とさという音と共に、地に先立って積もった柔らかな雪は沈み、静寂な中庭には白腹の囀りのような雪鳴りがきゅっと響いた。
昨夜、夕菜が臥所に入る時に歩いた廊下は酷く冷え込んでいた。
廊下から庭を見ると、石灯籠に照らされた池には薄氷がはっていて、その下を鯉がゆっくりと泳いでゆく。凍った水面に映し出される赤と鈍い銀色は灯籠の光が屈折し祇園の提灯が川面に映し出されるような華やかさの如く実に幻想的だった。
寒う御座いますから、お早くお部屋に。と言われた侍女の言葉にもう少し見ていたいと夕菜は暫くその場に佇んでいた。手先はかじかみ、底冷えがして足元は冷水に浸けたような冷たさだったがその情景の前ではそれすら忘れてしまう程だった。
それから程なくして大きな牡丹雪が空からふわりと庭に舞い降りたから恐らくその後かなり降ったのだろう。
また別の落雪の音に目が覚めた夕菜は、左に枕したまま籐の衝立に囲まれた床から辺りを伺った。
障子に映る廊下の行灯に灯る火も、外国から取り寄せたという朱色の台灯籠に灯る火も、煌々と輝く様は世がまだ真夜中であることを告げている。
夕菜の背後では夫である元就がまだよく眠っているようだった。
側室の夕菜は元就とは十ほど歳の離れており、元々は元就付きの侍女だった。
数年前までは多く居る侍女の中でも夕菜はまだほんの下働き程度の身分で、元就が廊下を通る際も遠目からひれ伏し、また仕事も直接元就から言い渡されたこともなく、侍女の仕事といっても位の高い侍女からの指示を受けて働くといったようなもので、元就の側で直接の召換や湯浴み、配膳などは殆ど仰せつかったこともなかった。
夕菜は名もない小さな武家の娘であったのだが、いつからだったか、恐らく彼女の父親が毛利軍で功績を上げた頃に、元就は幾人もいる侍女から特に夕菜を可愛がり、何かにつけて自分の身の回りの事をさせるようになっていたのだった。
だが、それを疎む者も居ない訳ではなく、年長の侍女や、また重臣の縁で入った矜持の高い侍女も元就が夕菜を可愛がることが面白くなかった。彼女たちはあわよくば元就のお手つきにでもなればといつも競って侍女をやっていたからだ。そんな夕菜の風当たりは日に日に強くなっていった。
その内情を元就が知っていたのかは夕菜には分からないが、丁度その頃に奥に上がる話を持ちかけられ、夕菜は今一番元就と近しい処に居るのだった。
背の襦袢越しに伝わる愛しい夫の体温は、同じ布団の中で暖を取るに申し分なく、夕菜はその心地の良い暖かさに微睡んでいた。
室内の小さな火鉢には、側に居た侍女が炭を絶やさずに刳べてくれていたが、それでも肩のあたりが少しばかり冷えていた。それもその筈で、肩の部分からは布団の端が下がった位置にあったからだ。
夕菜はかけている布団を自分の頭だけ出るように顎の下までたぐり寄せると、腰のあたりには元就の右腕が乗っているのにはたと気づいて自然と顔がほころんだ。
もう一眠りしていようと身動ぎをして自分の良い按配に布団を整えると、背後に眠る元就の右腕は夕菜の腰を今しがた眠りの最中であったことを疑わせるような力で引き寄せ、顔を夕菜の首筋に埋めてくる。
元就の吐息は顎の辺りにまで伝わってくすぐったく感じる。夕菜は首を捻って元就の方を見たが、また彼も肩だけ布団から出ていた。寒かろうと少し体を捻って左手で布団の端を掴ん元就に掛けてやる。すると、元就は腰に夕菜のあてていた腕を右の脇腹から斜めに腹部を通って夕菜の左肩まで伸ばし一層腕に力を込めた。
「夕菜、もう起きるのか」
「いいえ、もう一眠りしていようかと思っております」
夕菜は左肩の辺りにある元就の右手に自分の右手を重ねて言った。首筋にほとんど距離の無いまま「そうか」と言った元就は腕の力を少しだけ緩めてまた規則正しい寝息を立て始めた。元就の声は低く、小さなものであったが吐息と共に吐き出される唇音は夕菜の肌を震わせた。夕菜はまた少しだけ体が暖かくなって、浅い眠りに落ちてゆく。
元就は一昨日、瀬戸内海を挟んだ土佐の長宗我部元親との戦を終えて帰ってきたばかりだった。
互いに強靭な水軍を有した水上戦は、長宗我部の猪突猛進な戦法の裏をかくという風にして元就は駒を進めていたのだが、海上は大時化で更に豪雨が通過し風雨が尋常ではなかった為視界も悪かったのだという。
隙をつき、相手本陣の背後から攻めようと、瀬戸内の離れ小島に潜んでいたにも関わらず、毛利水軍は悪天候の中、船を中々進めることが出来ずに長宗我部の富嶽に呆気無く見つかった。先陣の奇襲船は豪雨と共に大砲を浴びせられ鉛と共に海底へ沈んでしまったのだった。
幸先の悪い開戦に毛利本陣の船には苛波が落ち着き無く押し寄せ、自軍の兵士らに厳しくあたって元就は体制の立て直しを計った。
しかし、悪天候というのはそうそう悪運ばかりを呼び寄せるものでもなく時には救いの手を差し伸べる時もある。
毛利軍、長宗我部軍共に大所帯ではあるのだが、長宗我部の武器とも弱点とも言えるのは、本陣が富嶽という巨大な船で海上要塞の如くであり、この巨体が悪天候の中流されることは到底考えられないものだが、しかしそれは逆に機動性に欠けるということだった。
長宗我部軍が乱発に発砲した大砲は島々の砂州から続いた岩々を次々と崩壊させて、それらが海に沈み、そしてこの予想もつかぬ暴風雨と相まって岩礁と富嶽との間に小さな渦潮がいくつも出来ていた。富嶽は舵を取られ浅瀬に乗り上げてしまったらしく、毛利軍へ絶え間なく続いていた砲撃も止み被害も押さえられたのだ。
しかし、元就側もこの悪天候ではもはや戦にもならぬと戦闘を続けることを已む無く中止したのだった。
そしてこの嵐は双方の陣を引かせ、此度の戦は終ったのだった。
戦から帰ってきたばかりの元就の顔というのはそれはそれは苦虫を噛み潰したような顔で、納得が行かずすっきりしないといった風だった。
元就はいつも口癖のように、周辺諸国が自国の末端まで気を配れずに何が天下統一、上洛だと言っている。元就は安芸の地と毛利の繁栄に力を注ぐことが本分だと考えていた。その考えには夕菜も同じだった。
時折歌会や茶会に招かれ諸国を回ることもあるが、道中、橋の袂や地蔵の足元にはやせ衰え半裸で倒れているも者も多く、また餓えに苦しむ民も少なくはない。
元就はそのことを言っているのだった。いつも己の兵士らを捨て駒と呼び、その鉄仮面さながら冷徹非道などと言われてはいるが、裏をかえせば保守的なのだ。
元就はそれは熱心に安芸の民を思い米の収量を上げる為にも多くの知恵を農民たちと考えていたりもした。
長宗我部のように騒ぐ暇があるのならば内政を怠るべからずとの心得だ。
毛利の安息を脅かす長宗我部との戯れから帰還した元就は無駄な時間を裂いたと、いつも以上に機嫌が悪かった。
元就の着替えを手伝った侍女は怒気に気圧されていつもやっている召換もうまく行かず、手が震え帯を結ぶことができずに元就は「もうよい」と自分で帯を結んだのだという。
傍から見れば侍女の怯えるのも分からなくも無いのだ。しかし、主人の帯すらまともに結ぶことのできないというその侍女の失態は瞬く間に広まって、彼女は暇を出されそうになったのだがそれは夕菜が仲裁に入り「その侍女は私が面倒を見ます」と夕菜は彼女を自分に付けたのだった。
その侍女は今夜初の宿直で今は夕菜の部屋にいるはずだ。
心細くないだろうかと意識が浮き沈む中案じていると、元就は伸ばした腕にまた力を入れて夕菜を抱き寄せた。元就はまた夕菜の首元で声を発する。
「夕菜、何を考えておる」
「部屋に残している侍女のことを」
「そうか」と元就は言うと、今度はその手を襟の合わせ目から夕菜の胸元へ滑らせた。
冷たい元就の指先が夕菜の胸に触れて元就は肩を掴み自分と対面させるとするりと夕菜の左肩から襦袢をはだけさせた。薄暗い中に夕菜の肌が白く浮き上がった。
触れる元就の手は武人とは思えなぬ程で掌は豆も出来てない。指は細く、色も白い。陽に普段触れない二の腕などは白粉を塗ったように滑らかだった。これは母親譲りだと本人は言っていた。
「元就様、もうじきお天道様が天に昇られます」
何度も床を一緒にしているとはいえ、やはり陽が上がってからの情事というのは夕菜は羞恥を覚える。頬は赤みが差していると思われて、まともに元就の顔を見れぬまま目を少し伏せた。
元就の掌は何度も夕菜の肌を滑った。肩から二の腕、脇腹、腰まで来るとまた肩から始まる。摩擦のせいなのか、それとも元就に見られているからなのか体温は徐々に高くなる気がした。愛おしそうに何度も往復して撫でる元就は今度は夕菜の頬に手をあてその手を伸ばしゆっくりと髪を梳き始めた。夕菜はこうして元就に触れられている時が一番に安らぎを感じる。
しばらくされるが侭になっていると元就は手を止め、夕菜の手に自分の手を重ねた。
「夕菜、そなたこの国が好きか?」
「ええ、それはもちろん。生まれてこの国の空気に触れ、この土地のものをたんと食べて育ったんですもの。厳島も、瀬戸内の海の恵みもこんなに素晴らしい土地はそうそうありませぬ」
夕菜は微笑んで元就に答える。
こうして元就の隣に居る事が出来るのは、もしかすると祀られている三女神が夕菜に与えた幸運なのかも知れない。安芸に生まれていなければ、元就が統治していなければ二人は出会わなかったのだ。
そして夕菜は以前から聞こうと思っていた事を思い切って問うてみる事にした。
「そう言えば元就様、以前からお聞きしようと思っていたのですが」
「何だ。申してみよ」
「どうして私を側室にしてくださったのですか?元就様は御正室様もまだではありませんか。家老殿の反対を押し切ってまで側室を先に取る必要があったのですか…?」
私の様な下等武士の娘など、と言いかけると元就はその先は言うなと夕菜の唇に手を添えてまた夕菜の髪を梳いた。
「我の周りは皆、我ではなく我の持つこの国への影響力とそれを持ってして上洛を成すための権力が欲しいだけの連中よ。粗奴等の好き勝手に伴侶など決められては我の命がいくつあっても足りぬわ」
元就はあまり家臣にも信用は於いては居ないのは夕菜も知っていた。その重臣たちが持ってくる縁談には何か裏があるのではと元就は常に疑っているのだ。床を一緒にしている最中に、また食事の際に、そういった暗殺とやらも起こらないとは限らない。
その点夕菜の父親はそういう権力には全く興味のない人間だった。下等武士であるし、家族が一番の心優しい父親だ。夕菜も、ただ一心に毛利へ奉公するというその使命感をもってして侍女として働いていたのだ。
元就は梳いていた手を止めてまた夕菜の肌へ手を伸ばす。
「しかし」と元就は夕菜の頭を自分の胸元へがっしりと引き寄せた。
「夕菜も、肌の色が白すぎる。透けてしまいそうだ。父上や母上の様にふと消えるなど許さぬぞ」
「ふふ、元就様らしくありませんね。私は消えませんし、元就様に飽きがこない限りは奥の勤めを果たしとう存じます」
耳元で元就の心音を聞きながら、夕菜は自分を見初めてくれた元就が、当初こんなにも情のある人間だと思って居なかった。
安芸を治める為に家臣には弱みは一切見せない。海に立つ鳥居の如く遠くを見据えて後世までも毛利が続く事を願っているのだ。夕菜もその姿を支えたいと思っている。
「そうか」という声が夕菜の耳元で響いたかと思うと、心音と心地よい元就の体温は離れてゆき、元就は夕菜を仰向けにして上に覆い被さった。栗色の綺麗な髪がさらりと夕菜に下がって来る。
「日輪の陽で透けてしまわぬ様に…」
夕菜の肩に口付けた元就は耳元で囁いた。
「我が赤くしてやろう」
元就は夕菜の襦袢の腰紐に手を掛け結び目を慣れた手つきで解いてゆく。
障子戸の隙間から臥所には一筋の陽の光が走った。夜明けを告げた光は、また庭のどこかで落雪を誘い、池に張った薄氷を少しずつ溶かし始めていた。
- 早朝の床
- (20120105)
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