広く厚く目が覚めるような真白い雲が水平線の彼方迄続いていて、機内の窓に切り取られた景色には遠くにすれ違う飛行機があった。その飛行機も菜々夜の乗っている機体と同じように、毎日同じ時間の同じルートを辿って、今日の天候を見守りながら空を割って進んでゆくのだ。
刹那その尾翼に反射した陽光は窓から覗いた菜奈美の頬をくすぐった。
こうやって飛行機に乗る人々もこの機体から降りてしまえばそれぞれの目的地へと散り散りになっていく。白雲を滑る機体の陰を眺めながら菜々夜はこの自分の行動が起点なのか終点なのかはわからなかった。
菜々夜はいつも通りに、大学の講義を終えてバイトに行きいつも通りに仕事をした。
菜々夜のアルバイト先は個人経営の小さな喫茶店だ。アルバイトは菜々夜の他には一人もいない。いつも人の良い店長と、その奥さんが二人で店を切り盛りしていて菜々夜はもともとそこの常連客だった。
しかし、奥さんの父親が体調を崩し毎日の接客を週に三日ほど休んで、看病に行かなければならなくなったのだ。その穴を埋めるために店長は菜々夜に声をかけた。特にこれといってバイトをしていなかった菜々夜に取ってはいい話だった。ゆったりとした音楽が耳に心地よい店内に、客もたまにしか来ない。メニューもそれほど多くなく覚えることも少ない。だから菜々夜は客だった時も奥さんの仕事ぶりを眺めていたのもあって、アルバイトを受けるに至っても仕事を覚えるのは容易いことだった。
給料日に受け取れなかった給料を本日受け取ったのもあって、アルバイト上がりの菜々夜は懐が暖かかった。厚みのある茶封筒をひと月ぶりに手にして、自分の中の何かを確認しなければとそう思ったのだ。
今思い出してみても、アルバイトが終わり、自宅方面に向かう電車をホームで待っていたはずが、どうしてか滑り込んできた羽田行きの快速に乗り、国内線のカウンターまで行くな否や種子島行きの航空チケットを購入していた。当日購入は正規料金だったが、さすがに平日昼間ということもあって空席も多くすんなりと購入できた。
Bと書かれた搭乗口までただハンドバッグだけの身軽な菜々夜は預ける荷も無くすたすたとX線検査の列に並んだ。
他の客はお洒落をしている家族連れの旅行客だったり、びしっとスーツを着込んだ出張中のサラリーマンと思われる身なりの人が殆どだったが、対する菜々夜はどこからどう見ても、一駅隣の友人宅へ向かうような雰囲気だった。軽い足取りでX線をくぐった。ブザーが鳴ることもない。
自分の後に並んでいた少し小太りの男性客に反応したのを少し可笑しく思いながらチケットに記されたエコノミー席へ座って今に至る。
そもそも、このような行動に走ってしまったのは恐らく、松永教授の一言だったのだ。
菜々夜の進学した大学は地方の国立大学だ。特段これといってやりたい事がある訳でも無く、ただ志望大学の学部学科の中でも一番倍率の低かった工学部宇宙工学科を選んだ。
無事に合格した菜々夜は入学当初、安易に女子学生の少ない学科を選択してしまったことを後悔していたのだが、高校授業の応用である共通科目から少しずつ専門分野の授業に移行するにつれて宇宙の神秘とその未知に少しずつ興味を抱けるようになっていた。しかしそれでも大学生活の味気なさを日に日に感じるようになっていた。
そんな中、一つだけ救いだったのは菜々夜は他の学生とは違って自分の所属する学科の教授ではなく、他学部のとある教授に可愛がられていたことだった。
一回生の後期に、他学部単位取得の為、初めてその授業を受講したのがきっかけだ。菜々夜が選んだ授業は歴史考古学で、担当教授の名前は松永久秀といった。背が高く紳士的でいつも杖を携え、鷹揚な貫禄はどこか明治の伯爵を思わせる風体の教授だった。
松永教授は最初の授業で教室の一番前に座っていた他学部の菜々夜をやる気のある学生と思ったらしかった。本当のところは、受講する学生が多く、席が空いていなかっただけで仕方なく前方に席を陣取ったのだが、幸いにも菜々夜はその日以来松永教授のお気に入りの学生となったのである。
松永教授は授業後によく菜々夜を自らの研究室に呼び、歴史ある様々な史料を見せては出土されたり、発見された文献等の場所と、現代との大体の同位置を地図上に落としてそこから色々な話をしてくれた。
日本の歴史はもちろんのこと、時には古い海外の文明変遷、時には遡って大陸移動の話も出た。
その度に菜々夜は話に魅せられて、松永教授とのおしゃべりを楽しんでいたのだ。
しかし、松永教授のそういった菜々夜への特別な扱いは、教授の所属する歴史学科の学生に取って、あまり面白いものではない。松永教授の授業単位取得は他教授の授業と比べても厳しいことで有名だった。その為ならば、教授に媚び諂い、顔を覚えてもらおうと必死になる学生もいるくらいだ。だから、他学部の菜々夜が授業後いつも歴史学科の学生たちの前で松永に呼ばれるのは少々肩身が狭い思いがした。
しかし、松永教授はそんなことは気にも留めずに授業が終わるとすぐ「では行こうか?」と必ず一番前の席に座る菜々夜に声をかけてくるのだった。
歴史学科の学生の間では、松永教授と菜々夜は単位と情事を等価交換とした厭わしい関係なのではという噂が真しやかに広まっていた。
松永教授には妻子はなく、長年独身だと聞いている。菜々夜も最初のうちはそういった経緯から警戒とまでは行かないが多少は気を張っていた。しかし何時からか、警戒心はなくなったのである。それは松永教授が研究室で菜々夜と二人になったところでそれは所詮教授と、学生という立場でいつも授業の延長線上での歴史の話と茶飲みをしていたからだ。
だから、昨日も菜々夜にとって松永教授は慕っている一師であるはずだった。
菜々夜は、卒業研究も一段落つき、希望していた宇宙センターからの内定も貰えていて、あとは卒業を待つのみだった。しかし、松永教授の授業だけは単位取得に関係なく何となく履修を継続していた。
授業が終わり、いつものように菜々夜を研究室へ招いた松永教授はインカ帝国のミイラの写真を菜々夜に見せた。それは小さな小さな王族の子供のミイラでまだその世に生を受けて十年足らずで祀られてしまったのだという。体に巻かれた布は赤や茶を基調にした色合いのケープのような織物で、珊瑚や、翡翠の装飾品も首に掛けられている。グロテスクな恐怖というよりそれはどこか神秘的で、踞るその様子は何かに祈りを捧げているようにも思えた。
「卿は、古い時代の人間が生きたままの人間をミイラにする意味が分かるかね?」
「意味というか、殆どが祭事だったりとか?・・・だと思いますけど?」
菜々夜の向かいの立派な革製の椅子に座った松永教授はふっと笑って、長い足を組み直し、手に持っていた文献に再度目を落としながら答えた。
「生きた人間は皆安穏な未来を望んでいるのだ。太陽を信仰し、神に祈りを捧げるのと同じだ。将来の権力や富を確実なものにしたいが為に、こうやってミイラを手中に収め、象徴とし己らの元で監視していたのだ。つまりは欲が押さえられなかったのだ。否、欲が有ったからこそ発展し滅んだのではないかとそう考えるのだが、実はこういった考えはいつの世も変わらんのだよ」
教授が革の椅子にもたれるとギシと鳴って教授は空を見つめた。
「なるほど、現代人も欲望まみれですもんね」
と菜々夜もくすくすと笑う。菜々夜ははたと、今朝のニュースを思い出して「あ、そういえば、」と松永教授に質問を投げた。
「先生は、タイムマシンがあったら、過去へ行ってやっぱり歴史の研究をしたいですか?」
「いいや、私は未来に行きたい」
「未来ですか?」
「左様。未来に行って今の私を研究対象としたい」
「あぁ、実に松永先生らしいですね」
菜々夜は松永教授に微笑んで教授もそれに答える。
外はすっかりと日が落ちて、時計は午後五時半を回っていた。そろそろ帰らねばならない時間だった。菜々夜は、「陽が落ちるのが早くなりましたね」とテーブルの上に散乱した史料を片付け始める。いつもなら、菜々夜の言葉に何かしら反応する松永教授が珍しく返答が無く、その代わりに菜々夜は自身に痛いくらいの視線を感じて、松永教授の方へ顔を上げると教授は足を組んだまま頬杖をついて穏やかな笑みを浮かべていた。
「先ほどの話の続きだが、」
と読みかけの本をパタリと閉じた。椅子から立ち上がり、菜々夜との距離をじわりと縮めると史料を片付ける菜々夜の右手をそっと握った。
「もし時間航行が出来るのであれば、私は菜々夜君も研究対象として加えたいと思っているが、その時は私と共に航行してみる気はあるかね?」
上空からは白い雲に阻まれていた海も高度が下がるにつれてコバルトブルーの水面は菜々夜を誘うように揺れていた。機内の客室乗務員が着陸のアナウンスをし、それから間もなくして、小さな種子島空港に着陸した。
魔が差したような思い付きの突飛な行動は本日の宿からまず探さねばならなかった。行き当たりばったりもいいところだ。
ただ、菜々夜は一つだけ目的があった。それは来年から勤める宇宙センターに行くことだ。中に入れずとも遠くからロケット発射台のドックと、宇宙センターの外観が見れればいいと思った。
空港に降り立つと、暖かい風が吹いていてまだまだ夏を思わせる気候だ。カーディガンの袖を捲ってバス停まで歩く。役場のある街の中心部のまで出て、宿を探し、その後宇宙センターまでの行こうと考えた。
閑散とした空港からの道をバスはゆっくりと進んだ。きび畑はもう収穫が終わったのか残ったその切れ端をカラスがつついている。遠くの方では年配の夫婦が農作業をしていた。
市街地へ入り、庁舎の前で下車した菜々夜は観光案内所に行って今夜の宿を探した。どうやら、宇宙センターまでのバスは本数が少なく、今日の便は全て終わってしまったのだという。それならば仕方ないと菜々夜は翌日行くことにした。
次の日、宇宙センター行のバスに乗った菜々夜は一つ手前の停留所で降り、そこからゆっくりと沿岸を歩いた。よくテレビで流れるロケット発射中継の景色とリンクしている風景は実際に見るのと画面で見るのとでは段違いに美しかった。潮風がふわりと吹いて、木々は葉をゆすり、遠くに見える田畑の風景は実に長閑だった。
数々の歴史、文明に生きた人々は、太陽や、月や、星々に祈りを捧げ安穏な未来に思いを馳せたが、その未来は科学技術が発達したことによって、ここ何十年という短い時間で人類は宇宙へ行くことが出来るようになった。
菜々夜はあのセンターで働く来年からの自分を想像してみる。
もし将来の自分が今の自分を見たら、過去の選択は正しかったのだと思えるだろうか。ただ、何となく選んだ学科を後悔した時期も有ったが、それは恐らく松永教授が話してくれる数々の歴史の話が菜々夜が大学生活を送る上で知らず知らずのうちに後押しをしていてくれたのは間違いない。
松永教授が話す過去の歴史が見せた宇宙観は、エジプト文明のピラミッドであれ、シヌー遺跡のオーパーツであれ、それは益々菜々夜を宇宙にのめり込ませるきっかけとなって、次第に宇宙関連の仕事に就きたいと思うようになったのである。そしてそれが直に叶うのだ。
菜々夜は授業後の松永研究室でのひと時は少しの間時が止まっているような感覚だった。
例えば、巨大な図書館の中を松永教授と二人でゆっくりと歩き、数千、数億の書籍の中から背表紙が光った一冊を取り出して、その中身を二人で愛でる。二人の間に共有する史料が増えることが何よりも楽しかった。だから、それに夢中で菜々夜は自分の気持ちに気づくことが遅くなってしまったのかもしれない。
沿岸の岬まで来た菜々夜は、右手の薬指に光る指輪を空へかざしてみた。片付けている最中手を握られ、松永教授が菜々夜の指にそっとくぐらせたものだ。すぐに返すことも出来たはずなのだが、菜々夜はそれをしなかった。
本当に人間の欲は際限がないと思った。松永教授の言っていたことが今の自分と全く同じだ。
どのような選択が一番良いのかは分かりきっているはずだ。だから、松永教授もこうやって菜々夜に指輪は渡しても強要することはしないのだ。
「先生ずるいな…」
菜々夜はその晩、家路についた。
自宅アパートの前には、黒いセダンが止まっていて、車内のカーナビディスプレイの光に映った顔は菜々夜が悩まされていた当人だった。
運転席から出てきた松永教授は「やあ、お帰り」と菜々夜の側まで歩み寄る。薄い外灯の明かりが照らし出した姿は、教壇に立ついつもと変わらぬ様子だった。
「どうだったかね?種子島は。まだ暑かっただろう?」
「先生はずるいですね。私、離れてても先生のことばかり考えていました」
「今更気づく卿も卿だと思うが。そういえば、腹は減ってはいないかね?何か美味しいものでも食べに行こう」
松永教授は助手席のドアを開けて、菜々夜を手招いた。
「先生は、その、もしかしてずっと前から…」
運転席に乗り込む教授に菜々夜は明確になってしまった自分の気持ちはもしかしたら松永教授にこの数年だだ漏れだったのかもしれないと思うと途端、羞恥を覚えた。
「私がそうしたいとずっと思っていたのだよ」
エンジンを掛け、サイドブレーキを降ろした松永教授の掌はぽんと菜々夜の頭を撫でた。
次に研究室で話をする時には、数千数億の中から二人の名が記された一冊を選び出し会話に花を咲かせるだろう。
- 二人の史料
- (20111113)
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