旦那、最近元気ないよね、本当どうしちゃったのさ。と同僚の佐助から問われた幸村は「結花とまた言い合いになったのだ…」と明かした。
 丁度、昼に入った頃、オフィス街の飲食店は混雑し始めたところだった。飲食チェーン店の立ち並ぶ通りは、スーツを着たサラリーマンやOLが足早に行き交っている。パスタやラーメン、カレー、ステーキソースの空腹を誘う匂いが立ち込める通りを幸村と佐助も行きつけの蕎麦屋へと向かっていた。
 空は随分と真っ青で、この秋口の光線は残暑の土産といってもいいくらいに強く、また、清々しいが、幸村の心中はまったく晴れ晴れしいものでもなかった。そして、このじりりと腹にくる感触は決して仕事のストレスでも空腹のせいなどでも、腹痛でもない。
 目的の蕎麦屋までの道のりはそう遠くは無いのだが、少し歩くとやはりまだ汗ばんでくる。歩くたびに背に当たるフードが鬱陶しくなった幸村は着ていたパーカーを脱いだ。


「ふーん。倦怠期かねえ」

「最近どうも…結花と波長、とでもいうのだろうか、ともかく噛み合わないのだ…」


 幸村には付き合って五年目になる彼女がいた。先達て名前の出た結花がその愛しい彼女である。
結花は大学時代幸村と佐助の同窓生であり、奥手である幸村が佐助の助力もあって、紆余曲折の末に二年ほど掛けてやっと付き合いにまでこぎ着けたのであった。
小柄で、色が白く、笑顔がとても愛らしい。いつでもにこやかで明るく振る舞う結花に幸村は惹かれ、共に居たいと思う様になっていたのだ。そんな愛らしく、いつも腕の中に収めていたいほどの彼女であったが、どうも近頃お互いの意思の疎通というのか、何分すれ違いが続いていたのだった。
 幸村も結花も一人暮らしであるから、互いの家によく行き来をしていた。殆ど幸村が結花の家に通っているのだが、最近は結花の自宅を訪ねても何故だかお互いよそよそしく、居心地も悪い。ほんの些細なことですぐに言い合いになってしまうことが多かった。幸村はこのままではいけないと何度も結花に「何かあったのか」「どうしたのか」と問いただしては見るものの、結花の返事は決まって「なんでもない」であった。

 食堂に着き、カウンター席に座った二人は、注文したそばをすすった。佐助は七味のキャップを閉めながら「なるほどねえ」と言う。


「それってさぁ、絶対何でもなく無いよね」

「そうであろう?俺もなぜ最近こうなるのかさっぱり分からんのだ」


はあとため息をついて、お冷やに口を付けた幸村に、佐助は何かを思い出したかの様に「あ、そうだ」と咥えていた箸を丼に渡した。まだ佐助の丼には麺が残っていてかまぼこがぷかぷか浮いている。佐助は、食堂の出入口の棚に置かれた数種類のチラシのうちから一枚を引き抜くと、カウンターまで戻って来た。


「旦那~、結花ちゃんとこれ行ってみたら?」


そう言って佐助が差し出したのは、「ミレー展」と大きく書かれた絵画展のチラシである。チラシの一面には羊飼いの少女が大きく取り上げられていて、それを取り囲むように、ミレーの代表作である「落穂拾い」とか「種まく人」「晩鐘」も印刷されていた。
実を言うと、幸村はつい先日、ミレーの「種まく人」の絵画の話題を、取引先と世間話がてらしたばかりであった。驚くことに、世の中にはこの「種まく人」はほぼ同じ構図で、二つの本物が存在しているのだという。どうやらミレーはサロンに出展する為に二枚同じ絵を描いたらしいのだが、その絵が発見された当初はさぞ美術愛好家では物議を醸したのだそうだ。絵画には関心の無い幸村ではあったが、話を聞くうちに興味をひいたのがその絵の所蔵元であった。一つの本物はボストン美術館が所蔵し、なんともう一つは日本の山梨県が所有しているのだという。
 どうやらそれが契機となって、今回のミレー展も開かれるようであった。

食べ終えた幸村は、グラスから一口水を飲むとチラシを手に取った。


「佐助から見て結花はミレーが好きそうに見えるか?」

「いや、それは俺も分からないけども、結花ちゃんの好み云々のことを言ってるんじゃ無くて、絵を見てる結花ちゃんを旦那がきちんと観察するのが本来の目的っていうか?まあ、旦那も絵をしっかりと見てその目をよおく養うのもいいかも知れないけどね」

「なっ…!」

「一度さ、ゆっくりと時間、共有してきなよ。どうせ最近忙しいとか言っちゃって一緒に遠出とかもしてないんだろう?」


佐助にそう言われた幸村は図星であった。結花の家に行くのは、彼女の仕事が終わる時間の都合もあって、大概日曜の夕方であり、遠出をしようにも、やはり幸村は結花の週明けの仕事のことなどを考えると、近場の公園に散歩に行ったり、近場のレストランに行ったり、近場のショッピングモールに行ったりと、恐らく半径5キロメートル圏内で、デートだったり、買い物だったりを全て済ませてしまっていると今更ながら気付いたのだった。


「やはり公園などで散歩というのはまずいか…」

「いや、ダメってわけじゃあないよ。そりゃあ結花ちゃんのこと旦那がいっちばんに考えて、週明けの仕事に響かないようにってそうしてんだろ?だけどさ、仮にもいい大人がさ、いつまでも学生ごっこみたいなお付き合いしてるのもどうかと俺は思うけど?今時の高校生でももっとはしゃいでるよ」


と佐助はずずと音をたてて、丼から汁をすすった。


「うむ…それなら、そうだと、良いのだが…」


佐助のアドバイスを受けて、幸村は遠出をしていないという理由であるのなら、幸村自身が無理にでも結花を連れ出せばよいとの結論に至るのだ。だが、幸村はなんとなくその少々強引な提案を自分の中で昇華しきれなかった。しかし、このままと言う訳にも行かない。幸村は佐助の提案を素直に実行することにしたのだった。


 意を決して幸村は、その週末に結花に連絡をし、ミレー展へ行く約束をし、美術館で待ち合わせをした。
結花には電話で約束を取り付けたのだが、「もしもし」との結花の第一声は受話器から廊下に反響したような声で、その時はどうやらまだ会社に居るようだった。


「仕事で忙しいのはわかっているのだ、だが、その…、折角の休みであるから俺に、一日付き合って欲しい」


そう言った幸村に、その時の結花は実に弾みのある声で「嬉しいっ!」と返答をしてくれた。幸村はやはり、佐助のアドバイスは的確だったと心の中で手を合わせた。結花からよい返事を貰え安堵した幸村は、ベッドになだれ込んで小さくガッツポーズをしたのだった。









 ミレー展が開催されている美術館はとある公園内にあった。
季節の移ろいを知っているかの如く、美術館へ続く街路樹の銀杏はすでに黄色を帯びていた。
入口の前には大きな銀杏一本植わっていて、その周りを囲む様にして円状にベンチが設けてある。幸村はそこに掛けて結花が来るのを待っていた。
 休日であるのに、美術館に来る客は随分まばらであった。
周辺の校区はどうやら運動会や、秋の行事が目白押しであるらしいく、それらの話をするカップルの会話が聞こえていた。幸村の横を通り、二人は仲睦まじく館内へ入ってゆく。ああいう風に腕を組んで歩いたことなど、ここ最近では思い出せなかった。もっとも、いつもは幸村が恥ずかしがって、結花の腕を振りほどくのだが、実はその少しの強引さや我が侭には、恋人である実感を得られていたなと今更ながら気づいたのだった。


「幸村っ!」


 声のした方を見ると、結花が小走りでやって来た。
本日は随分と地味な、灰色のワンピースを着ている。美術館に行くとのことでその様に色味のないものをわざわざ選んで着て来たのかもしれない。
 ベンチから立ち上がった幸村は自分の元へ駆け寄る恋人に自然と顔がほころんだ。


「ごめん、待った?」

「いいや」

「幸村が、ミレー展にって言うの、ちょっと意外でびっくりしちゃった」


でも誘ってくれて本当嬉しい。と結花は肩を少しすくめて笑っている。早速幸村は二人分のチケットを買うと、館内へ入った。
 順路をたどると、入口からすぐのところには、ミレーのサインの筆跡に関する特徴の開設パネルが展示されている。結花はそれを真剣に読み、絵の下の方をじっくりと見ていた。
 ただ、幸村は、絵もさることながら、隣で同じく鑑賞する結花を、佐助に言われた通りに、その様子を伺い見ていた。
 眉毛の上で切りそろえられたまっすぐな前髪に、少々パーマの取れかかったような、しかしそれでもゆるくふわりとウェーブを描いて、毛先が鎖骨の辺りで揺れている。すっと伸びた背は姿勢よく、視線は絵へ一心に向けられている。瞬きをすれば、その伏せた睫毛が随分と色っぽかった。結花はその視線に気付いて、「なに?」と首をかしげる。幸村は慌てて、両手を振った。
仕草も、表情も、その様子に幸村にはいつもと変わらない様に映っていた。ただ、少々無理を言って誘って良かったのかもしれない。結花は絵を見ている間ずっと笑顔が絶えなかった。結花に惹かれたその笑顔を幸村は久方ぶりに見たような気がした。

 ミレーの絵をゆっくりと鑑賞し終え、二人は美術館を出ると、どちらからともなく手を繋ぎ銀杏並木をくぐる様にして歩いた。美術館から公園の門へ続く道沿いは夜になると根元にあるライトが柔らかく光りを舞い上げて、黄色の葉は益々輝きを増していた。
 幸村は少しばかり握る手に力を入れた。


「結花、その、最近は…」

「幸村さ、いつも優しいから、私何も言えないじゃない」


幸村は一体何のことを言っているのか分からずに、結花へ視線を遣ると、本人は困った様に笑っていた。


「幸村が、私のこと思ってさ、いっつもお休みの日は家に来てくれて、次の日のこと考えてゆっくりさせてくれるじゃない?確かに私は最近残業ばっかりで、家に帰るのも寝に帰るみたいなものだったから、その…幸村のね、気持はすっごく嬉しかったの。だから、今まで何も言えなかったんだけど― 少しは幸村も我が侭言ったり、強引になってくれていいんだよ。私が忙しいのとか全然気にしなくていいの。気を遣って欲しく無いの。そんなこと私が言えたことじゃないんだけど、でも幸村の気持考えると、なかなか言えなくてさ…だから、今日誘ってくれて本当に嬉しかった」


「結花…」


幸村は無意識のうちに結花を腕の中に引き寄せた。結花の体温を間近に感じたのはいつぶりだったかはっきりと思い出せない。朝晩は、互いに寄せ合うには丁度よい気温になりつつある秋口である。


「少々、強引でもよいと言ったな?」

「うん?」


結花が見上げる表情に、唐突に自制を乱された幸村は、少々いたずら心が働いた。


「もう俺は、遠慮はせぬぞ」