猛暑が続いているので、店先に並べる魚は早く痛む。売れ残りそうな分は近所へ配ったり、早々と調理したりするのが専らここ最近の奈々の仕事だ。
 とろ箱と向き合い魚の仕分けをしていた奈々は、ふと手元が影ったことに気が付き顔をを上げた。視線の先には領主長宗我部元親が大きな体を揺らしてやって来たところだ。背後から覗きこむように「よう、奈々」と仕事ぶりをしげしげと見つめている。
 急に顔を上げたせいか、奈々は目眩がしていた。みっともない姿ではないかと落ち着きなく髪を撫で付けた。

「いらっしゃいませ!元親様」
「久しいな。おとっつぁんやおっかさんは息災か、店んほうもどうだ」
「おかげさまで父も母も元気に過ごしております。店の方は…そうですね。この暑さで、売物が早く傷んでしまうのが残念、といったところでしょうか」
「まあ、こんだけ暑けりゃなあ…」

 元親は手で仰ぐ仕草をすると、腰に下げていた魚籠を「ほらよ」と奈々へ差し出した。中には新鮮なアジが何十匹と入っている。こんなに沢山どうしたのですかと聞けば、部下と早朝釣りに出かけたところ、大漁だったらしい。城の者だけでは食べきれない量だったので、元親は城下へも配りに回っているのだと言った。売る魚に困るなら店で売ってくれとも言う。

「そんな、きちんと買い取りますから!」

 奈々が、店の奥に居る父親へ声を掛けようとすると、いいんだいいんだと元親は止めた。申し訳無さの中に不服を含み、奈々はやっぱりいけませんよ!と反論すると、それじゃあよ。と元親は頭の後ろをかき、地面の熱にしなびた雑草に視線を落とした。

「その代わりといっちゃあ何だが、俺にちょいと付きあっちゃくれねえか。祭りに」
「祭り…?でございますか」
「おう、毎年城下であるだろ」
「存じておりますが…私のような下賤の者が元親様のお供とは…」
「なあに、気にすんな。俺がいいって言ってんだ。それとも、もう誰かと約束しちまってるか」
「い、いえ!約束だなんて!」

 奈々は首を横に振った。その勢いで撫でた筈の髪がぱらりと落ちた。元親は、笑いながら奈々の頭に手を伸ばしている。触れられると分かった瞬間緊張のあまり身構えた。

「ったく、奈々、髪に鱗つけてんぞ」
「い、いやだ、私ったらもう…恥ずかしい。ああ、ありがとうございます。元親様」
「まあ、とりあえず魚は受け取ってくれ」
「本当にこんなに沢山ありがとうございます」
「いいってことよ。じゃあ、また祭りの日にな」

 鱗に気を取られていた奈々は、いつの間にやら話がまとめられた事に気づくも、元親はすでに上機嫌で店を後を離れた後だ。
 奈々は急いで、両親にそのことを知らせると父親は湯のみをひっくり返し、母親はあまりの驚きに、顔を半分手で覆ったまま今にも卒倒しそうな構えだ。
 何はともあれ約束は約束である。奈々はそれから嬉しさの反面、祭りの日は粗相の無いようにしなければと案じるがあまり、当日が不安でならなかった。

 元親は、領主とは思えぬほど本当に気さくな人間で、分け隔てなく誰にでも優しい。執務の忙しい合間を縫い、いつだって城下や近隣の里を見まわる大変民思いの領主だ。
 そんな領主との初対面は、もれなく元親が見回りの最中だった。
 奈々は店に来られないお年寄りだったり、手が必要な家々へも魚の配達をしているのだが、得意先へ魚を届けに行った際、たまたま元親が土間に上がっていたのを押し入りの賊かと思い、主人を助けようとたらいを投げつけてしまったのである。結局咎められる事は無かったが、そのことは今でも元親に話のネタにされている。
 そんな奈々の無礼も笑い飛ばすくらいの、心の大きな人だというのは知っているのだが、腐っても長宗我部家の当主だ。この四国を一代で統べる手腕は、かの織田信長にもその名は届いていると聞く。
 奈々は元親の隣を歩く己の姿想像をしたが、とてもじゃないが相応しいとは思えなかった。元親が良いとは言っても、周りの目が気になる。恥をかかせる事が無いようにせねばならない。奈々は、やはり断ろうという気になっていた。ところが、城から早々に浴衣が届き、引くに引けなくなった。
 白地に紺色の菖蒲が染められた浴衣は、奈々の為に誂えられたものだと届けてくれた家臣に言われたのだ。

「たった一日の為に…。元親様は気を使ってくださったのね。本当にお優しいんだわ…」

 衣紋掛けに下がった白い浴衣に思いを馳せたまま、奈々はとうとう祭りの日を迎えた。

 夕刻辺りから多くの露店が城下に店を構え、赤々と灯った提灯も熱に溶けそうなくらいの熱気に包まれていた。奈々は、元親と待ち合わせの場所まで足を急がせた。
 浴衣を届けに来た際、家臣は「神社の境内、その裏にある大きなご神木まで」と、そう奈々に場所を伝えた。神社も参拝客でかなり混雑している。
 ところが、石段を上り、あと少しで境内に着くという時、奈々は道を外れた石灯籠の脇に小さな男の子がうずくまって泣いているのに気が付いた。
 声を掛ければ案の定迷子だ。参拝を終えた後、いつの間にか両親とはぐれたのだと言う。急に息子が居なくなったのだ。この子の両親も今頃探しているに違いないと、奈々は放って置けず、また、すぐに見つかるだろうと軽い気持ちで「一緒に探そうか」と男の子の手を取り、登ってきた石段を下ったのである。
 ところが、いくら探せど彼の両親は見つからない。飴屋、金魚屋、独楽屋と露店を見て回り、道を何度も往復するもすれ違う気配すらなかった。既に元親との約束の刻限は刻一刻と差し迫り、空は帳が落ち始めている。じき、約束の時間も過ぎようかという時分になっていた。
 奈々が手を引く男の子も、不安のあまり最初は鼻をぐすぐす言わせていただけだったが、いよいよ泣き始めてしまった。奈々はあやして背負い、城下警護の詰め所まで足を伸ばした。それが幸いした。男の子の両親と丁度居合わせたのだ。
 両親に何度も礼を言われた奈々は、祭り囃子の中に親子三人を見送ってから神社へ踵を返すも、罪悪感が一気に押し寄せた。元親との約束を反故にしてしまった事実もそうだが、男の子の迷子を都合の良い理由にしようとしていた自己嫌悪である。
 ただ、放って置けなかったのは本心だ。それでも、一瞬でも粗末な考えがあったことに、やはり元親の元へ向かう気持ちは躊躇した。
 そもそも、何故、元親は奈々を誘ったのだろうか。まずそれが一番の疑問だ。浴衣まで用意してくれたからには──と思うも奈々は半信半疑だ。少しの期待を抱けば、必死に燻りを押さえつけていることの意味が無くなる。
 仮にも城主である元親が、一介の魚屋の娘を── いやいや、あり得ない。ともあれ、奈々はこうしている間にも元親にきちんと謝らねばならないと、浮き沈みの激しい気持ちのまま再び長い石段を登り始めた。
 歩もうとすれば、躓くのは世の常なのだろうか。神様は大変奈々の行いをよく見ているのかもしれないとも思った。
 突然の雨が降り出した。少し遅目の夕立ちだが、すぐに雨をしのげる軒はもちろん石段の途中には無く、奈々は裾を持ち上げながら必死に神社を目指し駆け上がった。白い着物は泥水が跳ねている。奈々はぐずぐずしていた自分が情けなくなった。
 階段を登りきり、びしょ濡れの奈々はとぼとぼと境内の裏のご神木を目指した。綺麗に整えた髪も、かんざしすら差せぬほど乱れていた。
 境内の裏に着くと、元親は軒下に座り、雨宿りをしていた。奈々の酷い姿を見るや否や、慌てて飛び出し雨の中を駆け寄ってくる。長宗我部元親という城主はこういう人間なのだ。
 奈々は酷く胸が痛かった。

「奈々!ずぶ濡れじゃねえか!」
「元親様、本当にごめんなさい…。遅れた上、折角贈って下さった浴衣も…こんなに汚してしまって…」
「いいや、そりゃ全然いいが…。兎も角ほら早くこっちに入れ」

 元親は着流しに、紋付きの羽織を羽織っていた。それを脱ぐと奈々の冷えた体に掛けようとする。奈々は一度断るも、元親はその断りも聞かず「いいから着ろ!」と押さえ付けるように羽織を無理矢理に着せた。
 元親に問われるがまま、奈々は一部始終を己の口から話した。黙って聞く元親は度々ため息をついている。

「ったく、そんなこったろうと思ったぜ。一緒にそのガキと俺んとこに来る選択肢もあったろうが。そんなに俺あ頼りねえか」
「頼りないだなんて、そんなこと少しも思っておりません…。ただ、その…」
「気にすんなって言ったじゃねえか。あんた、どこまで考え込んでんだか」

 元親はぐちゃぐちゃになった奈々の頭を掴み、戯れるようにゆさゆさと揺らすと、そのまま奈々を胸に抱き寄せた。驚いた奈々はいつの間にか涙が止まっていた。元親の大きな手は、奈々の肩をあやすように撫でている。

「実はよう。今日の祭りに誘ったのは、奈々に言わなきゃならねえことがあってよ」
「左様で…ございますか…」
「縁談の話が俺に来てる」

 奈々は一気に頭が真っ白になった。だが城主の縁談だ。民が喜ばない訳にはいかない。奈々は元親から体を離し頭を下げた。

「それは、まことに、あの、おめでとうございます…元親様」
「おう、まあそれで断ってよ」
「そうですか、ことわ……、断って…?!」
「ったく、奈々は相変わらず鈍いったらねえな」

 元親はあぐらに肘を置き、頬杖をついては奈々を見つめて笑っていた。

「いやまあ、相手さんも、そりゃ器量の良い娘さんだったろうよ。何せ良い家格だ。けど、いつも自分より人を優先しちまう、そんなどうしようもねえくらい、俺様の価値観に近しいやつを、側に置いときてえと思うだろ」

 あんたのことだよ奈々、と言った元親は奈々の頬に手のひらをあて、親指で零れた涙を拭った。

「わ、私は…元親様の治める城下で、いつもの様に店番をして過ごせればそれだけで…」
「泣きながらそんなこと言われても、ちっとも説得力はねえな。自分の嫁くらい自分で決めると、家臣共に言ってやった」

 元親の言葉に一喜一憂する奈々は、どうして自分なのか、自分で良いのかと、何から問えば良いかわからなかった。ただ、一つはっきりしているのは、元親は奈々を想ってくれ、また今まで散々相応しいの相応しくないのと思い悩み、押し殺していた城主への淡い恋慕をはっきりと奈々は認めて良いのだということだ。
 決して叶うことが無いと思っていたものに手が届く事が嬉しくて嬉しくて、奈々はすがるように元親の胸に飛び込んだ。嗚咽する奈々を元親はきつく優しく抱き返してくれる。強くて暖かい腕に抱かれ、ようやく実感が沸いた。
 一度体を離すと、元親は奈々の額に自分の額をとつと付けた。思いの通じたくすぐったいような恥ずかしさに、奈々は自然と笑みが零れた。

「あのよう、奈々」
「はい?」
「話は変わるが…。その、白い着物は駄目だな…」
「何が……。あ、」

 雨に濡れた白い浴衣は、奈々の肌色がくっきりと分かるほど透けていた。元親は目のやり場に困るのか、明後日の方向に視線をそらし食指で頬をかいている。

「着替えさせてやっから、やっぱ今から城に来い」