ただ自国の繁栄と上洛という目的よりも、敬愛していた秀吉の死を悲しみ悔やみそして何より 己の非力さに三成は苛立っていたのだった。徳川家康を打つというのはもはや私怨になっているのではと 口にする家臣も現れ、つい三日ほど前には夕餉の毒見役を新たに選出せねばならない事態となり、 刑部によれば長年城勤をしていた女中頭が、どうも加藤清正方の家臣に買収されたらしいとのことだった。
それを発端に、今まで豊臣軍に忠誠を誓っていた大名も徐々に不穏な動きを見せ始め、 旧豊臣軍を再度立て直そうと孤軍奮闘している三成は、 此処の所食事もろくに取らずに、軍議だ鍛錬だと戦の準備に追われ、 怨霊か呪詛にでも取り憑かれたかの如くいつも眼を血走らせていた。
城主の放つ殺気に侍女や女中は腫れ物を触るかの様に恐る恐ると接していた。 そんな中でも三成の正室である千代だけは普段と変わりなく三成に接していたので、 主だった家臣や、三成付きの女中や侍女は三成本人の様子を千代に聞いてくる始末だった。しかし三成もまた千代にだけは己を許しているように思われた。
三成が千代の住まう建物に来た時、空はどんよりとしていて、いつ五月雨が来てもおかしくない空模様だった。 庭の木々は若芽が息吹き、その葉は艶やかだ。 いつものように縁側に腰を下ろし、外を眺めている千代に、もの言わず横になりただ頭を千代の膝へ預けて眼を瞑る。 三成は毎夕執務を終えると、奥へ足を運ぶ。特別な会話は無いにせよ、こうやって二人だけの時間を共有できることは千代にとっては何より嬉しい事だった。
三成が身をよじると湿気を含んだ板張りがぎしと鳴る。そんな音すらも愛おしく感じられるのだ。 この陽の傾く約四半刻程の時間はいつも穏やかだ。今日もそろそろ侍女が夕餉の知らせにやって来るだろう。 膝の上が軽くなるのはいささか名残惜しいが「三成様」と名前を呼ぶ。 すると三成は眉間にしわを寄せたまま眼を細め千代を一瞥するとポツ、ポツと言葉を紡いだ。
「西軍の指揮は、私が取る。我らの、勝利は、決まったも、同然だ」
突然戦の話をするのは、珍しい事ではないが、言葉が終わるに連れてギリと歯が鳴りそうな程に力が入っていた。 いつも以上の決心を感じたが、それと同じ位事態を懸念している様だった。 かつてないほどの戦になるであろうことは、城下のみならず年貢を納めに来る農民たちも認知している。 村の若い働き手を兵士として集めるのは戦時の際常であるが、何しろ今回石田軍が提示した兵士への報奨禄はいつもの倍だったからだ。 話題にならないはずがない。 これ程三成を追い詰めているものは一体何なのか千代にはわからなかった。
上洛が果たされれば、三成と過ごす穏やかな時間がこの先多分にあると信じているのに今は何故か胸が苦しい。
三成が必死になって大儀を成そうとしているというのに、近頃の彼を見ていると、これ以上の強攻は果たして正しいのかという懐疑が心の隅にもたげるようで、しかし、こんな風に考えてしまう自分の方が怨霊にでも取り憑かれてしまったのではなかろうかと思った。何とも馬鹿馬鹿しい。
外を見遣ればしとしとと雨が降り始めている。庭の紫陽花はまだ当分咲きそうに無い。 そっと右手を銀色の髪に触れてゆっくりと滑らし、三成の手に千代は片方の掌を重ねた。
三成はこうしていてもきっと頭は戦でいっぱいだ。こうしている時まで精神をすり減らす事もないだろうと思う。
「三成様、どうか私の前では御心休まれますよう。千代の心はいつでも三成様のそばに御座いますれば」
「千代、私は必ず家康の首を取る。それまでは戻れぬ。待ちきれないというのなら別の男の所へでもどこへでも行くがいい。お前に待っていてもらおうなどとは思っていない」
滑らせる手が無意識のうちに止まった。雨音が大きく聞こえる。一体何を言われたかと思った。 思いの外頭が動かない。しかし自分が今、感情を噴出してしまっては逆に鬱陶しいと思われるだろう。 震えそうな声を落ち着かせて息深呼吸をする。
「三成様、千代はいつもお側に。辛い時は御身を預けてください」
大丈夫と自分に言い聞かせ、なるべく微笑んで答える。三成の不安と孤独は一体いつになったら解かれるのだろう。 こうして頭を預けてもそれは夫婦として形だけのものだったのかもしれないと考えるとますます胸がぎゅっと苦しくなった。
三成と視線が交わり、再び微笑んだその瞬間、二の腕を三成に掴まれ、体が仰け反った。床に帯が当たって眼前には鈍い銀色がある。 前髪の間から覗く鋭い瞳は今の空と同じ色をしていた。
「 千代!お前も、お前も!侍女や女中や城の者たちと同じか!本心は私が狂乱していると思っているのだろう。気がふれたか、頭が可笑しくなったと思っているのだろう」
ああ、やはり城勤の者たちが困惑している雰囲気を三成は薄々感じ取っていたのだ。
千代は自分がもう少し三成の周囲へ気を配っていれば、彼はこんなにも自分を追い詰める必要は無かったのかもしれないと思った。 敬愛していた秀吉を失い、一城主として、西軍を取り仕切る将として、謀反や裏切りがいつ起こるとも分からない中、 役目を果たそうとすれども、失った悲しみに浸る時間も無いまま懸命に戦事の備えをし、たくさんのものを背負っていたのだ。あげく自棄に成り掛けている。実際のところ毎夕訪れる三成に安らぎを与えねばならない筈の千代が、この穏やかな空間で一人満足してしまい、それに気づけていなかったのだ。全く本末転倒だった。
侍女からも、他国の情勢と次戦の戦のことは粗方聞いてはいたのだがそれは形式的なものであったし、本人の胸の内は全く分からない。
覆いかぶさる体勢ではきつかろうと掴まれていない方の腕を三成の首後ろへ伸ばし、そのまま自分の胸元へひいた。三成の体が千代にのし掛かる。体温が着物越しに伝わって、その重みは心地よいものだった。自分の鼓動も少しばかり早くなっているように思った。
「三成様、此度西軍を束ねるのにさぞご苦労なされた事と存じます。毛利殿や長宗我部殿は一癖も二癖もある国主であると聞き及んでおります。どうか、千代を信じて下さい。私は決して三成様が気が触れたなどと思ってはおりませんし、誰か別の殿方と一緒になりたいなどと露ほども思ってはおりません」
胸の頭をゆっくりと子供をあやすように撫でてみる。こうしていると普段の気丈な三成とは思えない。苦しい立場にありながらも何とか己を顕示しようとしている。
こんなにも己に厳しくなければならないのであろうか。そこまでしなければ徳川を打つ事はできぬのだろうか。三成に掴まれている腕にさらに力が入る。
「先ほども申し上げたではありませんか、どうぞ私の前くらい気を休ませてください。他愛無い話でよいのです。くだらない話でよいのです。千代は三成様とこうして居れるのがまこと幸せにございます」
三成は掴んでいた千代の腕をゆっくりと放す。狂王と恐れられながらもただ家康を葬り去る事しか見えていなかったのにも関わらず、こんなにも自分を慈しんでくれる人が目の前にいるのだ。
千代、と呼ばれ三成が顔を上げ千代の頬に手を添えた。こうやって抱きしめられるだけで、今まで力んでいたのが嘘のようだと三成は思った。
三成は千代の艶やかな髪をひと撫でし、そそのまま髪をすくい上げ口づける。千代は白梅の香を好んで炊きしめている。それが雨の匂いに混じっているような気がした。
五月雨は初夏へ翔けるの恵みの雨だ。雲間から覗く陽に照らされた紫陽花の若芽はきらきらと輝いていた。
- 五月雨テイクミー
- (20110223)
- close