城下の一日が始まらない早朝、上田城には霧が掛かっていた。目の前を流れる千曲川は温いようで川面からも川霧が昇っていた。城内の中庭には朝からその霧を両断するかのように木刀を振る音が規則的に響いていた。
一心不乱に振り下ろす音がひとつかと思えば、そこにまた別の竹刀の音も混ざった。音は共鳴してその空間の中で互いに反響し勢いを増してゆく。
目の前の霧を割るように何度も何度も同じことが繰り返されていた。
―雑念を取り払い、頭上からまっすぐ振り下ろす。その切っ先は必ずぐっと前へ突き出し、残身は遠くに伸ばすように―
と幸村と雪乃に指南する幸村の兄、信幸は言っていた。
特に、二つの音は示し合わせた切欠などないのに、同時に通りに振り上げ、振り下ろし、丁寧に素振りを繰り返した。
雪乃は、ふと、隣から幸村の視線を感じで振り上げた腕を止めた。振り返ると、幸村は少し険しい顔をしている。少し首を傾げた雪乃に、幸村は言った。
「…雪乃、下げる時は、も、もう少し肘を伸ばした方が…よかろう」
雪乃は木刀を握り構えたまま、幸村に指摘されたように肘を伸ばしてみるが、どうもそれは違うらしい。見かねた幸村は自分の木刀を庭の木へ立て掛けて「し、失礼する!」と一言断って雪乃の肩と肘に手を添えて体制を整えさせると、再度振るように言った。
「そ、そうだ。そのまま、突き出せばよい。兄上も申しておった!」
「はい!」
と雪乃が笑顔で答えれば幸村はまたたちまち顔を赤くして、また木刀を握り先程の倍の速さで、素振りをし始めた。
城の家臣たちも自然と顔がほころぶほどに、まるで兄弟のように仲の良い二人が鍛錬をする光景は毎朝の日課だった。それから半時ほど続き、やがて、城勤めの者たちが朝議の支度を始める頃合になると、幸村は今朝はここまでにしておこうと雪乃に言って、もっていた手ぬぐいで額を拭った。
「幸村様、本日もありがとうございました」
「うむ。俺も練習相手がいると身が引き締まる」
「わたくしもです!そろそろ侍女もお着替えをもってきますでしょう、それではこれにて失礼致します」
雪乃は、木刀をしっかりと握り直して一礼をした。侍女が廊下をすたすたと小走りにやって来て、幸村へ着替えを促す。幸村が部屋に入るまではと頭を下げていた。戸が開いて、幸村はそのまま部屋に入るかと思ったが、くるりと振り返った。
「雪乃!また八つ時に中庭に参れ!共に団子を食べようぞ!兄上にもそう伝えてくれ!」
「はい!」
朝日の位置が先ほどより上がって、雪乃の澄んだ声は霧が消え行く中庭によく響いた。
障子戸が閉じられると、雪乃は大きく息を吸い込んで自室へと足を向けた。不ぞろいな砂利の上に草履を滑らせて、笑いあうように擦れた。
部屋に戻った雪乃は、新しい袴に着替え身支度を済ませると、己が仕える信幸のもとへ急いだ。日がまぶしく入り込む廊下を別棟へと渡る途中、侍女らに挨拶をすると「今朝もご精が出ておりましたね」と言われ、毎度の事ながら、それがくすぐったくも嬉しかった。
「信幸様、おはようございます。雪乃でございます」
「お、来たね。入っていいよ」
「失礼しますと」戸を開けると、中には幸村の従者である猿飛佐助も居た。佐助は相変わらずへらっと笑って「雪乃ちゃんおはよ」と一言言うと、信幸に一礼してすぐに部屋を出て行った。
佐助が信幸に用があるのは珍しい事ではないのだが、幸村に仕える佐助がわざわざ部屋まで来る事はそうそうなかった。首を傾げつつも、礼をして雪乃は信幸の言葉を待った。
「雪乃、今朝の鍛錬はどうだった?」
「はい、信幸様。幸村様もお館様のもと、益々腕を上げられております。わたくしも一日も早く幸村様のように強い刃を振るうことを夢見て居りますれば」
「ははは。雪乃は相変わらず真面目だね。あやつは鍛錬をして居らねば気がすまない性質だ。だが雪乃も、近頃は随分と腕を上げたじゃないか。先の北条征伐でも随分とよい働きをしてくれたと父上も言っていたよ」
信幸は目じりに皺を寄せて笑った。
「誠にございますか!昌幸様が…!大変嬉しゅうございます!」
雪乃はまた頭を下げると、信幸は「僕が言った事は内緒にしておくれよ?」と言って、机の上に置かれてある書状を綺麗にたたんで、文箱に入れた。
「信幸様、今日も八つ時に中庭にお越しくださいませと幸村様から言付かっております!」
顔を上げた信幸は少し困ったような表情で、新しい和紙を机の上に広げた。
「そうか…だが、僕はちょっと午後から所用で出かけるんだ。今日はすまないが…」
「出かけられるのですか?それならば、雪乃も御供仕ります!」
「うん…付いてきてくれると花があっていいが…しかしな」
信幸は浮かべていた笑みを戻して真剣な顔つきになった。床の間に飾られている梅を眺め、少し遠くを見るような目つきになる。それから視線は雪乃を真っ直ぐにとらえた。
「そういえば雪乃は僕に仕えてもう何年になるかな」
「じき三年を迎えようとしております」
「そうか…」と言った信幸は、書状を取り出してそれをじっと見つめていた。どうしてそんなことを今更聞くのだろうかと思い、雪乃は「信幸様…?」と問いただした。
「ああ、悪い。ついぼうっとしてしまった。…実はね、今佐助が知らせてくれたんだが、太閤殿が何者かに毒殺されたらしい。竹中殿も持病が悪化して立つこともままならぬそうだ。恐らく豊臣の内儀は今混乱しているだろうね」
「豊臣秀吉…竹中、半兵衛…」
「その件で、なのかは判らないが私は明後日、徳川殿に呼ばれているんだ。一筆父宛てに書いたらすぐに出かける。だから八つ時の団子は、悪いが幸村にも詫びを入れておいてくれるかい?すまないね。こんな話しをして雪乃には少々辛い過去を思い出させてしまったかもしれないが…」
「い、いえ…」
雪乃は俯いたまま首を横に振った。
「雪乃、僕が留守にする間は、幸村に着くよう命ずる。あやつは、愉快なやつだ。一緒に居れば気も紛れる」
「信幸様…」
「ただ、備えは常にしておくんだ。朝の鍛錬を怠ってはいけないよ?いいね」
そういわれた雪乃は、今日の分の帳簿を信幸から受け取った。それは農村の一月の収量を書きとめたもので、雪乃は地域ごとの集計とそれに応じた年貢の計上を任されている。それは上田城に奉公し始めてから、ずっと雪乃の仕事だった。
「お心遣いありがたく存じます」と頭を下げ、信幸の部屋を後にした雪乃は、とぼとぼと廊下を歩いて自室に向かった。
雪乃は、元は織田系の小さな旗本の娘だった。
幼い頃は、いい着物を着て教育係もつけられ随分としつけをされた。武家の女子としての作法は茶道や、書、また護身として父から武芸も教わって心得があった。少々お転婆だった雪乃は、座敷に行儀よく座っているよりも、稽古をしている方が楽しかった。
優しい両親の元で育ち、一人娘だった雪乃にとって侍女らも良き姉として接してくれて、歌を読んだり、花を愛でたりと、穏やかな日をすごしていた。
大家ではお家騒動や覇権争いが四六時中起こって、家中はぎすぎすしているのに対して、この小さな楠田家だけはそんな物とは無縁の様に思えた。
ところが、楠田家にもその余波が突如として襲いかかる事となる出来事が起きてしまったのだ。
栄枯盛衰、盛者必衰とはよく言ったもので、明智光秀が織田信長に起こした本能寺での謀反は瞬く間に織田家臣団、そして周辺諸国へ聞こえることとなった。
普段の些細な情報や、内儀関係のことなら、尾張へ屋敷を構えている家臣でない限り、それが末端の家々に知らせが届くまでには時間がかかる。だからいつも事が済んだ後に政治的な判断を課せられるのだ。その選択肢は必ず二つで、従うか従わないかである。
掻く言う、楠田家でもこの謀反に家中は揺らいでいた。
そんな最中早速、明智光秀が豊臣秀吉に討たれたという信じがたい知らせが駆け巡った。
家臣らは伝令を四方八方に走らせたが、次から次へと変わる現況の情報は錯綜するばかりで、逆に混乱を助長させるばかりであった。
繋がっていた信頼が次々と複雑に絡まってゆくのが目に見えて現れ、もはや、誰を信用すべきか、どうやってこの状況を沈静化できるのか、織田家臣団として楠田家は足並みをそろえるのか、それとも徒党を組んだ勢いのある新勢力に組するべきか―暗雲が立ち始め、どの家も疑心暗鬼に陥っていた。
楠田家の家長である、雪乃の父は、各家々からぞくぞくと送られてくる使者との面会にその決断に昼夜頭を悩ませていた。
ある時、雪乃の父に豊臣秀吉の参謀と名乗る竹中半兵衛重治という人物が客として訪れた。
恐らく、織田の家臣団が分裂し始めている最中、豊臣秀吉は覇権奪取を狙っているのだろう。豊臣側へ下れという談合だった。その日は何故か屋敷内は殺伐としていた。
雪乃は自室で書物を読んでいたが、父が大声を上げているのが雪乃の部屋まで聞こえて来る。雪乃は父がこの短い期間に随分老け込んだかの様に思っていた。明らかに何らかの判断を迫られているのは確かだったのだ。
父はいつも、今生「信長様以外に仕えることはない」と心に決めていた。だから、今回の本能寺の騒動には随分と頭を抱えていたのだ。
雪乃の父は、気前がよく、何者にも恐れず、険しいながらも道を作り出した信長に心酔していたし、天下統一の旗をはためかせる一陣の風となった今の織田家臣団を誇りに思っていた。現に、織田の家臣は全て信長が見極め、取りなした者ばかりで、この楠田家もその一員であるから尚更だ。
羽柴秀吉こと豊臣秀吉もそうだ。その手腕を買われ、こうして信長亡き今は織田家臣団の実権を実質握っている。織田家臣団の信頼が崩壊し始め、他の大名は、秀吉の伺いを立てながら今後の協議に臨むと言った具合だった。
雪乃の父は楠田家の当主であるからには家を守らねばならない。しかし、ここで半兵衛の申し出を受けたとして、今後楠田家の安泰が保証されるかと言えばそうでもないのだ。
それは他の大名に付き従う家々も同じで、皆一様にこの信長の死によってもたらされる新たな激動の波に一抹の不安を覚えていた。
それから父がまた竹中半兵衛に大声を上げて、何か主張しているのが聞こえたかと思うと、唐突に乾いた音がぱんと雪乃の耳を貫いた。その先は考えたくは無かった。ただ一心不乱に父の居室を目指した。家臣らも父の部屋へ急いで駆けているのが廊下から見えたが、だが、雪乃は侍女に阻まれたのだ。「一刻も早く屋敷を離れましょう。豊臣軍が迫っています」と言われ、両親や、使用人らと穏やかな日々を過ごした屋敷を何度も何度も振り返って、誰にも別れを言えないまま、雪乃は長年住んだ土地から離れなければならなかった。
その後豊臣軍が屋敷を包囲し、火が放たれ、楠田家は雪乃ただ一人を残しそこで断絶したのだ。
雪乃はその後、ある山奥の小さな農村に侍女と共に匿ってもらった。雪乃と侍女が逃げ遂せた場所は甲斐の山中にある小さな村落だったが、若者も多く皆、日々の暮らしの為に懸命に田畑を耕していた。しかし、天候不良で不作が続き、間もなくして、その村で一揆の決起を呼びかける動きが高まったのだ。
雪乃も村の田畑の荒れ具合には随分と心を痛めていた。必死に耕し稲を植え、作物を育てているだけであるのに、収穫には一向に恵まれない。更に、年貢を領主に納めなければならないのだ。村の食い扶持は減る一方だった。世話になっている以上は皆の力になりたいと思い、武芸に心得のある雪乃は侍女と共に一揆へ加勢することに決めたのだ。そして村民がいざ討ち入ろうとした時に、六文銭の幟を掲げ、領主である真田昌幸隊が村まで鎮圧に来たのだった。
村の男衆は一気に真田兵と乱闘になった。雪乃は子供や年寄りを守るようにして表に立ち、暴動を抑えようとする真田兵へ刀を振るった。その時に、昌幸と対峙した雪乃は覚悟を決めて言ったのだ。
「上田城城主真田昌幸殿とお見受け致しまする。どうかこの村の者たちをお咎めになるのはおやめ下さい!誰も悪くはないのです!」
「何も私とて、無理を云おうとは思っては居らぬ。話し合いに来たのだ。収量が少なければその分納めを減らさねばならぬのは私とて分かる」
「でしたら!」
「鎮圧の軍を向けたのは、一応の格好の為だ。案ずるな、村の者の命は決して奪わぬ。年貢も軽減する契りを交わしに来たのだ」
――それから、そなた、この地の者ではなかろう?
そうして、雪乃は真田昌幸に正直に己の素性を明らかにすると、上田城に入るように勧められたのだった。
城に迎えられた雪乃は最初はどこかの姫の如く扱われていたが、雪乃の家であった楠田家はもうこの世には存在していない。肩書きなど今の雪乃には無に等しいのだ。
雪乃はただの居候として城に留まるよりはと、昌幸に武士として奉公させてもらえるように申し出た。今後真田に仕え、武芸に励み、武功を上げる事で取り立ててもらった恩を返したかったのだ。
昌幸はその雪乃の申し出に最初は女子であることを理由に反対していたが、毎朝鍛錬を積む様子を見ていた家臣らが随分筋が良いと噂しているのを知り、またその稽古をみている信幸も「私が目を光らせておきます」との言葉に、昌幸は雪乃を信幸に託したのだった。
それから信幸は雪乃と歳の近い幸村と共に毎朝稽古をつける事にした。一度、幸村と雪乃が随分と楽しそうに手合わせしているのを見て、互いに切磋琢磨するだろうと思ったのだ。そうして次第に、朝の鍛錬は幸村と雪乃の日課になって行ったのだった。
異例ではあったが、こうして雪乃は現在真田の家臣として信幸に仕えている。
雪乃は上田に来てから長い間その過去を思い出さない様にと勤めていたが、先ほど、信幸からの豊臣秀吉の死というその知らせが、いつかの織田信長の失脚とどこか重なって思えてしょうがない。
感傷に浸ってはいけないと思いながらも、あの時の乾いた音が、屋敷を逃げた時の記憶が脳裏によみがえった。雪乃はなるべく執務に集中したが、没頭するあまり思いのほか早く今月分の帳簿の整理を終えてしまった。
もやもやとした気持ちを抱えたまま雪乃はふらりと庭へ出た。雪乃の部屋がある棟の裏のほうには竹やぶになって居るところがある。上田に来たばかりの頃、そこで幸村と二人して竹槍を作り、手合わせをしたのを思い出した。その頃よりも広がって高く伸びた竹は緩やかな風に笹がなびいて、その心地のよい音に雪乃は佇み目を瞑った。
上田を治める真田家も、家臣も、城務めの者も優しい。家が途絶えた絶望を、皆が取り除いてくれて、雪乃は今こうして武士として己を確立することが出来ている。ありがたいと思わない日はない。
雪乃は、しばらく揺れる竹を眺めていた。すると、後ろに気配を感じて、振り返るとそこには幸村が立っていた。
「雪乃、どうしたのだ?庭に来ぬゆえ…兄上は出かけられたと佐助から聞いたぞ」
「幸村様…、あ、もう八つをとっくに過ぎて…申し訳ありませぬ」
「そのようにかしこまる事はない。雪乃を探して居ったのだ!団子を持ってきたぞ!」
そういった幸村は手に持っていた包みを開いて「さあ!」とにっこり笑って一本団子を雪乃に差し出し、雪乃に隣に座るよう促した。串を持った雪乃はなかなか口に運べずにしかし、わざわざ幸村が持って来てくれたのだからと一つ分だけぱくりと頬張った。
いつもなら、はしゃぎながら団子を一緒に食べるが、今朝とは少し様子が違う雪乃に幸村は言った。
「雪乃、何か…いや、太閤殿のことであろう」
はっとして雪乃は幸村と顔を見合わせた。雪乃は力なく笑うと、幸村は少し眉を下げた。
「昔を思い出して、辛いか?」
「いいえ。もう過ぎたことです。最後に父と母に別れを言えなかったのは心残りですが…侍女と共にこの上田に置かせておりますので、昌幸様始め信幸様、もちろん幸村様や城の者にも感謝し切れませぬ。今では上田がわたくしの家にございますれば」
「そう言ってくれると、俺も嬉しいな」
「わたしは取り立てて頂いたご恩がございます。過去にさいなまれようとも、これからも真田家の為に尽くす所存です」
そう言った雪乃に、幸村は満足そうに笑った。
「雪乃は真面目だ。それを聞いて安心した!頼りにしておるぞ!」
「それと似た様な事を、朝方、信幸様にも言われました。やっぱりご兄弟ですね」
雪乃はくすくすと笑って、幸村も照れを隠すように団子にかぶりついた。
信幸が留守の間は、幸村が随分と気を紛らわせてくれた。朝の鍛錬が終わり、幸村は一時雪乃と談笑をする。最近の話題は専ら馬の話しだった。昌幸の愛馬であった馬が、身ごもっている事が分かり、直に生まれるだろうとのことでその経過を話して聞かせてくれた。
昌幸の馬は、良く肥えていて毛並みも美しく、戦場ではどの馬よりも勇ましく賢かった。武士を奮い立たせる程の名馬だったのだ。幸村は、この馬が仔を生めば、またその仔も立派に戦場で活躍するだろうと嬉しそうに話していた。
また、雪乃の執務が終って時間が出来ると城下町へ連れ出してくれたりもすることもあった。
信幸はいまだに帰れそうにも無く、雪乃は、今日も信幸に代わって自室で仕事をしていた。近頃は寒さも和らいで、部屋も底冷えせずに随分と過ごしやすく、筆は進み仕事は捗った。
帳簿をつけ終えて、背伸びをすると突然廊下を鳴らして雪乃の部屋まで駆けてくる足音が近づいた。
「雪乃っ!!」という第一声と共に勢いよく開かれた障子戸から現れたのは幸村だった。
「幸村様?」
「雪乃!雪乃!とうとう仔馬が産まれたぞ!!」
「まあ!!」
「一緒に馬屋まで行こう!」
馬屋には馬番が、女中と共に沸かした湯を桶に入れてせっせと運び、親馬の身体を布で拭いているところだった。その傍らには産まれたばかりの仔馬が敷かれた藁に足を取られつつも体を震わせながら必死に立ち上がろうとしている。
幸村は柵の外から、その手すりを握りつぶさんばかりに掴んで「頑張れ!あと少しだ!」と声を抑えて呟いた。雪乃も策の外から「もう少し!」と仔馬が立ち上がるのを見守った。震えながらもやっとのことで四足を突っ張らせると仔馬はおぼつかない足で母馬の乳をねだり始めた。
馬屋に居たものは皆顔がほころび、感嘆の声を上げて、雪乃も幸村と顔を見合わせて喜んだ。
「無事に生まれて本当によかったですね」
「ああ。あの母馬は、少々歳を取っていたゆえ、馬番も心配しておった」
「そうだったのですか…それにしても昌幸様の馬の仔ですからきっと戦場でも活躍するでしょうね」
「もちろんだ。父上も良い馬が生まれてさぞ喜んでいるだろう」
「きっと立派な馬になりますよ」
「楽しみだな!」
「はい!」
それから二人は仔馬の命名を昌幸に命ぜられて、何日も必死に良い名前をつけようと頭を悩ませることとなった。
信幸が徳川家康との会合から戻ったのはそれから五日後だった。
いつものように幸村と朝の鍛錬を終えた雪乃は帳簿を取りに信幸の部屋と向かった。部屋に入ると信幸は少々険しい顔をしていた。
「やあ、雪乃。しばらくだったね」
「おはようございます。信幸様。長旅ご苦労様でございました」
信幸は、村からの帳簿を眺めて、中を確認すると雪乃に手渡した。少々疲れているのか、その顔色は少し悪い。
部屋の前を通りかかった女中に茶を持ってくるように頼むと、信幸は筆を取った。
「雪乃、雪乃は父上に取り立ててもらった時は嬉しかったかい?」
突然の信幸の問いに、その意味を理解するのに少し間を置いて、雪乃は家臣として取り立ててもらった事を言っているのだと思い、その時の気持ちを素直に「それは嬉しく思いました」と答えた。
答えたが、それから信幸はまた書状をしたためるのに集中し始めて、雪乃も今月分の収量の合計をはじき始めた。だが、雪乃は少々、気になっていた。信幸が徳川家康に呼ばれたのは一体何だったのか。それを直接聞いても良い物なのか戸惑ってはいたが、信幸は出かける前よりも顔色も悪くなっている様な気もしたし、何か思案している様にも感じられた。雪乃は心配になって、思い切って信幸に問いただした。
「あの、信幸様。出過ぎたことを聞く様で申し訳ありませぬが、徳川家康殿とは何を…お話になられたのですか?」
信幸は顔をあげて筆を置くと、息をついて言った。
「実はね、豊臣秀吉の毒殺疑惑が徳川殿に掛かっているようだ」
「徳川殿が…謀ったというのですか?」
「ああ、豊臣ではそういうことになっているようだ。もう弁解の余地はない程に嘘が真実の様に語られている。恐らく誰かが触れているんだろう」
「そんな、」
「そして、それを大義名分として、石田殿が挙兵しようとしている」
「徳川殿に兵を向けるというのですか?!」
「そうだ。いい機会だと思ったのか、石田殿の取り巻きの家臣の思惑かは分からないが…ただね、すでに徳川殿が卑怯者だと大名達に聞こえていて、現状徳川殿は少々孤立状態だ。太閤殿の死は…もしかしたらこれから戦乱を呼び起こすかもしれない」
信幸は雪乃に向き直って言った。
「雪乃、僕は、徳川殿に力を貸して欲しいといわれた。呼ばれたのはその話しだったんだ。僕は腕を買ってもらった徳川殿には応えたい。父上には、小田原征伐でも加勢してもらった徳川方に付きましょうとそう進言したのだけどね、父上は現状孤立状態にある徳川に付くのはならぬと仰った。今はまだ様子を見るべきだと。もっともそれは正しい。有利な方に付いていなければ家は残らないからだ。ただ、僕は徳川殿から直々に頼まれた以上応えたいと思っている」
「信幸様、お待ち下さい!幸村様に猿飛佐助がいるように信幸様の背中はわたくしがお守りします」
「雪乃に無理強いはしたく無いんだ。上田に残っていてもいい」
「いいえ。私は今生、真田に仕えるとこの上田に入った時に昌幸様とお約束致しました。私は真田の為に尽くします」
信幸は真剣な眼差しで訴える雪乃に、答えを渋っていたが、雪乃の決意に首を縦に振った。
「わかった、雪乃。城を出るのは四日後だ。支度をしておく様に」
静かに言った信幸に雪乃は頭を下げて、いつものように帳簿を持って部屋に戻った。
翌朝もいつものように雪乃は幸村と鍛錬に励んだ。振り上げ、振り下げるその動作を無心に何回も繰り返した。幸村とこうやって過ごすのも、あと数える程しか無い。八つ時の団子もそうだ。毎日、毎日、飽きもせずよく食べていたと自分でも思う。それは幸村が誰よりも美味しそうに団子に頬張るからで、その隣で食べるのもより一層美味しく感じた。
ふと、素振りの音が雪乃の木刀だけになっているのに気づいて雪乃は幸村へ振り向くと、怪訝そうな顔が目の前にあった。
「雪乃、今日はどうしたのだ?」
「い、いいえ、なんにも…」
「そうか」
咳払いした幸村は、いつかの様に「も、もう少し肘を延ばすのだ!」と言って、雪乃の姿勢を正させた。言われた通りに再度振り下げると、幸村は「そうだ!随分良くなったな!」とにっこりと笑っている。それからまた二人で同じ音を幾度かさせて、鍛錬を終えた。
雪乃は鍛錬で振り過ぎた木刀で親指と人差し指の股に豆をいくつも作っていた。それは固くなって皮も厚くなっているのに、冬の寒さで赤く切れていた所にきりりと痛みが走った。
出発の日は随分と穏やかな天気だった。春はもうすぐそこまで来ているようで、うぐいすが鳴いていた。深い緑で覆われた山の中に消え行くそのさえずりを耳にしながら、雪乃は馬に股がり、信幸の後を付いていた。
城内で、というよりも今回の一件で信幸が徳川方に付くことを知っているのは父である昌幸ただ一人だった。もちろん、雪乃も幸村に話す事も無いし、昌幸も見送りにくる事も無い。恐らく佐助あたりは勘づいているだろうが、特に何を言ってくる訳でもなかった。
城の者は、大手門から出てゆく雪乃と信幸はいつもの様に領内の田畑を見回りに行くものだと思っているに違いなかった。馬屋の馬番も門番も口々に「御気をつけて」や「いってらっしゃいませ」と普段通りの挨拶に雪乃は「いってきます」のその一言を発するだけでも胸が詰まりそうだった。
城下を出て、振り返らずに二人は千曲川を渡って、南へ下った。山の多いところは避けて少し遠回りではあるが東回りに道を取って、そこから富士を見ながら三河へ行こうと信幸は言った。随分とのんびりとした旅路になりそうだと思った。
甲斐近くに差し掛かったとき、突然前方から馬の蹄の音が聞こえて、信幸は馬を止めた。
この道の先は甲斐の躑躅ヶ崎館にも通ずる道である。武田の伝令か何かかと思っていたが、鮮やかな赤い鉢巻きが颯爽と風になびいて、そしてその立派な拵えの二本の槍が目に入って雪乃は思わず息を呑んだ。
山道を辿り現れたのは幸村だった。馬を勢いで飛ばして来たのか、立ち止まった馬は足をふらつかせて腹を地面に付けた。幸村は馬から下りると労う様に馬の首をひと撫でした。
しかし優しいその表情は一瞬で変わり、鋭いまなざしが信幸と雪乃に向けられた。幸村の肩は少し震えて、背から槍を手に取り、行く手を塞いだ。雪乃は幸村と視線を交わす事をしなかった。
「兄上!何故一言も仰って下さらなかったのですか!父上の様子がここの所おかしいと思っておりました。雪乃!そなたも上田が、真田を大切にしていると言ったではないか!!なぜなのだ!」
「幸村」
「幸村様…」
「兄上、某は引き止めに参りました。どうぞこのまま引き返してくださいませ!今なら遅くはありませぬ!どうか、この幸村の思いお分かり下さい!」
信幸は馬上で幸村を見下ろして、じっとその視線を互いに通わせた。だが、信幸の決意は揺るがないと雪乃は核心していた。
何が信幸をこうも徳川家康の下へひきつけるのかは分からなかったが、昌幸に取り立てられた雪乃にはその気持ちは分かるような気がした。
信幸は幸村から視線を逸らすと、馬から下りることも無く、一言も交わさずに幸村の横を通り抜けた。刀も腰に刺したままの信幸に幸村は呆然と立ち尽くすばかりだった。沈黙の中に、風が吹いて葉の擦れる音だけが聞こえた。雪乃もその後に続こうと手綱を引いて馬を促そうとしたが、それは幸村に阻まれた。
「雪乃、何故なのだ。上田は、真田家は?!慕っておらぬのか!!」
「幸村様、馬上から大変失礼致します、どうぞ道をお開け下さい」
「俺はお前が上田に戻るというまで動かぬぞ。槍を振るってでも連れ帰る」
そう言った幸村は二槍を構えた。信幸はゆっくりとした歩みで馬を先へ進めている。すぐに追いつける距離だった。
雪乃は、馬から下りた。降りた事に少しほっとしたのか、幸村は先ほどまでの怒りを沈めて、語りかける様に言った。
「雪乃、戻るのだ。女子のそなたが徳川殿のもとへ行く道理もなかろう…」
「幸村様、申し上げますが、此度の太閤殿の死によって多くの大名が混乱し、戦に発展するやも知れぬと信幸様は仰っておいでです。わたくしも、その予見は外れては居ないように思います」
「ならば!尚の事、今城を出る道理もなかろう!徳川殿は、刃も交えず豊臣殿を葬った嫌疑があるのだぞ」
「お言葉ですが、わたくしは豊臣秀吉から何もかも奪われた身にございますれば、此度の信幸様の英断には感服致しております」
「何を申す!」
「幸村様、よくよくお考え下さい。ここで真田の人間が、真田が、例えば豊臣方、徳川方のどちらか他方のみに付いたとなればその後はどうなります?勝てば何も問題はありませぬ。ただ負ければ、皆倒れましょう」
「…っ、口が過ぎるぞ」
「申し訳ありませぬ。ですが、戦に勝たねば、家は、真田の血は絶ってしまいます。もともと、わたくしは信幸様に仕えよと、殿からも仰せつかっております。幸村様がお館様に信玄公にお仕えになるのと同義に、わたくしも信幸様にお仕えするのです。幸村様なら分かってくださるはずです」
「俺は、ただ雪乃に、兄上に、戻ってきて欲しいのだ…また稽古の相手を、」
「幸村様、これまでありがとうございました」
雪乃は幸村に頭を下げて、また馬に跨って、強く手綱を引き遠くに見える信幸を追った。
駆ける馬はどんどんと遠くなってゆく。幸村は槍を力の限り握りしめ、その後姿をただただ見送ることしかできなかった。
幸村は自分が乗ってきた馬に声をかけて、ゆっくり立ち上がらせると手綱を引いた。少々無理をさせてしまった馬に水を飲まそうと幸村は水場を探し、道を外れた獣道を通って河辺までやってきた。
何故、もう少し早く気づかなかったのか。父の昌幸は兄の信幸の申し出を何故引き止めなかったのか、それがずっと分からなかった。
しかし、雪乃ははっきりと言ったのだ「負ければ皆倒れましょう」と、この意味をどう自分の中で整理を付ければ良いのか。これは雪乃が家を失った事を考えればよく分かることだった。恐らく信幸も真田家を思い体面を保ったのだ。真田が豊臣側である石田三成に付いても、中立にたっても、あるいは徳川家康に付いてもいいような信幸の選択であったのかもしれない。
雪乃が真田の為に尽くすと言った意味をようやっと理解した気がした。
水際まで来ると愛馬のくつわを外した。ぶるぶると首を振って、砂利の上をゆっくり歩き川面に口をつけ水を飲み始めた。幸村も、その隣に腰を下ろしたが、何故だか異様に顔が熱かった。今のこの気持ちをどこにどうぶつければ良いのか、唇を噛み締めて幸村は冷静になろうと一気に川に顔をざぶんとつけた。
あまりの冷たさに驚き、すぐさま顔をあげ、拭った。愛馬を見るといつの間に着いたのか佐助がそれに股がっている。
「旦那、急に飛び出すから」
「すまぬ」
「だめだっただろ」
「俺はどうすればいい」
「そりゃあ…旦那も真田の為に、お館様の為に尽くすしかないんじゃないの」
分かりきった事を佐助に聞いた所で、帰ってくる答えは至極真っ当な答えなのは予想は出来ていた。一つ目の答えは兄に代わって幸村自身がこれから上田を真田を導かなければならないのだ。
「佐助」
「なに?」
「川の水がやけに冷たかった」
「そりゃあ、山麓の雪解けは始まってるからね」
「そうか、」
- 不二の雪さえとけるというに心ひとつがとけぬとは
- 『戦国都都逸』 Projected by 侘助 / 蜜豆あこ様
- Title no.004 Written by 花菜 / 橘千春
- (20120701)
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