野 菊

 蔵で夜が更けるのを待っていた。
 敷き詰められた立派な長持の中身は、今川の奥向きの衣や、装飾品である。長持ひとつとっても、さすが公家の由といったところか、金銀螺鈿の細工が施され、薄い月明かりでも目映く光り、蔵にしまわれているのが勿体無い程である。これらの衣装が季節ごとに入れ替えられ、奥らがきらびやかに着飾り競いあっていると知ったのは、任に着いてすぐのことだった。
 今川義元が居城とするこの駿府の館に菊が任務として入ったのは昨年の冬だ。各地に点在していた伊達政宗の小飼である黒巾布組が、今川不穏を察知し、政宗はすぐさま駿府潜入を命じたのである。
 女中に扮した菊が働きながら得たものは、今川に与している徳川が水面下で織田と接触しているという、まさに策略巧みな謀反の片鱗だった。
 公家から戦国武将へとその名を轟かせ、中央や将軍にも影響のある大大名であるにも関わらず、家名を挙げた義元の素行は、今や目も当てられぬ程であった。奥には何十人もの女性が昼夜問わず美貌を振りまき、絢爛豪華な生活には極めて浪費も多い。そのお陰で城下は潤い、城主様様と活気に満ちてはいるものの、とはいえ利の恩恵に授かる者は一部の商人ばかりであった。城下を離れれば、寺神社境内には乞食も多く、賊もシマを張っている。
 目に届かぬ諸悪の改善を主に担うのは下に就く家臣団であるが、内、人一倍正義感に溢れ、情に厚い徳川はどんな民にも目を掛け政務に奔走していた。故にそろそろ潮時と考え始めたのだろう。不埒三昧な主を鑑み、先を見据えた結果、織田信長との接触を決意したのである。しかし、真面目で清廉な徳川が、うつけと呼ばれる魔王と手を結ぶとは、こちらに於いては腹が読めずじまいである。
 だがこの事実によって政宗は、北条やその北に所領を構える会津蘆名、また上杉らの動向を今後より注視せねばならぬと十分な戦略を立てる算段をつけることが出来た。奥羽の地はいまだ混沌としながらも、政宗はいつも天下を見据えていた。我が主若くも物怖じせず、気概を持った素早い行動には度肝を抜く。そんな一端を担う菊も、黒巾布の隠密であるからには、己が情を捨てても主の為に忍としての役割を真摯に果たさねばならない。
 時刻は牛三つ、雲に隠れた月を確認すると菊はそっと蔵の外へ出た。
宵闇が迫る建屋の隙間を縫って、館内の徳川屋敷まで向かう。目標は徳川家康本人ではなく、その家臣らである。徳川の忠臣らは近頃夜遅く、裏戸から織田家臣を招いては密会を行っていた。此度で何度目か、片手では足らぬ回数であったが、不定期に開かれる会合はそろそろ終わりに近づいている様子が見受けられた。前回は、軍の割り振り、兵糧の確保、そしていよいよ、各隊戦地での配置が決められようとしていた。
 主政宗は、これを機に、織田、徳川の軍略を事前に入手しようというのだ。他の追随を許さぬほどの戦略を持ち合わせた政宗でさえ、やはり上方の戦の運びには一目置いている。いつ刃を交えても良いように幾通りもの戦術を練っているらしい。
 会合は毎回徳川屋敷で開かれるものの、いつも使う座敷は違っている。菊はぼやっと光る灯りを頼りに、集う影を捜した。今宵の場所は屋敷内戍亥の方角に位置する部屋だ。城内勝手知ったる菊は裏口から隣の部屋へと入ると、壁に耳をつけた。中から聞こえる声は四人。覚えのある声は前回も訪れていた明智光秀、柴田勝家、そして女性の声は井伊直虎、加えて今回は徳川家康本人も同席していた。これは思わぬ誤算であるが、今回の会合はこれまでに比べ、大儀な寄合のようである。
 菊は一言一句聞き漏らすことの無い様、前回よりも近い位置、部屋の天上裏に張り付くことにした。屋根まで上り、通気口の柵を外してもぐりこむ。埃っぽく、当然中は真っ暗である。目が慣れてきたところでクモの巣や鼠の屍骸やらをそっと脇に寄せてやり、よい塩梅を確保した。板の節はご都合腐って穴も空いている。

「…すると、家康殿は今川軍としてこの戦に出ると、そう仰るのですか」

 静かな声で柴田勝家が呟いた。

「そうだ。最後まで欺き通すのが、義元殿にとってもよいだろうとわしは思う。今川軍と共に挙兵するが、徳川は織田の援護に回り、大将義元への道を開こう」
「ふふ。嘘も方便とはよく言ったものです。が、全く織田の役どころはいつも貧乏くじを引いているようなものですね」

 別段困った様子も無く、明智光秀は薄く笑みを浮かべた。天下布武を掲げる織田信長にとって、今川討伐はまたとない好機だ。それを徳川が自らお膳立てしてくれるとは、願ったり叶ったりだ。
 光秀の疑わしさに、更に家康は付け加えた。

「桶狭間が無事終わった暁には、わしは織田に忠義を尽くそうと思っている。それだけは信じてくれ」

 家康の隣に座す直虎は、心配そうな様子で家康の名を呟いている。
主に見切りをつけ、他国の大名を味方につけるとは、ああ見えて家康はずいぶん食えぬやつだなと菊はため息をついた。だが、この場を憂いている場合では無い。家康ははっきりと桶狭間と言った。決戦の地であることは明白だ。しかし、まだ軍、守備隊、補給等々の配備や手順にまで欹てねばならなかった。菊は狭い屋根裏にじっと耐えた。欲しい会話が出るまでの辛抱である。
 しかし然うは問屋が卸さないとはよく言ったものだった。節の穴から覗いていると、明智光秀が大きな紙を広げた。地形図である。駿府から近江辺りまで、ざっと見て二十程、大きな城の印が付いていた。四人はそれを眺めると、声を出さずに紙の上に置いた駒を使い、進軍経路や配置を決め始めたではないか。これでは、知りたいことが中々知れない。天井裏のこの小さな節穴からでは、手もとの駒を詳しく伺うことが出来なかった。
 どうにかして、手ごまの数だけでも確認して頭に焼き付けねば。そう考え体制を整えたその時、板がほんの僅かに軋んでしまった。瞬間、下から、正確には天井を突き抜けて二つの太刀が勢いよく突き抜けた。間一髪、菊は避けたが拍子に肩を梁にぶつけ、座敷にまで鈍い音が響いた。慌てた菊は入ってきた通気口を脱兎の如く飛び出し、屋根を伝って城外へ出た。ところが、なまじ謀反を企てている徳川家康ではなかった。家康も秘密裏に忍をかって居たのである。
 城外へ脱出し、山へ隠れるのが最良である。菊は必死に逃げた。だが、相手も相当の手練れのようで、菊の行く先を読み、逃げ道を塞いでくる。後ろからはクナイや手裏剣が次々と飛んで、腕や足に傷をつけた。森の木々に身を隠すようにして枝を飛び移るのももはや限界に近づいていた。菊はとうとう応戦する決心をした。相手方は恐らく五人。菊が持っている忍び道具で一撃必殺すれば倒せぬことはない。懐に手を忍ばせ、気配を消しつつ相手の出方を待った。気配は後ろから三人、前から二人殺気を闇に突き刺し、菊を探っている。
 落ち葉を踏んだのを合図に、菊はクナイに手を掛けた。目の前から気配が近づいた。手にした獲物を振り上げたが、向かってきた相手に菊は手が震え、切りつけることが出来なかった。そんな菊にあいても動揺したのか、一瞬の隙をついて菊は闇に紛れなんとかしのいだ。
 それから三日三晩かけ、菊は奥州の地へと舞い戻った。米沢城に着いたのは、夜も更けた子の刻あたりで、菊はすぐさま主政宗のもとへ報告に行った。
 政宗の居室はまだ緩く灯りが点っている。到着した菊は廊下に跪き、戸の外から「筆頭」と声を掛けた。

「戻ったか。どうだった」
「はい。今川不穏の動きは、主に徳川家康の策略にございました。尾張織田と結託し桶狭間にて事をを構える模様」

 少し間があって、政宗は菊に入れと命じた。一瞬戸惑ったが、主の命は絶対である。菊は従った。ところが部屋に入ったぼろぼろの菊を見るなり、政宗は途端に恐ろしい形相になった。書き物をしていた筆を放り投げ、菊の手首を縛るようにひねり挙げると壁にめい一杯押しつけた。文机からころころと筆が転がり床に落ちる。いつも以上に政宗の隻眼は恐ろしく、底から唸るような声を出した。

「菊、その姿はなんだ」
「申し訳、ございませぬ。少々退却に手こずりました。伊達とは知れておりませぬ故」
「そんなこと聞いてんじゃねえ」

 政宗は、空いていた手を菊の胸元へ滑らせた。懐には忍び道具がいくつも入っている。中から手裏剣、クナイ、五寸刀を取り出して、床に一つずつ突き刺していった。

「おい菊、これは何の為にあるもんだ。言ってみろ」
「御身を、我が主である殿を、お守りせんが為にございます」
「Ah?何だって?」

 怒気を含んだ声に、菊は身動きがとれずに居た。政宗は更に、菊の忍装束の裾をめくって、太ももに手を這わせた。菊は内太ももに千本を忍ばせている。主はよく知っていた。

「手前の身を守るためだろうが。何で斬らねえ。まさか、俺を誤って刺したこと、まだ引きずってんじゃねえだろうな」

 菊は無意識に顔を逸らしていた。目の前の政宗は大きくため息をついて、掴んでいた手首を緩めると、廊下に向かって誰かいるかと声を張り上げた。直ぐさま侍女が現れて、湯を張った桶と、手ぬぐいを持ってこさせた。
 初春の宵は、室内であっても空気が冷たい。湯はそう熱くもないのに、暗がりには湯気がゆるやかに立ち上る様がはっきりと分かる。囲炉裏の側に腰を下ろした政宗は、背を向けて俺の前に座れと菊に命じた。

「ほら、脱げ」

 木々の枝と、敵の刃に裂かれた土埃まみれの着物を菊は肩から滑らせた。下から覗いたのは、若い娘の目映いばかりに白い肌、ではなく、現れたるは痛々しく傷の多い荒れた肌だ。数日前、梁に打ち付けた肩は青くなり、二の腕はかすり傷や刺し傷の跡が黒い血で固まっている。湯に手ぬぐいをつけ、政宗は菊の体を拭いてやった。

「痛えか」

菊は首を横に振った。政宗の怒り収まったのか、先ほどより問いの声色は穏やかになった。

「なんで斬らなかった。手前なら出来ただろう」
「申し訳、ありません。クナイを握った瞬間、恐ろしくなって」

 政宗は再度手ぬぐいを湯に浸した。心地よい水の音が水面に弾いている。時折炭のくずぶる音は、人に触れられる感覚と相まって眠気を誘った。背を拭いていた政宗の手が止まり、今度は正面を向けと言う。菊も何の恥じらいも無く、政宗と向き合った。政宗にも見慣れた体である。
 菊の鎖骨の辺りにも枝の傷が付いていた。そちらも綺麗に拭った政宗は引き出しから軟膏を取り出し、全ての傷に塗ってくれた。
 一通り処置を終え、うつむく菊の頬に政宗はそっと手を添え顔を上げると、おもむろに唇を押し当てた。

「俺は今、手前の目の前にいるだろうが。何尾を引いてんだ。しっかりしろ。わかったな」

 政宗の言葉にたまらず菊は目頭が熱くなって、何度も何度も頷いた。そんな菊をなだめるように、政宗は髪をすき、頭を撫でた。

「駿府潜入はよくやってくれた。Thanks。次の段取りが捗る」
「筆頭…」
「じゃねえだろ」
「はい、政宗様」

 菊が言い終わらぬ間に政宗は抱き寄せた。冷えていた体が、温もっていく感覚は随分久方ぶりである。同じ事を政宗も思ったのか、いつぶりだと呟いていた。二月、三月、それ以上でしょうか。そう答えた菊にそりゃやべえなと言った政宗はひょいと菊を抱えると己が寝床に引きずり込んだ。