朝早くから業者が手馴れた動作で、洗濯機や冷蔵庫などの大物を運びキルトの大きな布に包まれてゆく。夕菜は荷物を詰めたダンボールをせっせと一階まで持っていく。ここは三階だからそれほど大変でもないだろうなんて思っていたが、何回も階段とエレベータをつかっての往復はさすがに堪えた。普段の運動不足もさることながら、二の腕と腰が痛い。
ものの2時間ほどで業者は荷物を運び終え、明日の朝また引越し先へ荷を届けてくれる。一日で引越しを済ますのは業者が手伝ってはくれるもののとてもじゃないが、夕菜一人では無理だった。
長年住み慣れたこの2DKの部屋はすっかり、すっきりしてしまった。部屋には今夜寝る為の布団と小さめの丸テーブルしかない。がらんとした部屋のフローリングにぺたんと腰を下ろした。何時間ぶりに座っただろうか。足が棒のようだった。一気にだるさがやって来た。あぁこのまま寝てしまおうかと目をつむる。するとピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に誰だろうと思いながらも「はい」とインターホンの受話器を上げる。
「夕菜、我だ。玄関を開けよ」
元就だった。なんで引越しの業者が来て荷物運びをしていた昼に手伝いに来ないで、今来るのかと思ったがおそらくこの家で最後の訪問者だ。それに愛しい人ではないか。しかし今日明日と引越しの日だと彼には伝えたはずだ。今日は土曜で仕事は休みだった彼は昼間は何をしていたのだろうかと思い、開錠ボタンを押してポーチのドアを開けた。
「随分遅い手伝いにきてくれたのね」
わざとにこりと微笑んで部屋に招き入れれば、つんとした表情でずんずんと進んで元就はキッチンへ向かっていった。手にはなにやら色々スーパーで買ってきたようだった。しゃらしゃらと袋の音をさせて「夕菜、台所をかりるぞ」といそいそと自前で持ってきたらしい小さな鍋に水を張って湯を沸かし始めた。また何を始めるのだとその後姿をじっと見つめる。
元就と付き合い始めて分かった事だが、彼は彼の中ではきちんと順序だてて行動しているようなのだが、如何せんその考えは表情には出ないし、だからといって自分からぺらぺらと心の内を語ることもしないため、元就のやることなすこと夕菜には常に唐突な行動に思えて仕方が無いのだ。元就と腐れ縁だという元親は「あいつの考える事なんざすぐにわかるぜ」といっていたが、未だに元就の行動パターンは読めないのだった。元親の方が付き合いが長いとはいえ、さすがに彼の方が元就の心中を察する事ができるという事実にいささか嫉妬心を覚えたのは記憶に新しい。
キッチンに立つ元就は袋の中身を漁っている。
「ねぇ、何してるの?」後ろから覗き込む。
元就が袋から取り出したそれは生麺のそばだった。
「引越しそばというであろう、今朝わざわざ長野にある老舗の蕎麦屋へ出向いたのだ。心して食すがよい」
だから今日は手伝いに来なかったのかと納得した。しかしなぜまた長野まで行ったのだろう。元就は変なところで凝り性だ。ぐらぐらと沸騰した湯の中にその生麺を放り込んで揺れるそばをほぐしている。夕菜は何と言うべきか迷った。本来引っ越しそばというものは、近くに引っ越しました。よろしくお願いします。という意味で引っ越した先で食べるものであり、退去する家で食べるものではないようだった気がする。
元就はきっとまた何か勘違いをしているのではなかろうか、しかしそれを指摘したところでまた機嫌が悪くなるような気がする。いつかの彼の逆燐に触れた後は、大変だった。もちろん夕菜も意地を張ってなかなかお互いに折れなかったのだが、些細な事が切欠での喧嘩なんてしない方がいいに決まっているのだ。精神的によくない。おまけに今日は引越し作業で疲れているし、また明日も荷おろしやら片づけやらに追われるのだ。体力的にも都合が悪い。
どちらかといえばいつも凛としていて真面目一辺倒な元就のそんな小さな勘違いもかわいいのだ。わざわざ長野まで行ってくれたのだし、そんな小さい事を気にするような自分ははなかなかに人間が小さいなと思って茹ったつるつるとしたそばを眺めた。
「うわ。本当美味しそうだね。さすが長野の老舗そば屋だわ」
「我の見立ては間違った事などないのだ。伸びぬうちに食べるぞ」
と元就は二人分のどんぶりを掴んで小さなテーブルにコトと下ろす。袋の中から割り箸を出して、いただきますと手を合わせ、狭いテーブルに肩を寄せながらそばをすすりはじめた。
「夕菜、引越しそばの意味を知っているか」
どんぶりに箸を渡した元就はふうと息をついてまだ食べている夕菜を覗きみる。
「ん?知ってるよ。引越しした先でよろしくお願いしますって意味でしょ?なんだ、元就も知ってるんじゃん」
また何か勘違いしてるのかと思っちゃったーと笑って床に置かれたペットボトルのお茶に手を伸ばした。
「これから夕菜は今までより我と家が少しばかり離れるのだな」
と近くにあったお茶を夕菜に渡す。
夕菜は会社の辞令によって部署を移動したのだが、その部署は今の会社とは別に事務所を設けてあって、そこへは今の家からは遠いのだ。会社側からも近いところへ越していいよ。といわれ、引越しの資金も宛がわれた。丁度今の部屋も更新期であったしそれならばと今回の引越しにいたったのだ。
「まぁ、離れるっていっても二駅だけだし」
お茶のキャップを閉めつつ元就に言う。
それから二人で夕食の方付けをしてゴミを出し、明日の段取りを元就に話す。結局疲れきった夕菜は急な元就の訪問により一つの布団で一緒に寝る羽目になったのだった。
翌朝、これまた晴天に恵まれ元就の車で新居へ移動する。日曜だけあっていささか道も混んでいたが引っ越し業者も予定通りに着き、次々と生活用品をに部屋に入れた。今日は元就も手伝ってくれたお陰もあり、なんとかダンボールも減らして、部屋のスペースを確保できたのだった。残りのダンボールは徐々に片付けていけばいい。
大分片付いたことだし、元就には明日も仕事なのだからと、夕方前に家に帰っていった。その後夕菜は大家さんに挨拶をしに行かねばならないと思い、あらかじめ買っておいたタオルセットの包みを持って、マンションのすぐ隣にある家へ向かった。
チャイムを鳴らすと中からふくよかな人の良さそうな女性が顔を出した。
「こんにちは。今日から隣のマンションでお世話になります。301の柊です」
これからよろしくお願いしますと包みを渡す。
「あらあら、ご丁寧にありがとう。随分かわいらしい入居者さんね~。何か困ったことがあったらいつでもいらっしゃいな」
大抵家にいるからと、なんとも気さくでいい人だ。
「そうそう、挨拶にいらしてくれた方におそば食べてもらってるのよ!柊さんもお夕飯まだでしょ?家で食べてくださいな」
またそばか。なんて思っても、せっかくの大家さんのご好意だ。断ることなど出来ない。
こんなにいい人が大家さんで良かったと安心して、お言葉に甘えて家へ上がらせてもらった。
今日は大家さんと二人でそばの夕食だ。二人分のそばを盆に載せた大家さんは一緒にちらし寿司を振舞ってくれた。色とりどりの具と桜でんぷんがなんとも春らしい。
たらふくご馳走になった夕菜は食後のお茶を貰っていた。大家さんが口を開く。
「引越しそばってね、あなたのお家のおそばに来ました。これからよろしくお願いしますっていう意味合いで引越しそばを食べ始めたらしいのよう。お蕎麦とお側を掛けてあるのよね~。昔の人って本当洒落がきいてるわよね~」
と笑って言う。
そうなのかそんな意味もあるのか、ただ引越しの祝いかと思っていた夕菜はなるほどとうなづいて聞いていた。
しかしそれから、数日後何だかアイスでも食べたいなと近所のコンビニに買出しに出かけた夕菜はどう見てもお風呂上りで部屋着の元就と鉢合わせたのだ。なんでここのコンビニにいるのだろうかと思案するが、あらぬ妄想が頭をよぎった。まさか、私が越したことで新しい彼女でも出来たのかと、この辺りに住んでいる人なのかと悪いほうに捕らえてしまう。
しかし元就は、何事でもないように口を開いた。
「今週から我もこの辺りに部屋を借りたのだ。二駅は遠い」
レジにポカリスエットをコトと乗せ、それに付け足すように夕菜は自分が買おうとしていたハーゲンダッツを一緒にお願いしますとレジの店員に会計を頼んだ。
コンビニをでて、夕菜は元就と向き合った。嬉しい気持ちがほぼ心の八割を占めている。しかし夕菜に何の話もなしに部屋を借りていたことに若干寂しく思った。
「元就さ、本当行動読めないし、嬉しいんだけど!どうしてそういう大事なコト言ってくれないの!こういうことなら一緒に部屋借りるんだったのに!」
というと元就はにやと勝ち誇った笑みを浮かべた。
- 小春日和
- (20110308)
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