までそれらを運んだ。
 両人は長い旅路であったのだろう。余程腹も空いていたと見え、ひとしきり膳を消化し、お櫃も空にした。
 白一は食後に茶を出した。先程から給餌をする白一へ向けられる小十郎の鋭い視線が尋常ではなかった。ふとした瞬間、白一が政宗に釘付けになるのが気になるのか睨まれる。腹心の嗅覚は大変優れているらしい。毎年のことであっても、対する白一は平静を装うのに必死だった。

「小十郎、そう、睨んでやるな。白一が今にも食われちまうみてえな面してんじゃねえか」
「い、いえ。これは…失礼」
「休みてえなら俺が直々に田村に出向くが」
「滅相もございませぬ」
「なら悪いが早々に行ってくれ。時が惜しい」
「承知いたしました」

 茶を一気に飲み干し「御免」と立ち上がった小十郎は白一を見下ろしている。彫りの深い強面は白一がこれまで出会った中でも最高峰に厳しい人相だ。ギロリとした眼光が照準から外されるも、威圧を置き土産にして小十郎は出て行った。遠くなる馬の掛ける音に、緊張の解れた白一はほっと肩を撫で下ろした。政宗はうんと背伸びをしていた。

「白一。久しいな」

 名を呼ばれ振り向いた白一は、はいと顔を綻ばせた。心なしか頬は上気している気がする。政宗もかすかに目尻を下げると酒を持ってきてくれと言った。

「良いのですか。片倉様が…」
「黙ってりゃばれねえだろ。なんなら、白一も飲め」

 共犯だ。とニヤリと笑った政宗に白一は弱い。すぐにお持ちしますと告げ、厨へ行き、膳に徳利と猪口を乗せ庵に戻った。
 戻れば、政宗は肘掛けにだらりと体を預け、煙草を飲んでいた。
 部屋の隅から扇状に広がる行灯の明かりが政宗を後ろから照らしている。この場に共に居ることに白一は心が落ち着かない。気づけば戸口でそわそわしていた白一に、政宗は何を突っ立ているんだと言って、早く入るよう促した。
 政宗の隣に座り白一は酌をする。政宗は一口飲んだ後、猪口を差し出した。白一は素直に従いぐっと酒を流し込む。いい飲みっぷりだと政宗は笑い、箸を取ると豆腐をつついた。
 こうして、小十郎に黙って酒を飲むことに白一は幼い頃を思い出していた。
 月花の主人には、あまり会ってはならぬと言いつけられても、秘密を抱いた夜の逢瀬には、子供心にも妙な緊張感があり高揚した。
 今は、お互いに立場と身分を理解できるようになり、物事の分別もきちんとつくから、子供のように粗相を働く心配はない。故に月花の主人も、白一が政宗と雑談をしていても昔のようにきつくは言わない。
 極端な話、男女の誘惑を含んだ空気が漂っていても、法度を犯すようなことは決してないと思っているからだ。
 政宗もそれを分かっているから、こうして白一に酒を勧める。
 領主より直々に酌をしてもらうなど、至極光栄なことで喜ばしいことだ。だが、白一には時折心臓を掴まれたように苦しい気持ちになる。城主の優しさは信頼とここから先は超えられぬ敷居があるのだと、現実を突きつけられている気分だ。

 猪口が空になり、政宗は黙って手慰みに縁をなぞっていた。白一が徳利を持つと政宗は手を掲げ静止した。顔はほんのり赤い。疲れも相まってか、酔が早々に回っている様に映った。薄く開かれた隻眼は、白一を見透かすように射抜いている。ご気分優れませんかと声を掛けると政宗はいいや、と静かに口を開いた。

「白一、ずっと気になってたんだが、あんた何の香を焚き染めてる」
「香…でございますか?私は特に何も」
「そうか」

 すると政宗は、咄嗟に白一の手首を掴んだかと思うと、腰に腕を回し引き寄せた。持っていた徳利が、ことりと床に落ち、酒が中から溢れている。政宗は顔を白一の肩口に寄せた。やはり近づくと白一は良い匂いだと言って、抱きすくめた。首筋に息がかかり、頭が混乱するも白一は抵抗しなかった。いわんや白一は長きに望んでいたことだ。今だに政宗は、肩口にに顔をうずめている。白一は少し体を離し、政宗を覗きこんだ。政宗の行為が酒の結果魔が差したことでもよいと、惹かれる気持ちを白一は吐き出したかった。
 しばし、まんじりと見つめ合ったままだ。どちらとも動かず、熱っぽい視線が行き来していた。白一が口を開きかけた時、政宗は食指で言葉を遮った。

「何も言うな。俺が夜伽を命じことにしておけばいい。そうすりゃ誰も文句は言わねえだろ」

 後悔すんじゃねえぞ。と政宗が言い終わるか否か。視界は反転し、白一の頬に手が添えられた。触れるだけ口づけから互いに溺れた後、白一の記憶は曖昧だった。
 何となく覚えがあるのは板張りの軋みと政宗の重みのみ。隙間なく肌を合わせ、二人が眠りについたのは何度目かの快楽を得た後だった。
 肌寒いと目が覚めると縦格子の外は白んでいた。が、まだ明けきってはいなかった。寝返りをうち、薄闇の中に隣で眠っているであろう白一を手探るも、姿がなかった。政宗は起き上がった。
 部屋を見渡しても昨晩解いた帯も、剥いだ着物もそこには無い。はて宿の仕事は相当に早くから始まるのかと思い、外へ出てみるも厨はまだ煙もあがらず、人の動く気配も無かった。
 すると、草履の擦る音と共に、月花の主人がお早うございますと現れた。

「白一は早々と仕事か」

 主人ははっとするも、すぐいつもの笑みに戻った。

「里へ、帰りました」
「Ah?帰った?」
「はい。少々退っ引きならなぬ事情がございまして。私からも白一の非礼をお詫び致します。次はまた来年、うちで働いて貰うように言ってありますので、政宗様も是非にお越しくだされば」
「ああ。そうさせて貰う…」

 政宗は主人に風呂の用意を命じると庵へ入った。それにしても、早々に里に帰るとはあの女いい度胸してやがると、政宗は来年はどうこの借りを返してくれようかとほくそ笑んだ。
 領主の去った庵の戸口には、一輪の月花美人が朝露を携え、静かに花を閉じていた。