奥州伊達政宗との戦で夫であった竹中半兵衛と主である豊臣秀吉がこの世から去ってしまっても、悲しみに暮れる暇など無かった。
菜々は、半兵衛と夫婦となってからは、大阪城の一角に秀吉から屋敷を与えられ、肺の病を患っていた半兵衛と共に生活をしていた。
秀吉の右腕である半兵衛を献身的に支える菜々は、側室である淀殿や、奥にいる幼い姫らにも「菜々ねえさま」と慕われて他の家臣の妻以上に奥からは信頼を置かれていた。
伊達軍との戦が終わってからの淀殿は、秀吉亡き今、他国との調整が待っているにも関わらず、近頃はめっきり三男秀頼ばかりに構い、奥の政務を怠る程だった。
豊臣家の家督を継ぐのは秀頼であったが、淀殿は秀頼が何者かの手によって命が狙われることが、そして恐らくは淀殿自身の失脚が一番の恐怖だったのだろう。
故に、四六時中秀頼に付き添っては、側に置く侍女も信用の置ける、淀殿が奥に入る前からの侍女のみだった。
だが、奥には奥にしかできない、女性同士の情報交換や、家臣団や諸国大名への書状を殿に変わって代行する仕事もある。秀頼に構うばかりの淀殿は、その政務を半兵衛の妻である菜々に頼み、大名奥向きの事後処理を全てを任せたのだ。
菜々は、政においては時折半兵衛の手助けもしていたから、そういったやり取りに多少は慣れていた。
内容は主に各大名の奥へ書状を書き、縁者結束の強固や今後の頼み事などが大半だ。半兵衛が他界した菜々も、竹中に仕える家臣や世話になった大名には、恐らく今後己が仏門に入ることになるであろうそれを示唆した別れの挨拶も書かねばならなかったから、失礼ながら淀殿からの頼まれごとはそのついでと言ってもいい。
菜々は、茶会で会った正室や側室のきらびやかに着飾った奥方を思い出しながら、一筆、一筆、感謝の念を込め、丁寧に筆を走らせた。ただ、思い出したその艶やかな光景に今後自分が主催側に回る事も無いし、呼ばれる事も無いのだと思うと、いかに半兵衛に守られ、その存在が大きかったかをまじまじと突きつけられるようで、筆を走らせながら思い出し胸が詰まりそうになった。
淀殿が溺愛する幼い秀頼に政が出来る訳も無い。代わって政務を行っていたのはその家臣団であったが、既にその均衡は崩れつつあった。
豊臣と同盟を結んでいた徳川家康は、近頃、大阪城の西の丸に地方から呼び寄せた家臣を多数出入りさせていた。その人数も日に日に増えている様で、どうやら、家康は近々政務に関する取り決めを行うようだった。
しかし、それに関しての会の場に、三成は一度も出ていなかった。それは三成の意志ではない。徳川方の家臣らが会の日取りなどを三成に敢えて伝えていないのだ。
いくら、三成が家康との面談を拒否しているからと言ってそれは個人間の問題であったし、何しろ三成は豊臣方では重臣である。今後の豊臣の命運を左右するその場には出る必要性は十分あった。
三成は会合を知ってはいたようだったが、そのように画策する徳川家臣が居る事実に、三成は出席してもいい顔はされないと思ったらしく、三成はだんまりを続け、大谷吉継らと豊臣の立て直しを模索しているようだった。
家康は三成が会議に参加しない本当の理由を知っているのか、さては知らぬ振りをしているのか、知らされていないのか、菜々には分からなかった。
菜々は何度も家康に「徳川の家臣は三成に会議の日程を知らせていないのでは?」と進言しようとしたが、それは侍女に止められている。
半兵衛が居ない今となっては、菜々の後ろ盾は誰も居ないからだ。侍女はいつも菜々の身を案じていた。
菜々は半兵衛の陣没を聞いてから、床に入るのが酷く辛かった。
半兵衛は時折隣に静かに眠る菜々の手を握ってくれ、髪を梳き「菜々の髪はいつも吸い込まれそうなほどに綺麗な黒だね」と愛しみ、褒めていてくれた。もうあの頃は二度と戻っては来ないことを身をもって実感するのが夜なのだ。
隣にぽっかり空いた空間は、今だに枕を取り去る事すら出来なかった。いつも寝床の準備をする侍女は、遠慮がちに枕を二つ置いてくれているのを知っている。侍女はきっと菜々に枕の数を何度も訊ねようとしているのは気づいていた。
彼女らも毎夜毎夜、二つ並べるのが心苦しいのだ。それは主人を失ったからか、それとも菜々に向けてなのかは分からなかった。
夜眠れない時には、床から抜け出して城の庭をふらりと出歩くようになった。
ひとり庭を歩くたびに、出家の時期を考えていた。侍女にもそれとなく話してみたところ侍女は涙ながらに「菜々様のご意志を阻むようなことは致しません」と賛同してくれた。
菜々はこの城内の景色を心に焼き付けたかったのだ。半兵衛と生活を共にした城から、屋敷から、いよいよ離れることを決意したのだ。
月が照らす夜の庭はなんとも幻想的だった。
秀吉はとにかく豪華絢爛な庭をと、様々な花が咲く樹、例えば、桜、梅は勿論の事、木蓮や金木犀、ツツジに満作、それに変わり者の秀吉は武家にはあまり好まれない椿を、何十種もの品種を植えていた。
歩みを進める度に庭での記憶はそれは止め処なく鮮明に脳裏に蘇って来る。
秀吉と、半兵衛と、そこにはまだ治部少輔と呼ばれる前の三成も居た。
菜々が半兵衛の妻になったばかりの頃、四人で歩いた庭は丁度桜の咲く頃で、枝に膨らんだ蕾を見た秀吉は
「花を咲かせるには凍て付いた冬を越えねばならぬな」
と三成に笑みを浮かべて言っていたのを良く覚えている。
その時の三成は顔を少し上気させて、急にその場に膝間付き「私が春を!あなた様にご覧に入れます!」と意気込んで言うと半兵衛は「期待しているよ」とくすくすと笑っていたのだった。
あの頃の秀吉も、半兵衛も毎夜、日ノ本の地図を広げては野心の固まりを爆発させる様に、国を統治する術を論じていた。それに混じって話しを聞く三成もまた目をぎらつかせて真剣に意見を考え述べていた様に思う。
希望を持って、将来を思い描き、先を見据えたその地図の完成を誰もが支えたいと思っていた。それは菜々だって同じだった。病を押しながらも半兵衛は「日ノ本の明日の為だよ」といつも言っていた。菜々も妻であるからには、夫を支えるのも勤めであるし、その仕事に一役買いたいと思っていたのだ。
そんなことを思い出しながら庭をゆっくり歩いていた菜々はふと歩みを止めた。
暗がりの中に人が立ちすくんでいる。月に照らされ、刃の様な色に反射するその髪の色に菜々はすぐに三成だとわかった。
相も変わらず、この華奢な身体からあのように鋭い太刀が出るのは今だに理解しがたい。彼は、秀吉や半兵衛の期待を受けて、陰で鍛錬を積んでいるといつだったか菜々の侍女らがこっそり話しているのを聞いた事があった。
若くして必死に秀吉の背を追いかける三成は、豊臣へ奉公する使用人らには随分と頼もしく映っていたに違いない。
この夜半過ぎであるのに、三成は桜の木の前に佇み、その先をじっと食い入るように見上げていた。冬この時期では枝には蕾も膨らんでいなければ、葉も茂っては居ない。紅葉はとうに終わりを告げて、葉は全て地面に落ちきった後だった。
菜々は声を落として三成に声をかけた。
「治部少輔殿」
「菜々様…」
驚き振り向いた三成は菜々に膝間付こうとしたが、菜々はそれを制した。
「治部少輔殿、そのようなことはどうかなさらず」
菜々は三成の肩にそっと触れると、三成は腰をまたまっすぐに伸ばし立ち上がったが、その拳は硬く握られて、三成は唇をかみ締めていた。
「菜々様、風の噂で聞きしましたが…出家されるのですか」
「そうですね、そうしようかと、半兵衛様へ念仏でも唱えようかと思ってます」
そう言って微笑んだ菜々を三成は苦渋の表情を浮かべていた。
先ほどまで星が随分と煌めいていたが、少しずつどんよりとした空が西の方から雨雲を連れ込んでいた。遠くの山は既に降り始めているのかもしれなかった。月が作った稜線の輪郭を雨は白い霧になって覆った。
雨粒が土にしみ込みその匂いが風に乗り菜々の鼻をかすめ、大阪城まで雨雲が到達するにはそう暇は無いかも知れない。
しばらくの沈黙の後、三成は意を決した様に口を開いた。
「菜々様、一つ私からの頼みを聞いて頂けますか?」
「ええ、三成殿の頼みなら喜んで聞きますよ」
「もし、これから先、家康からなんらかの申し出があったなら、それは必ずお受け下さい。今の私にはそれしか申し上げる事しか出来ませんが」
「徳川様?一体…何です?」
徳川家康の申し出とは何なのかと聞き返したが、三成は少し困ったように笑い、菜々へ向けていた視線をまた桜の木へやった。
それはどこか、昔を懐かしむような、思いを馳せるような様子で、月の光ははかなげに三成の背に吸い込まれていった。
「半兵衛様が、最後に仰ったお言葉があります…」
三成の言葉を聞いた菜々は、先ほどの申し出とやらの意味は頭から飛んでいた。
半兵衛が最後に言った言の葉など、今まで菜々は何も知らないし、聞かされても居ない。そんな報告は今まで無かった。世辞の句だろうか、それとも…と少しの期待感を持って、菜々は三成の言葉を待った。
「半兵衛様は、菜々様にはこれからも菜々様で生きていて欲しいと、そう仰っていました。出家はされるなと、『僕の為に念仏を上げる暇があるならもっと別のことへ目を向けて欲しい』―と」
三成の発する言葉には半兵衛の声色が乗り移ったかの様に耳に響いた。紡がれた言葉はまるで半兵衛がそこに居るかの様な錯覚に襲われ、はっと息を呑んだ菜々は、口に手を当てて、必死に溢れ出そうな物を堪えた。半兵衛は死ぬ時まで菜々の事を想ってくれていたのだ。その事実が今一番に嬉しかった。
その時の情景を瞼の裏に思い出すようにして三成は目を伏せた。
「菜々様、半兵衛様の願いは、私の願いでもあります。どうか、そのままのあなた様で、どうか――」
その先、三成の続けようとする言葉を言わせてはならないと思い、菜々は硬く頷いた。ほかならぬ、半兵衛の最後の菜々への頼みだ。
「ありがとうございます三成殿。あなたの持ち帰ったお言葉を、私は心に留めておきます」
三成はほっとした表情を浮かべ、笑みを見せた。
「それは…よかった。私も務めを果たせました」
三成はあまり外に長居されるとお風邪を召されますよと言って、部屋へ戻る様に菜々を促した。その夜は随分と、寝つきがよかったかもしれない。
それから幾日か経っても菜々は相変わらず、淀殿の政務を代わってやっていた。たまに庭に出ては城内を歩き、一時の休息をとっていた。
時折、西の丸辺りまで行く事があるが、その辺りには徳川方の家臣の往来が多く、そこから先の庭を観て歩くのは憚られた。
それというのも徳川方の家臣団が豊臣方の家臣団へ向ける目は日に日に鋭くなっていたからだ。菜々は少しずつ傾き始めた異様な何かを感じ取らずにはいられなかった。
今回の大阪城への徳川家康の常駐にしても、これほど大々的に家臣団を集めるのも珍しいし、それに関しても、豊臣方の家臣は幾人か家康に懐柔されつつあるとの噂も飛び交っている。家康の求心力はさすがと言うべきだが、淀殿であるならばともかく、殿方の政に口を挟むことなど到底出来ない菜々は、三成がこれ以上孤立しないことを願うばかりであった。
休息を取った菜々は部屋へ戻ると、濡れ縁には丁度侍女がやって来て、菜々を呼んだ。
「菜々様…徳川家康様がお呼びでございます。西の丸にお越しください。と…」
「徳川様が?」
菜々は、いつかの夜に三成が言ったことを思い出していた。『家康からなんらかの申し出があったなら、それは必ずお受け下さい』と、恐らく三成は何か知っていたのだ。あの時に詳細を聞いておけばよかったと思ったが、三成は今はそれしか言えないと言っていた。三成は何か先々のことを知っていたのか『今の私にはそれしか申し上げることしかできません』とはどういうことだったのか、彼のはけ口を作ってやれれば、彼をもう少し気遣ってやればよかったと今更ながら悔やんだ。思案していると侍女が菜々を心配そうに見つめていた。
「菜々様、わたくしもご一緒いたしまする」
「ありがとう。一人で大丈夫だから」
それでも不安そうな表情を浮かべる侍女に菜々は私的な用向きだからと諭し、一人西の丸へと向かった。
西の丸は同じ大阪城であるのに、随分と違った城の様に思えた。恐らく、他国から家康の家臣が大勢出向いているからか、その雰囲気は今までに感じた事の無い、言い表すならば末端の家臣まで行き渡った結束だった。それは、どこか秀吉が天下を取る為に奮闘し始めた時の気配に酷似していた。
菜々は、入口から廊下を通りかかった女中に家康から呼ばれた用件を伝えると、すぐさま取り次いでくれた。
家康の居室は西の丸の北側にあってそこからは庭がよく見える位置にあった。
部屋に通され、菜々はひれ伏し待っていると、「すまぬ!お待たせした!」と家康は威勢よく入って、上座に座り、途端真剣な表情を向け言った。
「菜々殿、この度の伊達との戦において、竹中殿は立派な武士の最後を遂げたと聞いている。まことに大儀であった」
家康は静かに、敬意を表するように言うと、菜々は深々と頭を下げた。
「徳川様からそのようなお言葉を頂き、ありがとうございます。夫の半兵衛も喜んでいることと思います」
「そうだと良いが…して、菜々殿、貴殿はこれからどうされるのだ」
「身の振り方は、考えてはおりますが、何分、このまま大阪城にとどまる訳には参りませぬ。一度国許へ、帰ろうかと思うております」
「半兵衛殿を亡くした心は到底まだ癒えまい」
「お恥ずかしながら、徳川様の仰る通りで御座居ます」
家康は座していた所から立ち上がって、障子戸をあけ庭を眺めた。菜々の所からもその隙間から縦長く外の風景が見える。家康が眺めている方向は丁度、菜々の住まう屋敷がある方角だった。
「わしは月を眺めるのが好きなんだ。月の出る晩にはこうやって、戸を開け天を見る。時折、西の丸の手前まで月を眺めに来る女子が居るのだ――あんなにも月が似合う女子は滅多には居ない」
そう言った家康はゆっくりと菜々の座す方へ振り向き、まるでそれが菜々であると確信しているかの様に視線を遣った。
菜々は恐らく家康の見た女子は自分である様に思った。そんな夜分に自分意外の誰かが庭に出ているなら、菜々だって気づくからだ。
「そう、言われて嬉しく無い女子は居りませんでしょう」
「そうか」
家康はまた外へ視線を戻した。しばらく沈黙が張りつめたが、家康は障子戸から離れ、菜々の側に座り直し、突然菜々の肩を抱いた。
「わしと共に三河に来ぬか?菜々殿、できるならわしは…そなたを奥へ迎えたいと思っている。日ノ本の明日を共に、隣で一緒に見よう。そなたの淀殿に代わる奥向きの手腕はわしにも聞こえている。菜々殿の力を貸して欲しい」
「日ノ本の明日を…」
「そうだ」
家康は正面から菜々と顔を見つめた。家康のその澄んだ目に映る自分は一体どのように見えているのだろうと思った。ただのかわいそうな未亡人なのか、同情なのか、それにしては随分と真っ直ぐに黒い瞳は菜々に向けられていた。
家康は菜々の頬に手をそっとあて、指を滑らしゆっくりと髪を梳いた。
優しく触れる家康に、菜々はふと半兵衛が頭によぎった。いつも優しく、愛おしいその手を忘れない日はなかった。その半兵衛は最後の頼みだと三成に言づてまでしていた。『これからも、菜々は菜々のままで生きて欲しい。僕の為に念仏を上げる暇があるならもっと別のことへ目を向けて欲しい』そして三成は、菜々に言ったのだ。『徳川家康からの申し出があったなら、それを受けて下さい』と、その意味を考えるだけでも、菜々は今にも涙があふれそうだった。皆自分の事より他人の事が一番で、どうして彼らは先を見る事は出来るのに、いつも不利な立場に立っているのか。
秀吉が半兵衛が去ってからの豊臣家臣団は、家康が「ともに手を取り合い絆を」という言葉に賛同して徳川方に流れていることに菜々は気づいていない訳ではなかった。圧倒的に豊臣方に付く大名は激減していた。
家康の懐の大きさも、これ以上ない温情も三成は知っているからこそ、半兵衛の最後の言葉を、最後の命を果たすべく菜々を出家させず、そして菜々が奥で過ごせるよう、菜々の能力を十分に発揮できる環境へと託したのだ。
三成は己の立場を十分理解し、覚悟をしている事と同じだったのだ。
障子戸からは日が部屋に差し込み、細い光りは菜々のすぐそこまで伸びている。
この光りは果たして導く光りなのか、菜々が手を触れてよい物なのか、日ノ本の明日を願う者たちをどうか導いて下さいと願わずにはいられなかった。
――半兵衛様、徳川殿が差し伸べて下さった絆は果たしてお導きでしょうか。石田殿の好意は無駄にしたくはありません。ですが、あなた様がこの世にまだ居てくれたら、豊臣軍になんと申されますでしょう。治部少輔殿に、刑部殿にどうか示す光りをお与え下さい。
- 差し込んだ光りは
- (20110529)
- close