菜の花が咲き始めた頃に、咲菜はいつものようにカメラを持って自転車で河川敷へ出かけた。
自転車は昨日学校帰りに商店街の自転車屋に修理を頼んでいて、パンク修理から戻って来たばかりだった。サドルや車体は綺麗に拭き上げられて、店主はチェーンも調整してくれたらしく、漕ぎ初めの二三回、ペダルの踏み込みは随分と軽く調子が良かった。
 近所の河川敷は防災の意味もあって、増水しても持ちこたえられるように、普段の流水域から両端には広大な緑地が設けられていて、広場になっている。右岸側は市民公園で、左岸側は天候の良い日に限って、ゴルフ場になっていた。
 近所の小学生や中学生はよくこの川に入っては、ゴルフボールを探しをして遊んでいるのを見かける。対岸から照準を謝ったり風に流されたゴルフボールが時折、池ポチャならぬ川ポチャをするのだ。それは咲菜が幼い頃もそのような遊びが流行っていて、誰が一番ゴルフボールを見つけられるか競い合うのだった。
まだ、少々肌寒い時季であるから、川に入る子どもはさすがに居なかったが、それでも休日のこのように清々しい気候の日であるから公園には家族連れも多かった。風も心地よく吹いていて、天気もよい。からりと晴れ渡って、雲一つない。新緑と菜の花と、少々残る桜は青いキャンバスによく映えた。
 咲菜は自転車を適当な場所に、今日は上流から運ばれて来たであろう苗木が土着し育った樹の根元に停めて、鞄を肩から斜めに掛けると、カメラのレンズをしっかりと取り付けた。
土手からゆっくりと緑の広がる河川敷を見渡した。ボールではしゃぐ子どもや、シートを広げて弁当をとる老夫婦、掛かった橋の下でスケボーの練習をする少年たちも居る。
 本日は何を収めようと、胸一杯に息を吸い込んでよしと意気込んだ。


 陽気の良い中、しばらく被写体になりそうなものを捜していた。少し先には、菜の花が密集して生えているところが見えた。遠目ながらも、背高く伸びたその空間だけは黄色い。小さい子どもが何人かその合間を出たり入ったりしているのが見えた。
上がる歓呼の声に誘われる様に咲菜はそちらへ足を向けた。
 遠目からには、その菜の花の黄色が覆い尽くす面積は、一つのこんもりとした場所の様に見えていたが、その中に入ってみると、一面が黄色の絨毯の上に立っているようで、その周りの河川敷の緑も黄を帯びているような気もして来る。金色に光るとはまさにこのことで陽光が照らし出した花弁ひとひらずつが反射しているようだった。
 咲菜は、菜の花の背が揃った位置まで中腰になってカメラを構え、ファインダーを覗いた。
先ほどの子どもは、まだ追いかけっこをしている、その背中にフォーカスしてシャッターを切った。横顔に嬉々とした表情が映り込んでいて、自然と咲菜も顔がほころんだ。何枚かそうやって撮っていると、子どもたちは去って行ってしまったが、今度はモンシロチョウが羽を休めてるところにレンズを向けた。ゆっくりと羽を揺らして、蜜を吸っている。フォーカスした蝶の羽と黄色の花びらを領域いっぱいに寄せた。パシャリとシャッターをきると、音に反応したのか、それとも瞬時に吹いた風に驚いたのか、ふっとなびく様にして飛んで行ってしまった。
 ああ、とファインダーを覗き込んだまま、咲菜は少々肩を落としたが、蝶が飛んで行ってしまったその視界には、遠くから自分にレンズを向けている一人の男性がファイダーに入り込んだ。咲菜は覗き込むファインダーの中で目を見開いた。恐らく、他人から見れば、カメラを持った男女が互いに向かい合って撮り合いをしているような構図である。ファインダーに今だ収まっている菜の花はゆらゆらと風に吹かれて陽気に揺れていた。
 咲菜は、何故自分にカメラを向けられているのか分からなかった。構えるカメラから顔を離すことは、相手に顔を曝してしまうためにそれは気恥ずかしくて出来ない。覗き込む男性の顔は彼自身のカメラによって覆われていてその表情を伺うことも出来ない。咲菜は思わず、一枚パシャリと正面に向き合う男性を撮っていた。
すると、同時に向かい側からもシャッター音が聞こえ、カメラから顔を上げたのは同時だった。
男性は、菜の花の揃った線からかがんでいた腰を伸ばした。随分と背の高く、少し線の細い言うなれば草食系男子である。色白で、長い髪を一つで結っていた。
咲菜と目が合うと、相手もすこし恥ずかしそうな申し訳なさそうな顔をして会釈をした。咲菜もそれに軽く頭を下げ返すと、男性は咲菜の元までやってきた。


「すみません。菜の花を撮っていたら、楽しそうに、撮るのに夢中になっているあなたを見つけてしまったので…つい収めたくなりました。不躾で申し訳ありません」


私は明智光秀と言います。と彼は、名刺を咲菜に差し出し、付け加えてフリーカメラマンだと言った。咲菜もそれに応えた。


「いえ、あの。はい、ちょっとびっくりしました。蝶が飛んで行ったら自分にレンズが向けられていたので」

「実は、遠目からでしたが、時折こちらの河川敷で咲菜さんをお見かけしていました。学生さんですか?」


咲菜は明智のその言葉に意外に思った。咲菜はこの河川敷で明智を見かけたことは一度も無かったからだ。恐らく、撮るのに夢中で、気付かなかっただけかも知れない。


「はい。私、写真部なんですけど、サークルの中でも一番ぺーぺーなので。でも写真撮るのは好きだから、気が向いた時は出向くんです。近場にいろいろと」


もう少し、腕が上がればいいんですけどね。と咲菜は照れながら笑って、掛けていた鞄を掛け直した。
明智はふむ、とあごに手を当てて何か思案している風であった。


「咲菜さん、実は、近々私の個展があるのです。よろしければ観に来ませんか?私もフリーですので、一流のカメラマンに比べればまだまだ出来がよいとは言えませんが、他人の作品を見るのも参考になると思います」

「明智さんの個展ですか!それは是非、行ってみたいです!」


 その咲菜の返答に明智は随分と嬉しそうな顔をして、一枚のフライヤーを差し出した。日時と、開催場所に明智が撮った何枚かの写真が載っている。その一枚はどこかの滝と紅葉した落葉樹の風景写真で、赤と常緑樹のコントラストは美しい。個展の開催期間は一週間であるようだった。
 更に、明智は咲菜に招待券を渡した。入場料はきちんと払うつもりで居たのだが、後学のためにと明智は招待してくれたのだ。初対面の自分にどうしてそこまでしてくれるのか咲菜は不思議に思ったが、しかしその好意を素直に受けることにした。
その後は、明智と少しの世間話をした。明智がカメラマンを目指したのも、大学の写真部に入ったのがきっかけだったらしく、それを職にしようと食べて行こうと決心したのは、実は失恋の心証からであり、その当時の自分が恋愛によって彩っていた日常を記録するために、のめり込んでからだったのだと言う。
 咲菜は、心を記録するという明智の言葉に妙に納得していた。確かにその時その時の心のトリミングをするには写真はよいツールである。写真を撮り始めたばかりの咲菜でも、やはり気が沈んでいるときは、出来上がりの写真は酷くモノトーンな物ばかりなこともあるし、一方今日みたいな気分の晴れ晴れしい時なんかは、撮ったデータを家に帰って開いてみれば、きっとサムネイル一覧はカラフルである。

 気がつけば、高かった陽は既に稜線の向こう側へ沈もうとしていた。
明智はそろそろ、帰りましょうと言って、咲菜に礼を言った。それを言うのは咲菜の方であるのに、明智は満した表情で、「ではまた、個展でお待ちしてます」と言って二人は別れた。
 その帰り道、咲菜は撮影意欲がより一層湧いた様に思った。一人のカメラマンと知り合いになれたことで、写真部での腕を益々上げようと心に決めたのだ。
 明智と別れた咲菜は停めてあった自転車に股がって、こぎ始めようと踏ん張ったが、ふと靴の紐がほどけているのに気がついて、また自転車から降りてきちんと結び直した。一時、揃えた両足を真上から見下ろしていた。
首から掛けたカメラをいつの間にか構えて、咲菜はその足下にフォーカスするとシャッターを切った。




 明智光秀の個展が始まって二日程が経ったが、咲菜は大学の授業もあって平日に行くことができずに、結局、最終日の日曜に会場に足を運んだ。遅くなってしまったことを申し訳なく思って、咲菜は途中差し入れでもと会場近くの洋菓子店に寄り、クッキーを一箱買った。その時、店員に「写真お好きなんですか?」と聞かれたが、なぜそれが分かったのか咲菜には分からなかったが、会場が近いから店員は個展に出向く客と瞬時に判断したのかも知れない。それにしても咲菜を見てそんなことまで分かるとはいささか不思議に思った。咲菜は「はい…?えーっと、好きです」と曖昧な返事をして、店を出た。店員は笑顔で見送ってくれていた。
 その洋菓子店から会場まではすぐの距離であった。日曜の最終日だけに、人が随分と多い。
入口から中に入ると、そこはすでに明智の写真で埋め尽くされている。パネル展示されているものはもちろん、テーマを設けた空間はその写真を引き立てるようなレイアウトになっていて、その一画全てが写真を中心にした装飾フレームであった。
 咲菜は順々に写真を見て回った。風景、人物、静物、パネル一枚一枚に切り取られた瞬間はその時に飛ばされた様に、情景は目に焼き付いた。しばらく進んでいると、見終えた客が順路を辿って出口に向かうのにすれ違うが、咲菜は、何故かちらちらと視線を感じてならなかった。多少は気のせいだと思っていたのだが、それは順路を進むに連れて、益々顕著になった。その謎が解けたのは、一番最後の一番奥のブースに辿り着いた時だった。
咲菜はその写真を見るなり、我が目を疑った。展示された一枚の写真は「春、出会い」という題がつけられている。
 明智と最初に会った日、咲菜は明智をファインダーに入れたが、この写真は明智が咲菜をファインダーに収めた時のものだった。
流れる川と、河川敷のゴルフ場、グリーンに立つポールの小さな三角の赤旗、そして綺麗に澄んだ空を背景にして、菜の花の揃った高さに、蝶にフォーカスをあてて、カメラを構える咲菜がそこにはあった。
 A1版に引き延ばされたパネルを見あげ、咲菜は何度も瞬きをした。まさか、あの時の写真がこの個展に出展されるとは思わなかったからだ。
ぽかんと突っ立ったまま、咲菜は、会場内で行き交う人々の視線を感じ、洋菓子店の店員の咲菜への質問がやけにダイレクトであったのはこれが理由だったのだとはっきりした。写真の前に立つ咲菜にはますます、人々の視線が集中している。途端に、この場に居るのが恥ずかしくなって咲菜は回れ右をすると、そこには笑顔の明智光秀の姿があった。


「咲菜さん、こんにちは。楽しんで頂けていますか?」

「明智さん!これっ!!」

「すみません。この写真、これまでで私の一番のお気に入りのカットなんですよ。次の個展には、あの日あなた側から撮った一枚も、是非この写真の隣に並べたいですね」


その言葉に咲菜は、始めて会った時のファインダー越しに見た瞬間の、少しの高鳴りと似たようなものを感じた。あの日ファインダーに入って来た、彼が向けるレンズを見つめて、なかなかカメラから顔を上げられなかったように、咲菜は恥ずかしさで俯いた。明智は咲菜の目線の高さまでかがむと、少々はにかんで笑った。


「咲菜さん。これから一緒に撮ってくれませんか?二人の記録を」


まるでシャッターを切った瞬間の様に、ふっと視界は暗くなった。咲菜の心は恐らく、出会ったあの日から河川敷に吹いた春風と共に攫われて、明智の向けるその一瞬に切り取られていたのだ。
ゆっくりと唇が離れ、咲菜は首から下げていたカメラを明智に渡した。そこには、咲菜が撮ったカメラを構える明智の写真が入っている。
 ファインダー越しから始まった出会いが、今一つの一瞬をまた切り取った。